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いけばなとフラワーアレンジメントの違い(再考)

4月開校(予定が6月開校に)の軽井沢風越学園に子供が入園することとなり、3月末に軽井沢に移住しました。

以来、フラワーアレンジメント(以降アレンジ)を作ることが多くなりました。

で、ふと、なんで自分は今あんまりいけばなをしていないのかなあ、と思いました。作品数の比較だと、いけばな2 : アレンジ8ぐらい。

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はなどんやさんのお花でアレンジ

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アレンジの残りのお花と拾った枝でいけばな

このところいけばなよりアレンジをしている理由の裏には、いけばなとアレンジの違いがありそうです。以前も書いたのですが、あの頃よりアレンジを多くつくっている今、その二つの違いについて改めて感じていることをまとめてみたいと思います。

常時バタバタの環境に合うか

まず、環境の違い、です。この2ヶ月、世界中の多くの家庭と同じく、3歳児含め家族全員がほぼ常時家にいました。

いけばなは花を「いかす」もの。自分の心をまっさらにすると自ずと花の声が聞こえてきて、これくらいの長さでこれくらいの角度でここにいける、というのが自ずと見えてくる(ような感じがする)。そのためには、願わくば静謐な時空の中でいけたい。

また、いけばなは作品の流れの中に自分もいる感じがあり、その流れが途切れるとまた流れに乗るのが少し大変。願わくば一回の集中の中でいけきれるとうれしい。

もちろんどんな状況でも鍛錬すれば一瞬で心をまっさらにすることも、一度手を止めてもまた集中に戻ることも、可能です。でも、3分に一度「ママー!!!」と呼ばれる現実においては、なかなかそれも難しい。

一方アレンジは、どちらかというと花を使って作品を「つくる」もの。少しずつ積み上げていくので、途中で途切れてしばらくした後そこに戻ってもあまり違和感なく再開できます。

自分の時間が限りなく細切れ、ばたばたした環境の今は、いけばなよりアレンジに向いているので、自然とアレンジの数が増えているのかもしれません。

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その先に他者の存在があるか

そして、その先に他者の存在があるかどうか。

いけばなは、いけている最中は、いけたものが誰に向かうか、ということはあまり考えません。「展覧会なのだから上手にいけよう!」「オフィスの玄関に置くので華やかにいけよう!」と考えだすと、その考えがじゃまをして花の声が聞こえなくなってしまうから。

あくまで無心で花を生かしてできあがった作品を、結果として、展示する、飾りとして置く、ということになります。

いける過程で気づくのは、上手にいけたいという欲がでてきたなあ、とか、花を無理やり自分がいけたいように合わせようとしたなあ、とか、今日は心がざわざわしているなあ、とか、自分の心のあり方です。花が鏡となって、自分の心の状態が浮き上がってくる。

また、いけばなの標準装備は剣山、花器(結構重い)、そこに張られた水。枝や花も長めにいける。そうなるといけた場所から作品を動かすのが難しく、同じ部屋の中で多少動かすぐらいが限度です。

一方アレンジは、多くの場合、つくった「その先」があります。お客様をおもてなしするテーブルの上に置こう、感謝・お悔み・誕生日で友達や家族に送ろう。アレンジを作っている時は、気持ちが花だけでなくその先にいる相手にも向かいます。

それはアレンジは、吸水フォームや軽めの安定した器を使うことが多く、部屋のどこにだってひょいっと置けるし、高さや幅を調整すれば宅急便でだって送れるものだから。

きっと今、自分が軽井沢にいる上、昨今の外出自粛で、直接にはなかなか家族や友達に会えなくなった、というのが、アレンジをせっせとつくって送っている理由の一つなのではないかと思っています。

大切な人たちへの想いを込めた作業をしたい。そして、彼らとアレンジを介してふうわりとつながりたい。そんな気持ちが自分のどこかにあるのかな、と。

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人と花、どちらが主体か

いけばなは、あくまで花が主体、人はその花をいかす媒介のような役割だと思いながら、ずっと花をいけてきました。

一方、アレンジは「人がつくる」部分が大きい、と感じています。自分なりにアレンジの時も小さな草や葉の一つひとつ全てをいかしながらつくることを心がけてはいますが(だからめちゃくちゃ時間がかかる)、でもやはり人が主体で作品をつくるために花や草を使っている、という感覚があります。

そうなると出てくるのが「センス」問題。以前いけばなにはセンスは関係ないということを書きました。いけばなはセンスではなく心だ、と。自分にはセンスがないからこそ、上手下手ではない世界で純粋に「花をいかす」を楽しむことができ、今につながっている、と。

でも人が主体のアレンジだと、つくる人のセンスや芸術性がどうしても問われます。そして「やっぱり私、センスないな」と感じます。こればかりは、ないものはない。仕方ありません。

だからアレンジは、自分にとってはむしろ苦手なこと、なのだと思います。でもだからこそ、新鮮な気持ちで向き合える。日々新しいことを学んでいる感覚がある。

昨年の年末までは自分のいけばなの活動に精一杯で、自分の苦手なことをやってみる余裕もないしやってみようとすら思いませんでした。(その時は自分に余裕がないなんて感じていなかったけれど、ゆるみきった今から振り返ると、全く余裕がなかったことがよくわかります。)

でも、IKERU休止・病気療養、そこにコロナが重なった今は、そういう「今まで苦手だと思っていたこと、新しいこと」をやりたいと感じているのだと思います。だからきっと、身体に染み付いているいけばなではなく、得意ではないアレンジをひたすらやっているのではないか、と。

なお、絶対に自分が苦手だと思ってやってこなかった車の運転も、移住直前にぎりぎり免許を取り、今は冷や汗をじっとりかきつつ日々運転しています。また、苦手意識と面倒臭さしか感じなかった料理も、なぜかこのところ楽しめるようになっています。そういう時期なのかもしれません。

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庭の野草(雑草)と枝のみを使ったアレンジ

いけばなもアレンジもどちらも素晴らしい

このところは主にアレンジをつくっていますが、「今日はいけばなをしたいな」と思うと、アレンジで余った花や家の周りに落ちている・剪定された枝を拾ってきて、ささっといけばなをすることもあります。そうするととても気持ちが落ち着く。

アレンジはこつこつと積み上げて自分がつくっている感覚、いけばなは花と一体になって立ち現れる場に共にいる感覚、と、それぞれに素晴らしい味わいがあります。

いけばなは、すーっ、と。アレンジは、こつこつ、と。

いけばなは瞑想や呼吸に、アレンジは刺繍や編み物に近いのかも。

いけばなとフラワーアレンジメント。自分の今時点での気持ちや状況に合わせて、その二つを行ったり来たりできるのは、すごく幸せなことだと思っています。

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