生きづらさを、私は書かない
CINRA JOBで宮崎智之さんと対談したとき、宮崎さんはこう言ってくれた。
すごく嬉しかった。
生きづらさを書くことで救われる人がいるのはわかる。
これって私だけじゃなかったんだ、とホッとするし、それは個人の問題ではなく社会の問題だ、と主張することもとても意義がある。私も、「生きづらさ」を書いた文章に何度も助けられてきた。
文学は今、生きづらさに満ちている。
天邪鬼だから、私はそれ以外を書きたいと思った。
生きづらさに埋もれて忘れかけていた、夢みていた気持ち、恋をしていた気持ち、口笛ふきたくなる気持ち、ただただ阿呆な気持ち。
それを書くことで、「それ、私の中にもあったな」って気づいてもらえたらうれしい。そういう「ホッとする」もあると思う。
なぜか、生きづらさのほうが高尚に見える。
明るくいることは、考えナシに見えるし、恵まれた人間の戯言に見えるし、事実でなく夢想に見える。
だけど、いい。バカに見えても、私は書きたい。
生きることの愉しみや絶望の隙間の可愛らしい部分を。だって私はそれを確かに見たんだから。
私の中にも人に言えない生きづらさがあるし、
ニュースでは毎朝絶望を味わってる。
(正直、生きづらさはもうお腹いっぱい)
それは他のみなさんに任せて、私は違う方向からこの世界を書いてみる。
「それっていいと思う!」とはじめて宮崎さんは言ってくれた。
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