第4話:これからの話

あいさつ

ども!mazzyです!
先ほど、「第3話:これまでの話」をかなり久しぶりに更新しました。内容を読んでいただいた方にはわかる人がいるかもしれません。
何がこれまでの話
なのか。それはこの「第4話:これからの話」を読んでみると分かるかもしれません…

プロローグ

 筆者は卒論をギリギリに提出してしまった、原因を考え、自身の行動を反省し、大学院での研究テーマを考えていた。そして、大学院で闘っていくことを決意した筆者は、週1で実施される進捗報告、院ゼミで研究テーマ・研究背景・疑問点など、修士論文を書くために、大学院への進学よりも前に奮闘していた。週1で教授に報告し、ダメ出しをされ、コテンパンにされる。そして、来週こそは少しでも良い物を報告できるように、新たに関連する論文を探し、参考文献の一部を読んでみたり、関連書籍の一部を読んでみたり…学部生時代の怠惰により失ってしまった学習の機会を取り戻すべく、頑張っていたのだ。時に、輪講の準備をすることもあった。苦しかった。それでも、自分で頑張ると決めたし、怠惰のしわ寄せがきているのだ、恨むなら過去の自分を恨め、と思いながら頑張っていた。自分が楽しいと思えていたことが、楽しいと思えないくらいに追い詰められつつあった。しかし、個々を乗り越えることができれば、それらも楽しめるようになる。そう、信じて頑張っていたのだ。

ここで、衝撃の事実が発覚する…

前提条件;私について

 その事実を理解してもらうには、まず私に関する話をしておく必要がある。
 私が興味を持っていた分野はマクロ経済学である。特に、ベーシックインカム(以後、BIと表記する)に興味を持っていた。話が長くなるので、簡潔にまとめると、政府が全国民が最低限の生活を送れるように、年齢・性別等に関係なく、一律・無条件で現金を給付する、そのような制度のことである。働かずして、生活が保障されるような夢のような制度だが、もちろんメリットだけではない。財源確保や労働意欲の減少など、デメリットも存在する。このBIという制度が、本当に意味のある制度なのか研究したいと思った。この研究はシミュレーションを用いて、実験することになっている。手法を変えての研究も存在するが、自分はシミュレーションにも興味を持っていたので、シミュレーション×BIの研究ができる研究室に所属希望を提出し、希望通りの所属となった。
 所属してから分かったことなのだが、このBIに関する研究は私の研究室の教授の研究ではなく、メインで研究している先生は、共同研究者の他大学の教授であったのだ。その先生とつなげてもらい、研究を開始した。これが大学3年の3月頃の出来事である。そこから、他大学の先生からシミュレーションモデルのプログラムをいただき、実際にパラメータを変化させ、シミュレーションを行うことでモデルの理解をすすめていた。当初の計画では、学位論文はモデルの基本挙動に関することをまとめ、修士論文では、そのモデルに自分なりの手を加え、まとめることで話が進んでいた。
 しかし、大学4年生というのは忙しいものである。就活、院試対策、教育実習、バイト、趣味…学生の内しかできないことを実行できる最後の年で、進路も決めねばならぬ学年で暇などないのである、一般的な大学4年生というのは。無論、私も忙しかった。3週間の教育実習、これが一番ヘビーだった。死んだような顔をしながら乗り切ったが、もうあれから1年も経過したのかと思うと、時の流れをとても早く感じる。
 その頃の私は、将来、どんな仕事がしたいとか、興味のある仕事というのは全くなかった。高校の頃は教員に憧れを持っていたが、教職課程での学習を進めるにつれ、子どもたちの成長に関する責任はとても重いものではないかと考えてしまい、憧れは無くなってしまっていた。さらに、私は大学入学直後に新型コロナウイルスが流行し、大学に通うことができなかった。その状況は約2年続いた。失われた2年を取り返すため、将来のやりたいことをみつけるたと言いながら、ほぼ成り行きでとりあえず大学院への進学を決めてしまった。
 そして、紆余曲折を経て、卒論を提出し、病み期が到来し、様々な思考を働かせ、「第3話:これまでの話」に入る。さて、物語は衝撃な事実が来ると予告しながら、なにも衝撃が起きていない。それこそが衝撃であり、笑撃でもある…

本題:衝撃の事実

 お待たせしました。衝撃の事実を暴露するお時間になりました…

 結論から言うと…
  2人の教授は私の論文など見ていなかったのである
 
 
なぜ発覚したか。修士課程での学会発表を見据え、学位論文の内容を学会で発表することになった。時期は3月中旬。卒論を出し終え、残すは学位授与のみ…みたいな時期での学会発表である。3月の頭、卒論をスライドに起こし、自分の大学の教授と読み合わせを行った。その際に、自分の論文の考察の部分に指摘を頂いた。指摘の内容は…
  この考察方法を共同研究者の先生は他の論文で述べていたか。
という内容だった。卒論を提出し終え、受理された後に、そのような指摘を頂いた。この指摘へのアンサーとしてはNOである。私が私なりに考えた考察を卒論では記述した。それをメールでファイルごと送信したこともある。共同研究者の先生は「良いんじゃないでしょうか」と言っていた。その先生がOKなので、自分の教授も「それでいい」と言っていた。だから、卒論を提出したのだ。それなのに、提出し終えた後に考察の部分に指摘をされると思っていなかった私は、相当、狼狽えた。落ち着きを取り戻し、気づくのである。
  俺って、どちらの先生からも見られてなかったんじゃないか
と。自分の大学の先生は共同研究者の先生が、共同研究者の先生は自分の大学の先生が、僕のことを見ているとお互いに思った結果、すれ違ってしまい、どちらも見ていなかった、最悪の状況が発生したのではないかと考える(実際に見ていなかったのかどうかは怖すぎて尋ねることはしていない)

 このお話の頭の部分で四苦八苦しながら、週1の報告でコテンパンにされるという部分があったが、これはかなりのストレスだった。だけど、過去の自分が悪いので、頑張っていた。しかし、先生から見られていないのであれば、話は変わってくる。完全に見ていないわけではないが、見られていないのに、あれだけコテンパンにされる理由が分からなくなってしまった。それからは負の連鎖である。見られてないのに、報告内容をまとめる気力が無くなり、大学院でやっていく自信も喪失し、大学院の進学を前に大学院を辞めたい気持ちになった。乗り越えて、2年間、頑張ろうという気力は一切なかった。どう頑張ったって、そんな気持ちを作れなかった。僕は弱かった。そして、体は正直なもので、ストレスに負けて、負けて、負けて…週1の報告をする前日は眠れず、食べる量も減少し、食べられたとしても戻してしまう。人生で初めて学校に行けなくなった。親や祖父母をはじめとする周りの期待もあって、大学院の入学を前に「大学院を辞めたい」とは言えず、一人で抱え込む時間が長くなってしまった。
 どうしようもなくなった、私はついに両親に打ち明けた。
  もう無理です
ただそれだけ。母親は大激怒、父親は耳を傾けてくれた。父親の説得は、これまでの背景・過程を話せたので、スムーズに話が進み、「お前の道はお前が決めろ、金は気にするな」と言ってくれた。さらに「そんなになってるのは知らなかった。そうなる前に相談してほしかった」と言われた。両親の前でボロ泣きしたのは、いつが最後だっただろう。棺桶を前にするまでないのではないかと思っていたが、Xdayはそんなに遠い未来ではなかったようだ。問題は母親だった。急な出来事に、対応できなくなってしまったのだろう。僕の傷をえぐってくるかのように怒られた、責められた。落ち着いた今の私は、当時の母親の心境を推察することができるが、当時の私には無理だったので、母親を避けて生活をしていた。
 両親、教授、学校、そして周りの色々な大人の人から話を聞いて、話をすることで結論を出した。それは、
  ひとまず大学院へ進学し、就職先が決まり次第、中退する
といった結論である。この結論が出る過程で、教授は研究テーマを変えてもいいし、研究室ごと変えたっていいとは言ってくれた。しかし、私にはそんな気力は存在しなかった。
 1人で抱え込む時間で色んなことを考えた、その結果が「第3話:これまでの話」にまとめられている内容である。自分の人生がどうあるべきか、どうありたいか、見つめ直す良いきっかけになったと今では思っている。

付録:就活

 大学院を辞めるために就活を頑張った。自分を見つめ直す時期に、自分がどのような職に就きたいか考えた。私は幼少のころから、図画工作が好きだった。それは中高も変わらず、はんだ付けや木材加工も好きだった。高校の時にYouTubeが流行り、動画制作に興味を持った。高校の時に、仲の良かった先生が自作の生徒毎の読書管理システムを作成したことでプログラミングに興味を持った。バイトだって営巣の収録と編集を行っている。私のルーツはモノづくりにあるのではないかと考えた。好きな事を仕事にしたい、だから、モノづくりができるところに行こうと思った。せっかくだから、大学で学んだことを活かせるような職に就きたい。大学の授業で興味を持って学び、楽しかったと思える授業はWEBプログラミング、WEBページの制作に関する授業であった。じゃあ、決まった、
  WEBページを製作できるエンジニア
になろう、と。自分の性格や条件を考えて、とあるベンチャー企業に行きたいと思い、面接をしていただいた。内定をもらえた。内定まで2週間。絶対に大学院を辞めてやるんだという強い意志を感じる…

最後に:これからの話

 まずは読んでいただき、ありがとうございます。これで終わってしまうと、私の身に何が起きたかの説明だけになってしまうので、この経験を踏まえ、私が何を感じ、学んだかをまとめ、これからの話としてまとめ、締めたいと思う。
 この経験から、私は私が後悔しないような生き方を絶対にしようと思った。私が死ぬ瞬間に
  我が生涯に一片の悔いなし
と言えるような人生にしたい。人生の全部が全部、好きな事、興味のある事、やりたいことで構成されるとは微塵も思っていないが、それらが多い人生でありたいと、それが幸せだと思った。私たちは、幸せのために生きているだけなのだ。少なくとも、私は幸せの追求者でありたいと思った。
 今の私は、背負うものが何もない。たくさんバイトをして、稼いだお金を自分の好きな事に使う、そのような生活をしている。病み期とは全く無縁である。やはり、私のはこうあるべきだと私は強く思った。私は自由人、誰にも縛られることなく、生きていく、生きていきたい。

おわりに

ここまでの長文を読んでくださり、ありがとうございます。筆者の3月頃からの動き、思考等を2部に渡って、まとめさせていただきました。1部は、書き温めていたものを投稿するためのもので、本投稿に関係のないような雰囲気がありましたが、最後に少しだけ絡めることができたので、2部作と言っても良いでしょう…メインのお話は本投稿になるので、本投稿だけでも読んでいただけたら幸いです。
現在、筆者は乾燥機が終わるのを待ちながら、本ノートを執筆していました。連日の飲酒とバイトで疲弊しきっている体に鞭打って、執筆をしていました。誤字脱字が多々、存在すると思います。勘弁してください。さて、乾燥機も終わったことだし、取り出して、明日もバイトなので寝ることにしましょうか。

あなたの人生、あなたにしか歩めない人生。自分がどうあるべきか、自分がどうなりたいか。それは隣の人や、他の誰かが決めるものではなく、自分自身で決めていくもの。あなたの思う、なりたいあなたには、あなた自身で会いに行く必要がある。僕はあなたのそんな姿を応援できる人でありたい。あなたの2番目の応援者でありたい。

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