見出し画像

誤訳・悪訳の病理

 「式を用いた統計推論の対象、仮説検定、p値、t検定その他」という表現があった(注1)。なぜここに「対象」と言う言葉が出てくるのか不思議に思った。原文を見ると、「the subject of formal statistical inference」という主語から始まっており、これを「式を用いた統計推論の対象」と訳しているようだ。
 原文では、主語のあとにダッシュ記号が続き、「仮説検定、p値、t検定その他」となって、これは例示である。
 「式を用いた統計推論の対象」という訳は間違いである。subjectは、ここでは、(伝統的な統計学コースで扱われている)統計的推論というテーマ(あるいは項目)と理解されるべきであった。その例が「仮説検定、p値、t検定その他」なのである。「(統計推論の)対象」ということではない。
 同じパラグラフの中に、「偶然の変動がデータ分析における役割を演じることのできる限界」という表現があることを付け加えておこう。原文では、偶然の変動がどの程度にまで達しうるか(the extent to which chance variation can play a role)を知ることのデータ分析における意義について触れているのであって、偶然の変動が「データ分析における役割(を演じる)」とかその「限界」とかいう訳はおかしい。おそらく、文末の「in their data analysis」という部分をすぐ前の「a role」を修飾するものととらえて「データ分析における役割(a role in their data analysis)」と訳したのであろう。

 「片側検定のために対立仮説を『大きい』と定めなければならない」という表現があった(注2)。たまたまこの文の原文を見たところ、「"greater" or "larger"」となっていることに気づいた。紹介されているRのコードは以下の通り。

effect_size = ES.h(p1=0.0121, p2=0.011)
pwr.2p.test(h=effect_size, sig.level=0.05, power=0.8, 
alternative='greater’)

 pwr.2p.testについて調べてみると、以下のよう使い方をするようだ。デフォルトは「両側」で、それ以外に「大きい」とともに「小さい」を選択することもできるということであろう。ここでの例では当てはまらないのかもしれないが、対立仮説を「小さい」あるいは「少ない」とすべき場合も当然あるはずだろう。減ることが望ましいととらえられている数値を扱う場合には、「大きい」あるいは「多い」という対立仮説とはならない。

pwr.2p.test(h = NULL, n = NULL, sig.level = 0.05, power = NULL,
alternative = c("two.sided","less","greater"))

pwr.2p.test {pwr}

 「多腕バンディットアルゴリズム」のところで「良くない処置」という言葉が出てくる。例えば「伝統的なA/Bテストでは無作為抽出を想定するので、良くない処置を過度に行う」(注3)と書いてある。

Traditional A/B tests envision a random sampling process, which can lead to excessive exposure to the inferior treatment.

Practical Statistics for Data Scientists, 2nd edition, p. 134.

 原文を見ると、inferiorという語が「良くない」と訳されていることと、canという単語が無視されていることに気づく。無作為抽出の過程によって、inferiorな処置に過度にさらされることになる可能性がある、というのが正確な意味であろう。また、「良くない」というのは、「悪い」という意味ではなく、「相対的に良くない」という意味であろう。例えば、医療の場面で「良くない処置」が「対照群」におこなわれる可能性は低いと想像する。

 「検定力は、指定された効果量を指定された標本特性(サイズと変動性)で検出する確率だ」(注4)と書いてある。そのすぐ後のパラグラフでは「実際、検出力を計算する専用の統計ソフトがある」となっている。powerの訳語が検「定」力になったり検「出」力になったりしている。専門用語の訳は一貫させるべきだろう。

[注]

(1) 『データサイエンスのための統計学入門・第2版』(オライリー・ジャパン)の143ページ。

(2) 『同上書』、142ページ。

(3) 『同上書』、138ページ。

(4) 『同上書』、140ページ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?