翳り
「坊ちゃん?」
呼びかける声に、月読ははっと目を開けた。
どうやら、少しばかり意識をどこかへやってしまっていたらしい。
「ご気分がすぐれませんか? お顔が真っ白ですよ」
そう言って、両手を月読の頬に当ててきたのは、叔母であるテナズチだ。大きな翡翠色の瞳が、心配そうに覗き込んでくる。
「いや、少しぼんやりしていただけだ、心配はいらない。それより、『坊ちゃん』はやめてくれと言ったじゃないか、テナズチ叔母様」
「あら、そうでした。ごめんなさいねえ、私ったら。この歳になるとね、なかなか昔の癖が抜けないんですよ」
手で口元を抑えながら、くすりと笑ったその眼は、しかしすぐに元の翳りを帯びた。
「でも、お顔の色がすぐれないのは本当です。今夜はよした方がいいんじゃないですか。きっと、ウチの人の術が下手だったのがいけないんですわ。あの人ったら、いつだってだらしがないんですから」
そう言って、目玉のような不思議な刺青をほどこした眉間にしわを寄せ、自らの夫への不満を口にしたこの優しい叔母は、見ての通り表情がコロコロと変わる。
月読は彼女にとても感謝しているが、その夫であるアシナズチに対する当たりの強さを見ていると、かつて父親から壮絶な虐待を受けていたことのある自らの境遇を思い出し、少しばかり胸が痛むことがあった。
基本的に、夫婦の関係に口を挟むようなことはしないようにしているが、それでも時々、どうしても目に余ると思ったときだけは、意見してしまうこともある。
「本当に大丈夫だから、どうか心配しないでくれ。それに、叔父様はよくやってくれているよ。むしろ、天才的な手腕だといってもいい。よもやわたしも、本当に成長した肉体になれるとは思っていなかったからな」
己の両手を見つめながら呟いたのは、偽らざる本心だった。生まれつき普通よりも成長が遅く、つい先日まで赤子のように虚弱だった月読の肉体は、アシナズチの開発した秘術によって劇的な変化を遂げた。短かった腕は伸び、胴はしなやかさと力強さを備え、あの黒蟒すらも窮地に追い込んだ四刀流の剣技は、さらなる冴えを見せることになった。今となってはもう、誰も彼のことを虚弱などと評す者はいないだろう。
親友との武者修行の日々を思い出し、月読の眼が自然と細くなる。あれほど楽しかったことは、今までになかった。型破りの膂力。ありとあらゆる技を蹂躙してくる、圧倒的な暴力。何度斬っても倒れず、それどころかますます強く拳を打ち込んでくる。
あれこそまさに王者の器だ。自分はこの男に出会うために生まれてきたのだと、そして、この男も自分と巡り合う運命だったのだと、当時の月読は本気でそう信じていた。そのために、あの艱難辛苦の日々を必死に耐えてきたのだと。
なのに、当の黒蟒が選んだのは、彼の隣ではなかった。
「……中止はしない。作戦は予定通りにやる。あいつを連れてきて、目を覚まさせてやるんだ。わたしこそ……この月読こそがあいつの相棒に相応しいのだと、この剣で思い出させてやるんだ」
あの死闘の日々を。血沸き肉躍る悦びを。忘れたとは、決して言わせない。覚えているのが自分だけだなんて、そんなのは決して認めない。月読は、下唇を噛みながらそう思った。
「そうですよ」
テナズチは頷きながら、優しく月読の手をとって言った。
「黒蟒様はね、あのうわばみとかいう女の色香に惑わされてるだけなんです。でも、そんなのは所詮一時のこと。見世物小屋のゾートロープみたいなもので、いずれ、きっと醒めてしまいますよ。でも、そうなったときには、もうあの人のそばには誰もいません。それが恋ってものの恐ろしさですからねえ。どうして好きになったのか、どこが好きになったのか、考えようとするとスルリと指のあいだをすり抜けていってしまうのに、それでも頭がおかしくなっちまうくらいに好き。自分で自分の眼を覚ますなんて芸当は、見世物小屋の連中だってできやしませんものねえ。だから、どうか思い出させてやってくださいね、坊ちゃん。本当に大切なものは何か、今まで黒蟒様の隣にいたのは誰かってことをねえ」
叔母の言葉に、月読は思わず胸が熱くなるのを感じた。
「ああ、その通りだとも。ありがとう、叔母様。必ず成功させよう。これから叔父様と最後の打ち合わせをしてくる。叔母様は手筈どおりに、所定の位置について合図を待っていてくれ」
そう言うと、月読はテナズチに背を向けて歩き出した。その瞳は、決意の炎できらきらと輝いている。つくづく、この叔母には足を向けて寝られないな、と思う。中世代ワールドにいたときには、父親の暴力からたびたび匿ってもらった。姉や弟に見捨てられ、生きる希望を失いかけていた月読を、優しく励ましてくれたのは彼らなのだ。
いつか、きちんと礼をしなければならない。今夜の作戦が首尾よくいったら、二人には、これから黒蟒と作っていく国の幹部になってもらうのはどうだろうか、と月読は考えていた。もちろん、報酬は望みのままに。あの夫婦がいてくれれば、これほど心強いことはない。皆で力を合わせて、豊かで強い国を作っていく未来を思い描き、月読の心は弾んだ。
「……あ」
ふいに、気付いたことがあった。さきほどの会話の中で、テナズチが自分のことを「坊ちゃん」と呼んだのだ。いつまでも子供扱いされるのが気恥ずかしく、たびたび訂正するよう注意してきたのだが、この心優しき叔母は、それでもたまにうっかり呼んでしまうのだ。仕方がないなと苦笑しつつ、軽くたしなめようとして、月読は背後を振り返った。
「そういえば叔母様、その『坊ちゃん』はやめてくれと──」
発されかけた言葉は、途中で止まった。否、止まったのは、言葉だけではない。月読の全身が、まるで瞬間的に石になってしまったかのように、ふいに動かなくなったのだ。まだこちらを見送ってくれていた叔母の顔が、ほんの一瞬、振り返ったその刹那だけだったが、とても恐ろしいもののように見えた。
まったくの無表情。あらゆる感情という感情を削ぎ落とした──否、彼女は最初からそんなものなど持ち合わせていなかったのだと、本心から納得してしまいそうな、絶対的な虚無。まるで潰したばかりの虫けらを踏みにじり、眺めているようなその冷たい表情は、これまで接してきた優しい叔母とは、とてもではないが同じ人物とは思えなかった。
「えっ」
目を疑う光景に、月読の脳が軽いパニックを起こした。まったく面識のない、初対面の人物が、いきなり自分の背後に立っていたのを発見したかのような驚き。ぞっとすらしたが、しかし、そこにいるのは確かにあのテナズチなのだ。夢でも見ているのかと、月読はぱちぱちと目を瞬いた。すると、次の瞬間には、いつも通りの、柔和で穏やかな叔母の顔に戻っていた。
「どうかしまして、月読様?」
「えっ、あ、いや……」
咄嗟に言葉が出てこなかった。先ほどのは、自分の見間違いだったのだろうかと、月読は訝しんだ。そうだ、そうに決まっている。彼は半ば無理やりに自分を納得させた。この心優しい叔母が、あんな恐ろしい顔をするはずがない。あれは、ほとんど妖怪といっても良いくらいの、凄みのある表情だった。まともではない。あんな顔ができる者が、まともであるはずがない。
「な、何でもないんだ。実は、何かを言おうとしていたんだが、振り返った瞬間に忘れてしまった」
「あら、いやだ、そうなんですの?」
テナズチはクスクスと笑った。月読は、どうしてかその顔から目が離せなかった。
「そうなんだ。だから気にしないでくれ。それじゃあ、わたしはこれで」
月読は再び歩き出した。今度は振り返らなかった。後ろにいるテナズチが、またあの表情を浮かべて、こちらをじっと凝視しているような気がしたからだ。
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