早期リタイアして隠居を考えている私がなぜスタートアップファイナンスに従事するのか

(22年の10月ごろに作った下書きを再構成しての投稿のため、時系列が逆ですがご了承ください。)


「神はサイコロを振らない。」
一見、形が異なり、関連性のない現象の根本に同じ目的や原因が存在する。人間という生き物においても当然この論理は当てはまる。「どんな食べ物が好きか。」「どんな夢を抱いているか。」「どんな時に辛く感じるか。」これらの現象の根本にあるものはもちろん、アイデンティティである。至極明快な話ではあるが、世の大半の人々は自らのアイデンティティを見つけることに大変な苦労を要している。

自分をここまで大っぴらに紹介する日が来るとは思っておりませんでした。

私はどんな人間か。一言で言えば好奇心ではじけ飛ぶポップコーンみたいなやつだと思っています。面白いことへの嗅覚がよくはたらき、トレンドのワンテンポ先にいます。

覚醒したのは大学入学したタイミングです。軽音楽部に入ったものの外の世界への好奇心を抑えきれず退部し、EUの移民問題を扱うゼミと認知心理学のゼミを掛け持ちしたり、就活支援の会社でインターンしたり、インドに行ったり、夜の仕事を経験してみたり、アメリカの会計士を取ってみたり、シェアハウスに住んでみたり、、挙げ出すとキリがありません。
大学で専攻した心理学の卒論を書くだけでは飽き足らず、ビジネスにおいても役立つ会計を身につける為に母親に借金して米国公認会計士を取得。米国公認会計士取得後は、スタートアップのファイナンス支援についての興味を満たすために株式投資型クラウドファンディングの会社で長期インターンを始めました。

文字通り「あれもこれも」な大学生活を送った私。就職活動の時、私はこれまで取り組んできた活動の根本にある「なぜこの活動をしたのか」に答えることに苦労しました。(もちろん就活用の答えは用意していたが)
正直、自分の行動に理由があるやつは嘘つきだとさえ思いました。

将来の夢は仙人?

私を突き動かす原動力は、実は「働きたくない」という気持ちです。長い人生の大半を働くなんて飽き性の僕には地獄です。こそこそ稼いで不労所得で生活できるようになりたいです。

そんな僕は今、スタートアップを支援する金融機関で働いています。もちろん投資やお金の知識を身に着けたいから。ところが今働いている仕事では、どうやったらお金を稼げるかとい視点を抜きにしても、不思議と面白く感じています。お金だけでなく、いろんな社長さんが実現したい世界観に心躍ること数知れません。僕も社長になりたいな。これはお金がモチベだけではないな自分。

矛盾した想いを抱えている自分。

僕の「働きたくない」は、もっと解像度を上げると他人から強要される仕事をしたくないということなのだと思います。

裏を返せば、自分の人生の主役であり続けたいという潜在的な思いもあるのです。

僕がイメージしている主人公像はどんなものか。

ガラクタ発明に情熱を燃やすのび太くん

のび太君は控えめに言って不適合者で社会での評価は高くないのですが、彼の存在はどこか人をほっとさせるのです。

こんなのび太君のことをどうも他人とは思えないのです。というのも、僕が愛する人たちからよく言われる言葉は「あなたといるとほっとする」なのだからです。

「自分のアイデアや考え方、あるいは生き方丸ごとを通して人の心に安息をもたらす」ということが、僕が世に残したい価値なのだと考えています。

人の心に安息をもたらす方法は、原体験に基づいてと3つあると思っており、それはビジネスと教育と執筆だと思っています。

ビジネス

インドに住んでいた2019年は、インド発スタートアップのoyoがソフトバンクから出資を受けたニュースが紙面を賑わせていた年でした。
まさにその最前線に住んでいた僕は、このoyoホテルがマクドナルド並みに展開している現場を目の当たりにしました。屋台はQR決済、Uberが交通インフラの世界。さながら巨大なPoCの実験場というところでした。
インドでの生活は想像よりも便利でした。さらに、インド人から強く感じたのは、「この国を作っているのは俺たちだ」という情念。
ビジネスは確実に世界を変え人の心に安息をもたらすことを身をもって知りました。

社会にまだない価値を生もうとする企業を投資によってサポートする。そのアイデアがまだだれにも取り組まれていないなら、起業する。少なくともビジネスは、人々の生活の不(不便、不満、不安etc.)を解決することで人の心に安息をもたらします。スタートアップという、核が剥き出しになった有機体に触れる経験は大変貴重でした。
自分がつくる、あるいは誰か応援している人のビジネスが世界に認められた時、僕は多分生まれてよかったといえると思います。

執筆

僕が執筆にこだわりを持つ理由は、僕が作家に救われた経験があるからです。
  舐達麻という、大好きなアーティストが教えてくれた言葉。「自分の嫌な部分をアートという形で、ほかの人に評価されるものに昇華することができたならば、それは最高な気分。」「芸術するという行為は全人類がした方がいい」この言葉を鵜呑みにしたわけではないが、本質にあるメッセージは彼らが作った音源とともに僕にぶっ刺さりました。逮捕され、友達が死んでそれでもやることを前に進んでいくという人生の道中を、音楽という永遠の器に投影して、オリジナルの人生を一つの物語として人類の集合知に加えていくというとてつもなく壮大な営み。シンプルに「かっこいい」と思いました。同時に年老いた尊敬する父が遠くを眺めながら言った「俺らは何か成し遂げるべきことをもって生まれてきた」という言葉。自分の宿命は自分なりの人生を送ってそれを何らかの形に残していくことなのではないのかと、強く思いました。
 もう一つは、ヘミングウェイという親友に出会ったこと。「老人と海」を読んだときの感動は、おそらく誰もが感じたことがないものであったと確信しています。「俺と同じ奴がこの本の中にいる」。人生に迷っている時、ヘミングウェイが残した格言は、僕にとっては北極星のように進むべき道を照らしてくれました。
 このような経験から、僕は「文章は人の心に安息を与える」ことを断言できます。
僕が抱えているあまり理解されない悩みや世界観を書き記し、発信することで、世界のどこかで一人思い煩う人の心を救うことができれば、僕は生まれてよかったと思えます。

今この瞬間に死を宣告されたとき、何を後悔するだろう?
僕は、自分の人生を書き記さなかったことをきっと後悔するだろうと思います。

教育

僕は、教えることが得意な自負があります。
後輩たちにもよく相談を受けます。僕が経験したことの範囲内で、同じように悩み、暗闇の中で正解を探しもがいている人たちの一筋の光になること。ソクラテスがしたように、助産師のように、自分の教え子が答に辿り着くまで、気配を消してその人たちを支援することは本来の僕の生きがいになります。ただ、社会の広さを知らない自分が救える人は限られている。だからこそ、教育は僕が成功を収めるまでは着手したくないと考えています。

私がなしとげたいことは抽象度を上げると、世の迷える人や負の感情にさいなまれている人に、安息を与えること。
私が見出した人生の目標は、「誰もが予測できない角度から社会の変化を生み、それによって人の心に安息をもたらす」ということ。

生けるものはすべて死ぬ。存在は時の流れに忘れ去られる。地球が爆発すれば、我々が人生の中でどんな傑作を残そうと、それらはすべてもろく消え去る。こんな定めの世界で人々が虚無感にさいなまれるのは自然な話です。「来世に残る何かを残したい」と思うことは、そんな現実を凌駕する強いエゴがなければ成り立たない。
 ここで一度別の切り口から人生を捉え直しましょう。
生=労働時間、死=待機時間
 生だけを切り取り、それを以て全体と捉えることは疑う余地のない前提なのでしょうか。死もまた、僕らを構成する一部なのだとしたら。僕は、生と死のループの中で、バイトのシフトが被ったかのよう偶然同じ時を生きてる仲間たちの心に少しでも安らぎを与えられるならばそれは価値があると言えるのではないかと思います。

後世まで、自分が生きた証を残すのは重要でしょうか。

そんなことはどうでも良いでしょう。

ただ、今この瞬間を生きる同胞達の心に安らぎを与えるためだけに、この人生を費やしたいと思っています。

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