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気遣い、心遣い。

23年の人生の中で最も悲しかったことのひとつが、昨年の秋に愛猫のアルが亡くなったことでした。あの時期のわたしは、大きすぎる悲しみと喪失感を振り払えずに、子どものように、毎日毎日泣いていたものでした。

しかしそんな悲しみを癒やしてくれたのが、時間の経過のほかに、やはり、たくさんの友人の優しさでした。

元々親バカすぎたわたしは日々アルの姿をInstagramにアップしていたので、亡くなった時も、簡単にその報告を投稿しました。すると様々な友人がお悔やみの言葉を残してくれて……。「悲しみを共有してくれる人がいるんだ」「自分以外にもアルを愛しく思っていてくれた人がいたんだ」と、つらい中にも、じんわりと温かい気持ちが広がっていくのを感じたのでした。

そしてそんな中でも特に救われたのが、ある友人が送ってくれたお誘いのLINEでした。思いやりに満ちたお悔やみの言葉とあわせて、「すぐじゃなくて良いから、ご飯にでも行って少し元気回復しよう」と、本当にさり気ない優しさで、声をかけてくれたんです。(ちなみにその子は猫が苦手なのに!)

そしてアルが亡くなった4日後には、その食事は実現しました。2人でご飯を食べて、ちょっとお酒を飲んで。何気ないおしゃべりや近況報告をしている間は、悲しい気持ちをほとんど無視することができて、大げさでなく、少しずつ世界が明るさを取り戻していくような感覚を抱きました。

そして、そんな時間を過ごした末の別れ際、思ってもみなかった贈り物として、彼女が小さな花束を手渡してくれたんです。「真由はよくアルちゃんとお花を一緒に写真に撮っていたよね。だからよかったら、これもお供えしてあげて」と。言葉にできない感謝の気持ちで、胸がいっぱいになりました。

今でもアルのことを思い出すたびに、あの日もらった花束のことも一緒に思い出します。あの心遣いに救われたこと、一生忘れないだろうと思います。


人から投げかけてもらう優しさは、いつだって、どんなかたちだって、ありがたくて、救いになるものだと思います。そして優しさのかたちは様々だけど、私もあの日のような「心遣い」ができるような人でありたいなと、最近また改めて思っています。

タイトルに「気遣い、心遣い。」と書きましたが、ふたつって似ているようで結構違う気がします。無機質な言葉で表すなら、「気遣い」は「負の影響を生まないための配慮」で、「心遣い」は「精神的に正の影響を生むかもしれない働きかけ」かな?と勝手に定義づけています。(ネットで調べるとまた違った説明が出てくるのですが、それは一旦無視するとして。)

思えばフィリピンでインターンをしていた頃、わたしはいつも周りに気を遣い、現地の方からの様々なお誘いも遠慮しがちだったのに対し、相棒インターンのたかちゃんは、そういうご厚意に気持ちよく甘えることができて、なおかつ感謝の気持ちを「心遣い」で示すのが上手だったな。メッセージカードを渡したり、ちょっとしたお菓子をお土産で持っていったり。その姿をとてもまぶしく思っていました。


悲しみも苦しみも、避けて通れる人はいないからこそ、周りの人のそういう感情を和らげられるような心遣いを、(もしちょっとおせっかいだったとしても)届けられる人でありたいな。

最近人の優しさについて考えることが多かったので、回顧録がてら書いてみました。


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