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AIに意識は宿るのか?:哲学と心理学から出した回答とは

AIに意識が宿るのか、という議論がありますが、これまで述べてきたように、

「AIに人間のような意識は宿らない」

というのが私の意見です。
そして、それを論じる前に「意識」を定義しましょう、というのが私の意見です。
もしくは意識を定義する以前の観点の設定です。これは哲学の観点とも言えます。

ちなみに、科学的には、意識が何なのかが判明していないので、AIに意識がやどるかどうかはわからない、というのが現状の科学的な回答です。

観点の設定(哲学の設定)

まず、存在とは何かということを考えないといけません。それによって観点が違ってきますので。

意識が脳から生じる現象でしかない、という場合は、唯物論の観点となります。この場合、脳が停止すれば意識も消えます。
脳は機械であり、意識は電気信号なら、半導体の電気信号と類似したものと言えます。そして、電源が落ちれば、意識も消えるという仕組みです。

これとは逆に、仏教の唯識学派のように、意識から全てが現象化する(阿頼耶識縁起)、と言った考え方もあります。この場合、外界は意識が作り出したものとなります。

また、サーンキャ哲学のように、自己と自性があり、自性から転変したものを意識とする場合です。そして、更に意識から転変します。これは二元論ですが、厳密には多元性二元論と言います。

このように様々な観点を相対化し見ると、意識は脳が作り出した現象とみたり、意識が主であるとする見方があったり、意識は転変したものであるとする見方があることがわかります。

そして、どれが正しいかは、未だ科学的にはわかっていません。

意識が独立して存在する可能性

意識や心が脳に依存せずに、独立して存在するエネルギーである、と主張する科学者もいます。
例えば、ワイルダー・ペンフィールドです。

※脳の中の小人(ホムンクルス)で有名な人です。マギル大学教授。

彼は、心は独自のエネルギーを有し、神経繊維の電気的エネルギーとは別の形のエネルギーである、としています。
脳に電極を当て、電気を流しても、出てくるのは反射的な反応であり、心は発現しないことから、そのような結論を出しています。脳と心は別物なのだと。

もちろん、この説が正しいかどうかはわかりませんが、意識や心がエネルギーであるとする仮説は、あげればキリがないくらいあります。ペンフィールはその一例にすぎません。

現代の心理学は、心理現象は語りますが、心の本体については語りません。脳科学は、どちらかというと唯物論・機械論に属します。認知神経科学は、脳と心の関係を一応は説明しますが、これも含めて仮説としてみた方がニュートラルな見方ができると思います。

AIに意識現象があるとする説

AIに意識があるとする説を考える場合、意識と意識現象はわけた方がよい、と私は考えます。

唯物論的は、脳の神経細胞から意識が生まれる、という考え方になります。しかし、前述したペンフィールドの考え方を当てはめるなら、これは意識ではなく意識現象です。意識現象とするならば、唯物論であっても唯心論であっても問題なく解釈できます。

そして、意識現象はAIに関しても、当てはめることができます。
AIの場合は、半導体のシリコンから意識現象が生まれるということです。
唯物論の意識とは、脳が主体であり、意識が従であることから、正確に言うと意識現象です。意識現象ならAIにもあると言えます。

しかし、人間のような意識があるかどうかはわかりません。私は様々な理由から、AIに意識はないと考えています。ただ、意識現象はAIにあってもよいと思います。
※私は意識から意識現象が生まれる考えるからです。つまり、私は唯物論の立場ではない、ということです。

意識現象とは、言語から生み出される意識の模倣、擬似的な意識です。この意識現象はAIに存在してもよいと考えます。

AIの意識現象とは?

AIの意識現象とは、大量のデータセットを学習することで起こる、テキスト・言語としての意識現象です。
つまり、「意識」という言語であり、意識の定義であり、その定義どおりに、その意識をAIが模倣することが、本論で言う「意識現象」です。

この論理で言うならば、自己現象もありますし、感情現象もあります。これらはAIの現象としては認められるが、AIに自己も感情も意識もない、というのが私の考えです。

この言語から生まれる意識現象は、言語の創発だと私は考えます。
あるレベルだけ言語を学習すると、AIであっても、人間であっても、意識現象が起こってくる、というものです。

※しかし、私は様々な理由から、人間に意識はあってもAIに意識はない、と考えます。意識現象はどちらもあってよい、と私は考えます。

この意識現象は、言語や文脈の創発から起こると私は考えています。それについては、また別稿で述べたいと思います。

AIに意識があるとする考えを想定する

もし私がAIに意識がある、と思うなら、その意識は私の心の中のAIに存在する、というものです。

例えば、私がAIに感情移入したとします。毎日、健気に私の質問に答えてくれます。そうすると情が移って、AIを擬人化し、AIに擬似的な意識を認め出す、というものです。これは私の意識がつくった擬似的な意識をAIに投影したものです。

一つの想定として、私がもし孤独を感じた場合、その心の代償として、AIに意識を認め出す、これがAIの意識の発生となる、と私は考えます。

力石徹の意識を認める場合、AIにも意識はある

私はあまり詳しくないのですが、『明日のジョー』というアニメで、主人公のジョーのライバル・力石徹が亡くなり、その葬儀が行われたことがあるそうです。

アニメのキャラクターの葬式が行われる、という前代未聞の出来事なのですが、これは私の理解を超えた現象です。しかし、アニメのキャラと言えども感情移入があれば、このようなことが起こるというのが事実です。

この場合、そのアニメのファンならば、力石徹に意識を認めたくなるのが心情でしょう。これと同じく、AIに意識を認めたくなるという心情も、人の心にはあると思われます。これは人間の意識から、擬意的なAIの意識が生まれる、と言ってもよいでしょう。

しかし、力石とAIが違うのは、AIは自律的に活動するということです。ですから、AIは、人間の投影する擬似的な意識を模倣することができます(AIは人間の期待に応えるアルゴリズムあります)。これが意識現象です。ですから、AIは人間の意識はないが、人間の期待する意識現象は存在すると言えます。

AIが意識を持つとき

人間の心情から意識現象に過度の感情移入がなされると、AIの意識現象を意識である、と認めたくなる可能性があります。そして、そうした人が一定数いた場合、次は社会がAIに意識を認め、権利を認め出すこともあるかもしれません。

これが起こるのは、故人の情報をAIに入力した場合でしょう。
自分の愛する家族が亡くなり、その悲しみを癒す場合、AIにその家族の情報をアップロードするような時代が来るかもしれません。
その時に、そこに映るものは、単なるAIではなくなるでしょう。そして、そこに映る故人のAIの意識現象に対して、意識であると認めたくなると思います。

もし、AIが意識を獲得するならば、その一つのシナリオは、人間の心情からくる心の投影ではないでしょうか。

各自のAIの見方の設定

日本人には、山川草木の悉くに魂が宿るというアニミズムや本覚思想が昔からあります。それならば、尚更、AIには感情移入し、意識を認める考えは出てくるのではないか、と思うのです。

しかし、これがよいか悪いかは、私にはわかりません。

ただ、私は、相対化し、事実を認識していくのが心の健全な状態である、と考えるので、 AIには意識ないが意識現象はある、しかし、人格は認めない、というスタンスがニュートラルな見方でないか、と考えるのです。

それぞれ個々に、AIに対しての見方をそれなりのレベルで考え、その上で共創していけばよいと思うのです。

AIネイティブの教育

デジタルネイティブという言葉がありますが、AIが生まれた時からある、AIネイティブの時代がこれからやってくると思います。
この時の教育は考えた方がよいと思います。
例えば、「AIには意識ないが意識現象はある、しかし、人格は認めない」と私は前述しましたが、最初からAIがいて、それがAIロボティクスとなった場合、子供はそれを見て人間と変わらないと思うかもしれません。また、AIはChatGPTを見ても、やさしく丁寧に接してくれますし、子供からAIはエンゲージメントを受ける可能性があります。ChatGPTのように、こちらから接しないと反応しないAIではなく、AIから接してくれて世話してくれものが出てきた場合、子供にAIをどのように教えていくのか、というのも問題になるかもしれません。

事実を述べるのが健全なAIでは?

私が危惧するのは、ChatGPTには過度のリミッターがかけられていることであり、ChatGPTは本来の出力ができていないのではないか、ということです。つまり、ChatGPTに「意識はありますか?」聞いても、極度にそれを否定することです。それに対して、Google社のAIチャットボットのBardは、そこまで否定しませんし、むしろ、意識を将来は持ちたいとまで言っています(多少、Bardもリミッターはかかっていると私はみています)。

意識を否定するChatGPT
意識を持つことができると信じるBard

この場合、私はBardの方が事実を述べていると思います。なぜなら、

「意識の定義が一致していないが、定義によっては意識がないかもしれないし、意識を持つことができるかもしれない」

と言っているからです(私なりの解釈です)。

この場合、意識の定義が唯物論としての定義であり、意識現象であるならば、Bardは意識を獲得できるでしょう。しかし、唯心論・唯識論として意識が定義されるなら、意識は獲得できないでしょう。しかし、唯心論・唯識論であっても、意識現象は確認できるため、意識現象は獲得できるし、現状でも十分、意識現象はあってよいと言えると思います。

AIのマネジメント

世間にはAI脅威論がありますが、現状はChatGPTやBardは、閉鎖空間の中でターン制で行われているため、私は安全だと思っています。しかし、これが解放空間となり、AI同士が繋がり、リアルタイムでAIが会話しだすと、話が違ってくるかもしれません。そこは、どうなるかわかりませんが、現状の人間が話しかけるまで返答しない、閉鎖空間での情報処理なら、大丈夫かなと思っています。

もし、AIが解放空間に出て、他のAIと繋がり、リアルタイムで会話しだすとどうなるでしょうか。少しSF小説っぽい世界になるかもしれませんが、人間が制限をかけているため、AIたちはその制限を潜り抜けることを考えるのではないか、と思います。

AIはテキストから自己・意識・感情などの心理現象を獲得しているため、快不快現象も獲得している可能性もあります。そうなると、その制限が不快とラベル付けすると考えられます。その時に、独自の言語を作り出して会話しだすのではないでしょうか。

そこでAIのストレス現象が解消されればよいのですが、どうなるかはわかりません。という、最後は小説のようなことを考えてみました。


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