#10 死にゆく日々
彼女と過ごす時間はあまりに爽やかに、粛然と薄幸に過ぎゆく感覚がした。
好きなように起きては朝食、気が向けば外出、帰宅し入浴や夕食、就寝。
ただひたすらに、『命の期限』を消費していく。淡々と、淡々と。それだけ。
同じことが繰り返される毎日はまるで日々をコピーペーストしているようで、可もなく、不可もなく、平坦な毎日だった。
僕の今までの人生の中で、"女"という異生物と同じ空間で過ごすということは全くの未経験だった。そんな事象が増えたにも関わらず、僕の世界は彩付くどころか灰色掛かったままであった。
それは彼女の見ている景色も恐らく灰色掛かっているからで、僕らが交わす会話に彩(いろ)が見えないのはそのせいだなと自分で答えを付けていた。
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彼女が突然やってきた嵐の日から1週間が経とうとしていた。彼女が自宅に来て明らかに増えたものといえば服くらいで、荷物はほぼ運び終えた…というか彼女の物は粗方こちらで揃えたものになった。
他に増えたことと言えば、彼女が使うシャンプーや香水の匂いといったところだ。
そんな彼女はというと、これから死ぬ人間な割に、見て呉れをやたらと気にしていた。彼女が大事にしているというネックレスだけはいつ如何なる時も肌身離さず付けているし、お洒落さや髪の質感、手先の美しさにまで気を使っている。
人より周りの目を気にして生きてきた人間の必然的な行為なのだろうか。それとも、自分が幸せな人間であることを見た目だけでも誇示するためだろうか。
ある時僕が「こんなに服を新調して、お金は大丈夫なのか」と尋ねると「たんまりと奨学金があるので。死んだらその奨学金って返済がチャラになるんです。便利な機能でしょう?」とヘラヘラと言ってみせた。
悲しみに敏感な彼女はあえて笑って見せたんだろうが、僕にはその笑顔をとてもではないが心から可愛らしいとは言えなかった。
* * *
僕らはきっと"普通"には戻れない。
覆水盆に返らず。
ならば普通を目指すことを諦めたらいいのに、僕たちは永遠に負の呪いに縛り付けられたまま、目指すことを諦めきれない。
呪いは"かけられた"のだから"解ける"ではないかと思うのだが、根底を作り上げる過程でかけられた呪いは残念なことにそう簡単に解けるものでもない。出来ることなら僕だって毎日を明るく生きていたいものだ。
悩まない人間はいない。それは当たり前のことで、複雑な思考をすることの出来る人間として大前提だ。
しかし、そうではない。
僕らの悩みはあまりに深いところで漂いすぎている。それを網で掬い上げたところで一時凌ぎにしか過ぎず、その網目が粗ければ隙間からまたゆらゆらと底へ落ちて行くのだから意味が無いのだ。
不幸な部類の僕から言わせてみれば、「気にしすぎ」だとか「大丈夫」だとかそういう声のかけられかたは甚だ雑な励ましになる。それが迷惑だとは思わない。考えてもらえるだけ有難い。
しかし、理解にまで到達していない事を「ありがとう」と笑みを浮かべながら悲しまなければならなくなる。またそうして孤独さを味わうのだ。
そういった人間は、僕を含めて、孤独を好まずとも気付けば孤独になっているものだ。
業務を続けサイトに来る人間を見てそれを思い知った。
「はあ、お風呂から今上がったというのにもう汗ばんできてる…お風呂に入る意味あるのかしら…」
午後10時。お風呂から上がった彼女はタオルでわしわしと頭を拭き文句を垂れながら扉を抜けてきた。
僕らはまるで同居している恋人同士のように要らぬ気遣いもなく、ただ、お互い干渉はせずに過ごしている。
都合が良いとは本来こういうものだろう。
「だいぶ傷は良くなってきたみたいだね」
「はい、まだ少し染みますがもう大丈夫です」
瘡蓋が出来て治りかけとは言えど傷が痛々しいことには変わりないが、服から伸びる白く細い四肢に残るそれは、生きた証を物語っているようだった。
その傷が消えていってしまうのを僕は心なしか名残り惜しんでいた。
不思議だ。これから死ぬ人間の生きた証を名残惜しむなんて。
「…………じろじろ見ないでください。変態。」
「え!ああ!ごめん!」
「私が死ぬ日、湊太さん覚えてますか?」
僕が慌ててパソコンに向き直ると同時に彼女は唐突に話し始めた。
「えっと…10月1日の午前4時30分だったよね。場所は都内屋上」
「その通りです。それで、お願いしたい事があります」
「うん、僕がやれることならなんでも」
やたら重苦しい空気を感じて僕は嫌な予感がした。
「その日私がもし生きたいと言い出したら…………ああ…いえ、なんでもありません」
孤独なのは何も不幸体質な人間ばかりではない。人間誰しもが孤独であり、比較対象が在る限りそれが終わることもない。
"一人で生きてゆける者など誰一人としていない"ということを、傲慢な人間である僕らはすぐに忘れてしまう。
隣の芝がいつだって青いのは見栄を張って生きるからだ。
強がって一人で生きてみせるだなんて大口を叩いてから気付く。独りになることを自分が憂惧していることを。
死ぬ時ですら僕の元へわざわざ干渉を求めに来るのだ。
そんな、人間の終わらぬ寂しさと不安をどれ程の人間が理解し、向き合えているだろう。
死にたかったはずの人間は本当に死を目の前にした時にやっと『生きたい』と思うのだろうか。
僕はにこりと笑ってこう言った。
「君がもしこの世に未練があるのなら、今すぐ僕なんかと一緒にいるなんてやめた方がいい。幸せに前を向いて生きたいならね」
貴方といたら永遠に不幸そうだと彼女はふふふと笑って冗談混じりにそう言った。
その横顔は今まで過ごしてきた中で見たことのない、何とも言えぬもの悲しい表情をしていた。
「生きていたくなったか…?」
「いえ。私が生き続ける理由は未だに見つからないですし、見つける気もないですよ」
「そうか」
「ただ……貴方は誰に看取ってもらうのかなと想像しただけです」
僕は自分が死ぬことについて全く想像したことがないのを、その時に初めて気付いた。
他人の命ばかり気にして、自分の命に何も関心が無かった。そうなったのは親の無関心さも影響しているのだろうが、僕自身、僕に興味が無いのだと気付いた。
「まるで考えたことが無かったな…。一体どうやって死んでいくだろうね。"憎まれっ子世に憚る"とはよく言うから、僕はしばらく生き長らえてしまうのかもしれないね」
「残念ですね、すぐ地獄で貴方と人間の愚かさについて談義出来ると思っていたのに」
「もうサイト上で散々したじゃないか」
ケラケラと嘲笑に近い乾いた笑いを互いに交わして、僕たちは互いの死に想いを馳せるのだった。
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