ボタンを巡る問答、或いは人生の絶望

「こんにちは、あなたは無作為に選ばれた被験者の一人です。どうぞこの箱をお開けください」
「……なんすか? なんかの勧誘?」
「とりあえず箱を開けてください」
「はぁ。……ボタン、ですね」
「そうです。あなたにはそれを押す権利が与えられました」
「はぁ」
「あなたがこのボタンを押せば、今この場で即座に百万円を差し上げます」
「ああ、例のアレですね。ちなみにその百万円って……」
「非課税です」
「ああ」
「もちろん、良いことばかり起こるわけではありません」
「なんか、アレですか? 俺の知らない人が一人死ぬ、みたいな」
「そうです。理解が早くて助かります」
「知らない人って正確には誰のことを指すんすか?」
「はい?」
「いや、なんか定義とかあるのかなって思って」
「定義……分かりませんが、まあ、あるんじゃないでしょうか。一度も会ったことが無かったり、その人の名前を知らなかったりすれば、それは知らない人ということになるかと思われますが」
「あー、でもまあ、いいっすわ」
「……『いい』、とは?」
「別に人一人殺してまで要らないっす。百万円」
「……百万円ですよ? 百万円。百万円が、突然、このボタンを押すだけで、労働もせず、非課税で手に入るんですよ?」
「だってそれ、どうせ俺が押した後、他の人のところにもいくんでしょ? 俺の事を知らない誰かに」
「はい」
「じゃあ俺もそのボタンのせいで死ぬかもしれないじゃん」
「……でも、人っていずれ死にますし」
「死ぬにしても、何もやましいこと無く死にたいっすよ。人一人殺したかもしれない事実を背負いながら死にたくないっすもん」
「……なんですか? あなたもしかして人生に満足しちゃってるんですか? もっと世界を憎んでくださいよ。誰かを蹴落としてでも泡沫の幸せを掴みたいと思ってくださいよ」
「なんでそんなこと勧められなきゃなんないんすか」
「さてはあなた、仕事も上手くいってて、彼女との仲も良好で、家族との絆も強くて、貯金が三十万円ありますね?」
「妙にリアルな貯金額で責めるのなんなんすか。だとしたらなんなんですか。普通の生活じゃないすか」
「普通の生活! そんなので満足すべきではない!」
「近所迷惑っすよ。今何時だと思ってんすか」
「零時ぴったりに訪問しろと決まってるんですよ。マニュアルで」
「こういう仕事にマニュアルとかあるんだ」
「零時まで起きて何してたんですか! どうせ明日が来るのが嫌でゲームしてたんでしょう。もしくは終わらない仕事に追われてたんでしょう。それとも一人でお楽しみの最中でしたか?」
「実家の母親とビデオ通話してたんすよ」
「ボサボサ金髪グレースウェット便所サンダルが母親とビデオ通話なんかするな!」
「うるさいなぁ。逆にこういう奴ほど親大事にしそうでしょ」
「職業は! あなたの職業はなんですか! 百万円があなたの労働何時間分に相当するか考えてご覧なさい!」
「VTuberっす」
「どうせ底辺でしょう!」
「YouTube登録者数はこの間百万人を突破したっす」
「もおおおおお!」
「うるさ」
「じゃあなんでこんなおんぼろアパート住んでるんだ! こんなところに住んでるのは人生に絶望した貧乏人だと思うだろ!」
「祖父母が住んでた思い出のアパートなんすよ」
「もう逆に引きます。ドン引きです」
「なんでだよ」
「もうやだ。お前がこのボタンを押すまで帰らない」
「廊下に座らないでください」
「お前が押すまでここを動かない」
「めんどくせぇなぁ。なんなんだこいつ」
「なんなんですか。どいつもこいつもなんなんですか。どいつもこいつも全然ボタン押さないし」
「意外と押す人少ないんすね」
「この仕事、歩合制なのに」
「歩合制なんだ」
「稼げるって言われたのに。ボタンが一つ押される事に一万円って言うから、割のいい仕事だと思ったのに」
「今どんくらい稼げてるんですか?」
「稼げてるなんてもんじゃない!」
「近所迷惑っすよ」
「毎日残業続きだし。毎日零時きっかりに行かなきゃいけないし。寝不足だし。未だに誰もボタン押さないし」
「赤字じゃん」
「もうやだ。こんな仕事やめたい。今すぐ非課税で百万円が欲しい」
「じゃあそのボタン、自分で押せば良くないっすか? そのボタンを押せば、手に入るじゃないすか。そんで百万円手に入れて、さっさとそんな仕事辞めて、しばらくその百万で遊んで暮らせばいいじゃないすか」
「私だってね、それくらいのことは考えましたよ! でもね、ダメなんですよ! 就業規則で禁止されてるから!」
「今から仕事辞めようって人が、就業規則考えなくてもいいじゃないですか」
「こっちは判子も押しちゃってるんだ! 訴えられたら負けるのはこっちですよ!」
「まず怪しげなボタンのセールスが法律的にグレーでしょ」
「じゃあ、じゃあ、じゃあこうしませんか」
「なんすか急に」
「あなたが代わりに押してくださいよ、私の代わりに」
「え?」
「あなたは別に百万円要らないんでしょ? だから、あなたがボタンを押して、百万円を私に譲ってくれたらいいじゃないですか」
「……そういうやり口かぁ」
「違いますよ。至って真剣です。あなたはボタンを押すだけでいいし、汚い百万円を手に入れなくても済む」
「汚い百万だとは思ってるんすね」
「私は汚い百万でもいいから欲しいんだ! 家のポンコツルンバを買い換えたい!」
「なんで金欠なのにルンバ持ってるんですか」
「勝手に起動して勝手に机を倒して部屋をぐちゃぐちゃにするあの懸賞で当てたルンバとはおさらばしたい!」
「可哀想になってきたな」
「とにかく! 今すぐ押して、百万円は私に譲渡したことにしてください! そしたら誰も損しない! みんなハッピー!」
「ほらお隣さん出て来ちゃったじゃん。すみませんうるさくしちゃって。この人帰りそうにないんで耳栓でもして気にしないでください。はい。大丈夫です。不審者だけど可哀想な人でもあるんです」
「うわぁん」
「ほら泣いちゃったし。ね、可哀想でしょ」
「百万円欲しいよぉ。非課税で」
「こっちで上手いこと処理しますんで。はい。すいませんね。どうも。……分かりましたよ。押して、譲渡しますよ」
「本当ですか!」
「目の輝きがすごいな。いや、こっちももう早く帰ってほしいんで。押してお金の譲渡ができたら大人しく帰ってくれるんでしょ?」
「それはもう。それはもう願ったり叶ったりということで」
「急にシャキッとしたな」
「それではこちらが承諾書になりますのでサインを」
「営業マンモードに戻ったのか。……はい、書きました」
「では利用規約の方を」
「長いなぁ。もういいよ。同意したことにするから」
「それではこちらをお渡しします。このボタンはこのトランクの鍵と連動しております。押したという確認が取れ次第、こちらのトランクが開いて百万円を取り出すことができます。んふふ」
「わくわくしないでくださいよ。押すのはこっちなんですから。じゃあ押しますよ」
「どうぞ一思いに」
「じゃあ……えい。押しましたよ」
「やったぁぁぁぁぁ」
「うるせ」
「これで私もあのストレスフルルンバとおさらばできる! 粗大ごみにも出せるし新しいのも買える!」
「粗大ごみに出す金も無かったのか」
「ああ! 開きました! これ私がもらっちゃっていいんですね!? いいんですよね!? いやもう誰にも渡しません私の物だ誰も近付くな!」
「情緒がもう」
「本当にありがとうございました! こんなにも嬉しいのは初めてです! では私はこれで……うっ」
「あれ、どうしました?」
「うっ……苦し……息が……」
「えっ、ちょ、なんすか、マジでなんなんすか」
「かはっ」
「あの、ちょっと、えっと、……あ、そっか」
「ぐっ」
「……俺、この人の名前知らねえや」

「……あ、すみません。今静かになりました。もううるさくならないっす、永遠に。……あの、一応警察呼んでもらえます? うるさくした迷惑料と併せて百万渡すんで」

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