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見つめる先の未来

「しょうがいをみつめる」という連載の話をいただいた。そのタイトルが気になって考えていた。いったい何を見つめたらいいのか。そもそも障がいとはいったい何なのか。

言葉。とりわけ名前は分別するために生まれたという。「私」という一人称は、「私以外」と分別するために。犬と犬以外を分別するために犬という名がある。それを仮名(けみょう)と言うそうな。言葉の世界は相対して「分別」する相手を明確にする関係を創り出しているのかもしれない。

生と死、天と地などを言葉によって分けてはいるが、どちらか一方では成り立たない概念によって私たちの景色は創られているようだ。「私」から派生する相対性がそこにはある。私から見て天と地、右と左、前と後ろ。生まれなければ死なないし、生まれるから死ぬ。人間が言葉によって分けているが、相対していて一体である。もともと同じものなのかもしれない。

さて冒頭の「しょうがい」という言葉である。必ず相対するもう片一方があるとすれば、「私」から派生する「けんじょう」ということになるかもしれない。「しょうがい」を見つめるということは、相対している「けんじょう」を同時に見つめることになると思う。相対していて一体であるから。

私たちは日常生活の中で障がいという言葉に触れたり、考えたりする時間が僅かばかりにでもあると思うのだが、健常っていったい何だろうと真剣に考える時間は極めて少ないように感じる。自分たちにこの健常を当てはめて考えてみた場合に「常に健やか」というに違和感は感じないだろうか?

おそらくすべての人は何らかの凸凹を持ち合わせており、思うようにならない自身の心身と折り合いをつけながら生きている。常に健やかか?と聞かれたら、私の場合答えはであろう。そもそも発達において凸凹がない人など存在するのであろうかという疑問も浮かんでくる。正常な発達とは何を基準に言っているのであろうか?社会生活においてというのであれば、社会には永久不変の規範というものが存在してきたのであろうか?柔軟に変化してきたからこそ、人は文化を形成してきような気がする。

昨今世の中は、人数の少ない凸凹さを持ち合わせた方々を認めようとして活発な活動が起こりつつある。それはとても意義深いことであろう。しかし、そこにフォーカスするあまりに凸凹さをより一層強調し、包含するつもりがかえって分け隔ててしまうことにならないのかと感じる時がある。

フォーカスの矢印は派生元である「私」に向けたらどうだろう。そこには凸凹だらけの自分の心身があるではないか。障がいを見つめることは、相対している健常という概念を同時に見ていることになる。そこには違いはあれど同じような凸凹を持ち合わせた「私」がいるだけだと感じる。

多くの人が思っている「健常」という概念はそもそもあったのか?とさえ感じている。どちらか一方では成り立たない相対概念である健常と障がい。健常という概念はそもそも無いのではないか?と感じていくならば、その概念はだんだん薄れていき、意識せずとも相対していて一体の障がいという概念もだんだん薄れ消失していくと感じている。 

しょうがいをみつめることは、自身のけんじょうをみつめると同じことであり、けんじょうが溶けてなくなる時にはしょうがいをみつめるという見つめる必要がない「言葉」として消失する。

その時、私と対峙している半径5メートル以内にいる「その人」という個に向き合うことができるような気がしている。長男アキマサは肉体こそ無くなってしまったが、私と対峙している個として今もそこにいる。



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