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メッセージ要約 2024.3.17 「イエス・キリストを私たちが・・・」

○マルコの福音書15章1節~15節「イエスキリストを私たちが・・・」(安食滋良牧師)

 皆さんにとって「最悪で最高の瞬間」とは、どんな時でしょうか。ある人にとっては結婚かもしれないし、宝くじに当たること(金銭感覚がおかしくなってしまう事)かもしれない。しかし、我々クリスチャンにとって、「最悪で最高の瞬間」は、イエス・キリストの十字架です。十字架刑という刑罰で、神の御子イエス・キリストが殺される。それは、歴史上最悪の出来事でした。しかし、それは同時に歴史上最高の出来事でもあったわけです。それは、イエス様の十字架を通して、全ての人の魂に救いという希望の火が灯された瞬間だったからです。

 今日の箇所の背景は、イエス様がユダヤ議会の裁判で、神への冒涜罪で死刑判決を受けましたが、当時ユダヤはローマの支配下にあったため、刑を執行できず、ローマの法廷に上告する必要がありました。当時のローマの法律では、神への冒涜罪は、死刑に値する罪では無かったので、祭司長や長老たちは「ローマへの反逆罪」でイエス様を訴えます。そして今日の箇所でローマの裁判が始まるわけです。今日は、この箇所の登場人物に注目して、『イエスキリストを私たちが…』というテーマで、3つのポイントで見ていきたいと思います。


1.ピラトの姿から

 先ず、ローマ総督ピラトの姿から、私たちの罪の本質について考えたいと思います。ピラトはAD26~36年までローマ総督として、ユダヤを治めていたました。彼は祭りの期間カイザリヤからエルサレムに上って来ており、そのローマ総督ピラトの元で、イエス様のローマの裁判が始まります。その裁判中ピラトは、イエス様の自己弁護をせず怒りもしない、毅然とした態度で「何も答えようとされなかった(5節)」姿に驚きます。そして彼は、イエスがローマにとって脅威となるような人物ではないことを悟ります。しかし、ピラトは、イエス様が無罪せあることを知りながら、釈放することはせずに、人々に引き渡してしまうわけです。何故か。彼はイエス様を無罪にして、ユダヤ人の暴動が起きる事を恐れたのです。暴動が起きると、彼はローマから、管理能力の無い者とみなされて、職を追われてしまうという自己保身があったからです。私たちが、この箇所を見て、ピラトを責めることは簡単だと思います。しかし、私たちがへりくだって、今日のピラトの思いに合わされていく時に、私たちもピラトのような同じ弱さや罪を抱えている。その現実に出会っていくのです。


2.バラバのように

 次にバラバを通して、十字架の救いという点を見ていきたいと思います。ピラトはイエス様を釈放するために、祭りの時に、ユダヤ人の囚人を釈放する恩赦の習慣を利用します。ピラトは、暴動と人殺しの罪で牢に入っていたバラバという囚人を引き合いに出して、群衆にどちらを釈放するか選ばせます。しかし、群衆は、祭司長たちや長老たちに扇動されて、「バラバを釈放しろ!」と叫びます。この釈放の知らせを聞いたバラバの心境とはどのようなものだったでしょう。薄暗い牢獄の中で、死刑の不安に恐れ慄き、犯した罪への後悔があったかもしれない。そんな葛藤の中、彼は信じられない看守の声を聞くのです。「おい、バラバ、釈放だ!」彼は信じられなかったと思います。そこには、彼が釈放されるべき理由など何1つ無かったからです。彼は、一方的な恵みによって救い出されたのです。このバラバの姿を見る時に、私たちは、そこに自分自身の姿を重ねることが出来ます。私たちも、バラバと同じように、自分の罪故に滅びに向かっていたものでした。しかし、イエス様が、その罪の一方的な身代わりとなってくださって、私たちを救い出してくださった。そこには、私たちが救いに値する理由など何一つ無かったわけです。イエス様が、一方的な身代わりとなって、私たちを救い出してくださったのです。


3.祭司長、群衆について

 ここから、今日特に考えたいことがあります。私たちは、今日の箇所から十字架を見上げる時に、十字架の救いが私たちのためであった。というだけでなく、「私たちが」という側面に出会って行く。それは、私たちは一方的に救い出されたバラバであると同時に、イエス・キリストを十字架に付けた祭司長であり、群衆である。その側面に出会っていくからです。オランダの有名な画家レンブラントは、1634年に描いた「キリスト昇架」という作品で、イエス様を十字架に付ける群衆の中に自分自身を描いている。これは、彼自身の信仰告白でもあります。イエスが、私の罪の身代わりとなってくださったということは、私の罪が、イエスを十字架に付けたということなのだ。私もそこにいたのだと。十字架に近づく時に、私たちは、「私たちの罪がイエス・キリストを十字架に付けた。」その事実と出会っていくわけです。今日の箇所を見る時、本当にイエス様の十字架の愛の広さ深さを知ることが出来ます。イエス様の十字架の死、それは、歴史上最悪の出来事であり、同時に歴史上最高の出来事であった。私たちは、今日の箇所からその恵みを思い起こしたいと思います。(T・H)

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