フィジカルシアターについてのメモ / ドラマトゥルギーについて

僕は結局、「言葉によらない出し物」をどうやってつくるか、ということに興味がありました。


で、それは結局は、ドラマトゥルギーをどうやってつくるか、ってことだったんです。

思い返せば始まりは、はじめてマイムの作品を何かつくりましょう、となったとき。何から始めればいいのかわからない。演劇と違ってセリフを喋るわけじゃない。平田オリザさんの演劇入門も、「演劇としてリアルなセリフの書き方」からはじまります。セリフありきの世界からすると、僕は最初から見放されている存在だったわけです。

さて今僕は、現代サーカスに興味をもっています。
それが日本のマイムの未来に繋がると思っているからです。

ただ、フランスでみた現代サーカスと、日本でみる現代サーカスはなんか違うなぁとも思っています。で僕なりに考えてみた結果、日本の現代サーカスに欠けているのは、ドラマトゥルギーなんじゃないかと思っています。
演劇が足りないのじゃなくて、ドラマトゥルギーです。ここが重要。

さて、ドラマトゥルギーについて話をしましょう。
前にブログで記事を書いた時よりも、読んできた本の数が多いので、今はもう少しよくわかっているから、もう少しうまく書けそうな気がします。ただ、前に書いたときも肝は外してなかったと思います。

演劇の歴史からはじめます。
大丈夫、20世紀の100年の歴史をいくつかにぶった切って、その1つ1つを説明するだけです。簡単です。

まず、「演劇」という出し物をやりましょう、ってなったとします。

するとまず最初は、じゃあこのセリフを声に出して読みましょう、ってとこからだったわけです。その次に、いや、読むだけじゃダメだろう、そのセリフを本当にそこで喋ってるみたいにしなくちゃ、ってなりました。でもそれに対して、いや、セリフは本当らしく言えばいいってもんじゃない、逆立ちしながら言った方がいい、っていう人もいました。で次第に、いや、セリフはセリフだ、この人はセリフを言ってます、ってプラカードをもった人が手前にいた方がいい、っていう人なんかも現れて、一旦ここでセリフの時代が一区切りつきます。
順番に、スタニスラフスキー、メイエルホリド、ブレヒト、とか、そんな人のことを適当に表現しました。

でまあ、ここまででいろんな人がいたけれども、「演劇」という出し物の設計図は、セリフだ、その集まりとしての「戯曲」だ、という考え方が共通しているわけです。

で、このあと、いやもう、セリフとかじゃなくても演劇つくれるんやない?っていう人たちが出てきます。それは踊りみたいなものだったり、スローモーションだったり、サーカスみたいなものだったりするんだけれども、とにかく、彼らのつくる「出し物」の設計図は、セリフではないわけです。

じゃあ、何が設計図なの?その出し物の「構造」なの?というところがですね、ジャジャン、ドラマトゥルギーってわけです。そもそも「戯曲=ドラマ」として、それがなくなっているけども、それが占めていたような、設計図としての場所にあるもの、を指しているわけですね。

で、僕はここ、現代サーカスのドラマトゥルギーはなんなのか、ってことにフランスで興味をもってしまったわけです。

なんか最近、どうやったら日本の現代サーカスは面白くなるのかなーと考えていたんですけど、結局、演劇との接点なんじゃないかと思ったわけです。つまりフィジカルシアターとしてのサーカス。でもこれって、僕のわがままじゃん、とも思ったわけです。僕は演劇→マイム→現代サーカスと流れてきた人間で、結局自分に寄せていってるだけなんじゃない、と。そんなの、サーカスが好きでサーカスをやってる人たちに押し付けるのは違うじゃん、と思いました。

一方で、いや、そういうわけでもない、とも思います。で、たぶん結局こっちが当たってて、アラン・カプローとかジョン・ケージとか、フルクサスとか、そういうものがアートを一度ひっくり返して以降、美術にしろ音楽にしろ彫刻にしろ、何がしか演劇めいたものになっているんですね。あるいは演劇自体もダンスとか彫刻とか、何やら「他のもの」とされているものとの境目が薄くなっていて。いわゆる「パフォーマンスアーツ」ってやつですね。

で、現代サーカスも、現代ってつくからには、そうなんですよ。パフォーマンスアーツなんですよ。だから、演劇との接点を持つのは本当に自然なことなんですよ。多分それは、空間の構造をつくる、関係性をつくる、お洒落にいうとコンポジションですね。

で、ここで注意して欲しいのはですね。
現代サーカスと演劇が接点を持つからと言って、それは「セリフ」を入れましょうとか、「物語」をつけましょうとか、そういうことじゃないんですね。それは、ドラマ=戯曲が出し物としての設計図だった頃の演劇なんですね。そうじゃなくて、一回アートがひっくりかえった後(別にひっくり返ったのはその時がはじめてじゃないですが)の演劇なんです。

だからそういう意味で、現代サーカスが演劇を接点としてもったときのドラマトゥルギーとはなんだろうか、というのが僕の問いかけだったわけです。ヨアン・ブルジョアのパフォーマンスを原点にして僕は前に記事を書いたわけですけど。


結局、ピナ・バウシュとか、ロバート・ウィルソンとか、ポストドラマ 演劇としての展開の中でそれは捉えられるというのが今の結論です。


じゃあ、あとはどうすれば日本でそれが実現するか、です。

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