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線路の向こう

僕が高校を出るまで暮らした町は山間いにあって、年に一度、秋祭りのときに県外からも見物人が訪れて盛り上がる以外は眠ったように静かな町だった。学校は数駅離れた田んぼの真ん中にあって、みんなが自転車をこいで通う中、電車通学にあこがれた僕はひとり駅のホームでぼんやり線路を眺めて過ごすことが多かった。

町を賑わせていた産業はすたれ、過去のなかにまどろむ町。両親も祖父母も兄弟も、家族みんなのことは好きだったけれど、ここでずっと生きていくことは想像がつかなかった。

線路を眺めながら高校生の僕は思ったのだ。
このまま逆方向に終点まで行けば、少し大きな街に出る。そこで乗り換えて数時間もすれば東京だ。東京でなら僕も生きていると実感できるのではないか。
ここで、生きているのに死んでいるかのような毎日を過ごすのは、そんなふうにして年を取っていくのは嫌だった。

進学したいというのは都合のよい隠れ蓑で、ガリ勉などという昭和なあだ名をつけられても気にせず机にかじりついた。友人たちはそんな僕からだんだんと離れ、高校生活も後半に入る頃には遊びに誘われることは稀になった。
けれど僕はどうしても諦められなかったのだ。
ここではない、どこかへ。


久しぶりに帰ってきた故郷の駅は時ならぬ人で溢れていた。谷川が深く切り込む崖の上にある駅は夏のまぶしい緑に覆われている。
2両編成の電車が止まるだけの小さなホームには入りきれないほどの人、人、人。ただでさえ暑いのに、人の熱気でさらに暑さを増している。その手にはスマホやカメラ。なんとかいう型番の車両が今日で営業を終了するのだ。

田舎の町で、まだ子どもでしかないもどかしさと将来への期待とでないまぜになった心を持て余しながら毎日乗った電車は、実を言うと日常過ぎてよく覚えていなかった。人の群れの隙間からわずかに覗く電車の車体に目を凝らす。
たしかにこんなクリーム色だった。太い朱色の線がまた、あの頃の自分には格好悪く思えたものだ。柔らかくて曖昧な色合いはそのまま、まどろむこの町での暮らしのようで。

「さようならー!」

誰かが叫ぶと、つられたように、さようならが連呼された。ふだん使ってもいない電車との別れにこんな山奥までこんなにたくさんの人が来るなんて、おかしなこともあるものだ。

ホームのベンチに腰かけてひとり線路の先をじっと見つめていた日々を思い出す。かげろうにゆらめく線路の先に、視界を白く閉ざす雪に埋もれかけた線路の先に、夢見ていた世界。

と、車両が動き出し、人波もつられて動いて、僕は変なふうに押されて不本意にも大きくよろけた。
後ろからすぐに、肩と腕をがっと掴まれる。

「大丈夫ですか… ほんと、すごい人ですね」

声に振り返って僕はかるく頷いた。掴んだ腕を離して後輩が笑う。
人懐こい笑顔を見せるこの後輩とは大学からの付き合いで、職場も同じせいなのか今でもわりとよく顔を合わせる。同級生よりも頻繁に会っているんじゃないだろうか。ひまだからといって、今日もこんなところまでついてきた。

東京が僕の夢から現実になり、それにつれてひどく味気ないものへと変わっていった学生時代。荒れて、ともすれば大学から遠ざかりがちな僕を連れ戻してくれたのはこの後輩だった。
そこそこ上手くいっていると思っていた結婚生活が唐突に終わりを告げて、がらんとした家で呆然としていた時も、何度も様子を見にきてくれた。

さようなら、おつかれさま、人々の声が飛び交い、シャッターの音が絶え間なく続く。

「ありがとうー!」

誰かが叫ぶ。
こたえるように汽笛がながく響いた。

ありがとう、か。
過ぎ去った日々に、いまはもう会うこともないかつて家族だったひとに、少し後ろに立って僕を支えてくれているこの後輩に。僕も同じ言葉をつぶやいた。

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