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海に浮かぶ彷徨う命

3月11日に知り合いの映画監督が東北の海岸に作品撮りをしに行くというので一緒に行こうか否かここ数日ずっと迷っている。

10年かぁ・・・・・・。

その監督は震災後毎年この海岸を訪れ14:46に港から追悼のために鳴らされる「汽笛の音」を集めている。その音を10年分集めてご自身が作られている映画のラストに流すことで、人々が祈り続けた「時間」が表現できるのではないかと話してくれた。

それでここ数日、今年の3月11日に録音&撮影をする内容の実験を繰り返しているようで、その実験内容のファイルを送信して音を聞かせてくれた。内容についてはまだ未発表なので詳しいことは言えないけれど、その音を聞いて鳥肌が立った。

触れてはいけないものに触れてしまったような感覚だった。

そして、これを現地で実行すれば必ず何かが起こると確信した。
それはいいことなのか、悪いことなのかはわからない。きっと、どちらの可能性もある。それを行う時のその人の心もち一つなのだと思った。マジックにブラックもホワイトもないように、全てはそのエネルギーを扱う人の心にかかっている。慈悲の心を持ってすれば<祈り>になるけれど、そうでなければ<冒涜>にもなる。なので、その感想を素直に伝えた。

では、自分は何のために行こうとしているのか?次は自分に返ってきた。最初は出演するのかと思っていたので行くつもりでいたのだけれど、そうではなかった。では何故?偶然にもその海岸と鎌倉の我が家の共通項を見つけたので衝動的に「行った方がよいのではないか」と思った。内なる出来事と外からくる出来事が一致した時はそんな風に思うことがある。でも、本当にそうなのか今一度検証する必要もある。そんな風にあれやこれや思っていたら学生時代の先輩がNetflixで番組を作ったとSNSにアップしていた。「未解決ミステリー」というドキュメンタリーシリーズの中の「波にさらわれた魂」というタイトルのものだ。津波にさらわれ亡くなっていった人たちの魂が成仏せずに彷徨っていて、その霊魂に出会ったという人たちの証言が集められている番組だった。ひとりのお坊さんのお話が軸にあり、真っ直ぐにその事象を受け止め記録している番組だった。怪しさやスピリチュアルに寄った感じはない。
「これを見なさい」というメッセージを受け取ったような気がした。

今でもきっと、亡くなった方達の魂が沢山海に浮かんでいることだろう。

自分の行為がその魂にも、残された遺族にも失礼であってはいけない。そして自己実現のためだけに訪れてもいけない。撮影をしているとよく思うことがある。これって自分よがりの暴力行為になってはいないだろうか、と。もちろんそうでない時もある。想像力を働かせるって難しい。

10年目の今年、東日本大震災で亡くなった全ての魂が天に昇華していくことを願う。


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