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最後の空

よく晴れた朝、いつもの通勤路をとぼとぼと歩いていたら、急ぎ足でこちらに向かってくる先生と行きあった。

先生は僕を見て驚いた顔をしたが、僕だって驚いた。平日の午前に顔を合わせることなんかないはずなのだから。

ところが先生は、
「あなた、こんなところでなにしてるの。今日で世界が終わるんだって聞かなかった? はやくお戻りなさい」
と、ふだんのおっとりした口調からは想像もつかないほどの早口でまくしたてると、そそくさと立ち去ってしまった。

言われて周りを見渡してみれば、なんだか街を歩いている人がいつもより多い。みんな切羽詰まった顔をしてどこかへと急いでいる。

世界が終わる?

家を出るまで、テレビはつけっぱなしにしていた。ということは、僕が家を出てからそういうニュースが流れたのか。

世界が終わる。

僕は立ち止まった。
先生は戻れとおっしゃったけど、どこに戻るというのだろう。
六畳一間のアパートへか? それとも何年も前に捨ててきた実家へか。いや、もうその実家だってふた親が世を去り、なにも残ってはいない。

とりあえず出社してみると社員はほとんどが帰宅させられた後で、がらんとした室内はまるで休日出勤のときのようだった。

欧米人のように机に脚を乗せてぼんやりしていた直属の上司に挨拶すると「お前、ちゃんと来たのは偉いが、今日はもう帰れ」と、泣き笑いのような顔をした。

「リーダーは帰らないんですか」
「帰るよ。部員全員が帰ったのを確認したらね… 子どもたちが怖がってる。はやく側に行ってやらないと」

そして手を差し出した。
僕はその手を握り、頭を下げた。
ありがとうございました、と言ったつもりだったのに、声が出なかった。

社屋を出るともはや右も左も大変な騒ぎで、怒号が飛び交っていた。どこへ行こうがいまさらどうにもならないのは承知で、せめて自分の大切なもののもとへと急ぐのだ。
上司は家族のもとへ。
先生や同僚の誰彼もどこか、そういう場所へ。

人を避けて路地をたどり、公園という名の小さな空き地のベンチに腰を下ろすと、僕はポケットをまさぐった。今ではもう、大切なものを持たない僕は、彼らの狂騒を羨ましく思うばかりだ。

カチリ。

ポケットから取り出した煙草に火をつける。

思い切り煙を吸い込むと、初めて煙草を吸った時のようなうっとりとした感覚が僕を包み、…

そして僕は自分が涙しているのを知った。


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