1年経ちました

noteを始めてちょうど一年。
初投稿したのがちょうど一年前で、同じ日にnoteを始めるきっかけの1つとなったBリーグオールスターの記事も投稿していました。

↓こちらが初投稿の記事

↓そして、こちらはBリーグオールスターの記事

両方ともたいしたことは書いてないと思いますが、時間があったり、興味があったりする方は読んでみてください。



一年経って何かが変わったわけでもないですが、数日前にこんなものを見つけたのでこれについて少し振り返りたいと思います。

僕が保育士を辞めるきっかけとなったことについてです。


適応障害になって」

2020年、年明けからずっと体調が悪い。年末年始にインフルエンザになってからだ。

今年度、年長の担任を任されて嬉しい気持ち、不安な気持ち、大変さに対する覚悟いろいろなものを抱えながらスタートした。このとき、自分の不安は4月から園長代理が変わったこと。これまでほとんど関わることのなかった先生だったが、第一印象からやりにくそうな感じはしていた。自分の仕事が遅れることや考えてきたことに対して指摘されることはたくさんあった。だけど、それは当たり前のこと。遅れるのはただ単に自分が悪い。考えたことを却下されたりするのも自分の考え方が甘いから。自分は経験も浅く、他の先生ほどアイディアも豊富に持っているわけではない。指摘されるのは当たり前のこととは思ってはいる。だけど、言い方や態度によってはそれが苦に感じることもある。誰かに相談したくても何を相談したらいいのかわからない。そもそもその先生の態度からして相談できるような雰囲気に感じない。話しかけたらだめなんじゃないかという雰囲気すら感じている。一つ一つの言動を細かく監視されていそうで怖い。アルバムとか書類とかの仕事をパソコンでするために事務室に行くのが怖い。仕事をしてきて提出してもまた何かを言われそうで怖い。仕事をしたくても何言われるかわからなく怖くて仕事に手がつかなくなる。また仕事が遅れる。また何か言われる。完全に負の連鎖に陥っていた。

そんな状況でもたくさんの先生に迷惑をかけながらも手伝っていただきながら年内は乗り切ることができた。それは、年内は忙しいながらもプライベートで卓球の練習や試合、地区の活動、旅行、Bリーグの開幕、友達の結婚式、マラソンなどの楽しみがあったから。楽しみがあると「仕事も頑張らないと」と言う気持ちになる。
しかし、常に頭の片隅にあるのは「仕事」の二文字。休みの日でも何回か仕事に行ったりもした。本当ならできる限り私生活の中に仕事を持ち込みたくない。公私はきっちりと分けたい人間だ。だけど、家に帰っても、休みの日でも仕事のことを考えてないと遅れてしまう。そのためせっかくの楽しい時間を本当に楽しめずにいたこともある。保育士として働く上で覚悟はしていたことであったがいざやってみるとやっぱり辛い。

そうはいっても生活の中でやはり一番優先するべきは仕事だと思っている。卒園まであと3ヶ月。今の子達を卒園させたい。最低限それだけは頑張らないと、という気持ちで年末年始に入った。

しかし、インフルエンザになってしまい自分の予定が全て狂ってしまった。28日は土曜当番で出勤。この日夕方から少し体を重く感じる。29日。日曜日だけど部屋の掃除などしたくて仕事へ行くつもりだった。だけど朝から体がだるい。この日は断念して仕事を行くことを辞めた。午後からは布団に寝転がりながらスマホでバスケを観ていた。観戦中なぜかどんどん体が熱くなってくる。試合後熱を測ると39度の熱。時期も時期だし完全にインフルだと思った。30日。本来なら家の手伝いをする日だったが当番医に行きインフル確定。この日から何もできなくなってしまう。休み返上してでも進めようと考えていた仕事はもちろん、元旦マラソン、ばあちゃん家に行くことも、帰ってきている高校の友達とご飯を食べに行くことも全部できなくなった。必然的に寝正月を過ごすことに。ここから自分の中で何かがおかしくなった。

年が明けて1月5日。日曜日だったが仕事へ行った。年末年始にできなかった仕事をしようと思ったからだ。しかし、仕事に集中できない。体もだるい。まだ完全に治りきっている気がしなかった。だけど、子ども達のためにも無理してでもとこの時までは思っていた。

6日。
仕事始め。体はだるいし朝ご飯も食べる気力もなく無理をして仕事へ行く。できていない仕事は山ほどあった。年末年始に進まなかったからだ。体のことを心配してくれる先生もいたが、みんながみんなそうではない。そんなこと関係なしと言わんばかりにきつく言われ、体もだるくできないのにと思いながらも、やらなければと思いやってはみるがやはり手が進まない。結局は遅くなっているのは自分が悪いからと思ってはいるものの頑張れない。また何か言われる。言われるのが怖い。そればかりが自分の頭の中にある。

7日。
早番だったのでなんとか1日やりきって医者に行く。インフル後からのだるさは薬によって抑えられた。その後はゆっくり休んだ。体はもう動かない。だけどやるべき仕事はある。でも、できない。怒られようと半分諦めて体を休めることにした。

8日。
朝からおかしい。吐き気がひどい。だけど、仕事に行かなくては。そう考えるとよりひどくなる。体が動かない。休むことを決め連絡を入れる。前日のうちに自分の内面のことに関してはお母さんに少し話をしていたので、お母さんはわかってくれていた。

9日。
実は誕生日。おそらく過去一最悪の誕生日。この日も朝から調子が悪い。仕事へ行かなければならないことがストレスになっているんだと感じる。園長先生に休む連絡を入れる。すると、体が少し楽になる。この体調の悪さは仕事が絡んでいると思い始める。いや、これまでも仕事に行きたくはないと思うこともなかったと言えば嘘になる。だけど、騙し騙しやってきた。これまではそれができていた。だけど、体は正直だった。この時には限界を迎えていたらしい。

10日。
休みをもらい医者へ。だるさは薬のおかげでよくなっているが朝の吐き気がひどいことを伝える。医者曰く「朝は胃酸の量が多くなるからそれも影響しているのかも」とのことで吐き気止めや胃酸の分泌を抑える薬をもらった。三連休で様子を見ることに。

三連休も何をするわけでもなく無気力に過ごしていた。ただ、元々休日ということもあり、朝の体調の悪さはなく割と落ち着いていた。だけど、仕事のことを考え不安もあった。

14日。
さすがにこれ以上迷惑かけるわけにもいかず自分体はどうなってもいいと思いながら仕事へ行く。早番だったし、早く帰れるとも思ったから。無理して仕事へは行ったものの、やっぱり体は動かない。気持ちもずっと落ち込んだまま。子どもと何かをした記憶もない。仕事もまともにできていない。ただ、行っただけ。そんな感じになっていた。体調を気遣い早く帰るように言ってくれる人はいた。しかし、遅れていた部会の実践があり何が何でも今日出していかなければならないと思っていたし、園長代理から言われてもいた。本来なら15時半で帰れるところを、結局帰ったのは4時半過ぎ。でも、これは自分が悪いから仕方ない。そう思うしかなかった。そうは思っていてもこの段階で心はすでにやられていたのだと思う。

15日。
やっぱり行けなかった。限界。もう本当に行きたくないと思った。休む。ここでお母さんが動いてくれる。相談員さんと話をする時間を作ってくれた。当日は無理だったので次の日に行く。午後のうちに次の日も休むことを伝える。

16日。
休むことは事前に伝えていたこともあっていつもよりは調子が良い。相談員さんと話をする。いろいろ聞いてもらった。自分は仕事に戻りたいが朝の状態を考えると行けそうにもない。だけど、忙しいこの時期に休むのは厳しい。仕事に行かなければならない。しかし、気持ちとは裏腹に仕事に行かなければと強く思えば思うほど辛くなる。吐き気もひどくなる。考えれば考えるほど余計にわからなくなる。もう自分ではどうしたら良いかわからなくなっていた。とりあえず次の日に受診することになる。午後にまた連絡を入れる。

17日。
受診をする。行くまでは辛かった。だけど、誰かに助けて欲しい気持ちもありなんとか病院まで行く。そこでも、今までのことや自分の思っていることを伝える。医者からは今回の場合は原因が割とはっきりしているから休んだ方が良いかもとのこと。とりあえず、適応障害と診断され、2週間の診断書をもらう。

そこから2週間。休んでいる間も自分の頭の中、心の中はずっとモヤモヤしたまま。この後どうなるかという不安とともに。

この2週間ずっと考えてきた。
2週間離れた。もう2月にもなる。
これ以上は休めない。しかし、仕事へ行くのは怖い。他の先生は大丈夫なんだろうけど、とある先生がどう思っているのかわからない。
怖い。行かなければいけないが、怖くて行きたくない気持ちが強い。もうあの先生と仕事したくない。
責任感はある。でももうこの状態で働くのは無理だと感じている。子ども達とまともに接する自信がない。保護者にも迷惑しかかけない。それでも、仕事はしないといけない。
保育園に行ってしまうとあの先生に嫌でも会ってしまう。それだけは、今、一番避けたい。

そして、もういっそのこと3月まで休めたらと思った。年長の担任がこの時期に休むなんて普通じゃ考えられない。卒園式もある。まだまだしなければいけないこともある。だけど休みたい。いったん仕事から離れてリセットする時間が欲しい。あの先生に会わないようにしたい。まだ体も本調子ではない。仕事できる自信もないし、休んで体も治したい。これはただのわがまま。通るはずがない。だけど、こうならなかった時のことを考えられていない。仕事に戻ることに対して今は恐怖しか感じない。社会人として最悪だが仕事に対するモチベーションはかなり落ちている。

こんな役立たずの若者のわがままを聞いてもらって良いのかと言う気持ちがある。3月まで休んだことで本当によくなって復帰できる保証もない。だけど、ここで完全に体を壊すようなことがあればまだまだ先の長い人生本当に働けなくなるのかもしれない。そうなってしまうと仕事はできない。少なくとも保育士はできなくなるだろう。自分の思いとしては仕事を辞めたいわけではない。長年の夢であった保育士になることもできたし、公務員にもなれた。保育士として働いてきて自分って苦手なことばかりなんだなとは思うことも多々あるが、保育士もやめたくない。まだ続けたい。そのためにはどっちが良いのかわからない。

ただ、自分の今の一番の気持ちとしては無責任ではあるが、たくさんの人の期待を裏切ることになるが、休みたい気持ちが一番である。

2020.1.30


これは、2020年の1月30日に僕が書いていたものです。
多少誤字を直したり、言葉を変えたりはしていますが、文章を読めばこの時の気持ちがものすごく思い出せるので、言いたいことは変わっていません。
ちなみに、これを書いた理由としては万が一最悪の事態になってしまった場合パソコンにでも書き残しておけば、僕がどんな気持ちだったかをわかってもらえるかと思ったからです。
いわゆる遺書みたいなものです。
冗談かと思う方もおられるかもしれませんが、この時の僕は本気でそう考えたりもしていました。

長年の夢であった保育士になれたけど、続けることが難しくなってしまった。
保育士以外にしたいことなんて何も思いつかない。
仕事ができなくなったらどうしよう。
もしも、そうなった場合は………
みたいに思っていました。


結果として、このタイミングでは保育士は辞めませんでした。
書いてあるとおり、2週間の診断書をもらった後、さらに2週間の診断書を出してもらいました。
この間に園長先生や市役所の指導主事が動いてくださって、別の園でのリハビリを提案してくださいました。
3月で閉園する予定の園が2つあり、その園どちらかに行き手伝いをする。
子どもとの関わりはなくてもいい。
僕ができることだけをしてくれればいい。
時間も身体と相談して短い時間でもいい。
そんな感じのことを言ってくださいました。

この時の僕の気持ちとしては、書いてあるとおり休みたいでしたが、それは元の園にいるならばという話。
別の園に行って環境を変えられるなら、できることがあるのではないかと思っていました。
提案された話を聞いていると、まだまだ僕にもできそうなことはある。
と思って、また頑張れるような気もしました。
3月までは診断書を出してもらいながらリハビリがてらできることをやろうと思い、自分の中でも無理のない勤務時間を考えて、4月からまた当たり前に働けるようになろうと思っていました。

そして、4月からはまた普通に仕事ができるようになっていました。
普通じゃなかったのは世の中が少し変わっていたこと。

夏前までは、緊急事態宣言等もあり、子どもに登園自粛をお願いしたり、行事も少なかったりしたことで、問題なく過ごせていました。
ただ、少しずつ行事とかができるようになると、疲れもあって仕事に行けない日がありました。
1,2週間ほど休んでしまったものの、その時の園長先生はものすごく良い先生だったので、まだ頑張ろうとは思えました。
ただ、そこからはまた忙しくなる時期。
身体がついていくのかどうか不安が勝つようになってきました。
夏が終われば、保育園では運動会があります。
それの内容とか練習とかを考えないといけないのですが、ここでまた躓くわけです。
僕が考えているものと、同じ部屋で仕事をしている先生との意見が合わないんです。
でも、その先生の方が圧倒的に経験があるので、僕が折れるしかありません。
この状況は、前と同じだなと。

人はいろんな考え方の人がいます。
むしろ同じ考えの人なんていないはずです。
一人一人違っているからこそ、良いことだってあるんです。
ただ、その時の僕にはそれを受け止めることができなかった。

運動会が一段落すると、休む間もなく次は生活発表会。
ここで、また意見の食い違いが出てくるんですよ。
しかも、意見は出すくせに、どう進めるかは考えてきてねみたいな感じのことを言われて、人の意見から進め方を考えるなんて…みたいに思っていました。

このタイミングで、次年度どうするかみたいなアンケートがきました。
これは毎年書いていました。
次年度の職員配置、人事に関することですね。
ここで、思い切って園長先生に話しました。
「書類上では次年度も続けたいと書いたけど、やっぱり無理そうです」と。
園長先生は僕の辛さをわかってか、止めるでもなく、背中を押してくれました。


「保育士を続ける選択をしたとしても、辞めて違う道に進むとしても、私は僕の決めたことを応援する。保育士としての僕じゃなくて、一人の人間としての僕を応援する」と。

この一言がどれだけ嬉しかったことか。
これで、決心がついたわけです。
僕にはもう保育士はできない。
やりたいことは決まってないし、できることもあるかどうかわからないけど、保育士は辞めて違うことをする。

3月いっぱいは頑張るとはこの時伝えましたが、辞めると決めた途端仕事ができなくなりました。
とりあえず最低限の引き継ぎ的なことだけはして、有休消化に入り、11月いっぱいで辞めることにしました。
中途半端な時期で、これから大変な時期であることもわかっていたけど、僕の気持ちを理解して、止めずに背中を押してくれた園長先生には感謝です。


辞めたタイミングですぐにハローワークに通い始め、仕事を探すよりも資格を取る選択をした僕が職業訓練に通い始めるのはnoteを始める約1ヶ月半前の12月4日。
初めての勉強で慣れない簿記とまだまだ頭が追いつくワードと学生時代の記憶を呼び起こしながら取り組むエクセルとを繰り返す日々です。
この時は本当に必要最低限の会話しかクラスメイトとすることもなく、ただ毎日を過ごしているだけという感じでした。

それが、次第に楽しくなっていったのは過去の日記を読んでいただけるとわかるかと思います。


本当はもう少し適応障害のことに触れようかとも思っていましたが、結局自分の振り返りみたいになってしまいました。

まぁ、適応障害のことといっても僕にはたいしたことは書けなさそうですからね。

ただ、芸能人でも適応障害になったとかいうニュースを聞くと、もしかしたら結構身近なものなのかなとか思ったりもします。

自分が適応障害になったからこそ、関心を持つようになったのかもしれません。

YouTubeとかでも、適応障害の動画が流れてきたこともありますし、そういうのを見てると、ものすごく共感できる部分はあります。

僕が経験したことは、実際に適応障害になった人にしかわからないことだと思います。

もし自分の身近にそんな人がいたら、今度は僕が力になってあげられることもあるのかなとか思ったりもするようになっています。

僕はたくさんの人に助けられて、今は仕事も変えて普通に生活できるようになっています。

助けてくれた人に感謝しつつ、誰かのためになりたい。

一年経って、たまたまパソコンの中で見つけたものをきっかけに長々と書きました。

最後まで読んでくださった方ありがとうございます。

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