互いに隠した意図の読み合い 真理戦

先週末は友人二人と話をしていたら、「駆け引きを楽しめるルールで遊べないか?」という要望を出した友人がいました。

以前ちょろっと書いてますが、ゲームの分類として私が注目する指標が3つあります。1つ目は1対1のタイマンか多数でのバトルロイヤルルールか?格闘技全般や将棋が前者、パーティゲームの大半が後者でしょう。2つ目は体格や反射神経などの身体能力が問われるかどうか?スポーツは問われますし、頭脳ゲーム系列はほとんど問われません。3つ目は運の要素がどのくらいあるか?ジャンケンは運の比率が高く、麻雀はそこそこ。将棋は極めて低いでしょう。

体格や反射神経は鍛えても持って生まれた制約が大きいでしょう。逆に運の要素が大きいと思考で上回っても負ける確率が上がるわけです。なんというか不純物が多いというか。その点、思考の比較なら生まれてから今までにそのルールについてどれだけ携わってきたかという「努力」のウエイトが大きいわけです。

私が考えていた「純思考」の読みあいでは1対1のタイマン、体格や反射神経、運の要素が皆無なものだったので「じゃあ将棋とかオセロとか五目並べでは?」と提案をしました。幼稚園児でも簡単にルールを覚えられるし、「純思考」で上回ればボブサップにだって勝てるのがこの手のルールです。かといって運の要素はほぼ皆無なので純粋に読みあいを楽しめると思ったわけです。

ところが友人には友人の言い分があり、それも確かにもっともな内容でした。

友人が望んでいたのは「互いに隠した意図の読み合い」のようでした。
ジャンケンで何を出すとか、麻雀で何を狙っているのかという部分らしい。将棋が完全情報公開型なのに対して、意図を隠すルールの場合は情報をとるところから戦いになっている。反対に自分が出す情報は控えるべきだし、あるいは偽情報を織り交ぜたりすることになる。

わかりやすいのでジャンケンを例に出す。「俺のグーは宇宙1(笑)」とか言っても相手がパーを出せば負ける。じゃあパーに勝つチョキが最善手なのかと言うと、相手がグーを出せば負ける。ジャンケン型ルールでは最善手は結果的にしか存在しない。だからジャンケンは浅い。心理戦部分にさえ勝てば勝てるのがこの手の勝負だ。ただ、心理戦に勝つ条件はあいまいで「いちばん深く考えれば勝つ」というものではない。だから小学生にジャンケンで負けてもさほど悔しくは無い。一定のレベル同士になれば三竦みに到達してしまう。

「心理戦」という言葉はあるが「真理戦」という言葉を提唱したいw。
将棋には上記の心理戦の要素に加えてどちらがより「真理」に近づけるかという争いもある。将棋を指している私にも相手にも本当の最善手はわかっていない。それぞれの狙い、意図している手は確かに存在するし、それが最善手であることも多い。だが、将棋のように人類が解明できていないルールでは相手の意図とは無関係に「より深くルールを理解している人」が勝つ。「純然たる思考」のぶつけ合いがある。科学者のような真理への挑戦というと大袈裟か。相手との駆け引きという一面もありつつ、真理探求という面が常にあるのが特徴だ。だから将棋のように情報を全公開していても、ゲームとしての楽しさが依然として失われないわけだ。(情報を隠さないとなりたたないルールは不確定要素が必ず存在するわけで、そういう意味ではルールとして不完全な気がする)
たとえば私はアマチュア初段だが、プロ棋士と1000兆回指しても1回も勝てないと断言する(笑)。「奇跡」「まぐれ」「事故」というのが起こりえないだけの差があるのだ。これってすごいことだと思う。ジャンケンが1mの深さなら将棋は100光年くらいあるから、こういう如実な差異が存在するわけだ。

だから小学生に将棋で負けるととても悔しい。「弱いから負ける」という当然の結果を突き付けられる。運のせいにする言い訳もできないからつらいのだ。シャアではないが自分自身の弱さ(若さ)ゆえの過ちを認めたくないものだ。この辛さから逃げているやつは成長できないし、立ち向かえるやつは成長できる。

自己矛盾。格上との戦い方を述べていたことがある。あれはあくまでも相手が両親や兄と言う「奇跡」を起こせる可能性のある相手だからである。自分の手で意図して奇跡を起こそうとする試みは楽しいものだ。
なかなか成功しないのだが。

コメント

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。