『社会における私の責任』
SNSで初めてのカミングアウト。
私の母は、医療ミスで亡くなった。
当時、母は66歳。(写真は、母と幼い頃の私)
東北の田舎に父と兄家族と暮らしていた。
母は、ものすごく明るく友達もたくさんいて、いつもでもどこでも
大笑いしているような、持病の心臓病などあるなんてわからないほど
とても元気な人だった。
定年退職をして、これから沢山旅行にいくつもりだった矢先。
東京で看護師をしていた私の元に父からの電話が入った。
「お母さんが、入院した。朝ごはんを食べている時に箸が持てなくなって、
いつもの病院にお父さんが連れて行ったんだ。意識はあるみたいだけど
来れるか?」
看護師の私は、脳梗塞を疑った。嫌な予感がして急いで新幹線に乗った。
到着した時、母の意識は無く、人工呼吸器が付けられていた。
担当医から
「こんな田舎の病院で人工呼吸器を付けてもらえただけ
ありがたく思って。」と。
えっ?
一瞬何を言っているのかわからないほど、衝撃的な発言だった。
当時、私は東京の大学病院のICU(集中治療室)で看護師をしていた。
そのことを知ると担当医は「治療何がいいですかね?」と娘の私に聞いてきた。対応は最悪な上、治療に納得が行かないことばかりで不信感と
怒りの気持ちしかなかった。
急変する可能性がある為、私は病院に泊まり込みで看病をしていた。
毎日、声をかけながら手足をさすっていたが、母の反応は無かった。
何とかして転院させようと動いたが、極めつけの明らかな
医療ミスが起こり母は亡くなった。
病院側も度重なるミスを認め、
担当医をクビにしたことと謝罪があった。
でも私は、訴えなかった。
家族や親戚にも病状説明だけで、詳細は話さなかった。
なぜなら、
母のかかりつけだったこの病院を信じて連れてきたのは父だったから。
私の両親は、共に死別再婚同士で、
父の前妻は、脳出血で自宅で倒れ、そのまま亡くなったそうで、
私は、同じような状況で助ける為の行動をした父の判断により、
亡くなることになったのかもしれないと、思って欲しくなかった。
実際「救急車を呼ばないで、あんな病院に連れて行ったからだ。」と
心無いことを言う人がいたから。
父に、残された人生を後悔して生きて欲しくなかった。
母の葬儀の準備が進められ、遺影写真は私が選んだ。
母に、私の子を抱かせてあげることはできなかったから、
異母兄妹の兄の子を、初めて抱いた時の幸せそうな顔の写真にした。
母に死化粧(エンゼルメイク)をした。母の顔を何度も触れ、
話しかけ笑顔を想像しながら。エンゼルネイルをしようとしたら
父が「もう、それ以上キレイにするな。逝かせたくなくなる」と言った。
私は、普段は見せていなかった父の母への愛を知った。
ものすごく切なかったけど、嬉しかった。
旅立ちの服は、母がお嫁に来た時の着物を父が選んで着せた。
母が好きだった「千の風になって」を姪っ子のピアノ伴奏に合わせて
親戚と共に合唱し出棺した。
この歌は、母からのメッセージのようだった。
母の葬儀が無事に終わり、私は、東京の職場である大学病院の最先端の設備があり、高度な治療により回復されていく患者様を見送る集中治療室の
仕事に戻った。
仕事中に、人工呼吸器が付けられている患者さんの姿と母の姿が重なり
何度もフラッシュバックし、嘔吐、手の震え、めまい、涙が止まらなくなる状態が続き、自宅では、無意識に自ら命を絶とうとする行為も何度も現れ、うつ病と診断され看護師を辞めた。
それから、約3年間ほど服薬治療をし、カウンセリングにも通い、
貯金も底を尽いたため、今の夫に支えられながら先輩の紹介で
寝たきりの高齢者が多い病院に看護師として復帰した。
うつ病のころの記憶は断片的にしか無いが、家に引きこもり
髪はボサボサ、顔を洗うこともできず、肌もボロボロで
まるで廃人のようだった。
数年が経ち、結婚して不妊治療の末にやっとできた息子を高齢出産し、
育休明けで息子がまだ1歳の時に、病気で寝たきりになってしまった
父を田舎から、自分の病院の他の病棟で看てもらうために引き取った。
父は、認知症の症状で色々なことが、理解ができず、体に入っている
カテーテル類を抜こうとしたり、病院スタッフに暴力行為があったため、
拘束着を着せられ、両手には、24時間ミトンをされていた。
手先が器用だった父の手が動かせないこの状態は、本当にショックだったが、父を預けていることから、面会時しかミトンを外してあげることが
できなかった。常に病棟が人員不足なことを知っているから。
仕事の休憩時間も父の面会に通ってミトンを外して、
ごめんねと言ってミトン付けて帰る日々を送っていた。
休みの日には、家族を集めて酸素ボンベと点滴をつけたまま、
もちろんミトンは外して、植物が大好きだった父に公園の花を見せたくて、
車椅子に乗せて何度も連れ出した。息子にも何度も会わせた
コンビニで、父に大好きだったお酒を選ばせて、公園で
少し飲ませ、兄が父が好きだったタバコを加えさせてり、
父と家族を喜ばせたくて、みんなの笑顔が見たくて、
何度も病院に頼み込んで実現させた。
ギリギリの出来る限りの親孝行がしたかった。
亡き母の分も笑顔が見たかった。
父の入院中は、もちろん楽しいことばかりではなく、
延命について家族会議を何度もした。
当時、認知症のためにで正確な発言なのかわからない状態であり、
ACP(アドバンス・ケア・プランニング)
『最期に備えて自分の人生観や価値観を見直し、医療や介護について
本人を主体に家族や医療従事者と計画すること(人生会議)』が
困難であり、家族で唯一の医療従事者である私が主体となり、
延命するということの説明を何度もして、家族で悩んだ結果。
延命はせず、父の苦痛を少なくする程度での治療をすることにした。
延命するということは、必ずしも本人が望むことではないからだ。
延命するということは、苦痛も伴い、寝たきりでされるがままの
状態が続くことにもなる。
父は、亡くなり、今度は家族で体を拭いて一緒にエンゼルケアをした。
田舎にいたころは、畑仕事で真っ黒だった顔も貧血で真っ白になっていた
父の顔色は死化粧師さんが日焼けの顔に近づけてくれた。
父は、消防団長さんで天皇陛下から叙勲も受けており、葬儀にはラッパ隊の方の演奏と敬礼からスタートした、とても感動する葬儀だった。
今、母の辛かった死の話を公表したの理由は、
この経験を無駄にしたくないと思ったから。
亡くなり方は、もちろん納得できていないけど、
母に、死化粧(エンゼルメイク)をした経験から私自身が救われたから。
化粧をしたら母が、笑っているように見えたんだ。
旅立ちの顔をキレイにしてあげられて親孝行ができた気持ちになれたから。
悲しい別れでも、最期がいい思い出に変われば救われるから、
私と同じ方を救いたい。残された人生を後悔して欲しくないから。
今もケアビューティストとして、旅立ちの化粧をご家族様と共にしている。
親の死に目に会えないなんてことはよくある話で、後悔される方もいるからこそ、体がまだ温かいうちに、体によく触れてもらい、最期の身支度を
一緒に行う。私が両親にしたように。看護師しかできない部分だけ終わったら、着せてあげたい服をご準備していただき、着替えたら、ご家族様に
髪をとかしてもらったり、口紅を一緒に塗ってもらうことで最期の
親孝行となると思っている。
父との思い出は、母の分まで、父には笑顔でいて欲しい。
家族の思い出を残したいとの思いでやってきたことだが、
最期を自分らしく過ごして欲しいとの想いは、
ケアビューティスト看護師の原点だ。
笑顔で最期を過ごして欲しいとの想いには、
父のように寝たきりではなく過ごして欲しいと思っている。
日本は、長寿大国と言われているが、寝たきり患者の数が世界で
断トツ1位なのだ。健康じゃない状態で長生きしている。
これは、医療を逼迫させている。
父の延命について家族で何度も話し合ったが、延命とはどういうことなのか
医療従事者ではない家族は、何も知らなかった。
もちろん親に長生きして欲しいと思う方は多いと思うが、寝たきりで
体には沢山の管がつながっていて、自分の意思を伝えられず、されるがまま
天井を見つめるだけの毎日を何年も何年も過ごさせたいのだろうか。
自分の愛する人や自分の未来を想像してみて欲しい。
命が残っている間、管に繋がれて、手にはミトンをされて
寝たきりで過ごしたいのか、楽しい日々を笑って過ごしたいのか。
両親の看病と看取りの経験、25年の看護師歴からたどり着いた
ケアビューティスト看護師の『社会における私の責任』は、
ケアビューティストとして介護美容の力で、寝たきりの方にでも、
自分らしい最期を笑って過ごせるようにすること。
看護師として、本人はもちろん、家族も後悔することが無いように、
延命についての話をしていきたい。
結果的には日本中の介護負担と医療の逼迫が減り
助かるはずだった命を守りたい。
もしも、亡くなってしまっても、最期の旅立ちの儀式に
エンゼルケアやメイクも家族と共にしたい。
親が生きているうちに、笑顔の家族の思い出の写真を残してあげたい。
これが、辛い経験をしたからこその、両親の死を無駄にしないためにも
『社会における私の責任』であり、使命だと思う。
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