信用と安心 (日記その131
・最近とんでもないこと(殺人や詐欺や窃盗など)をして強烈に後悔する夢をよくみる。犯罪をしでかして「これから一生捕まる可能性に怯えて生きなければいけない」「人様に危害を加えてしまった」といったようなことを思い、目覚めてからも激しい後悔の感覚が残っている。絶対に犯罪をしないで生きよう。
・「アニメや漫画やゲーム、音楽、映画などのコンテンツを消費する」といった文脈で使われる「消費」という言葉に引っかかるところがある。この文脈での「消費」は作品をまるで使い捨てることのように表していて、それを揶揄する言い回しで使われがちだ。
けれど、作品を見たり聴いたりして感受することは、程度の差はあれど自分の内面に不可逆の変質をもたらすものであり、コンテンツから受けた影響は程度の差はあれど受け手の心に残り続けるものだと思う。それを消費とイコールで結ぶのは、コンテンツの与える影響をあまりにも短期的かつ短絡的に捉えているように思えて、どうも引っかかる。
・Twitterを見ていたら「娯楽に興じ続けることだけが人生だと勘違いしている人達がいる」という内容の言説が流れてきた。そういう生き方はある程度続けたあたりで行き詰まってしまうので、娯楽という枠組みに収まらず興味関心の探索を行うことが大切なのだとか。
なるほど、確かにそうかもしれないと考えさせられた。本を読む、アニメや映画を見る、ゲームをする、などのオタク行為に自分の興味関心を収まらせず、その領域の外側(具体的には他人と交流したり労働したり散歩をしたり街へ出掛けたり)を探索して少しずつでも閉塞感を打破すべきなんだろう。そういう経験が作品の解釈を深めることもあるだろうし、もしオタクに行き詰まりを感じることになった場合に閉塞を打開することにも繋がりそう。
・つい昨日まで人気者だった人が不用意な発言で炎上しているのを見て、信用を失うのは一瞬だなと思うと同時に、なぜそうなのか考えた。やらかした人間を信用しない選択をすることで裏切られるリスクを排し、安心したい心理がそうさせるのかもしれない。
もしかすると、インターネットによくいる他人事で怒る人は「やらかした人間を信用ならない者判定した私は賢いですよ!」というアピールをしたくて炎上に加担しているのかも。
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