見出し画像

第547回:「こんな大人にはなりたくない」という大人にならないために

私も弟も、『老いる』ということを人一倍嫌い、怖がっている節がある。あまりいい大人が周りにいないんやろうか。そんなことないはずなんやけどな。
でも接客業をしていると、嫌でも『こういう大人にはなりたくないな』という人に接しないといけない時がある。そして、『こういう大人にはなりたくないな』と思わされる人は、たいていおっさんかおばさんである。

偉そうなおっさんほど、滑稽で悲しい生物はいない。以前働いてた職場で、あまりにも偉そうで、セクハラもするような最悪なおっさんが、影で「早く辞めてくんねえかな」と言われてるのを聞いたことがある。正直な話、私もそう思ってた。直属だったし。実際めちゃくちゃセクハラ受けたし。キモいし、ウザいし、空気は読めないし、話も下手だし、『最悪』としか言いようがなかった。でもそのおっさんに娘がいると分かってから、「早く辞めてくんねえかな」と心の中で思う度、見たこともないそのおっさんの娘さんの顔が過ぎるようになった。自分の父親が、色んな人から「辞めてほしい」と思われている事実、娘さんは一体どう感じているんだろう。別に私は聖人じゃないから、それをきっかけに「辞めろよ早く」と思うのを止めたわけではない。普通にずっと、そのおっさんが職場を辞めるその日まで、「早く辞めねえかな」と思っていた。でもそんな人にも、そんな歳まで育ててくれた母親がおり、妻がおり、娘がいる。家族は一体その人のことをどう評価しているんだろう。もしも万が一、家族にも「帰ってこなけりゃいいのに」とか思われていたとしたら、悪いのは一体誰なのか分からない。
まあだからといって、そのおっさんに同情する筋合いは無いけどな。そんな風に周囲に思われながらも、己の性格や行動を改めて来なかったお前が全て悪い。日々改めろ、自らの道を。

まあともかく、『老いる』ということは直接『嫌悪』に直結する気がしている。
老いることは、普通に醜い。皺が増え、皮膚はたるみ、シミが浮き出て、変な臭いまで放つようになる。その上、まだ年功序列が染み付いたこの世界において、歳を取りさえすれば誰にも怒られなくなる。経験とか、まあ実際に積み上げてきた功績とかもあるだろうが、そういったものを人は過大評価しすぎている。年寄りを労わるようにといった英才教育を受けた若者は、年配者に行列で割り込みされても怒れない。理不尽な言い分に少しでも意義を唱えれば、伝家の宝刀である「年上は敬え」が飛び出し、若者の首を掻っ切って飄々と去っていく。

私はそういう大人にはなりたくねえって言ってんだ!
とはいえ、きっと「老いる」というのはもうそういうことなのだ。できることが増えて、経験も積み、だんだんと自分に自信がついてきて、若者に何か教えてやらねばという気になっていく。実際に感謝されることも多くなっていくだろう。そうすると、どんどん肥大化していくのがプライドだ。「私の時はこうだった」「経験の浅い奴には分からない」「私はあの時もあの時も正しかったんだから」を数えて、人は大人になっていく。ただでさえ、生きているだけで自己肯定感がゴリゴリ削られていくこの社会で、自分で自分を守るには、自分ができたことを数えて自分で自分を肯定してあげるしかないわけだ。そうするとプライドが高くなり、頑固になり、非を認められなくなり、若者に忌避されるようになり、それがきっかけとなってさらに意固地になるという負のループに巻き込まれて出られなくなってしまう。

のだろうな、と、私の前でネチネチ小言を言うおっさんを見ながら思うわけだ。そして、こういう大人にならないためには、一体私は今どうすればいいんだろうかと考える。
弟は、「失敗した方がいい」と言った。私もそう思う。もう自分ではどうにもできないくらい、多方面に迷惑をかけまくって、とんでもない損害を出すくらいの大失敗をすれば、プライドなんかズタズタになる。頭を下げなければならない状況にさえなれば、偉そうになんか今後一切できへんのとちゃうか。
だからやっぱり、色んなことに自ら飛び込んでチャレンジし、そして失敗するという経験を積めばいいんだろうな。自分の出来ることに固執しないでさ。
そう思うと、失敗もそこまで落ち込まないんじゃないだろうか。これは、私があの時「あんな風にはならない」と誓った大人にならないための、タスクの1つなのだと。

いいなと思ったら応援しよう!