見出し画像

あなたの心を揺さぶる物語はなんですか?

今回は”物語”をテーマに記事を書いていきます。

私「かげした真由子」の哲学とでもいいますか
まゆちんイズムの根底には
実は、必ず”物語”のエッセンスが流れております。

このnoteブログにつけたタイトル

「答えも意味もない世界をのびやかに生きる」

もそうですし

私が今まで創ってきたどの講座にも
今まで執筆してきたどの書籍の中にも
例外なく”物語”のエッセンスが散りばめられています。

・なぜ人は物語に夢中になるのか
・心と物語の関係
・物語と占いの関係
・物語の威力・・・などなど

語り始めるときりがないのですが
私の根底に流れているもの
その欠片を少しでも言葉にしておくことで

様々なテーマを語るときに

・なぜ”まゆちん”はこんな考え方をするのか?
・それはどこからくるのだろう?

それがもう少し
奥行きをもって伝わるのかもしれない
と思ったりしております。

ということで、今回は
”物語”をテーマに書いていきます。


わたしたちが物語を求めるのはなぜ?

さて、タイトルの問いに戻ります。

「あなたの心を揺さぶる物語は何ですか?」

ドキュメンタリーやサスペンス
ファンタジーやアクションなど

色んなジャンルのなかで

誰しも人生の中で一つは
心を打たれた物語に
出会ったことがあると思います。

そして

「その物語のどこに心が震えるのか」
「その物語の何が、そんなに心に響くのか」

これも人によって
様々な答えがでてくると思います。

たとえば
主人公に共感ができるとか
一生懸命な姿に感動するとか

もしくは
先が読めないワクワク感がたまらないとか
意味の分からない文脈が好きとか

それはきっと人の数だけあって
同じ物語に感動したとしても

どこに心が震えるのか
それって一人ひとり違うと思うんですね。

私は、この問いを投げかける時

その人だけの

”生きている”

に触れることができる
そう感じているんです。



昨年だったかな

私の大好きな音楽家坂本龍一さんが
亡くなられたのですが

ライブ配信のときに
視聴者さんからこんなコメントがあったんです。

先日、坂本龍一さんが亡くなってショックを受けております。
実は実父も数年前からガンで闘病中で年代も同じなので
父と重ねて考えているせいもあるかもしれません。

新聞コラムに、2009年の坂本さんの自伝の一部が抜粋されており
​『自分はなぜこの時代の、
この日本と呼ばれる土地に生まれたのか、
そこになんらかの意味があるのか(中略)
明確な答えに出くわしたことがない

私はこれを読んだ時、
あの世界のサカモトも同じことを考えて生き続けたのかと
葛藤しながら亡くなったことについて、
さらに無念さを感じてしまいました。

星読みと出会えていたら、違ったのかなとか。
皆様は、どう感じられますか?

もちろん、たらればで言うと
色んな可能性が考えられるのですが

小さいころから
音楽にどっぷり浸かっていた私の感覚では

音楽をやっている人は
一定の割合でスピリチュアルや占いを
受け入れていることが多いんです。

繋がっている感覚を知っている
目に見えないものの影響を痛いほど知っている。

だから、方法は何であれ
きっと坂本さんも、自分なりのスピ理論を
もっていたのではないかな?とは思うんですね。

ただ
坂本さんの自伝で書かれている

この時代に生まれた”意味”や
日本の土地に生まれた”意味”

なんでこの時代に生まれたのか?
日本という土地に生み落とされたのか?
なぜ悲しみを経験しないといけないのか?

この問いについて考えるとき

突き詰めると・・・

・・・・

「基本的には、生きていることに何の意味もない」

ここに私はたどり着くんです。

これは、色んな宗教家や哲学者の言葉を解読していくなかで
結局、みんなこれが言いたかったのではないか
と私なりに導きだしたものです。

だからこそ
以前、別の記事でも書いたように

人は未来人か何者かが作った
壮大なゲームの中に生きているのではないか?
という 「シミュレーション仮説」も十二分にあり得る
という感覚に繋がっていくわけです。


でもね、


でも、ですよ・・・


仮に生きていることに

何の意味がないとしても

人間は意味がないと辛いし
どうしても意味を求めてしまう生き物
だと思うんですね。

どんなに楽しくても
どんなに喜びにあふれていても

逆に、どんなに悲しくても
どんなに絶望していても

人は、そこに何らかの意味を見出そうとする。

それが人間らしさでもあるし

どちらかというと
私はその人間らしさを
目一杯満喫したいと思っているんです。


じゃあ、

人が懸命に見出そうとする
その”意味”ってなんだろう?
と考えたとき

そこにあるのが

”物語”

だと、私は思うんです。

物語を紡ぐことで
人は何かしらの意味を見出し
生きる力に変えていく。

だから
心を揺さぶる物語って
実は、その人の

”生きている”こと

そのものとも繋がっているし
その人が大事にしていること
本質や課題とかも映っているんじゃないか

そんな風に私は感じているわけです。

物語は写し鏡

たとえば
私は心に傷をもった主人公の物語に
すごく心が魅かれるのですね。

以前別の記事で書いた
「ドクターハウス」という海外ドラマも
そうですが

色んな物語があるなかで
私が一番影響をうけたもの
それは間違いなく『アンネの日記』です。

『アンネの日記』は
ご存じの方も多いと思いますが

第2次世界大戦中のドイツ占領下にあった
オランダの隠れ家で、身をひそめて暮らす
少女アンネと家族、同居人の話です。 

多感な少女が歴史の荒波の中で
どんなことを感じ、想っていたのか

絶望的な状況の中でも希望を失わず
必死に”生きる”様が繊細に描かれた物語

時代を超えて
この物語は私の手元に届き
未だに私の心を揺さぶっています。

それは、この物語のなかに
私にとって大切なものだったり
本質だったり、課題だったりが
入っているからだと思うんです。

その先に死があると分かっていても
自分のなりの”生”を全うする姿、とか
泥臭くても、もがきながらも
必死に生きようとする様とか。

それが、私のなかでの
”生”へのエネルギーへと変換される。

だから
読んでいると不思議と
「癒されていく」
そんな感覚になるんですよね。

それが、人によっては
壮大な冒険の物語かもしれないし
成功者の歩みの物語かもしれないし
裏方で頑張る人たちの物語かもしれない

心が反応するということは
その物語のなかに

その人が無意識に
求めていることや
課題にしていることが
写し出されているからではないか

そんな風に思うんですね。

よくヒットしている映画やドラマには
その時代の集合的無意識があらわれていると
言われますが

きっとそれも
同じなんだと思うんです。

時代の個々の人たちが求めているもの
課題にしていることとかが
物語のなかで、写し出されているのだと思います。

物語はフィクションなのか?

「物語」という言葉を使うと
それはフィクションじゃない?
という風に捉えられていることがあります。

だけど、私から見ると

「ぜんぶ真実」

そんな風にも思っているんです。

もちろん、物語のストーリー自体には
ファンタジーとか、フィクションとか

いわゆる
創られたストーリーもあります。

でも、ですよ・・

わたしたちが
物語に出会うとき

それが
フィクションでも
ノンフィクションでも
実話でも作り話であっても

それを見た人の心が
何かしら動いたのであれば
そのことは真実だよね
と私は思うんです。

たとえば
仕事を失い、家族とも離れて
絶望して、もう生きるのがしんどい
そんな状況にいる人がいたとして

その絶望のさなかで
たまたま、同じよな境遇にいる人が
這い上がるドラマや映画をみたり
一生懸命生きる主人公の本に出会ったりする。

そこで

「もう1日生きてみようか」

もしそう思えたのなら
そこにある物語は
その人にとってのひとつの真実

その物語が
生きる気力をくれたこと
それは真実なんです。

もう少し言うと、
その人自身の人生や生き方も
物語(ストーリー)として存在している

だから、物語が
フィクションかノンフィクションかは
あまり重要ではなくて

それを受け取った人の心に
何らかのインパクトを与えたのであれば
それは真実になるのだろうと。


私たちは、ありがたいことに
衣食住が満たされて
平和な場所で生きています。

だからこそ、逆に

「意味があるんだろうか?」
「生きている意味ってなんだろう?」

と考える時間のゆとりがある。

時には、虚無感とか無力感に襲われたり
色々と突き詰めると
結局「何の意味もないじゃん」
という風に考えてしまうこともあるかもしれません。

明治大学文学部教授で心理カウンセラーの
諸富先生の言葉だったかと思いますが

「哲学者病」というのがあって
生きることを突き詰めていくと
「意味ってないじゃん」
と虚無感に襲われるらしいのですね。

そう、きっとね
”意味”はないと思うんですよ。

「意味がない」は
ある意味正しいと思うのだけど

もし仮に、生きていることに意味がない
というのが真実だとしたら

十人いたら十人の「生きる」という
意味のある物語が存在するのも真実ですよね
と思うわけです。

ここに物語があって
目の前の人の心や生き方を揺さぶったりとか
問いを投げかけているのであれば

そこで新しい物語が生まれているわけだから
それは紛れもなく真実

そして、その人の人生の物語もまた
誰かの生きる力のとなる可能性がある

これって物語にしかできない
チカラだと私は感じるんです。

たくさんの物語に触れること

じゃあ、私たちに何が大切かというと

それは、きっと
物語にたくさん触れること
だと思うんですね。

たとえば
自分にはこの道しかない
この生き方しかないと思って
一つの物語にハマっていると
視野がどんどん狭くなっていく。

でも
世の中には色んな生き方とか
色んな価値観、物語がある
という視点をもつだけで

どれだけどん底にいて
心が荒みそうになっても
その先の可能性を見出すことができる
と思うんですね。

少し話が変わりますが
私が敬愛する
質問力の専門家 マツダミヒロさんは
毎年質問カンファレンスを開催されています。

(最近ミヒロさんと対談させていただいたので
よろしければこちらの動画もご覧ください)

昨年、私も登壇させていただいたのですが
そこに、これから未来を担う学生さんを
何百人か無料招待するんですね。

なぜかというと、若い人たちに
色んな大人の生きてきたリアルな物語に
たくさん触れてほしいから、だそうなのです。

これって、
素晴らしい企画だなと思っていて

私たちは、ともすると
自分たちが普段見ているものが
すべての世界だと勘違いしてしまう。

特に学生とか若いころは
活動範囲や見えている範囲が
限られていることが多いから

身近にいる親とか親戚とか
同じような境遇の人たちのベースが
自分の基準になってしまうのは
ある意味普通だと思うんですね。

でも、世界ってそれだけじゃない
世の中には色んな生き方があって
様々な価値観があって
たくさんの物語があって
私たちには無数の選択肢がある。

それを言葉で「こうだよ」と伝える代わりに

実際に必死で生きてきた
大人たちの様々な生き方を

目の前で聞いて
体験して触れる機会を作っている。

学生さんたちが
もし、その先で
目の前の壁にぶちあたることがあっても
ものすごくしんどいことがあっても

たくさんの物語(生き方)の可能性に
ほんの少しでも触れたことがあったら
そこから、前に進む力をもらえるかもしれない。

そして、壁にみえていたものが
壁ではなくて、未来への扉にみえるかもしれない。


だからね

これだけ豊かなのに
幸福度が低い日本で

これだけ恵まれているのに
自殺率が高くなっている日本で

今必要なのは、実話・作り話関係なく
たくさんの物語にふれることじゃないか

そんな風に思っているんです。

「私たちの周りには無数の物語が存在していて
 私たち自身も物語に生きている。」

そう考える視点があるだけで
どんな状況にいても、
その先への可能性を見出せる
そう私は思っています。

まとめ

今回、伝えたかったのは

「色んな物語に触れてほしい」

ということ。

それは
ファンタジーでもいいし
フィクションでもいいし
生きている人の物語でもいい

きっと、世界はもっと広いし
思っている以上に
たくさんの生き方があることに
あらためて気づく。

そして、それには終わりがないんです。

それは
物語は私たちが生きている限り
ずっと更新しつづけるものだから。

あるストーリーに生きていたとしても
これ違うな、と思ったら
違うストーリーに更新していったらいい。

問題が出てきたり、壁にぶち当たった時は
もしかしたら
一つのストーリーに
留まり続けてるのかもしれない。

このストーリーしかないと
思いこんで自ら道を閉ざして
しまっているのかもしれない。

だからこそ、私たちは
常に色んな物語に触れて
色んな価値観に触れて
色んな生き方に触れておくことことが必要で

そうすることで
今の自分を、より広い視点から
自らを見直すことができるのだと思います。

立ち止まったら
あらためて自分に問いかけてみる

「わたしの心を揺さぶる物語はなんだろう?」

と。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?