見出し画像

1 僕らの革命的日常生活:香港デモ

画像4

先頭に構えられている透明なシールドの向こうには、整列した警官隊と、幾重にも連なる警察車両が見える。夕闇の中で、街頭に変わって主役を張っているその赤いランプは、まるで対峙している香港の将来へ、赤信号を突きつけているようだ。しかし、ベニヤ板やビート板などお手製のシールドは彼らとて心もとなく、幾層にも咲く傘は、現実は心の盾にしかならない。

カチッカチッという赤信号がカウントを止めると、ジリジリジリという青信号の号令とともに、赤い閃光が飛び、あたりが霞に包まれる。ああ、僕が5年前に体験することがなかった催涙弾の鼻をつくような匂いを、彼らは今5年ぶりにどう感じているのだろうか。香港の未来を問うた雨傘運動から5年、まっすぐに走り、ただただもがいてきた。前に進んでいくのは時間だけで、自分たちの描く自由な未来は一向に近くにやってこなかった。

いつしか人々も日常に戻っていき、民主主義や普通選挙が話題にされることも少なくなっていった。デモや幹線道路占拠といった草の根活動から、一度は戦いの場を政治の場に移したものの、強大な力の前には成すすべもなく、闘う術を見失っていた。だから、もう一度香港人が通りへ出て、催涙ガスの海の中をかき分けて前に進もうとするこの光景がもう一度やってくるとは正直思っていなかった。

画像1

画像2

画像5

僕はドイツに留学していた2014年、学友として三人の香港人に出会った。香港の友人を持ったのはこの時が初めてで、一括りに英語が使える中国人という程度の認識しかなかった。歴史や地理で習ったウイグルやチベットについては、民族も異なり、彼らを中国人と呼ぶ意識は無かったが、香港の人は言語的には広東語という異なる言語を持つものの、様々な文化を共有する漢民族であり、中国人と認識して差支えないと思っていた。

一番最初に出会ったのは香港のインターナショナルスクールを卒業後、イギリスの大学に進学、そこからドイツに留学していたアンドリューだ。ひとしきりの自己紹介を終え、詳しくは覚えていないが、無意識に僕が「中国人」という単語を口にしたとき、とても自然な形で「中国人というのは存在しないんだ。中国というのは国籍でしかない。俺らは香港人(Hong Konger)だから。」と言われた瞬間の光景だけは鮮明に覚えている。そこには自らのルーツと国籍の関係という、日本で大和民族として生まれた人たちがつい結び付けて考えてしまいそうな部分を改めて思い出させたとともに、そうか、イギリスの植民地として100年経ってようやく母国に帰った香港の人たちは、うれしくなんてなかったんだということを知った。

学校の歴史でアヘン戦争を習い、清の敗戦の結果としてイギリスに割譲された香港は、租借期限の100年が経過し、1997年に中国に返還された、ということくらいしか香港に対する知識がなかった僕は、単純に植民地から母国に返還されたのだから、そこにいる人はきっとうれしいんだろうくらいにしか思っていなかった。

アンドリューと知り合ってほどなく、同郷の友ということで香港の大学から留学しているステラとロージーを紹介され、こうして僕と香港との関りが始まった。

今思い返してみれば、学校はずっとインターナショナルスクールに通い、広東語は話せるけれども漢字をあまり書けず、BNOのパスポートを持ち、イギリスの大学に進学した後は香港に戻る気なんてさらさらないアンドリューは、ステラとロージーからしたら正統派香港人ではないのかもしれないけれど、そんなアンドリューでも「僕らは香港人だ」という意識をとても自然に持っていた。

画像3


僕らがドイツで過ごした2014年に雨傘運動が起こり、それから闘いは政治の場に移り、2019年、闘いはもう一度ストリートに帰ってきた。現時点においても、自由や民主主義の獲得という点では事実上進展は無かった、全くの負け戦かもしれないけれど、確かに変わったことがある。アンドリューが僕に語った「私は香港人である」という想いが「本土」という概念として形成され、いわゆるナショナリズムという観点からのアイデンティティがあまり意識されなかった香港社会に確固たるアイデンティティとして確かに定着していったことは間違いない。民主活動家であるジョシュア・ウォンは逮捕投獄される際に「僕らの体を拘束することはできても、心を拘束することはできない」と語ったが、「香港人の本土は香港である」という心が勝利した5年間だったと思う。



この5年間、僕は香港に数えきれないほど渡航し、香港の友人たちとともに時にデモに参加し、時に街頭でビラ配りを行い、時に友人の裁判を手伝った。逃亡犯条例改正反対デモが激化して以降、ようやく現地で日本のメディアを見かけるようになったものの、それまで全く日本メディアは見かけず、また他に日本人に会うこともなかった。日本で流れるニュースは海外通信社等から仕入れたものばかりだ。香港に支局を持っているメディアは多くないので、北京の当局が流したリリースをただ翻訳しただけのニュースや、土地勘がない人が作っているためちんぷんかんぷんな内容を平気で流しているテレビもある。多くの日本の有識者が時勢を語り、マスコミがアグネス(周庭)や街頭のデモ参加者にインタビューをし、ユーチューバーがデモを現地から生中継する今であっても、雨傘運動以降の歴史がすっぽりと抜け落ちてしまっているし、インタビューするにしても、双方の年齢が離れていたり、親しさの度合もあり、香港の人々の本音を反映できているかというと、僕はずいぶんと違和感がある。



この5年間の間に、僕と同じくらいの20代の若者たちがあるべき香港の将来のために闘い、香港社会に本土という概念を根付かせてきたその激動の時代を、日本人という立場でありながら、誰よりも近くで、同じ気持ちで必死に伴走してきた。友人が自由や民主主義を語り、将来世代のために香港を良い場所にしようと手を取り合っている姿を見ながら、僕自身も本当に同じ将来を夢見てできることをやってきた。そんな僕のできることの一つとして、大きな大きな歴史の流れの途中経過総括する意味で、本土とは何かということをテーマに、まさに本土概念の形成を担ってきた友人たちのインタビューを元に探り、記録しておきたいと思った。僕の友人たちが築き上げた本土という理想を、現役の学生世代が引き継ぎ、デモの主体が世代交代したこのタイミングで、一遍の中間報告を日本語で残したいと思った。



このnoteでは、雨傘以降の5年間をその主体者として過ごしてきた20代後半~30代前半の香港ローカルの人のインタビューを中心に記載しつつ、香港を知るために必要な情報を追記する形で解説していきたいと思う。なるべく客観的なものとなるように、インタビューは民主化活動への関与度や立場など様々な人にしていきたいと思う。具体的には元立法議会議員、若者政党の創設者、雨傘以来前線で活動し続ける抗議者、様々な立場で民主化運動に関わる人と関わらない人、中国大陸の中国人、その他名もなき多くの香港市民である。

普通の人が、いつの間にか革命という日常に生き、何を考えているのか。少しでも興味を持ってもらえるように伝えていきたいと思う。

なお、本連載に出てくる友人たちの名前は多くが仮名となる。インターネットが発達した時代ですぐに個人が特定できてしまう時代であるため、彼らの安全を守るためにご理解いただきたい。正直インターネットで検索すれば名前が出てくるような人が多いが、そんな彼らでも、自分自身ではなく家族や職場への影響を考慮しとても神経質になっている。

※写真はすべてオンラインシェアサービスを利用しています。


今日も香港の状況は刻一刻と変わっています。そんな状況の深層を理解できるような基礎知識を得られる記事を目指しています。皆様からのサポートは執筆の励みになります。どうもありがとうございました