良いデモ、悪いデモ、普通のデモ デモデモダッテ

クレームやでも、抗議活動に対する考え方をば。ダブルスタンダードは嫌なので、私と同じ意見のクレームやデモにも考え方は変わらないラインで記す。


蘇民祭のポスターや伊勢志摩の海女さんの萌えキャラ(?)への批判やら、代案も示せずに何でも反対の政党やら、放送における差別用語やら、市職員のヒゲやボクサーの入れ墨の是非やら。シーシェパードやシャルリーエブド紙、ISISの活動やら憲法9条やら。ジェンダーやLGBT、障碍者のJR利用までまで。

とかくクレームや抗議の多い世の中になった。クレームや抗議は「非生産的」なものであり、既存の枠組みを直す働きかけだ。既存の枠組みの修正には社会的資源が消費される。非生産的なのは「ルールや規制」と同じなので、多ければ多いほど良いというものではない。必要最小限に抑えられるのが望ましい。ただ自然な原理や競争、制度(選挙など)では解決しない問題、解決に時間がかかりすぎる課題に対して発生するようだ。その意味では弱者少数派が用いるメイン手段と言えよう(強者多数派はそもそも問題を感じなかったり、課題を見つけても既成の原理や競争、制度で解決できてしまうので)

抗議やクレームの発生要件はなんだろうか? とりあえず思いついた要件は2つだがMECEになっていないし上手にまとまっていない。

●1 不利益不平不満不公正の発生
とある事象で不平や不満、不快感や不公正を感じた、要は不利益を感じた人々がいること 不快を感じる人への配慮は必要だが、それをどこまで拡大するのか?またどの程度なら「許容」できるのか? 

●2 責任の所在 自力救済の困難
世の中には自力では即座に解決できない問題もたくさんある。自力で解決できるなら他人に言うよりも自分で解決したほうが早い。誰かの責任を追及する性質があるか?


なので、1や2に対しての言い訳や証拠があるかないかというのが「良いデモと悪いデモ」の見分け方について非常に重要になるようだ。


◆1 ちゃんと平等、公正か?
デモの主張に「最初の不平等、不公正」についての言い分や証拠があるか?
また反対にデモの主張者が用いられても受け入れられるのか?

たとえば他国の食文化に口を出すシーシェパードは自分の食文化に口を出されても素直に受け入れないだろうから「悪いデモ」だと見る。要は自分の言い分を一方的に述べるだけなのは悪いデモではなかろうか。(冒頭、私と同じ意見のデモにも適用するように書くと書いたのは私なりのこの部分への備えになっている)

◆2 現実的か?絵に描いた餅か?
「デモしてる人間には不可能だが、デモをして訴える相手には可能な解決策があること」というのが重要ではないか。両者に不可能なことを求めるデモなら過大な要求であり悪いデモだろう。またデモをしている人間が自力救済が可能なのにデモをしているなら「相手を困らせるのが目的」の悪いデモだろう。


ただ責任には「道義的な責任」と「能力立場的な責任」がある。スーパーで子供が「お菓子を買え」と駄々をこねている場合、その子供に問題に対する道義的責任がある。能力や立場としての責任はその親御さんや店員に向けられる。因果関係で主因となる「悪い子」、いわゆる「犯人」に当たるのは誰か?と言う視点と「その問題を現実的に解決できる、解決すべきは誰か?」という視点。

子供が悪いからと言って親御さんや店員が放置した結果、暴れた子供が陳列棚を倒してしまうなどのリスクも予見される。長期的、恒久的な対策は「犯人」が負うべきだが、短期的、応急的な対策は立場、そして解決能力の有無で考えれば親御さんや店員が負うべきものとなろうか。


・・・うむ、上手にまとまらない。自分で書いてながら不整合がありますねぇ。この課題には改めて取り組むとします。現状の脳内のもやもやを文章化したということでご容赦ください。 読者の方の考えをすすめる一助となればよいなと。そしてコメントをもらうなどして、私の思考がより深化すればいいなと。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。