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私の「チワワちゃん」

ここ数年観た映画の中でトップ3を選ぶとしたら、私は真っ先に「チワワちゃん」を選ぶ。

作中の台詞を借りるなら、この映画はまさに「青春の自爆テロ」だ。

ーバラバラの遺体が東京湾で発見される。それは「チワワちゃん」と呼ばれる20歳の女の子の遺体だった。チワワちゃんは東京のクラブで出会った男女グループの中心的な存在だった。
ある記者がチワワちゃんについての取材を始め、仲間たちがそれぞれチワワちゃんとのことを語りだすが、誰もチワワちゃんの本名や境遇、素性を知らなかったー

映画の内容はざっとこんなものだ。
きらきらとした情景、若者たちの笑い声、胸躍る音楽が一瞬で過ぎ去っていく、最高に眩しくて残酷な映画だった。
「チワワちゃん」は、彼らの青春の象徴だった。実像の掴めない、圧倒的な煌めき。


私にも、この「チワワちゃん」のような友人がいた。

彼女とは学生時代に追いかけ回していたバンドのライブハウスで知り合った。私も彼女も17、8だったと思う。
ライブハウスのフロアはひとかたまりの集団で、同じ音楽に身体を揺らしている中で個人としての存在感は失われていく。その瞬間だけは自分も他人も関係なく、地下の小さな空間を埋め尽くす熱になる。
その中で、私は彼女に出会った。
有象無象の中の一つになることを許されない輝きを彼女は放っていた。
だから私は彼女を見つけたし、見逃さなかったし、捕まえておきたくなったのだと思う。

共通の話題があったこと、住んでいた場所が近かったことも手伝って、私たちはすぐに打ち解けた。

親の言いつけを守り、終電よりも3本は早い電車で家路に着いていた私と、彼女は考えていることも見ている世界も全て違った。

彼女はよく飲み歩いた。0時を回っても飲める相手や場所をたくさん持っていたし、その夜行き着いた場所で眠ることに何の躊躇いもない。
今まで何度か彼女の夜に連れて行ってもらったことがあったけど、私はどこにも馴染むことができなかった。
今この瞬間が未来に繋がる時間であることを全く無視している彼女の世界は、私には眩し過ぎた。その場にいることが苦しくなるほどに。

それでも私は彼女が大好きだった。

彼女は私が逆立ちしても手に入れられないものを、当たり前のもののように持っていた。何でもないもののように周りに振り撒いていた。
圧倒的な美しさ、若々しい軽やかさと危うさ、真昼の太陽の下でも、夜の怪しいネオンの中でも、きらきらと輝いて、彼女は周りの人間をどんどん魅了していた。
私もまた魅力された一人なのだ。劣等感を感じることもできないほど、どうしようもなく。

真っ赤なリップがよく似合う、世界一可愛い笑顔を持つ私の「チワワちゃん」。

彼女との思い出は数多くあるはずなのに、何かを語ろうとするとどれもよく思い出せない。多すぎるせいもあるかもしれないが、どこかぼんやりとしてしまうのだ。

彼女と話す時、私は時間を忘れた。論理を忘れた。
思考が追いつかなくなるほど話題はコロコロ変わり、息つく間もないほどゲラゲラ笑って、数分後には一体何の話をしていたのか思い出せない。
最近ハマっている動画の話、友達の色恋沙汰に巻き込まれた話、仕事の失敗の話、好きな男の話、好きでもない男の話…何の文脈もなく繰り広げられる会話に終わりはない。

真剣な悩みも、バカ話も、全てが一瞬で過ぎ去ってしまう。
残るのはただただ今が「楽しい」「最高」というきらきらした感覚と、表情筋の痛みだけだ。
頭の中でぐるぐるしてた悩みや不安がぶっ飛ばされていく。
好転も解決もしないけれど、彼女と顔を突き合わせている今、その瞬間が「楽しい」こと以外に大切なことなんて何一つ無いと本気で思わせられる。

まさに青春の瞬きのような存在。
頭でっかちで、経験していないことまで知識で塗り固めて理解した気になって、自分の論理で雁字搦めになって身動きの取れない私とは対極にいる存在。
彼女と居ると、私は全てから解放されて、眩しさに目を潰されて、バカ騒ぎができた。

いつか私は、彼女に「これからも刹那的に生きていってほしい」と言ったことがある。冗談めかして言ったけれど、半分本気だった。
彼女こそ私の輝かしい青春だったから、華々しく、危うく在ってほしいと、心のどこかで願ってしまうのだ。
極論を言えば、花火のように烈しく燃えて、気付いたらこの世のものではなくなってしまった「チワワちゃん」のように。


だけど、それは絶対に実現しない。実現させたくない。
私は彼女の本名も育った家も家族も知っている。
どんなことで悩み、どんな風に乗り越えていったか。
どんな人を好きになって、付き合って、別れたか。
私が貸した小説のどこを気に入ったのか。
これからどんな風に生きていこうと思っているのか。
全てではないにしろ、私は彼女を構成する多くのことを知っているし、彼女もまた私を構成する多くのことを知っている。
それを知るだけの年月を共にした。一緒に大人になっていった。共有していた光景を懐かしむことが出来るほどに。


私の「チワワちゃん」は、もう「チワワちゃん」ではない。
少なくとも私の前には、目が眩むほどの輝きを垂れ流しにしていた彼女はもういない。
二本の足で立って、目の前の未来へちゃんと歩き出している。
実体のある「大人」として彼女はそこに存在している。

だけど、彼女の輝きは変化を遂げただけで、少しも損なわれていない。
彼女は今でも変わらず、驚くほど美しくて、疲れるほど面白い。どれだけ一緒に居ても飽きさせてくれないほど、彼女は魅力的だ。

彼女と笑い合っているその瞬間は、今でも私の青春だ。
青春が一瞬で過ぎ去ってしまうことを知っていても尚、彼女と居ればそれが永遠に続くものになるような気がしてしまう。
それは鮮烈な輝きではないかもしれないけど、灯台のように静かに、確実に存在する光だと感じる。

私も彼女もこれからもっと歳を取って、おばあちゃんになっても、「今日も世界一可愛いよ」と伝えられる場所に居てくれたら嬉しいと心から思っている。

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