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「女って最高」と思える生き方がしたい

10月のある日、私は緑の濃い公園を歩いた。
そのすぐ近くには私の通っていた高校があり、実家からもほど近い場所だった。観光に遠くから訪れる人もいるようなところだったけど、正直私は何の興味もなかった。

私にとってここは、(特に実家に住んでいた頃は、)ただの不自由な場所だった。色んなものに監視され、縛られ、自分の興味関心のままに動くことを許されない場所。
休みの日にわざわざ出掛けていきたいような場所ではなかった。

だからあの日、私は驚いた。
湖をぐるっと囲む山々の緑の中を歩いていると、目に映るもの全てが美しかった。空気が濃くて、息を吸う度に身体が開かれていくようだった。
一緒に行った友人が撮ってくれた写真に収まる私は、自分でも驚くくらいとてもやわらかく笑って、ちょっと可愛かった。

きっと高校生の私は「どうしてこんなことを」「なんでそうしなくちゃ」という、若さや青さのかたまりのような刺々しい感情で、身近なものを全て否定していた。
それはそれで年齢相応のものだし、一人の人間として自立していく過程の中で必要なものだったと思うけれど、こんなに美しい景色の中で思春期を過ごしていたのにそれが全く見えていなかったことを少し残念に思った。
あの日の私は、周りのものを見たまま美しいと思う、自由で素直な心を持っていた。

私はあの日、信頼している美しい女友達と一緒だった。
彼女とは趣味を通じて知り合い、もう7〜8年の付き合いになる。
年齢は少し離れているが、瑞々しい少女のような心を持ち、軽やかに世を跳ねる彼女は年齢を感じさせなかった。
私は彼女の世界の切り取り方が好きだ。私とは違うというだけではなくて、私が今まで知り合ってきた人の誰とも違った。
純粋で、いい意味で偏った彼女の世界は、とても新鮮だった。
だから、共通の話題も非共通の話題も、彼女から語られるものは全てが面白かった。
美しいものと美味しいものをたくさん知っていて、自分の世界を保つ術をしっかりと身につけている。
私が歳を重ねていくことに絶望しないのは彼女のお陰と言ってもいい。

彼女と訪れたその場所は、私が好きな男に「行こう 」と言われていた場所でもあった。
私は誰かを好きになると往々にしてバランスを崩してしまう。終わりのない一人相撲を始め、勝手にそのことに疲れて、なかったこととして流すか、波風を立てまくって全てを壊してしまう。
ご多分にもれず、その男もまた私のバランスを滅茶苦茶にしてくれた。

その男との約束が今後果たされるかどうかは別として、私はその好きな男とではなく、信頼している女友達と一緒に出掛けられて本当に良かったと思っている。
周りにはたくさんのカップルや家族連れがいて、大層ロマンチックな雰囲気だったから、好きな男と歩くことができたら、それはそれで素敵だったと思う。
だけど、好きな男と一緒だったら、あの場所の美しさに気付くことは出来なかったと思う。写真を撮ってなんて頼めなかったと思うし、あんなにやわらかく笑うことはできなかったと思う。

落ち込んでいたり、自分に自信をもてなくて苦しんでいたりすると、よく「誰かいい人(恋人)見つけて幸せになって」なんて言われる。
だけれど、幸せになるってどんなことだろうと思う。

私が考える幸せは、周りの景色を素直に美しいと思えること、遠慮せずそれを言葉にできること、写真に写った自分を「ちょっと可愛いかも」なんて肯定できることだと思う。思い出した時に心が踊るような、こうして文章に残しておきたいと思うような時間を持つことだと思う。

それは、恋人ができれば実現されるのだろうか。
不可能ではないと思うけれど、恋というものには、必ず不安や疑心、そしてそれを抱える自分への自己嫌悪というものが付き纏ってくる。
関係を維持していくために心を砕き、性的な側面も無視できない。
自分が自分をどう考えるかではなく、相手にとっての自分がどう在るかを常に考えなくてはならない。
時間を重ねていけば段々と薄れてくるのかも知れないけれど、それがゼロになることはないし(ゼロになった時にはきっと終わってしまうし)、時間を重ねていくための導入部分でかかる負荷はとても大きい。
そんな負荷を抱えていたら、私はあの場所の美しさを感じられなかったろう。


自分に自信が持てない、自分のことを好きになれない状態で、幸せになるために努力しようと思う時、恋人を作ろうとするのは矛盾が生じないだろうか。
何よりそんな状態で恋人になるため(そして、それを維持するため)の負担を抱えることは、自分にとっても相手にとっても苦しいものにならないだろうか。

自分で自分を幸せにできる自信、甲斐性を持って初めて恋愛や恋人と向き合うことができると私は思う。
そしてそのために必要なのは、無理に好きな男に縋ったり、空回りの努力をしたり、簡単には立ち直れないほど傷付いたりすることではない。

お金のある男も、自信の無い卑屈な男も、才能のある男も、気のいいオタク男も、必死に向き合って食らいついても、その時の自分を肯定できるようなものは何一つ残らなかった。
男のために傷付いたり落ち込んだりしてる時間に、信頼のおける女と一緒に気に入ったアニメを観たり、ケーキ食べて駄弁ったりしてる方がずっと豊かな時間になるし、自分を好きになれると思う。

そもそも相手にどう思われるかを気にして、好かれるために必死になっている自分を肯定できるだろうか。その瞬間の自分を好きになれるだろうか。

私が一番綺麗なのは、人には見せられないような体勢で身体の隅々までちゃんとケアして、狭いユニットバスから出た時。
私が一番可愛いのは、好きな映画をBGMにしながらメイクを仕上げた朝10時。
スマートでもスタイリッシュでもない、だけど冬の晴れた日には富士山がよく見える小さな自分の部屋で、誰の目も気にせずに、好きな物だけに囲まれている時が一番、私はいい女だと思う。
どんなに好きな男も、私が最高にいい女になっている瞬間を知らない。
そんな奴に大切にされなかっただけ。
そりゃ寂しいし悲しいし、惨めになる夜だってあるけれど、それで私の価値が損なわれるわけがない。

そんな奴に好かれるより、信頼する最高の女友達を「おもしれえ」って唸らせる方が、私にはよっぽど大事なことだ。
本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり…自分の好きなものを大切にする時間を持って、その時に感じたことを次に会えたら話そうって心に留めておく。
あけすけになれる、信頼出来る女友達に向かい合おうとする時、私は自分を取り巻く世界に素直になれるし、自分を構成するものを丁寧に拾い集めていける。
そのための努力はちゃんと自分のための努力として実になると思う。

自分が美しいと思うものを共有できない、私の1番綺麗な瞬間を知らない男に、頭を悩ませて俯いている時間があったら、好きな女たちの中で自分を高めたい。
これからの人生が楽しみになるようなものをたくさん自分に詰め込みたい。
肩肘張って好きな男に会うより、背筋を伸ばしたくなる好きな女に会いたい。
少なくとも、自分を肯定できるように努力している、これからの人生を好きになれる道を探している今、私に必要なのは緑の中を一緒に歩いてくれた彼女のような、最高の女だ。



「恋する女はきれい」なんてつまんない言葉に左右されない人生を送りたい。
この言葉を体現できるようになったら、また好きな男に立ち向かっていこう。
女って最高でしょ?って泰然として微笑んでやろう。

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