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失敗の話

他人の失敗話は誰かのメシウマになるかもしれない、そんな昔話を書いてみることにする。

知らないおっさんの昔話に興味が無い方はここで読むのをやめることをおすすめします。面白さは期待できない。もし感想やリアクションをいただけたらとても嬉しいが、基本的に価値は無いものと捉えていただきたい。


20代後半の俺は、学生時代からの知人と2人で一緒に、ある事業を進めていた。事業の内容は端折るが、企画と開発設計は日本で、モノの製造は中国で行う、というプロジェクトだった。そのころの世界では、中国での製造がコスト削減には有効だった。今はどうかは分からない。

良いものをつくるためには、企画と設計に力を入れなければいけない。俺たち2人は時間をかけて念入りにマーケティングをして、実験を繰り返し、図面をおこし仕様書を書いて、出来る限りのベストな準備をして、構想は固まった。製造してくれる業者を探したが、国内をいくら当たっても、価格面で折り合いがつかない。当たり前のことだが、良いものを良い技術で作れば費用は高くなる。そのことは理解していても、国内の製造者に発注する金は無かった。そこで俺たちは中国に目を向けた。当時の中国には、日本からの仕事を引き請けたいという会社がたくさんあった。日本の仕事を受注しているというのがステータスな空気があった。現地に飛んで工場の設備を見て話をして、製造者も決まった。

だが、実際に始めてみると、やはりものづくりは簡単ではなく、問題が次々に起こった。技術的な問題と、商習慣の違いによるものだ。中国の製造に詳しい日本の商社が間に入って進めてもなかなか問題は解決せず、こちらサイドで出来ることは結局、金を出して希望の仕様を伝えるということだけだった。そして実際に出来上がったモノは品質と納期の両面でこちらの要求を満たしておらず、つくりなおし。1回目の製造で完璧なものができるとは思っていなかったが、試作を繰り返しても品質は一向に良くならなかった。何度も工場に足を運び、問題を解決しようとしたが上手くいかなかった。日本、つまり此方側の品質基準が中国のそれと比べて格段に厳しいという背景もあって、作ってはダメ出しを繰り返すうちにだんだん中国の製造者との関係もややこしいものになり、すったもんだをしていた。

そのうちに資金がショートしそうになって、俺は金策に走り回った。以前つらつらと書いた強運の人と会ったのもこの頃だ。彼も個人スポンサーとして出資をしてくれていた。いろいろな会社を回ってプロジェクトを説明して、出資を頼んだ。

そのモノが何なのかはここでは説明しないが、当時、そういうモノはまだ世に出ておらず、俺はそれを作ることに熱意を持って取り組んでいた。自分たちの自己資金だけでは必要額にまったく足りず、既に数社から投資を受けていた。そういう背景もあって、プロジェクトが頓挫することは何としても避けたかった。出資してくれていた人達のためにもやらなければならなかった。

奔走の末、資金を提供してくれるという会社がやっと見つかった。その会社は都内にある小さい貿易商社で、オーナーはスーパーワンマンクセツヨ経営者だった。そのオーナーはこう言った。

『不足資金を拠出してあげよう。ただし、今後もそのプロジェクトを続けていくと、毎回中国で製造したモノを日本に輸入することになる。モノを海外に販売する場合は輸出になる。そうした貿易業務を学ぶことも兼ねて、いったん君は私の会社に入社して、貿易を学びなさい。社業と自分のプロジェクトを並行して行いなさい。』

そして俺は資金提供と引き替えのようにして、その会社に入社した。これが大きな過ちだったと当時の俺には分からなかった。もちろん自分の理想とは異なる動きだが、選択肢は他になかった。

入社して貿易を学ぶという建前だったが、実際に貿易実務をするわけではなく、俺は営業として既存顧客のフォローと新規開拓をすることになった。貿易の経験も無く、新しい業界で、人脈も何もないので当然苦労することになる。少しずつ仕事を覚えていったが、会社の仕事をする代償として、モノをつくるプロジェクトは鈍化した。一緒に進めていた知人が俺の代わりに進めてくれていたがスムーズには進まず、提供された資金はあっという間に溶けていき、モノはまったく仕上がらないという悲惨な状況だった。そして結局そのプロジェクトは頓挫した。投資してくれた会社や人を回って、頭を下げた。幸い、1社を除いて、投資が焦げ付いてしまったことを許してくれた。

余談だが、宙ぶらりんになったプロジェクトはその後、大きな資本を持つ他社が安い値段で買い取った。彼らは俺たちが取り組んでいた中国での製造をたちまち中止して国内製造へと切り替え、モノをあっという間に完成させて、俺が想定していた価格の3倍で市場に流通させた。20年が経った今でもその製品は業界標準のようなかたちで流通し続けている。圧倒的なパワーの差だった。

プロジェクト失敗の失意はとても大きかったが、生活はしなければならない。俺はその会社に勤め続ける選択をした。会社にしてみれば俺たちへの投資を失敗したうえに回収もできないので、俺の労働力によって回収しようとしていたのだろう。本当は当初から人材確保が目的だったような節もあったが、とにかく俺はその会社の社員として仕事を続けることにした。

その会社がいわゆるブラック会社だったと理解するのに、時間は掛からなかった。生きていくのにギリギリな給料で、毎月金が足りなかった。コンビニでバイトをした方がもっとずっと稼げるくらいの額といえば想像がつくだろうか。俺は業界未経験だったための勉強代と無理矢理自分を納得させようとしていたが、金に余裕が無いと心は荒れていくものだ。自分のプロジェクトが失敗して会社の投資を焦げつかせてしまったその分は、自分の売上で返すという意地をはって、くだらない接待に時間を奪われながら、業界を学んで仕事を覚えていった。周りの友人は休日を楽しそうに過ごしていたが、俺は週末も平日も無いような生活をしていた。本当に金が無く苦しい暮らしだったが、そんななかでFORTISの時計を買ったのはこの頃だ。他の良い会社に勤めている友人たちはロレックスやオメガを買っていた。

そうして数年が経ち、やる気がある営業が他に居なかったこともあって俺自身の営業成績は伸びていた。貿易の基礎も業界のこともある程度理解して周りが見えるようになってきた。だが営業成績が良くなっても社歴を重ねても、給料はまったく上がらなかった。何度か交渉を試みたが、よく分からない論理で却下されて交渉にすらならなかった。

その頃、会社の売上の大部分は俺が開拓した取引先によるものになっていた。そのせいで元々居た雇われ社長や他の営業は、後発の俺との成績比較をされて、毎日オーナーから咎められていた。そうなると、社長や周りとそりが合わなくなり、社内の居心地は最悪になっていく。あっという間に俺の周りは敵になった。オーナーとはプロジェクト失敗の時点からすでにほとんど話さなくなっていた。この頃になるとだいぶ会社にいる人たちの人間性が見えてきた。オーナーは、雇っていた社長に借金ごと会社を押し付けようと様々な画策をしていた。オーナーからしてこのような有り様なので、社内は推して知るべしというか、そういう社風というべきか、社内は足の引っ張り合い、保身の政治、妬みやっかみという具合で、人間関係はギスギスの極みだった。俺はそういうおっさん達の損得勘定と責任のなすり合いに心底呆れ果てていた。自分さえ良ければ他人を蹴落とすことは厭わず、誰かが困っていても見て見ぬふりという空気がまん延していた。敵か無関心かという世界で、仲よく腹を割って話せる人は社内には誰もいなかった。

そういう職場では人の入れ替わりは常で、どんどん人が辞めてどんどん新しい人が入ってきた。営業は激務薄給で1年持てば良い方だった。経理の人は会社の財務を見て数週間、数ヶ月ですぐに辞めていた。あまりにもすぐに人が替わるので、新しい人が入社してきても『どうせすぐに辞めてしまうだろう』と思い、そこそこの挨拶で密なやり取りはしなかった。周りの営業部の人は既に俺を敵視していて、オーナー、社長、経理、総務の各部署の人ともほとんど話をせず、俺は尖りに尖っていた。完全に一匹狼状態で、周りに迎合することもなかった。俺の営業成績はすでに会社がプロジェクトに投資した分を十分に回収していたが、ここで堕落してサボってしまうと自分自身がダメになってしまうような気がしていたのだと思う。会社への忠誠心はなかった。数字的にはいわゆる営業のエースという立ち位置で、周りからも社外からもそういうふうに見られていたが、エースになりたいなどとはまったく思っていなかった。むしろその会社にいることを恥じながら、誰とも馴れ合わず、粛々と自分の仕事をこなしていた。顧客が信頼してくれて、普通に接してくれるのが嬉しく、それが仕事を続ける唯一の理由だった。

ある日、営業を終えて会社に戻ると、雇われ社長と数人が俺を呼び出した。何かあるとは思っていたが、話は俺を解雇するというものだった。解雇理由は職務怠慢ということだった。めちゃくちゃだな、と思いながら、どの道ここでは先が無いと思っていた俺はどこかで辞めるタイミングを探していたような気持ちだったので驚きはしなかった。ただ、仕事そのものにはプライドを持って取り組んでいてサボったことは無かったので、怠慢と言われたことに強烈な怒りがあった。彼らの評価を下げる原因だった俺が目障りになり、適当な理由で排除しようとしているのは明白だった。辞めろということか、と尋ねるとそうだと言うので、怒りに任せて会社を出た。

駅に向かう途中、携帯が鳴った。非通知だ。向かいの席に座っていた経理担当の人からの電話だった。それまでにほとんど話をしたことすらないその人はこう言った。

『お気持ちお察ししています。もしご都合よろしければ、今夜、1杯どうですか』

経理の人は60代で、もう既に仕事の第一線は退き、契約社員として週3日くらいだけ来ていた人だった。指定された店に行くと笑顔で俺を迎えてくれた。どうぞどうぞと言われるがままに俺は普段飲まない酒を飲み、貯めていた気持ちをぶちまけた。入社してからの数年間、社内の人に本音を話したことは一度も無く、この時に初めて俺は本音を曝け出したのだ。経理の人は俺の話を遮ることなく相槌を打って聞き、静かにこう言った。

『お気持ちはよく分かります。会社に腹を立てるのは当然です。力になりますよ。会社からは解雇と言われましたが、MDさんはこれからもこの会社で働き続けたいと思っていますか?』

『いいえ、いずれ辞めてやると思いながらやってきたので、この会社にしがみついて働こうとは思っていません。退職して新しい仕事を探します。ただ、職務怠慢で解雇というのはまったく納得がいきません』

『よくわかりました。それでは、ここから私が会社側の代理人としてMDさんと退職について交渉をする、という流れにしましょう。その流れを作るのに少し時間をいただきます。いろいろ仕込みをしなくてはなりませんので。定期的に進捗をご報告するので、週1回、この店でお会いしましょう。この話が完結するまでは、私とMDさんがこうして会って通じているという話は一切秘密にしましょう。社内では今まで通り、何も話さずで行きましょう』

どうして彼がそういうことを言ってくれるのか不思議に思いながらも、他に頼れる人がいるわけもなく、半信半疑で俺は経理の人を信じることにした。そして翌日から俺は静かに普段通りに会社に行き、取引先をまわって退職する旨の説明と、引き継ぎをし始めた。引き継ぎは1ヶ月間で行うことになった。引継ぎの相手はメモすら取らずあくびをしながら俺の説明を聞いていた。取引先の人たちは俺の退職をとても残念だと言ってくれて、それだけが心の支えだった。

会社は人を解雇するノウハウを持っておらず、予告期間が必要ということすらも知らなかった。俺が解雇予告通知書の雛形を会社に渡して、自分の解雇手続きを会社に指南するという無茶苦茶な状態だった。就業規則も退職金制度も有給休暇も、何もかもが無かったのだ。

俺が引き継ぎを進めているその裏で、経理の人は会社のオーナーや社長に対してこう説明していたそうだ。

『MDは解雇通知に相当怒っており、このままいくと労働紛争となるが、就業規則すらない会社側がかなり不利で、労基署に駆け込まれたら非常にまずい。MDを説得するにはMDの怒りの対象になっていない私が適任だと思う、私が会社側の代理人としてMDと話してみようと思うがどうか?』

オーナーも社長も総務部も、労務に関する知識はまるで持っておらず、なにやら面倒なことになりそうだと察して、言われるがままに経理の人に一切を任せたのだった。

そこからの経理の人の仕切りは、それは見事なものだった。会社に対して間違いを指摘して否定することなく、ご自身の社内での立場が危うくならないように会社側の立場に立って(いるように見せかけて)、じわりじわりと材料を集めて、俺の主張を会社が飲まざるを得ない状況に導いていってくれた。

俺と会社(=経理の人)との公式な交渉は、3回行われた。そのすべての席上で、経理の人はボイスレコーダーと台詞が書かれた台本を用意してきた。俺と経理の人は台本に書いてある台詞の通りに会話をして、それを録音した。俺が本気で怒っており、会社側にとって苦しい交渉となっていること、会社側が有利になるような交渉の材料が無いことを、話を通じて聴く側が理解するような内容だった。経理の人は進捗報告として、その録音データを毎回オーナーや社長に聴かせて、最終的には金銭で解決するしかない、と会社側が納得するように仕向けたのだった。

その結果、本来なら喧嘩別れで退職金など1円も出なかったはずの会社から、まとまった額のお金が俺の口座に振り込まれることになった。退職金、未払いの残業代、謝罪などを包括するものだ。経理の人が振込資金を調達して、俺への振込処理も直接行ってくれた。

全ての顧客への挨拶と引き継ぎを終えて、俺は出社はもうせずに、新たな仕事を探していた。振込が完了したその日、経理の人と2人で、いちばん最初に話した店で祝盃をあげた。最初に2人で飲んでから2ヶ月半が経っていた。もちろん俺は相応のお礼をしたかったのだが、経理の人は言った。

『お金は一切受け取りません。あの金はすべて、これまでのMDさんの会社への貢献の対価、そして将来のためのものです。ただ、今日はとことん酒を飲みたいので、この宴席だけはMDさんの奢りでお願いします。それで私は充分です。あの会社の人間はろくでもないです。私ももうすぐ辞めます。これからは過去を振り返らずに、前向きに生きてください』と笑顔で言った。

俺は経理の人の懐の深さと思いやりに泣いた。お金が手に入ったからではない。クビと言われて自尊心に傷を負ったが、交渉の途中から何やら楽しくなっていき、最後は前向きな気持ちで仕事を辞めることができた。それもこれもすべてこの経理の人がいたからだった。12月のことだった。

その後、退職の挨拶をすませていた取引先の数社から俺の個人携帯に電話が掛かってきた。仕事を探しているなら、ウチに来て働きませんか?というありがたい話だったが、俺はその業界自体を離れようと思っていたので丁寧に断っていた。何か新しいことをやりたかったのだ。

そんな時、海外の企業が日本で動ける人を探している、という話があり、担当者がちょうど来日していて銀座のホテルに泊まっているという話を聞いた。教えてくれたのは取引先の人だった。早速会いに行って、いろいろ話をした。その業界もその職種も何もかもがまったくの未経験で、新しいことをやりたかった思いと合致した。日本の企業に社員として勤めるのではなく、外資と直接契約して働くということにも興味が出てきた。丁寧に説明をしてくれた担当者の態度やスタンスにも好感を持って、俺はその外資の仕事を引き受けることになった。今思えば、その会社にとっても、業界職種未経験の30代半ばの俺との契約は勇気が要る選択だったはずだ。

その企業は日本法人を持っていないため、俺は仕事を受けるために起業をする必要が出てきた。そこで経理の人にあらためて連絡をした。『おめでとうございます。喜んで協力しますよ』そう言ってくれた。


その仕事を始めて、今俺は10年目のシーズンを過ごしている。起業以来、経理の人が今もずっと経理と財務の面倒をみてくれている。2-3ヶ月に一度くらいのペースでお会いして、仕事の話はもちろんだが、仕事、生き方、周りの人との関わり方について、本当に多くを学ばせてもらっている。薄々分かってはいたが、経理の人の経歴と生き方は、それはもの凄いものだった。ここには書けないが半端な経歴ではなかった。激動の時代を生き抜いた本物が持つ風格があった。彼の過去のエピソードを少しずつ聞きながら、俺はだいぶ影響を受けて、真似事ながら自分に取り入れようとしている。この人みたいになりたい、自分を変えようと思った。特に、人との接し方は大きく変わった。

俺の周りの友人がトラブルに遭遇した時、俺は経理の人に話を振ってみる。すると、最短距離で完璧にトラブルを解決してしまう。とんでもなく危機的な状況にいた人を救った事例は一つや二つではない。問題の本質を素早く確実に見抜き、それに対処するスキルが並大抵ではない。彼のそのやり方を横で見ながら、俺は少しずつノウハウを学んでいる。尊敬できる人生の先輩と繋がることが出来たのは、本当に強運だった。

起業した直後のことはあまりよく覚えていない。覚えていないくらいにめちゃくちゃ働いた。仕事を覚えるのに必死で、起きている時間のほぼすべての時間を仕事に割いていた。契約した時点での俺のギャラは過去に漏れずおそろしく低かったので、経済的には依然としてキツかった。収入を上げるためには実績を出す、それも、相手の想像を超える圧倒的な実績を出す、と決めていたので、3年目くらいまでは本当にしんどかったが、徐々に認められて、やっと人並みの暮らしができるようになってきた。

今ももちろん忙しくしているが、起業直後と比べると、だいぶコツが分かるようになってきた。よく学び、よく遊んで、めちゃくちゃ働いている。Xでフォローしてくれている方はよくご存知の通り、〆切前は缶詰になって追い込まれてボロボロになりながらも、何とか仕事を継続できている。


ここに書いたのは数ある失敗の一部で、起業してからもめちゃくちゃな失敗をたくさんしてきたのだが、20代後半から30代半ばのもっとも多感な時期に、俺はこんな経験をしてきたのだった。

何故そんな会社に居るのか、もっと効率良い立回りがあったはずだ、と、当時は友人に何度も言われた。俺もそう思う。もっと器用に上手に環境を選んで、前向きに伸び伸びとはたらくことが出来ていたら、また違った人生だったのかもしれない。だが、あの会社でも腐らず尖りながらも仕事に向き合っていたから、経理の人と出会い、そこから人生は大きく変わっていった。ろくでもない会社に居てもすごい人と繋がることができたのは、強運だった。

失敗は、規模の大小はあれど、みんながするものだ。結果が出なかったり、大きな損害を出したり、金に困ったり、信頼が失われたり、合わない環境や人間関係に苦しんだりすることは、多くの人が現在進行形で経験している。俺のこの話も短く言えば『挑戦に失敗してブラック企業に入社、大変でも頑張ってたら助けてくれる人が居た』という、僅か2行で終わる話だ。俺だけが特別な経験をした、とは微塵も思っていない。なので、そういう失敗から得られる格言や教訓をのたまうつもりもない。だいたい、おっさんの格言や教訓は無意味で邪魔なものだと、あの頃の俺は思っていたし、それは今でも変わらない。

それでもあえて、今思うことを書くとしたら…
運と行動だと思う。さんざん失敗の話をした後に、運の話は説得力無いと言われるのかもしれないがw

運について語りだすと怪しいスピリチュアルおじさんになってしまうので簡単に短く言う。
幸運とは『自分では統制できない事象が、自分にとって都合いい方向にむかってくること』だ。要するにコントロールができない外部要因なので、これを考えるのは時間の浪費になる可能性が高い。ただ、本物の強運があって、適したタイミングなら、すべてはうまくいく。

行動というのはその逆で、自分が統制出来る範囲のことだ。なので、どう行動するかで起こる事象は大きく変わってくる。厄介なのは、行動しない方が良い時もある、ということだ。がむしゃらに行動することが正解だった時代はもう昔で、今は努力の方向を誤るとマイナスに作用する時代だと思う。ということは、行動する前にちょっと1人になってじっくり考えて、どうするのが最善か、を決めるのが重要だということだ。ここを怠ると、俺のように失敗に失敗を重ねることになる。惰性と流れで動くのではなく、意志を持って動くことが大切なのだろうと俺は思う。それを20代の俺に言ってあげたかった笑

これからも俺は失敗をするだろう。器用に世の中を渡っていけるタイプではないと自覚している。今の仕事はとてもユニークで、俺が知る限り、同じことをやっている人は日本には居ないはずだ。誰もやっていない仕事というのは、誰にも相談できないということで、要するにノウハウが無いということなので、すべての行動が手探りでトライアンドエラーになる。やり方を自分で作らなくてはいけないので、当然失敗はつきものだ。

失敗するのも乗り越えるのも自分しかいない。だからこそ、失敗した時には、その地点からの最善は何なのかを、ちょっと立ち止まってひとりでじっくり考える。そうやって方針を決めて、また行動する。すべては自分に返ってくるからこそ、自分なりのベストを尽くしていく、その繰り返しなのだと思っている。

クソ長いダラダラ文章を最後まで読んでくれてありがとうございました。読んでいただいたこと自体が凄くうれしくありがたいことです。もし感想をいただけるなら、めちゃくちゃ喜びます。こいつヤベェやつだったな、とか、おまえ本当に馬鹿だなぁ、という類の感想でもまったく問題無いですw

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