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【短編小説】さよなら、ダニー

午後八時二十三分。窓の外は暗くなり、遠くに集合した街の明かりが見える。
私は、茶色くなった紙を慎重に開き、そこに書かれた文字を震える指でなぞった。この資料だけは、紙のままで残っていた。
ごんごんごん、と、乱暴なノックの音が聞こえた。私は一つ大きな息を吐いて、よっこいしょと立ち上がった。
「はいはい、今参りますよ。ごめんなさいね、もう目も腰も膝も悪くって……」
そう言いつつ、玄関の大袈裟なドアを開けた。機械音がして、重い金属製のドアが左右に開いた。そこには、青年が立っている。
「お久しぶりです、ロア教授」
私は肩をすくめて青年を見た。暗い金色のウェーブがかった髪が、青い瞳に少しかかっている。月に照らされて縁取られた高い鼻は、気高いオオカミのごとく姿勢よくそこに留まっている。
「ダニーだね。三十一歳、性別は男、出身地はグレート・サンプロント」
ダニーは肩をすくめて笑った。形の整った眉を、八の字に下げて。
「どうしたんだい、こんな時間に。老いぼれはもう眠る時間だよ」
「もう一度、使えますか」
ダニーは、そのガラス玉のような目で私を見据えた。
「何を使うんだい」
「『タイムマシン』」
私は溜息をついた。
「言ったろう。あれは何度も使えるもんじゃないし、タイムマシンと呼べるものでも……」
「いいんです、それでも」
ダニーは私の言葉を遮ってそう言った。私はまた大きく溜息をつき、顎で中に入るようにと促した。

「もううんざりなんです」と、ダニーは言った。紅茶にジャムを溶かしてやりながら、私は彼の言葉の続きを促した。
「初めて出来た彼女とは、彼女の借金が原因で別れました。その次の彼女とは浮気で、その次は彼女の暴力癖で、最後の彼女は詐欺グループの一員で、昨日逮捕されました」
「女を見る目が無いんだね」
ダニーは、ティーカップを両手で持ったまま口を付けようとはしなかった。
「それだけじゃありません。最初の会社は業績不振で僕をクビにしました。次に入社した会社では月に二日しか家に帰してもらえなかった。次の会社には口うるさくて理不尽な上司がいて、最後の会社では信じられないことにいじめにあった。それで僕は精神を病んで、病院に通うことになった。でも一件目の病院では薬漬けにされ、二件目の病院では意味もなく数か月入院させられ、最後の病院では医師に僕の欠点をねちねちと数え上げられた。最初の病院の医師に至っては、最近医師免許が無かったことも判明してニュースになっていました」
私は、茶色く変色した紙を指でなぞりながらそれを聴いていた。私には、彼の顔を見なくても、彼がどんな表情をしているかが手に取るように分かった。
「……私との約束を忘れたのかい?」
「まさか」
ダニーは首を左右に振った。
「『タイムマシン』を過信するな、でしょう。でも、あなたは僕のような人を救うためにタイムマシンを作った、そうでしょう」
「当初はね、そのつもりだったさ」
でも、『タイムマシン』は完成しなかった。
『タイムマシン』というのは、過去・未来の特定の場所に、現在生きている人間を転送する装置だ。しかし、私はそれが作れなかった。
「どうしてもタイムマシンを使いたいっていうのかい」
「もちろん。そのために、エチドアからはるばるここまで来ました」
「いいかい、何度でも言うよ」
私は紙を閉じ、真正面からダニーの目を見つめた。
「お前は、『過去には戻れない』。お前はこの時代、この時間軸で、ただ『若返る』のさ。お前の今知っている周囲の人々は年老い、お前はまた孤独な生涯を最初からスタートさせることになる」
私が作ることができたのはタイムマシンではなく、ただの『若返り機』だった。この世界に干渉することは出来ず、人間そのものの細胞に干渉することしか出来なかった。
「それに加えて、もちろんだがお前の記憶もリセットされる。お前は、もう一度この世界で、若い未熟な頭のままやり直すことになる。次に起きたとき、お前の脳には『もう一度人生をやり直す』という漠然とした不安のみが残されることになる」
「ええ、分かっています」
「本当に分かっているのかい?」
この世界に、何度もやり直すほどの価値はないよ。そんな言葉も浮かんだが、私はそれを飲み込んだ。
「ロア教授。もう一度やり直せたら、僕はもっと上手く人生を歩めます」
「お前には何を言っても無駄だね」
ダニーはにっこり微笑んだ。部屋全体がぱっと明るくなった気がした。壮絶な人生を歩んできたとは思えないような、美しい笑顔だった。
私はまたよっこいしょ、と立ち上がり、自分の机の引き出しから鍵を取り出した。今ではもう見かけなくなった、鍵穴に刺して回すアナログ式の鍵だ。
「機械は地下に置いてある」
ダニーは立ち上がり、私の後ろについてきた。カップの紅茶は、一滴も減らずに天井の電気を反射している。

「……もう一度聞くけどもね」
「ロア教授」
私の質問は、ダニーに遮られた。
「何度聞くんです。僕がここに横たわってから、もうその質問は五回目になります」
「こっちにも責任ってもんがあるからね」
「ロア教授」
ダニーは、私の手を握った。
「僕はどうなろうとも、あなたを責めたりしませんよ」
重力に従って寝台に散らばる金髪の間から、白い耳が見える。長くつるりとした指は、私の皺だらけの手を包んでまだ余る。
「……私も年老いたもんだ」
ダニーの手の下から、私は手を抜き取った。
「さあ、目を瞑りな。五分も経てば、お前はもう夢の中。そこから頭と体の数か所に電極をつけて、ざっと一時間。お前は晴れて、十五歳の頃に逆戻りだ。いいね」
ダニーは答える代わりに、私の方を見て微笑んだ。私は目を逸らし、麻酔のスイッチを入れた。

僕は不幸な人間だよ、ロア。君を幸せにしてやることも出来ない。僕の父親はアルコール依存症、母親はギャンブル依存症、妹は小学生で殺人者だ。誰も僕を愛さない。ロア、君は立派だ。僕と同じ歳だっていうのに、ジャン・リスクット大学に行くんだって? あそこは名門だ、僕の保護者のギャロウィン刑事もそこの出身だって言ってた。僕はね、ロア。何も持っていないし、何も出来やしない。でもね、君のことは誇りに思うんだ。君と出会えたことだけが、僕の唯一の誇りだよ。……え、僕のために? ああ、ロア。君は君だけで幸せになれるのに、僕すらも幸せにしてくれようとするのかい。待っているよ。僕は、幸せになれる日をいつまでも待ってる。

ああ、ロア。もううんざりなんだ。初めて出来た彼女とは、彼女の借金が原因で別れた。その次の彼女とは浮気で、その次は彼女の暴力癖で、最後の彼女は詐欺グループの一員で、昨日逮捕されたんだ。それだけじゃない。最初の会社は業績不振で僕をクビにした。次に入社した会社では月に二日しか家に帰してもらえなかった。次の会社には口うるさくて理不尽な上司がいて、最後の会社では信じられないことにいじめにあった。それで僕は精神を病んで、病院に通うことになった。でも一件目の病院では薬漬けにされ、二件目の病院では意味もなく数か月入院させられ、最後の病院では医師に僕の欠点をねちねちと数え上げられた。最初の病院の医師に至っては、最近医師免許が無かったことも判明してニュースになってたんだぜ、君も見ただろう? ……まさか君が本当に『タイムマシン』を完成させるなんて思ってなかった。僕は、僕はもう一度やり直せるんだね。そしたら今度こそ君を……

ああ、ロア教授。もううんざりなんだ。初めて出来た彼女とは、彼女の借金が原因で別れた。その次の彼女とは浮気で、その次は彼女の暴力癖で、最後の彼女は詐欺グループの一員で、昨日逮捕されたんだ。それだけじゃない。最初の会社は業績不振で僕をクビにした。次に入社した会社では月に二日しか家に帰してもらえなかった。次の会社には口うるさくて理不尽な上司がいて、最後の会社では信じられないことにいじめにあった。それで僕は精神を病んで、病院に通うことになった。でも一件目の病院では薬漬けにされ、二件目の病院では意味もなく数か月入院させられ、最後の病院では医師に僕の欠点をねちねちと数え上げられた。最初の病院の医師に至っては、最近医師免許が無かったことも判明してニュースに。ロア教授、あなたはジャン・リスクット大学を卒業したんですって? きっとあなたなら、僕を救ってくれる。僕をやり直させてほしい。

お久しぶりです、ロア教授。……その、もう一度やり直させてほしいんです。年上の方にこんなお話をしてよいのか分かりませんが……もううんざりなんです。初めて出来た彼女とは、彼女の借金が原因で別れました。その次の彼女とは浮気で、その次は彼女の暴力癖で、最後の彼女は詐欺グループの一員で、昨日逮捕されました。……ニュースで見た? 哀れな男でしょう。でもそれだけじゃない。最初の会社は業績不振で僕を……

……私は、紙を閉じた。
ダニーは、十六年に一度、九月二十一日の午後八時二十三分に、ここにやってくる。いつの間にか、私は八十二歳になっていた。
「……眠ってるのかい、ダニー」
私は、すうすうと寝息を立てるダニーに近付いた。頬には微かな微笑をたたえている。まるで、『次の人生』への期待に胸を膨らませているかのように。
「ダニー、あなたは」
ずっと、間違い続けているのよ。同じ道を、いつまでも辿り続けるの。
ぱたぱたと、皺の深い手の甲に、涙が落ちた。ごめんなさい、ダニー。あなたを救うなんて、できなかった。今度こそ、今度こそ、そう自分に言い聞かせてしまった。もっと早く気付くべきだった。あなたは私が立派だと言ったけれど、そうじゃなかった。私もあなたと同じ、ただのちっぽけな存在に過ぎなかったのよ。
でも今度こそ、あなたを救うわ。ダニー。もう、あなたが苦しまなくてもいいように。
「さよなら、ダニー」
愛していたわ。私は、ダニーに繋がっている電極のスイッチを、切った。







※実はこれを見て思いつきました。


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