短編小説:魔王

これは……確かに何かの短編小説公募に応募したやつなんやけど、何に応募した時のやつやっけ。Drop box整理してたらたまたま見つけたくらいすっかり存在を忘れてたけど、改めて読み直したら割と好きかもしれない。


 午後九時の交差点で、カッターを拾った。他の信号待ちの人達は気付いていないようだった。これは、『そういうこと』なんだろうか、とふと考えた。
 その日の私は、誰が見ても酷い顔をしていたことだろう。徹夜してまで練った企画が却下された。しかも却下の理由が、『もっと待てばいい物が出そう』というふんわりとした理由だった。今日に間に合わせたのは一体何だったのだ。しかもその後畳み掛けるように、上司にしつこく食事に誘われた。上司の左手の輪っかをわざとらしく見ながら断ったが、かなり長いこと会議室に引き留められた。会議室をようやく出ると、その上司に密かに恋心を寄せている先輩に冷ややかな目で見られた。ははあ、最近私の仕事に雑務が増えてきたのはそういう訳だな。気にしない振りをしていたら、パソコンに珈琲を零された。その日履いていたお気に入りの白のタイトスカートが汚れた。一万五千円もしたのに、このスカート。先輩が甘えた声で自分を庇っているのを聞いて退勤。カッターを拾ったのはその時だ。
 『女の仲はドロドロしている』。そんな言葉が今や古臭いものになって、風化しつつあるこの時代。正直、女の仲はドロドロしていると思う。というか、男もドロドロしていると思う。結局、誰でもそうだ。気に食わないことがあれば潰しにかかる。自分を中心に世界を回したくなる。自分が楽しめる世界を、ただ自分のために回転する世界を所望している。
 じりじりと燃えるアスファルトに転がったカッターは、百円ショップに売っていそうな安っぽい物だった。何の気なしに拾い上げた。人通りの多いこの場所で、何度人に蹴られ、自転車に踏まれたことだろう。カッターのカバー部分には、少しヒビが入っていた。ふと周囲を見渡す。続々と赤信号に足を止める人々。その誰もが、人と話し、スマホに釘付けになり、地面に落ちた汚いカッターのことなど気にしていない。
 一生懸命生きてきたのに、それでも結局捨てられる。蹴られて轢かれてヒビが入る。地面に落ちたら最後、誰の目にも留まらない間に壊れ、使い物にならなくなる。
 そんな事を考えていたら、信号が青に変わった。思わずカッターを鞄の中に突っ込んで、横断歩道を渡る。信号の動向など興味が無さそうな顔をした人達が、一斉に動き出す。落ちた飴玉に群がった蟻の塊に向かって、石を投げた時と同じように。
 道を渡り切った先に、幾つもの花束が見えた。痛ましい事件だった。真っ青な空の下で起こった、通り魔事件。その日から二ヶ月経って、被害者達の血が染み込んだアスファルトは、もう幾人もの人に踏みつけられるだけの道路になっている。
 ふいに、先程鞄に入れたカッターを思い出した。この場所で。もしここであのカッターを出せば、どうなるだろう。通り魔事件で心を痛めた人々が行き交うこの場所で、ただカッターを取り出したら。かちかちかちと、ゆっくりと音を立てて、光る刃を出したとしたら。多分その瞬間から、世界は私を中心に回り始めるだろう。
「……アホらし」
 日の落ちる大通り。伸びる影。不謹慎だと飛んでくる叫び声も、今なら一蹴できる。人の考えというのは面白くもあり、恐ろしくもある。この場所でカッターを取り出す、というだけで人は色々な考えを巡らせ、勝手にパニックに陥る。そして、ただカッターを拾っただけで、世界を掌握した気になる女もいる。
 馬鹿な考えが知られてしまわないように、肩に掛けた鞄を握り直す。家賃六万円のドアは、値段の割に軽すぎる。

「あの子が! あの子が悪いんです! 私の手柄取っちゃったからっ……!」
「確かに、山口さんのデータが花田さんのパソコンに移った履歴があるね……どういうことかな、花田さん」
 職場に着くなり、私のデスクに人だかりが出来ていた。どうやら、山口と呼ばれた情緒不安定な先輩が私に押し付けた仕事が、上手くいったようだ。先輩はこの案件が上手くいくはずがないと踏んで、私のパソコンにデータを移動した。後はよろしく、とだけ言って合コンに出かけた先輩は、その案件が上手くいったことを快く思っていないらしい。自分の仕事を、後輩が横取りし、手柄を全部持って行ったことにしたいようだ。
「いや、でも私は先輩に頼まれて……」
「いつもそうやって嘘を吐く! いつもそうじゃない! 教育係をしてた時も、しょっちゅう嘘を吐いて私を騙して……」
 ぽろぽろと涙を零す先輩は、誰の目から見ても被害者だった。しばらく弁明をしたが、埒が明かないことを悟って、私は口を閉ざした。ちらりとよぎる、セクハラ上司の顔。あんな奴を落としたいなら、アイツの前でだけ泣けばいいのに。先輩は美人だから、こんなことしなくたってアイツを手に入れるくらい出来るだろうに。
「都合が悪くなったらだんまりなんて酷い。あなたがそんな人だなんて思わなかった」
 よくいけしゃあしゃあとそんなことが言えるものだ。悔しさに流れそうになる涙を堰き止め、鞄を引っ掴んでトイレに駆け込んだ。
 人間は理不尽だ。誰もかれも、世界の中心になりたがる。そのためなら、どんな手段だって厭わない。どんな手段だって。
 鞄に手を突っ込む。かつんと硬いものが指に触れる。それが何かは、すぐ分かった。
 もしかして、昨日拾ったこのカッターは、この時のための物なんだろうか。私が世界の中心になるための、選べない手段の一つなんだろうか。鞄から取り出して、指を添えた。ゆっくりと銀色の刃が顔を覗かせる。
 簡単だ。簡単なことだ。いつも夜鶏肉を切る時みたいに。あの腹立つあざとい細いネックレス目掛けてこれを振り下ろすだけだ。刃物が刺さった時は抜いてはいけないとよく聞く。だからすぐさま抜いてやる。どんな風に血が噴き出したら、周りの奴らがビビるだろう。私はこのカッター一つで、魔王になれるのだ。
 かちかちかち、と刃をくり出したら、取手の部分に黒い点々があるのが見えた。なんだこれ、とよく見ると、どうやらサインペンで何か書いて消えた跡のようだ。
 そうか、名前か。点々を繋ぎ合わせると、微かに文字が浮かび上がる。
【たなか ゆみ】
 ゆみ、か。頭の中で、小さい女の子が振り返る。折り紙と段ボールを持った、女の子。
『お姉ちゃん』
 ゆみちゃんが言う。真っ直ぐな綺麗な目で、こっちを見ている。
『カッター、何に使うの?』
 一筋だけ、つーっと涙が出た。そうか、このカッターにも、ちゃんと持ち主がいたんだ。落ちていたけど、誰も捨てられていたとは言っていない。
 ゆみちゃんが、自分のカッターを魔王が使ったと知ったらどう思うだろうか。自分のカッターで人が死んだと知ったら、どう思うのだろう。
 ふと飛び出した刃の部分を見た。黒く錆びている。それを見ながら、私は頭の中のゆみちゃんに呟く。
 何でもない、大丈夫。

 トイレから出た後も、相変わらず先輩は私を睨んでいた。私はそれを無視して仕事をした。
 定時きっかりに私は仕事場を出た。視線は痛かったが、少しでも早く仕事場を出たかった。
 カッターを拾った交差点で、信号を待つ。ふと、目の端にちらちらとセーラー服のスカートが写った。プリーツが揺れている。斜め後ろを振り向くと、女の子がアスファルトに目を落としたまま、うろうろしている。
「……あの」
 思わず声をかけた。はっとした顔で、女の子は顔を上げる。
「もしかして、カッター探してたりする?」
 女の子の目が、大きく見開いた。
「……なんで、分かったんですか」
「じゃあ君がゆみちゃんだ」
 女の子が俯いた。
「……ゆみちゃん、あのカッター、私が拾ったよ」
 大きな音を立てて、トラックが横切っていく。ゆみちゃんは何も答えない。
 真夏にもかかわらず、長袖のセーラー服。腕まくりさえもしていないし、長袖の黒いインナーも見える。私は、カッターの黒い錆を思い出す。そういうこと、なんだろう。
「あのカッター、長いこと大事にしてるんだね」
 ゆみちゃんは俯いたままだ。
「ねえ、ゆみちゃん」
 私の目に映る横断歩道が、太陽に焼かれて揺れている。
「あのカッター、私にくれない?」
 ゆみちゃんがこちらを見た。戸惑いと迷いの入り交じった目だ。正直、自分も何を言ってるのか分からなかった。ゆみちゃんは、私のことをどう思っているだろう。気味の悪い大人だと思っただろうか。それとも、大きなお世話だと思っただろうか。
「……どうしてですか」
 消えそうな声で、ゆみちゃんが言った。
「……なんでだろうね」
 信号が青に変わった。無言で私とゆみちゃんは横断歩道を渡った。幾つもの花束がじっとこちらを見ている。
「なんでか分かんないけど」
 私はその花束を見ながら答えた。
「このカッター持ってるだけで、世界の中心になれそうなの」
「え?」
 きょとんとした顔で、ゆみちゃんが立ち止まる。
「なんて言うか、その」
 私も、頭を掻きながら立ち止まる。
「何もかも上手くいく、お守りのような気がするの」
 太陽が、私達二人の汗を焼いている。ぎゅっと握った鞄の持ち手が熱い。
「……お守り」
 ゆみちゃんがぽつりと呟いた。
「うん、そう、お守り」
 私も答える。ゆみちゃんが、ふふっと笑った。
「……なんですか、それ」
「分かんない」
 ゆみちゃんはまたアスファルトを眺めた後、ちょっと笑ってこちらを見た。
「いいですよ。私のカッター、お守りにしてください」
「ほんとに?」
 はい、とゆみちゃんは笑った。
「多分その方が、幸せだと思います」
 幸せ。ゆみちゃんはそれだけ言うと、ぺこりと頭を下げ、私と逆方向に歩いて行った。
 幸せ、かあ。私も、ゆみちゃんに背を向けて歩き出す。私達はいつだって、世界の中心になれるのだ。

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