メッセージ要約 2024.9.22「アヒメレクと教会の姿」
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○Ⅰサムエル記21~22
ルールは安全を守るためにある。しかし、時にルールを破る必要がある状況に出会うことがある。例えば、溺れている人がいたら遊泳禁止の看板があるにも関らず泳いで助けるなど。ルールよりも命が優先される時がある。今日の箇所は、ルールを守るのか、それを超えて憐れみを示すのか、その選択を迫られた人が出てくる。祭司アヒメレクだ。
1 人は神を求めている
ダビデはヨナタンによって手助けされサウル王から逃亡した。彼は、遠い所ではなく近くのノブという町に逃れ、そこで祭司アヒメレクが出迎えた。ダビデは、一体なぜ近くの町ノブに逃れたのか。それは、ノブが祭司の町だったからだ。そこには幕屋があり、神様の導きと安らぎを得ることができた。現代もダビデのように多くの人が霊的な安心感を求めてさまよっている。スピリチャルなもの、オカルト、金銭、地位、名誉、異性との関係など。しかし、それらは本当の意味で私たちの人生に安らぎを与えることはできない。
喜劇王チャップリンは、ある時、自分のそっくりさんコンテストにお忍びで参加した。すると3位になった。本物が目前にいるのに多くの人は偽物で満足してしまった。現代人の霊的な状況に似ている。イエスキリストにしか満たせない渇きを間違ったもので満たそうとしている。ダビデが神を求めノブに来たように、教会とは真の安らぎを得るために神を求めて来るべき場所なのだ。
2 憐れみを示す
食べ物を要求するダビデに、アヒメレクは聖別されパンはあると答えた。そして、取り下げられたパンには2つの律法があった。①祭司しか食べられない。②聖所の中で食べなければならない。 本来なら神のためのものだからと拒むことができたが、従者たちが女性を遠ざけていることという条件を提示し、パンを与えた。アヒメレクは律法のルールを守ることよりもダビデに憐れみを示すことの方が神が喜ばれることだと判断した。そして、ゴリアテの剣も与えた。
実はこの千五百年後、イエス様はこの箇所を引用している。『ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。』(マタイ12:3~4)アヒメレクの判断は正しかったのだ。
アヒメレクはダビデを受け入れ憐れみを示した。同様に教会は、どのような背景の人であっても受け入れ、霊的な糧、本来に立ち向かうための御言葉(剣)を与える場所だ。初代教会について次のような記述がある。「神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(使徒の働き2:47)当時の差別社会の中で、教会は身分・人種・仕事・男女関係なくすべての人を家族として迎えたから信頼されたのだ。
3 身代わりとなった大祭司
ダビデはアヒメレクに会ったとき、サウル王の極秘任務だと嘘をついて身を守ろうとした。その時、サウルの部下ドエルがそこにいた。彼はすぐにサウルに告げ、アヒメレクだけでなくノブの祭司たちの虐殺につながった。逃れた祭司エブヤタルがダビデにサウルの蛮行を告げた。ダビデの噓が悲劇を生んだ。ダビデはアヒメレクの憐れみを思い起こしたときに、彼の信仰が蘇った。彼は、エブヤタルに「わたしと一緒にいればあなたは安全だ。」と言った。自分を守ることに必死だったダビデが、周りの者を守る本来の姿を取り戻した。
実は、私たちのために来てくださった大祭司がいる。「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、・・・・永遠の贖いを成し遂げられました。」(へブル9:11~129
この大祭司とはイエスキリストだ。イエス様はルールを守るより、ルールを超えて私たちに憐れみを示して下さった。本来なら私たちは罪ゆえに滅びに向かう存在だったが、イエス様は自分の身を犠牲にして救いの手を差し延べてくださったのだ。 (T・M)
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