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峰町キリスト教会 牧師夫人の徒然なる

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#教会

「牧師夫人の徒然なるままに」(八二八)「私のたましいよ、おまえの全きいこいに戻れ。…

 今、地球上は大きな災難に見舞われています。異常気象がもたらす災害や生態系の異変、そして…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八二七)「地上に残すものとは」(その3)

 皆さんは、この地上に何を残しておきたいですか。親族や友人の死を見届けながら、私自身もこ…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八二六)「地上に残すものとは」(その2)

 先日、友人からスカーッとするご本を貸していただきました。有名企業を退職後、無職になった…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八二五)「地上に残すものとは」(その1)

 若かりし日にライバルだった友人たちが、一人、二人と天に召されていきました。地上に生存し…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八二四)「天国の鍵は目に見えない」

 今年の教団の壮年会の定例集会は元裁判官で、今は弁護士兼法科大学教授の谷有恒さんの講演と…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八二三)「心で見ている?」

 ある朝、ベランダで植物の葉が無惨にへし折られて、方々に散っているのを発見しました。強風…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八二二)「歩みを確かにするみことば」(詩119・133)

 聖書はみことばの大切さを力説しています。「ことば」の持つ力の大きさも随所に示されています。  人が知恵をつけて行く過程でも、言葉の力は絶大です。何しろ、人が物を考える時に必ず「ことば」を使って組み立てていくではありませんか。  先日、夫に我が家の植物について話しました。どのように花を咲かせ、そのあと花の付いていた枝をどのように処理するのか、そして、冬にはどんな風に手入れをしていけばいいのかなど。ところが、とんと、話が通じないのです。我が家では「私、咲かす人。夫、枯らす人

「牧師夫人の徒然なるままに」(八二一)「ヨセフを知る一族」(出エジプト1・8)

 この地上に何十億といる人のすべてと同じ親密さで付き合うことはできません。私は馬の合う人…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八二〇)「地上で繋ぐ事、解く事」(マタ18・18)そ…

 若い時には無我夢中で、自己主張に懸命な余り、時には相手を傷つけるような発言をしてしまっ…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八一九)「地上で繋ぐ事、解く事」(マタ18・18)そ…

 教会を天国の様に清い場所と思い、クリスチャンの関係こそが愛に彩られた理想的なものだとす…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八一八)「豊かな寛容をもって忍耐する」(ロマ9・22…

 合歓の木が大好きです。三十年以上も前に教会の旧牧師館の脇に、小さな合歓の苗を植えました…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八一七)「まことの平等とは?」

 最近の「差別の撤廃運動」に少なからず疑問符をつけたくなることがあります。男女の平等を謳…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八一六)「自由意志による選択」

 犬を飼っている方なら、犬の表情が飼い主と似通ってきていることに気づかれることはありませ…

「牧師夫人の徒然なるままに」(八一五)「一つの幸せの分け前」

 私は時々、幸福感を満喫できなくなります。それは忙殺されている時に起こりがちです。自分で引き受けた仕事であるにも関わらず、時間の配分等がうまくいかなくなり、苛立ちとともに幸せ気分が崩れ去るのです。インマヌエルなるお方が常に共にいてくださるという平安は深いところで覚えられるのですが、私の全身はその平安を表現出来なくなるのです。  その日もそうでした。あれをして、次はこれをして、それが終わるとあの事、この事を、と終わりのない課題に振り回されて苛立っていました。その時に帰国中の娘