学力とは何か ~学力は数値化できるのか~

 先日2020年6月18日、中田智之さんがお声かけくださり、おとな研究所の協賛で対談を行いました。
 テーマは「コロナ下の教育」でしたが、教育全般にわたった幅広い内容となりました。
 今回は参加者にオーストラリアの高校生マクロスさんとベトナムでの教育にくわしいkitamuraさんがいらっしゃったことで、グローバルな視点で日本の教育をみることができました。
 詳細な内容はおとな研究所のakiさんがしてくださるとのことでしたので、私は個人的な感想を記させていただきます。

 私が常日頃からみなさんと話したいと思っているのは、「学力とは何か」という大テーマです。今回も、みなさんにそれを投げかけてみました。
 すると、日本の高校生akiさんもオーストラリアの高校生マクロスさんも「問題を解決する能力」とお答えくださいました。これは私も共感するところであると同時に、昨年までの指導要領で重点とされていたことですので、そうした教育課程の成果が表れているなぁと感じたところです。
 しかしそれをどう評価するのかということになると、やはりテストによる数値化に頼るべきだと考えられていることもわかりました。欧米の教育法では、何でも点数を付けるそうです。レポートも、出典は明記されているか、論理的に展開されているか、などの項目別に点数化されていくとのこと。そうした細分化された項目をどのように設定するのか知りたいとも思いましたが、私にしてみれば、そこにどれほどの価値があるのか、というところです。
 数値化は、競争、序列化のためには非常に便利です。自分がどの位置にいるのかも一目瞭然です。しかし、数値化する基準に乗らない学力を持って学習している子にとっては、追い込むことにしか成りません。「あなたは劣等生です」。しかしその子も、別の物差しでみれば学習しているのかもしれない。教師が想定していた内容、能力ではない部分が育っているのかもしれない。それなのにそこは数値化できない、それは珍しいことではありません。
 私が日本の小学校教師を代弁するわけにはいきませんが、日本の小学校ではそうした数値化したデータとともに、子どもが学んできた履歴をまるごとみる「パフォーマンス評価」を重視しています。通知表には5段階や○△での評価がなされますが、それとともに文章で教師が子どもたちのやってきたことを記しています。通知表はこの文章を書くことに時間をかけて作成しています。普段の授業でも、テストもしますが、宿題やノートへのコメントを通して評価しますし、発言やノートを他の子に提示することでの学び合いに価値をおいています。
 学習の大きな目標に受験があり、そのシステムがテストである以上、テストで点が取れるかどうかが「学力」として機能することは現段階ではしかたのないことです。(だからこそ私は受験のシステムの改革が必要だと思うのですが…)

 しかし教育の本質はそこではないのです。人間が成長していくために、それを他人から数値として与えられることに価値はない。


 何を学ぶのか、どう学ぶのか、これからも学び続けたいことがあるか

 こうしたことを評価していくために必要なのは、他人のそれと比べることは不要なのです。

 対談では、マクロスさんから「それでは生産性が低い」というコメントをいただきました。学校を「生産性の高い人間を育成する場」としてとらえるというのは、産業革命の時期の学校設立の主旨と似ていると感じました。あの頃は、社会的な歯車としての国民を育成する必要があった。そこで一律の教育内容で集団で規律ある生活ができるよう期待されていたのです。そこは現代では変化があり、多様性を認める個の時代に発揮できる「生産性の高さ」が求められるようになっている。それは私もわかります。が、学校の目的は国の生産性を高めるためにあるのではないのです。経済的な利益を得ようとすることは大切です。そのための学習を否定するものではありません。職業訓練の役割も高等教育にはなおさら必要になる価値観です。しかし少なくとも小学校段階では、それよりも「よりよく生きるために必要な力」を求めているのです。

 体育ではスポーツ選手を育成したいのではなく、生涯にわたって「体を動かすって楽しい!」と感じ、運動を続けられることを願っています。
 理科では科学者を育成したいのではなく、生涯にわたって科学的な事象や生物に興味をもてることを期待しています。
 他の教科でも同様です。その道のスペシャリストになって欲しいという思いではなく、生涯にわたって学び続けるひとであって欲しいと願っているのです。それって、豊かな人生だと思いませんか?

 すなわち、学力を数値化するということは他者との比較が主たる目的で、学ぶということの本質は本人の内にあるのだという価値観に依って立つと、学力の数値化に価値は薄いということです。

 ・・・難しくて固い言葉で、意味がわかりにくすぎる…
 もっと平易な言葉で伝えられるように、これからもっと考えます…

 kitamuraさんからベトナムの教育についても紹介していただきました。マクロスさんのオーストラリアの教育のお話しもうかがえました。すると日本の教育の特徴が少し見えてきました。やはり外からの目でないと、自分は見えないものですね。
 そこでわかった日本の教育の特徴のひとつが、「おちこぼれをつくらないように」という姿勢です。だからこそトップが突き抜けられない、という課題も明確になりましたが、勉強できない子も何とか救おうとしてきたのが今の日本の教育課程なんだということも認識を新たにしたところです。

 諸外国の教育内容をみるたびに、なるほどなぁと感じることがたくさんあります。しかしそれをすぐに日本で実行しようと思えるかというと、そうはなりません。それは、教育はシステムではなく文化のうえになりたっているからです。ベトナムのやりかたもオーストラリアのやりかたも良さがあります。しかし日本のやりかたにもよさがあるのと同時に、このやり方になっている経緯や文化、習慣があります。だから手放しに「あのやりかたがすばらしいから取り入れよう」とはいかないのです。それでも良いところはとりいれていきたいところです。

 対談では、現状の学校で行われている学力の評価についての紹介までしかできず、私の考えはお話しできないままになってしまいました。もっと、みなさんと考えていきたいと思っています。
 ステキな機会を与えたくださった中田さん、おとな研究所のみなさん、ありがとうございました。

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