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浄化と祓い①

すべての人間に憑き 纏う厄介な存在があります。

それに憑かれると、
天との繋がりは薄れ、
本来の魂の声は霞み、
思考が歪み、
行動が侵され、
新たな『それ』を生みだします。

困ったことに、生み出された『それ』は他者に伝播していきます。

そうやって世の中に混沌に陥れ、地球の進化、ひいては宇宙の正常な運航を妨げる厄介な存在です。

そして『それ』は人間だけでなく、動物、植物、土地、道具、空気、微生物など、有機物・無機物関係なくすべての存在を巻き込んでいきます。



この存在こそが【邪気】です。



邪気に対してどう対処していくかで人生がガラッと変わり、吉方へ導かれていきます。

四次元の感情由来である、かんたんな邪気はすぐに見破ることができます。




怒りが最もわかりやすいです。
支配の邪気で、他者だけでなく自分へも攻撃的になります。
厄介なことに、この支配下でなにか成果をあげてしまうと、より強く入り込んでくることになります。
闇の常套手段である支配に、自ら進んで入門していくことになります。

喜びの邪気も身近に潜んでいます。
妬みの邪気で、他人の不幸を喜んだりします。
特に、他者と比較をしたがる傾向にあり、自分軸の物差しで優劣を測り、喜びの幅を狭めていきます。
他者と優劣を比べられたり、競い合うことを強いられる環境があたりまえとなっている現代社会、特に幼少期からそのシステムを組み込む学校教育は、闇の根幹ともいえます。とても巧妙です。
とりつかれることでどんどん利己的になっていき、霊性進化に最も重要な奉仕の精神である利他を手放していきます。


一見、楽しい感情と邪気は相反するように感じますが、実はそうではありません。
楽の感情は堕落の邪気で、快楽の底なし沼に手招きしています。
夜の歓楽街がわかりやすく、欲望をそのまま具現化したようなお店が軒を連ねます。
快楽を味わうために行動するようになり、思考が歪んで固定されます。
もう天の声も魂の叫びも届かず、守護が意味を為さず、導きも見えなくなり、いつ足を踏み外してもおかしくない状態となります。
灯りもガードレールも壊された真っ暗な夜道を進んでいるようなものです。


哀しみに包まれるとなにも手につかなくなります。そして、そこから脱するために手を貸してもらう必要がでてきます。
哀しみは呼び水の邪気で、それ単体では大きく侵されることはありません。
哀しさや孤独感から仲間を集めて集団意識を形成し、見せかけの仲間意識を生みます。
悪い意味で徒党を組むという表現そのままです。
スピリチュアル的には、喜怒楽を呼び寄せ、数で圧倒し闇のループを生むきっかけとなります。


怒りの邪気には時間と空間
喜びの邪気には感謝
楽しみの邪気には意志
哀しみの邪気には孤独

それぞれの対処法です。


怒りの支配は時間経過とともに鎮まります。
怒りの支配下に置かれていない状況で物事を進めることで干渉を減らすことができます。
また、空間を支配しますのでその場から立ち去ったり空気を入れ替えることがとても有効です。
怒りの感情をもつ人がその場にいると周囲の空気が悪くなるのでピンとくると思います。
それでも湧き上がる怒りには他の感情の邪気が組み合わさっていますのでそれぞれ個別に対応していきます。
怒りを超越することで、すべてに対して俯瞰して見ることができ世の中の真理を見抜く心眼が開いていきます。


喜び=妬みの邪気は、相反する感謝によって打ち消されます。
感謝することとは、自分自身を認めすべてを天に委ねるということです。
このとき、他人と比較したり競ったりすることをすべて手放し、自分が自分であることを誇る気持ちが生まれます。
置かれた環境、授けられた才能、そしていまここを生きているということ。
自分の内面を客観的に省みます。
これを“内観・内省”といいます。
内観・内省を経て感謝へと昇華されると、妬みの邪気と統合され、中庸となり、次元の高いエネルギーに変換され、視界がクリアになります。
なにか気づきを得られるはずです。
この悟りを積み重ねていくことが大吾への道となります。


楽しみ=堕落の邪気には高い志しをもった魂には無力です。
現代社会では高尚な意志をもつことを挫くように操作されています。
未来への不安を煽り、希望を奪うことで目の前の快楽へ誘ってきます。
高い意志と強い意思があることで、その快楽の沼にハマることなく、むしろ謳歌して渡って行けることとなります。
一時の楽しみを未来の希望への活力に変えて、力強く進んで行けることでしょう。


哀しみの邪気は孤独に耐えることができません。
呼び水の邪気として感情を揺さぶり、仲間を集めようとするでしょう。
しかし、そこに誰も集まって来なかったら。
そこには消え去る道しか残っていません。
哀しみに囚われたとき、思い切りその感情を味わってください。
涙が枯れるまで泣き続けることも良いでしょう。
哀しすぎてご飯が喉を通らない?なんて素敵なことでしょう。
誰も責めない。もちろん自分自身のことも。
一時の快楽に逃げて哀しみから目を逸らさない。
他人と比較して『自分の方がまだマシな方』なんて決して思わないでください。
ただただ、いまそこにある哀しみを飽きるまで味わい尽くしてください。
そうやって味わっていくうちに
「おなかすいたな…」
と思うはずです。
このときあなたの中の哀しみの邪気は消滅しています。
哀しみを乗り越えた先は、魂が本来向かうべきところへ繋がる道となっています。




邪気を祓うことは、自分自身でかんたんにできます。
顔を洗ったり、歯を磨いたり、お風呂に入ることと変わりません。

ですが残念なことに、本来は清浄な場でないとならない神社や自然の中に邪気を置いていく人が多いです。

神社仏閣や大自然を巡り、意識してか無意識かわかりませんが、邪気を置いてスッキリして帰る人の多いことを本当に残念に思います。

このnoteの固定記事【序文】でもご説明したとおり、2024年現在で神々は天の意図により還られており、ほとんどいません。
ただ、その代わりに守護となる存在が入っていたり、カラのお社でわたしが気になった場所に天からの啓示があった場合のみ神さまを降ろさせていただいたりしています。


そんな状況なので人々が邪気を置いていくと、祓いきれず穢れ地となります。
自然そのものにも自浄作用があるのである程度は浄化されてゆきますが、キャパを超えると手がつけられません。
わたしが赴いた時に、浄化したり結界を張ったりと色々とオーダーがありやらせていただくことがほとんどです。
それだけ神さまも大変みたいです。


神社などはそこ一帯の土地の要として建てられたことがほとんどですので、弥盛地である必要があります。
そこを穢していくことがどれだけカルマを積んでしまうことになるか想像できると思います。

近年のパワースポットブームによって、神社にお参りに来る人が増え、神社が潤うことで過去から紡がれた祈りの場を未来へ残していけることになるのはとっても喜ばしいことです。

ですがその反面、神社や神さまのキャパを超えた邪気により穢されているのも事実です。

これは現代人が神への敬意を忘れ、
天との繋がりが薄れてしまい、
邪気を払う手段や機会を奪われ、
穢れていることに気づけないほど感覚を狂わされてしまったことに他ならないです。




どうかこれ以上カルマを積むことはやめてください。



今回、一般的な邪気の正体についてと、心の持ちようで邪気を払い魂を進化させていく方法をお伝えできました。
続きの記事では、意図することでさらに強力に邪気を払う方法と日常生活に組み込むテクニックをお伝えしていきます。

じゅんじゅん

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