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Wisdom2.0Japan: 私は「いけばなの叡智」を日々の生活の中で実践できているのか

ずっと存在が気になっていて、共通の友人は多く、誰かに頼めば今すぐにでもお会いできるだろうけれど、自然に出会うタイミングを待とうかな、という人っていると思います。

曹洞宗の僧侶、藤田一照さんは、私にとってまさにそういう方でした。何年も前に親しい人たちからお名前とお話を伺い、勝手に敬意と好意を持ち続けていました。お会いしたこともないし一照さんは私のことを知らないけれど、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビューの編集会議で、「藤田一照さんに出ていただくのがいいと思います」と発言したり(そして出ていただきました)。

一瞬ながら接点があったのが、約一年前。「ティール組織」の著者のフレデリック・ラルーさんが来日した際のカンファレンスで、花をいけた後、壇上でいけばなとティール組織の共通点についてお話しさせていただいた時のことでした。休憩時間に会場をぶらぶら歩いていたら、ほがらかで背が高くしゃきっとした方が「よかったですよー!」と声をかけてくださった。実は外見もよく存じ上げなかったので、その時はどなたかわからず、後からその方が一照さんだということを知りました。

そして、ようやっと、ちゃんとお会いできたのが、先日二日間に渡って開催されたWisdom2.0Japan。マインドフルネスの世界学会のような会議で、日本のビジネス、リーダーシップ開発の分野にマインドフルネスを導入する第一人者でいらっしゃる荻野淳也さんらのご尽力で開催が実現したものです。この会議で、一照さんとオンライン対談させていただく、という機会をいただきました。

打ち合わせのオンラインミーティングの時から、一照さんと向き合うと、画面越しでありながら、こちらの鎧が溶けて、いつもは奥底に潜んでいるようなそのままの考えや感情がふっと湧き出てくるような、そんな感じがしました。

そして当日。私は軽井沢から、一照さんは葉山からZoomでつないでの対談です。朝、近所の道端のススキ、ノコンギク、水引、庭で紅葉しているドウダンツツジを採ってきていけてから、いけばなと共に画面に入りました。

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プラグシスとポイエーシス

一照さんは、ギリシャ語の「プラグシス」「ポイエーシス」という二つの異なる考え方を紹介してくださいました。

プラグシスとは行為する人間が自分自身の目的のために事物を使用する、というもの。一方、ポイエーシスとは事物をそれ自体の目的のため、あるいはそれを使う人の目的のために創り出す、という意味があるそうです。

最初にぱっと思い浮かんだのは、いけばなはポイエーシス、ということ。

いけばなとは、人が花を使って自分がいけたいようにいけるのではなく、人は花を生かす、花が主体、という考え方が根底にあります。花に向き合うときは、「自分がどういけたいか」という自分の声ではなく、「この花はどうあったら美しいのか」という花の声に身を任せるようにしていける。逆に、こういけたいという自分の目的が先に来る、つまりプラグシス的な考え方で花に向き合うと、花の声が聞こえなくなって、どこか流れが濁った作品ができてしまう。

そして毎回心をまっさらにして花に向き合い、その花の声に身を任せるので、どういう作品ができるかはできてみないとわからない。身体の中にだんだんと刻まれる技はもちろんありますが、心としては常に初心者であって、技に頼り出すと花の声が聞こえなくなります。

このあたりはよく話していることでもあり、すらすらとお話ししました。でも、ここではたと気づいたのです。器の上に花をいける、という非常に限定された時空については、ポイエーシスを得意げに語れてしまうし、ある程度花の声に身を任せるということができるようになっている。でも、自分がどう生きるか、において、本当にポイエーシスを実践できているのか、と。

いけばなの精神・考え方を、今の社会、特にビジネスの世界が必要としていると感じ、IKERUを立ち上げ華道家として独立したのは4年ぐらい前。習いたての言葉を使って言えば、これまでビジネスは株主価値などの自身の目的のために組織を作り事業を動かすという考え方、つまりプラグシスの考え方で動いてきたけれど、どうもそれは違うのではないかと世界が気付き始めた。

プラグシスでやってきたビジネスがポイエーシス的な考え方を求め始めている、いけばなにはまさにそのポイエーシスがある、と感じたからこそIKERUを立ち上げた、ということなんだと思います。

ポイエーシスを語りながらプラグシスをやっていた

でもポイエーシスの大切さを語りながら、ポイエーシスを感じる場を創りながら、その進め方自体は非常にプラグシス的でした。

大人数が参加する企業研修では、経営学の最先端で語られていることがいけばなで大切にされてきたことと重なってきているか、をパワーポイントで説明した上でいけばなのワークショップに入る。ワークショップのデモンストレーションでは、参加者の人にいけばなの素晴らしさをわかってもらいたい、と思って、ひたすらその人たちの心に刺さりそうなキーワードを散りばめながら説明し、自分がいけた花をすごいと思ってもらいたいので自分の中にある確立された型、こうやれば大体格好がつくというところに花をあてはめていけていく。

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企業研修でのデモンストレーション(写真:玉利康延)

自宅での個人向けレッスンは、企業研修よりはだいぶリラックスしていたものの、デモンストレーションの時には「すごいと思ってもらいたい」という気持ちはやはりどこかにありました。また、レッスンの進め方も、みんなに集中していけてもらいたいという思いから、常に自分の気を空気に満たそうとがんばる。

「みんながいけばなを楽しむ完璧な場をつくる」というのが目的になり、いけばな、そして自分すらも、その目的に使ってしまう。だからいつも疲れていて、でもその疲れにすら気づかず、最後は病気になった、ということだったのではないかと。その裏にあったのは、みんなに満足してほしい、いけばなの価値をわかってほしいという自分のエゴ、そして満足してもらえなかったら、見下されたらどうしようという不安です。

自分が生まれ育ったOSがプラグシスなので、ポイエーシスの世界に行ってもプラグシスOSが発動していた、ということだったのかもしれません。

ポイエーシスと「手放す」はセット

花の声を聞いて花をいかすには「こういけたい」という自分の欲やエゴ、「どうなるんだろう」という不安を手放す。そうすると自ずと、その先に全体のバランスや調和が現れる。つまりポイエーシスと「手放す」はセットです。

それをいけばなという文脈では人に語りながら、全くもって手放していませんでした。手放さず、自分の不安や怖さの中にいるから、その場にも本当にはいなかった。

生きる中で手放すということは、病気(からの薬の副作用、手術)と軽井沢移住とコロナという、手放させる外部環境がこれでもかというほど揃って、ようやっとこのところ少しずつやれるようになってきている感覚があります。

つまり、いけばなの叡智を世に伝えると言っておきながら、ポイエーシス的ないけばなの叡智を本当に自分の人生で実践し始めたのは、たったこの数ヶ月の話でした。ちゃんちゃん。

プラグシスどっぷりだったからこそできること

なんて思いが、一照さんとの対話の中で湧き上がり、それをそのままつらつらとお話しさせていただきました。

すると一照さんが「僕もそうでしたよ」と。

博士課程の時にふとしたご縁で座禅に出会い、これは!と思ってそちらの世界に飛び込んだけれど、最初は「人より長く座るぞ」「誰よりも真剣にやるぞ」と意気込みながら座っていたそうです。10年ぐらいそれを続けて、はたと、座禅とはそもそもそういうことではないと気づくきっかけがあって。今や、座禅会で一番楽しんでいるのは自分だとおっしゃっておられました。

一照さんと自分を比べるのはおこがましい限りですが、でも二人ともプラグシスどっぷりの人生を生きてきて、ポイエーシスに気づいて、そちらに舵を切ったけれど、結局しばらくOSはプラグシスのまま(それに気づかずに)生きていた、というところは似ているのかな、と思いました。

だからこそ、プラグシスとポイエーシスの世界の間に橋をかけられる、というところも似ているのかも。

でも、違うのは今の状態、です。今、私は「自分だからこそかけられる橋をかけなければ!」と、プラグシスとポイエーシスとの間に橋をかけること自体が目的化して、すなわちプラグシス化していたことに、ようやっと気づいたところにいる。

出会う人、出合うもの、起こることに身を任せて、そこから立ち現れることや自分に起こる変化を味わう。この日々の中のポイエーシスの感覚を大切にしながら生きるその先に、一照さんがいらっしゃる「自分がつくった場で自分が一番楽しんでいる」という状態を経験できる日が来るのかもしれません。

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(写真は一照さんにいただきました)

対談の内容、特に一照さんがお話しくださったたくさんの叡智については、きっと近い将来、書き起こしの記事などが出ると思いますので、そちらをお楽しみに...









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