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民主主義の防波堤に

真っ白な雪をたたえた遠くの山脈がきわやかに映える信州の青空に、春の旋風に吹きあげられた桜の花が、ふわりふわりと円舞します。そのさまはまるで、晴天の空から優美に舞い落ちる、粉雪のよう。歌舞伎の壮大なスペクタクルに見紛う、浮世離れしたこの絶景は、しかし信州の春にとって、ごくありふれたものでしかありません。


この4月より私は、新聞記者になりました。勤める先は、長野県の地方紙・信濃毎日新聞社です。「県紙」の中での規模でいえば、静岡新聞に次ぐ2番目の発行部数約41万部。神戸新聞よりも1万部ほど発行部数の多い新聞社といえます。

長野へ到着したのは、昨月27日の夜のことでした。時の流れとは早いもので、気がつけば1ヶ月が経とうとしています。名古屋発の最終列車に揺られながら、私をこの業界へと繋いでくれた元・新聞社員からの激励の手紙を何度も読み返し、感慨に耽った夜のひとときが、はるか昔のことのように思えます。

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2023年春。新聞社は、存亡の時を迎えています。保守であるか、リベラルであるかは、もはや影響力低下の根本的な要因ではありません。新聞記事を読むこと自体の意義が、現代社会において、急速に希薄化しているのです。

例を挙げていえば、朝日新聞は昨年、毎日新聞は一昨年、それぞれ90年代のピーク時からみて、発行部数が半減しました。朝日はメディア事業単体で黒字が出せなくなり、毎日は会社自体の存続危機に追い込まれています。

私が勤める信濃毎日新聞は、これら2紙よりおよそ15年後の2009年に、発行部数のピークを迎えています。それでも今年4月までに、2割減。メディア単体での利益は出ているものの、先例と同じ轍を踏まぬ方策を考え出すのに、一刻の猶予も許されません。

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貧すれば鈍するのままでいいのか。いえ、私たち新聞社の人間は何があろうとも、「取材やエビデンス」に基づいた「信用できる情報」を、常に市民社会へ届けなくてはなりません。

健全な民主主義社会を営むには、必ず、政治権力を監視する役割が求められます。個々の一般市民には難しいその役割を、組織的に展開することで代わりを担ってきたのが、新聞社でした。その役目を果たす組織が現在ほかに存在するかといえば、否と答えるしかありません。つまり、新聞社の衰退は、民主主義社会の終焉に直結しかねない問題なのです。私たち新聞記者は、〈民主主義の防波堤〉に立っているのだという意識を、常に忘れるわけにはいきません。

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弊社、信濃毎日新聞のなかにも、その責任を自負する社員は多くいます。

社内でよく使われる言葉としてあるのが、「平和に対する責任」です。信濃毎日新聞は、先の日本による満州侵略戦争のさなか、主筆の桐生悠々が中心となり、反軍的な論説を展開しましたが、結局は桐生を解雇し、国体の中に絡め取られた苦い歴史があるのです。

満州農業移民として海をわたった住民数は、長野県が全国で最多。沖縄で「捨て石作戦」が展開されている間に、長野市松代の山中では、本土決戦に備え、天皇御座所や大本営の造営が、朝鮮半島から強制連行された労働者らの手によって、急ピッチで進められていました。信濃毎日新聞は、それを止められなかった責任を、決して忘れてはならないのです。

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「憲法条文は、常にその裏を読む必要がある。戦前にはそれがなかったということだから」。

これは、長きにわたり憲法問題を取材してきた、弊社の渡辺秀樹編集委員が、口酸っぱく言う言葉です。

今から35年前の1988年。渡辺氏は、県内の各署に対し「逮捕した者には全員採尿」という指示が出されているという情報を掴みました。氏と警官とのふとした会話がきっかけでした。覚醒剤事件摘発の低迷に悩んでいた県警は、被疑者の人権を顧みぬ暴挙に出たのです。

勘のにぶい記者ならば、「犯罪者は自制心が弱いから、まあやむを得ないだろう」などと、聞き過ごしたことでしょう。しかし、氏は違いました。「それは憲法35条が保障する令状主義原則に反するのではないか。このようなことがまかり通れば、治安維持法制下となんら変わらなくなる」。

この「被疑者の人権問題」は信濃毎日新聞がスクープを出し、のちに、衆院法務委員会で論議されるほどの事案にまでなりました。

仮に「これはおかしい。記事にしなくては」という渡辺氏の〈一瞬の判断〉がなければ、どうだったでしょう。感覚を鋭敏にたもち、違和感を覚えたことに対しては、その理由を突き詰めて考えることが、いかに大切か。それがよくわかります。

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近年、「報道は客観的・中立的であるべきだ」という声が、メディアの内外から強いように感じます。だけれども私は、こうした一見正しそうな戯言こそ、メディアを自縄自縛に陥らせているのではないかと危惧します。民主主義的なプロセスを経ずに決定されていく数々の物事に対しても、「両論併記をするのが無難だ」と思考を停止して逃げるのは、権力監視の放棄に他なりません。

米国の作家、レベッカ・ソルニットはこう言いました。「『客観的』というのは、あなたたちや主流メディアがたむろできる中立領域や政治的な無人地帯があるという、フィクションです」と。彼女に言わせてみれば「あなたが何を伝える価値があるとみなすのか、また、あなたが誰の文章を引用するのかといったことさえ、政治的な判断なのです」。私も、このレベッカの言い分に賛同します。

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来週からはいよいよ現場に出て、本格的に取材をすることになります。

長野本社編集局報道部配属となった私が主に担当するのは、長野市と小川村の行財政。青木島遊園地廃止問題で全国からの視線がホットな市と、「平成の大合併」で直接住民投票による長野市からの自立を選んだ人口2500人程度の村。この反骨の村を担当する記者は、全国で私だけですから、「お前の手並みはいかほどのものか」と試されているような気にもなります。

「現場で得た違和感を大切にし続ける」記者でありたいと思います。

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