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生きづらさを、私は書かない

CINRA JOBで宮崎智之さんと対談したとき、宮崎さんはこう言ってくれた。

この記事の読者にお伝えしたいのは、清さんがとても稀有なエッセイストであること。どうしてもエッセイは、「自分の生きづらさ」「苦悩」を描くものが割合として多い。もちろんそういう名作も多いですし、僕の作品もそういうことを書くこともありますが。
清さんはいままでにあまりいなかった、「自分に満足している人が書くエッセイ」が書ける人です。それも嫌味なく、軽やかに。

CINRA JOBレポート:エッセイは小説より下なのか?『夢みるかかとにご飯つぶ』清繭子と宮崎智之が語る「何者かになること」

すごく嬉しかった。
生きづらさを書くことで救われる人がいるのはわかる。
これって私だけじゃなかったんだ、とホッとするし、それは個人の問題ではなく社会の問題だ、と主張することもとても意義がある。私も、「生きづらさ」を書いた文章に何度も助けられてきた。

文学は今、生きづらさに満ちている。

天邪鬼だから、私はそれ以外を書きたいと思った。
生きづらさに埋もれて忘れかけていた、夢みていた気持ち、恋をしていた気持ち、口笛ふきたくなる気持ち、ただただ阿呆な気持ち。
それを書くことで、「それ、私の中にもあったな」って気づいてもらえたらうれしい。そういう「ホッとする」もあると思う。

なぜか、生きづらさのほうが高尚に見える。
明るくいることは、考えナシに見えるし、恵まれた人間の戯言に見えるし、事実でなく夢想に見える。

だけど、いい。バカに見えても、私は書きたい。
生きることの愉しみや絶望の隙間の可愛らしい部分を。だって私はそれを確かに見たんだから。

私の中にも人に言えない生きづらさがあるし、
ニュースでは毎朝絶望を味わってる。

(正直、生きづらさはもうお腹いっぱい)
それは他のみなさんに任せて、私は違う方向からこの世界を書いてみる。

「それっていいと思う!」とはじめて宮崎さんは言ってくれた。

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