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「マシ」という言葉を改めて考えてみた。

私は東日本大震災の被災者の1人なのですが、あの時に最も多く「マシ」という言葉を聞いたし自分も言っていたと思います。

うちは内陸なので海沿いの方に比べたら「マシ」、家族を亡くした方に比べたら「マシ」。
家を流された方でさえ、自分はマシだと言うのです。
1人失った方は、うちは1人だから「マシ」と。
…どこが、マシなんですか‼︎
そう、あの時から、私は、マシという言葉に嫌悪感を抱くようになったと思います。

悲しみも喜びも、ひとつひとつの出来事そのものがその人にとって固有のものであり、人と比べてどちらの悲しみが大きいかを単純に比較できる訳がない。そもそも比べる事自体間違っていると。

例えば、固定記事に書いたように、私は家庭の経済状況の悪さや親との確執を抱えて苦しんで来た過去があるけれど、もっともっと深い苦しみを経験している人は世の中にたくさんおられます。
そんな方がもしこれをお読みになって、「そんなのはたいした辛さとはいえないよ」と言われたら?
私は心に深い傷を負う事になるでしょう。

どんな人のどんな経験も、その人固有のものであり、他人からそんなの「マシな方」などと言われる筋合いはありません。

しかし、私も最近この「マシ」という言葉を、他人には言わないまでも自分の事として言っています。
それは、ワクチン接種のこと。
私が何故ワクチンを打たなかったか、それは、インフルで副反応が強かった経験があるから単純に怖かったことと、死なないために打ったワクチンで死ぬより、罹患して死ぬ方が「マシ」と考えたからです。

でも、こうして考えると、この言い方は、「打った」方に対して非常に失礼な物言いだったなぁと改めて反省しております。

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改めて「比較」という事を考えますに、実際には、比較なしに何事も考えられない訳で(服を選ぶ、歩く道を選ぶなどすべて比較して決める事)「比較」の全てが悪い訳ではないものの、
ネガティブな方向性を持ち、人をジャッジするような「比較」はやはりやめたいものだと思います。

話は飛びますが、
コンプレックスってありますよね。
私なんかコンプレックスだらけなんですが、、
これも、少し醒めた目で見つめてみると、
他人と比較して勝手に落ち込んでいるだけではなく、
例えば152cmの私が「背が低い」事がコンプレックスだというなら、それ以上の人を素敵だと思い、それ以下の人を否定している事になる。(かもしれない)もしかしたら、150cm以下の人より「マシ」と、貧弱な優越感さえ無意識に抱いている可能性さえあります。

比較でしか物事を捉えられないと、いつまでも幸せになれませんよね。常に1番ではいられませんから。
そう、自分の価値を比較でしか捉えられなくなったらこの世はなんと生き辛い事でしょうか。

足が速くても遅くても
頭が良くても悪くても
どんな家庭に生まれようとも
皆それぞれがスペシャルな存在だとだという事を、
「比較」で育てられて来た私達は、自分の頭でちゃんと理解しないといけない。

どんな悲しみも、その人固有のものであり、他人がどの悲しみが最上でどの悲しみが大したことないなどと、とやかく評価するものではないという事を、最近改めて感じた、というお話でした。

自戒を込めて書きました。
自分のいかなる部分も、そのままでいいのだと。

コンプレックス、実はたくさんあります。努力ではどうにもならない持って生まれたもの…あの人みたいになりたかった、そんな思いがあります。
だけど、それってやっぱり比較から生まれた概念であって、それを手放さない限り真に自分が囚われから開放されて自由に伸び伸びと生きる事はできないんじゃないかと。

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「マシ」って、やっぱり
あまりいい言葉じゃないなぁと今断言できる私を、私は今日発見した気分で♬
自己満足な爽快感に包まれております。笑

今日は、思っている事をツラツラと書いてしまいました。
長文を最後までお読み頂き
ありがとうございました❤︎