見出し画像

第2章:影踏み(香奈27歳)/小説『うすあかりの部屋』

第1章:濃緑の森(咲希16才)はこちらから


1.

 つるんとした肌触りの白い皿の中央に小さく盛られた平たいパスタから、湯気がほんのりたっている。生クリームがよく馴染んだそれの上にはポルシチーニ茸とスモークサーモンが品良くのっていて、茸の濃厚な香りと胡椒のぴりっとした香りが鼻を抜け、私の口のなかは唾液で溢れだす。

「ねえ、香奈。聞いてるの?」

 水の注がれたグラスのステム部分をつまむように持ちながら、目の前に座るノリコが笑う。

「もう、香奈ってば食いしん坊なんだから。今、ノリコの話よりもパスタのことで頭がいっぱいだったでしょ」

 隣の席でミドリが海老とトマトのカッペリーニをフォークに巻きつけながら言う。

「香奈は色気よりも食い気だからなあ。まあ、そこが香奈の可愛いところなんだけどね」

 斜向かいに座るナオミが微笑む。

「え、ごめん。で、なんだっけ?」

 私が言うと、

「ほら、だからもー」

 三人が一斉に声をあわせた。

 ナチュラルな木調の家具で統一された明るい店内はこぢんまりとしているが、席間にゆとりがあるので居心地がよく、絵画や花の装飾などのセンスも上品で感じがいい。有機野菜を使っているというこのイタリアンの店は最近雑誌でよく取り上げられているらしく、席はすべて女性で埋まっていた。それもそうだろう。平日の昼間からこのような店で優雅にランチができるのは大抵が主婦、もしくは財布に余裕のある学生か、私のように平日に休暇のある会社員ぐらいだろう。

「だから、私の新婚旅行は香奈のところで予約しようかなって思うの」

 ノリコは「だから」を強調して言う。肩にかかるセミロングの髪の毛を縦にロールして、さながら有閑マダムのようだ。といっても、今現在は未婚で、予定通り事が進めば、結婚するのは来年の春になるという。

「ありがとう。うちの売り上げに貢献してくれるなんて。良いプランを提案するからさ、任せておいてよ」

 パスタはもちもちっとした食感でおいしい。他のみんなもそれぞれ料理を口に運びながら、その味に小さな感嘆の声をあげつつ、会話は止まらない。

 定期的に行う女子会という名の集まりを始めて、もう五年目になる。大学時代に仲の良かった四人で、特に決め事にはしていないが、暗黙の了解というやつで幹事を順々にまわし、今回は私の番となる。

 日頃から食に興味はあるので、店の知識には自信がある。今回も当たりだった。料理はおいしいし、顔を出したシェフの感じも良いし、働く人間の接客態度も丁寧で感じが良い。日頃カウンターに来る客の対応にあたる自分にとって、ときにおもてなしを受ける側にまわるのは実に気持ちの良いことだった。

「どこかおすすめの場所あるの?」

 ナオミが訊く。ナオミは今妊娠六か月で、二歳になる子供も一人いる完全な専業主婦だ。今日は同居している義母に子供の面倒をみてもらっているらしい。以前は夜に行っていた女子会(という名の飲み会)だったが、ナオミが子供を生んでから女子会はもっぱら昼に開催する食事会に取って代わった。

「個人的におすすめは台湾かな。近いし、おいしいものも沢山だし、観光も充実してるし、それに温泉もあるしね。でも新婚なら、ベタにフランスのモンサンミッシェルとかもいいんじゃない。それか秘境とか」

 私の返答に、あー海外に行きたい、とミドリが声をあげた。ミドリも私と同じく未婚で会社勤め人だ。といっても、ミドリには長年付き合っている彼氏がいるので、結婚するのは時間の問題なのだろう。

「香奈も早くいい人見つけなよ。二十代でいられるのもあと三年だし、私たち四人とも二十代のうちにみんなでゴールインしようよ」

 ノリコがナプキンで口を拭いながら言う。給士がグラスに水を足す。氷が揺れる。

「そうだよお。最近、香奈の恋愛話、ぜんぜん聞いてないよお」

「まあ、そうだけどさ、そんなに出会いなんてないからね」

 私の回答に彼女たちは「またまた、出会いなんて待ってても無駄だよ」「自分から動かなくっちゃ」「客に良い人いないの?」「ガツガツいかなくちゃ」「誰か紹介できたらいいんだけどね」、と口々に囃し立てる。紅色の、サーモンピンクの、オレンジベージュの唇たちが上下に開いて伸び縮みし、そのたびに咀嚼されていく粉々のパスタが見える。私はふっと、気が遠くなりそうになる。

 また、これか。

 最近の女子会は、会話のネタに尽きるとすぐに私の話題になる。たいして興味もないくせに、同情と励ましの言葉が好奇の視線とともに投げかけられる。

「ま、そのうち縁があればね」

 で、決まって私はこう答えて話題に終止符を打つ。すると彼女たちは「またー、もー」と口を尖らせ、「香奈は女子力アップさせないといけないよ」「もっと女磨いて、頑張らなくっちゃ」「香奈って結構かわいいんだから」と言って、腹を満たす。

 まだ誰も結婚していなかった頃は同じ位置に立っていたはずの友人たちが、結婚したり、またはそれに近い状態になったりすると、とたん、一段上に立っているように感じるのは気のせいか。以前は競争心の塊のようだったのに、今では心に余裕を持って、他人に優しい言葉でもって堂々とおせっかいを焼いてくる。

「次会うときには香奈の良い話、聞かせてよね」

 彼女たちがにこりと笑う。デザートのフルーツのソルヴェをいただいて、ようやく女子会はお開きとなる。

 時計を見ると、まだ午後二時だった。計二時間の女子会。クレジットカードで私はひとまとめに会計を済ませることにした。すると彼女たちは長財布を片手に一円単位まで割り勘をしようとするので、端数分は私が持つからと小銭を辞退し、みんなで店を出た。

「今度、未来の旦那様連れて、香奈の店に遊びに行くね」

 ノリコがストールを巻きながら、言う。

「わあ、旦那様だって!」

「幸せそう!」

 みんな、笑顔だ。

「じゃあ、また会おうね」

 それぞれが手を振り、店の前で解散をした。

 私はようやくひとりになり、ほっとする。見上げると、空が高い。淡い青。通りの木々がちらほらと黄葉し始めている。季節はもう、秋なのだ。

 私は息を吐いた。

 次からの参加はもう断ろうかな。胸のうちでそう、呟いた。

     

2.

 大学を卒業後、私は旅行会社に就職をした。

 学生時代から旅行が好きで、国内海外を問わずによく一人旅をしたし、仲の良い友人たちとも一緒によく旅をした。アルバイトで貯めたお金はすべて旅行に費やしたと言っても過言ではない。自分ひとりで行くときはもちろんのこと、誰かと旅をするときはいつも私がチケットの手配や旅のコンダクター役を買って出た。自分の提案した旅のプランを喜んでもらえることが、単純に嬉しかったからだ。そんな単純な理由で、就職をするなら旅行業界と決めていた。

 当時、多少就職率が上がってきたとはいえ、まだまだ買手市場の就職難の時代だったので、第一希望の、しかも大手の企業に就職できたことは、今考えても幸運なことだったと思う。

 配属先は望んでいた本社の内勤ではなく、支店でのカウンター業務だった。事前のOBOG訪問や会社説明会などである程度の覚悟はしていたつもりだったが、業務は想像を超えた忙しさだった。大きな主要ターミナル駅に隣接した支店ということもあり、四六時中多くの人が来店し、その対応に追われる一方、表には見えない日々の雑事も多くあり、毎日あくせく働き、息をつく暇もなく時間だけが過ぎていった。もともとは旅行が好きで入った業界だったものの、就職してからは人を旅先に送るばかりで、自分はといえば、たまの休暇があったとしてももっぱら家で終日寝て過ごすだけになってしまった。入社前に勝手に思い描いていたツアープランナーとして伸び伸び活躍する姿は絵空事だったと気づきもしたが、日々の暮らしを維持するために興味ある業界で仕事ができることは、多少、理想とかけ離れていたとしても、実にありがたいことだった。


「あ、すみません。落ちちゃってました?」

 カウンター業務に戻る途中、床に転がっていたもみじを拾う。もみじといっても、橙色の折り紙で作った手作りもみじだ。佐伯さんに渡すと、佐伯さんは上目遣いで小さく舌をだしたあと、「粘着力が弱かったのかなあ」とぶつぶつ言いながら鉛筆やカラーペンなどの入ったクリアケースから両面テープをとりだし、貼り直す。

「今日は閑古鳥が鳴いちゃってますね」

 隣に座る私に向かってそう言うと佐伯さんは立ち上がり、ヒールの音を響かせながら入口の方へ向かい、『秋の行楽シーズン到来』と描かれた貼り紙に再びそれを取り付けた。 

 この支店に異動してきたのは、今から二年前のことになる。以前と同じく駅に隣接した支店ではあるが、ここは急行の止まらない小さな駅で大きな商業施設もないため、前回と比べると来客数はかなり少なく、落ち着いた雰囲気が漂っている。基本的に店は支店長と私と派遣社員である佐伯さんの三人体制でまわしている。

「じゃあ、お昼に失礼するわね」

 資料をカウンターに揃え置き、木村支店長が私と入れ替わりで席を立つ。五十代半ばになる木村支店長は独身なので子供はいないが、見た目は肝っ玉母さんのような風情があり、実に頼りがいのある人だ。ふっくらした体型で、天然パーマらしいちりちりとした髪の毛をいつも大きなバレッタでうしろに一つに束ねている。

「行ってらっしゃーい」

 佐伯さんが甘い声で言う。甘いのは別段しなつくりではなく、生来持ってきた声音らしい。席に戻ってきた佐伯さんはさっきからリラックマのついたボールペンを意味なくカチカチとノックしている。

 来客数の少ないわりに、この支店はゆとりのある広さがあり快適だ。壁には手作り感あふれる旅の案内の模造紙が大きく貼られ、天井からはビニール風船でできた飛行機が吊るされており、空調でそれはかすかに揺れている。秋になり、最近は京都旅行や温泉宿のパンフレットの商品が多く売れるようになった。

 私はいつものようにパソコンを開き、予約状況や発券、キャンセル待ちなどの確認をしたり、電話やメールの問い合わせなどの対応をしたり、そのあいまに備品の注文をしたりする。

「あ」

 隣で黙々とパンフレットの裏表紙に支店名の判子押しをしていた佐伯さんが顔をあげた。

「そういえばさきほど、種田様がご来店されましたよー」

 語尾を伸ばして佐伯さんは言った。

「でも香奈さん、お昼でいなかったから、また今度来るっておっしゃってました。お話し相手はやっぱり香奈さんじゃないと、安心できないみたいですねー」

 そう言うと佐伯さんはにっこり微笑み、再び作業に戻った。

「きっと、次回の温泉旅行の話かな」

 佐伯さんに語りかけるでもなく私はひとり呟いた。

「そんな季節ですもんねー」

 佐伯さんも目はこちらに向けずに声だけで返事をした。

 種田様はこの支店を頻繁に利用される常連のお客様だ。八十近い年齢になる種田様は定年退職を機に、奥様と毎年ふたりで国内海外を問わずに年に数回旅行をされる。今はこれしか生きがいがなくてね、とカウンターで旅の相談をするときに種田様はいつも眉根を寄せて語るけれども、毎年さまざまな土地へ夫婦そろって自由に旅ができるということは実に健康で、かつ豊かであることの証でもあり、とても優雅で素敵なことだと思う。以前、私が紹介した宿をたいそう気に入ってもらって以来、私は種田様の担当のようになっている。再来月―十二月―の半ばには新潟にある温泉宿に宿泊することになっており、それを心待ちにしている種田様は時折ここに一人で訪れては旅の計画や世間話などの小話をされてお帰りになるのだ。

 自動ドアの開く音がする。

「いらっしゃいませ」

 背筋を伸ばし、佐伯さんが言う。

 近所のスーパーマーケットの買い物袋を二つ片腕に提げた主婦らしい女性が入ってきて、パンフレットの陳列する棚を物色しはじめる。私はパソコンで業務するかたわら、その女性の様子をうかがう。特に旅の申し込みにきたわけではなさそうだ。女性はフランス、ドイツ、イタリア、スペイン、スイスなど、主にヨーロッパ方面のパンフレットを適当に一冊ずつ抜いてはその胸に抱えていく。

「お客さま、良かったらこちらをお使いくださいませ」

 席を立ち、近寄ってパンフレットを入れる透明の手提げ袋をさしだすと、女性は少し頬を赤らめて小さな声で礼を言い、

「来年の秋にヨーロッパに旅行をする予定なの。ずいぶんと気が早いけど参考にね」

 と言い訳するように口早に言って、すぐに店から出ていった。

 パンフレットはよく捌ける。といっても、収集するだけの人もいるわけで、捌けた分だけ申込みがあるわけではないが、最近は台湾旅行のパンフレットがよく売れる。私は店の裏手の倉庫に行ってパンフレットを持ちかえり、外に置かれた棚のなかにそれらを補充する。

「いいなー、さっきの人。ヨーロッパ旅行だって」

 席に戻るなり佐伯さんが言った。客がいないのでいささか声が大きい。

「いいよね。私も昔はよく旅行に行ったけど、ここに勤めてからは逆に旅行なんてあまり行ってないからなあ。海外なんてとくに…」

 私が言い終える前に佐伯さんはかぶせるように、

「えー、香奈さんはもうすぐボーナス出るし、いいじゃないですか。私なんてずっとボーナス無しだし、お給料安いし、お財布寒くて、海外旅行なんて絶対行けないですもん」

 と、口を尖らせた。社員さんはいいじゃないですかあ、とカウンターの下に隠れた華奢な脚をばたつかせる。佐伯さんはいつもこうだ。なにかにつけて「社員さんはいい、社員さんはいい」と言って、正社員と派遣社員である自分のあいだに線を引く。年齢も私よりたった二歳だけ年下のはずなのに、何か見えない壁をつくる。佐伯さんが意識的にそうしているのか、私が勝手にそう感じてしまっているのかは判然としないけれど、何か一歩踏み切れないところが私と佐伯さんのあいだにはある気がする。

「私だって、お給料そんなに良くないよ。労働時間を考えたら、かなりの薄給だよ」

 笑って答えた。実際、給料は結構少ない。卒業とともに一人暮らしを始めてからは生活費に多くが持っていかれ、贅沢をするゆとりは正直言ってない。うすい耳たぶに有名ブランドのダイヤのピアスを光らせている佐伯さんの方が、よほどゆとりがあるように見えてしまう。

「それにしても、今日は本当に落ち着いてるよね」

 話題をかえ、私は店をみまわした。店外の棚のパンフレットを手にとる人はいるものの、店の中にまで入ってくる人は少ない。バイオリンの奏でる音楽の流れる店内には佐伯さんの作業する音と、私の端末をいじる音だけがやけに響いている。

「嵐の前の静けさかもしれませんよ」

 佐伯さんは声をひそめて言って、くすくす笑う。

「嵐かあ」

 ふと、前の支店のことを思い出す。あの頃は毎日が本当に嵐だった。でもそのときは、そんなことを気にするまもなく日々が過ぎていった。今ここにきて初めて、あのときがいかに嵐のなかにいたのかがよく分かる。ここは忙しいといっても、たかが知れている。

「あ!」

 つい昔を懐かしんでいると、佐伯さんがまた大きな声をだして私はびっくりしてお尻を浮かしてしまう。

「今度は何?」

「そういえば山井さんも、香奈さんのお昼休憩中にちょっと顔出しにきてたんですよー」

「山井くんが?」

「近くに用事があったみたいで、ちょっと寄り道しにきたみたいです」

 佐伯さんは体ごとこちらに向きなおし、いくぶん声を弾ませる。

「ふーん、あいつ暇人ね」

 そっけなく答えると、

「香奈さんは山井さんにいつも冷たいなあ」

 佐伯さんは笑う。

 山井祐二は同期で、今は団体旅行の営業をしている。たまにこの支店に顔を出す祐二のことを佐伯さんはえらく気に入っていて、祐二の話題になると気持ちを高揚させて、かわいいかわいい、と連呼する。

「あれの一体どこがかわいいわけ?」

 パソコンに目を向けたまま言うと、佐伯さんは「もーっ」と艶やかな唇を突きだし、

「山井さんの魅力が香奈さんには分からないんですか?色白で、頬がピンクで、ちょっと童顔で、笑うと少年みたいでかわいいじゃないですか」

 と語りだすので、私はふふっと笑みを浮かべてキーボードを打ちながら、佐伯さんの熱弁を左耳で受けとめる。

「優しそうだし、無邪気だし、見てると癒されるんですよー。なんていうか、クマちゃんみたいな」

 声を弾ませた佐伯さんは首を傾げ、ボールペンを宙に掲げた。

「クマちゃん?」 

 私はぷっと吹き出す。確かに背丈一六十センチくらいの中肉中背の祐二は、それこそ佐伯さんのボールペンについているクマみたいだ。

「ねえ、佐伯さん。それって褒めてるの?それとも、けなしてる?」

 冗談めかして言うと、佐伯さんはうふふと笑って肯定も否定もせず、

「だって、かわいいんですもん」

 とだけ言って、体を仕事体勢に戻した。佐伯さんの栗色の髪の毛は肩下あたりでくるんとカールされてあり、ほのかに甘い匂いがする。嫌ではないけれど、好きではない香りだ。

「じゃあ、今度山井くんに会ったら、佐伯さんがクマちゃんみたいって言ってたよ、って伝えておこうかな」

 言うと佐伯さんは、「やだー、香奈さんってば、本気で言わないでくださいよー」と女子高生のように声を高くした。

「でも山井さんって、もう結婚されてるんですよねー。残念」

 溜息混じりに佐伯さんは続けるけれど、佐伯さんにはすでに恋人がいる。前に見せてもらった写真には、祐二とはまるで違うタイプの細身の男性が映っていた。

「旦那さんにするなら、ああいう人がいいなあ。なんか奥さんを大事にしてそうだし」

 香奈さんもそう思いません?と佐伯さんに訊かれ、そうよねえ、と私はパソコン画面に視線を向けたまま答えた。心にもないことを。

 胸のあたりに少し、冷たい風がかすめた。

3.

 髪の毛が赤ちゃんみたいにうねっているのはパーマではなく、生まれつきなのだ、と祐二は言う。ベッドの側面を背もたれにして、カーペットに腰をおろす祐二の頭を私はわざとぐちゃぐちゃに両手で撫でまわし、それからむっちりしたほっぺを両手の平ではさむ。すると、祐二の唇がヒヨコみたいにピョコっと突き出た。赤くて、唾液でぬるりと光っている。

「クマちゃんみたいなんだって」

 言うと、祐二は苦笑した。

「俺って、何?どこそこのご当地キャラとか、マスコットとか、あーいう感じってこと?」

 私の両手をひとつずつ外し、祐二はそっと、私の唇にキスをした。それからうーんと背伸びをし、あくびをする。

「疲れてんの?」

「最近、残業続きだからね」

 そう言ってまた、私のお腹にじゃれるようにして顔をうずめてくる。くすぐったい。私は少し手荒に祐二の体を引き離して立ち上がり、季節外れのハイビス柄の短パンにノースリーブという恰好のまま冷蔵庫に向かった。

 学生の頃から住んでいるこのマンションの小さなワンルームに、祐二は定期的にやってくる。たいていは仕事帰りに立ち寄って、体を重ねて、そのあと一緒に甘いものを食べて、というのがいつものコースだ。

「お、桃の缶詰?いいねー」

 祐二は言う。

 私の部屋に据え置きしているベージュ色の野暮ったいスウェットパンツと紺色のTシャツを着た祐二は嬉しそうに黄桃の入ったガラス鉢を受け取ると、ずずずと音をたてて、底に溜まった汁から飲んだ。

「こんなのばっかり食べてるから、佐伯さんにクマちゃん、なんて言われるのよ」

 隣にぺたりと座り、私は祐二のお腹のあたりをつかむ。むにゃっとした柔らかな感触。

「そういうお前だって、クマちゃんだろ」

 祐二も負けじと私のお腹のあたりに手を伸ばしてきたので、私は慌てて体をよじらせる。そのせいで手に持っていた小鉢から汁がこぼれ、カーペットに透明の液体が広がり、そして染みる。

「俺さ、甘党なんだよな。なのに家で甘いもん食べてると、奥さんが嫌な顔するからさ」

 汚れたカーペットをティッシュで拭きながら祐二は言う。あけすけに、言う。

「なにそれ?なら、うちに甘いもの食べにきてるっていうわけ?」

 眉根を寄せて私が言うと、祐二は頬を紅潮させて首を横にぶるぶると振った。クマというより、風呂あがりの犬みたい。

「ま、べつにどーでもいいけどね」

 私は肩をすくめ、桃を一切れ口に入れた。じゅわりと口のなかに甘さが広がった。

 祐二とこういう関係になったのは、今から一年前のことになる。

 同期会の席でたまたま話があって、酔っぱらったノリでたまたま私の部屋で一夜を明かしたら、たまたま体もあってしまっただけのことだ。不倫。世間では私たちのような関係をそう呼ぶのかもしれない。しかし不倫相手と言うのには、祐二はちょっと、明るすぎる。不倫という言葉の持つ特有の秘密めいたものや後ろめたいもの、あるいは仄暗いような、湿ったようなものが、祐二にはまるでない。浮気。まだ、その方がしっくりくる。私にはでも、どっちでもいいことだ。たまたま祐二が結婚をしていただけのこと。もちろん最初は少し気も咎めたし、既婚者とこういう関係になることも初めての経験だったので戸惑いもしたが、祐二の天然とでも言うべき罪悪感のなさというか、割り切りの良さのせいで、私まで祐二と関係を持つことを次第に気にしなくなってしまった。今まで誰かと付き合っては別れるたびに痛みを覚えたけれど、祐二との場合、そもそも最初から始まりも終わりもない関係だ。

「それにしてもお前の家って、本当にいつ来ても色気ないよなあ」

 桃を突き刺したフォークを握ったまま、祐二はぐるりと私の部屋を見まわした。部屋には必要最低限の家具しかない。ベッドに食卓兼作業台代わりのローテーブルにチェストと本棚。無地のクッション。どれも近くのホームセンターで揃えたものだ。壁には大きな世界地図が一枚貼られてあり、今まで旅してきた箇所に赤いマーカーが付けられている。かなり赤が目立つが、大学卒業後はその量はさほど増えてはいない。

「それこそクマちゃんとか、何かぬいぐるみでも置いたらどう?女の子の部屋なんだからさ」

「いやよ。ぬいぐるみなんて嫌いだし。私がキャラクターとか苦手なの知ってるでしょ」

「あはは。だよな。そこが香奈のいいところだよ」

 祐二は豪快に笑い、冷たい麦茶の入ったグラスを手にとった。左手の薬指にかまぼこ型の指輪が光る。前に一度「外してよ」と言ったけれど、「この方が興奮するだろ」なんて、くだらないことを言って祐二は笑った。まったく、デリカシーがない。祐二は本当にデリカシーのない男なのだ。佐伯さんが知ったらびっくりするだろう。でも私はこのデリカシーのない、クマちゃんみたいな男に安らぎを感じてしまうのだ。

 脚をくずした私はそのまま祐二の肩にもたれかかった。かすかに煙草の匂いがする。全然いやらしくない二人の見た目。色白でずんぐりむっくりした男と、小柄でむっちりしてたいして美人でもない女の逢瀬なんて、一体だれが興味を持つだろう。

 祐二の奥さんは、私とはまるで正反対のタイプだった。数年前、まだこうした関係になる以前、家族交流会という馬鹿げた会社行事があり、そこで会場整理係をしていた私は祐二の奥さんをたまたま見かけた。すらりとした体型の美人で、やけに姿勢が良かったのを覚えている。ノミの夫婦だね、と誰かがこっそり呟いていたことも。

「ちょっと、テレビつけてもいい?」

 訊きながら祐二はすでにリモコンを手に取り、勝手に目の前のテレビをつける。瞬間、画面から陽気な音楽が流れ、アイドルが踊るCМが映り、急に現実に戻る心地になる。たいして色気のない二人でも、やはり逢瀬のあいだは少し別の世界にいるのだなあと認識する瞬間だ。東京タワーの映像とともに、番組と番組のあいだにはさまれる五分間のニュースが始まる。

「まじかよ!」

 祐二が急に前のめりになったので、もたれていた私の頭が祐二の肩からずれ落ちた。

「げー、こいつ自殺だって。俺、この俳優、結構好きだったのに」

 画面を指でさしながら祐二はいささか興奮気味に言った。一昔前に人気を博していた俳優の出演ドラマの映像が流れ、アナウンサーの神妙な声が訃報を伝えている。

「死んじゃったんだ」

 私はぽつりと言った。

「いやあ、結構衝撃だな。そういうタイプには見えなかったのに」

 祐二は落ち着きなく髭のない顎を触りながら呟いた。人の思いもよらない死は不幸なことに違いないのに、その知らせは一時的に人の気持ちをやけに高揚させる。祐二は耳のふちを赤くしている。かなり好きな俳優だったのだろう。

「迷惑よね」

 つい、言葉が漏れた。

「ん?」

 祐二が視線をよこす。

 私はベッドの側面に背をあずけた姿勢のまま、冷ややかに続けた。

「だって、第一発見者って、必ずいるんだよ。その人の記憶にずっと、その生々しい姿が残るじゃん。お気の毒だよ」

 そのニュースは終わり、画面は東京証券の様子を背景に株価の上下を伝えている。祐二はリモコンを手にとり、テレビを切った。

「ま、確かにそんなもの見たら、トラウマになりかねないよな」

 祐二は濡れた唇をティッシュで拭い、ごみ箱に放り投げた。

「俺のさ」

 あぐらをかきなおし、祐二は言う。

「俺の大学時代の同級生にもひとりいるんだよ、自殺した奴」

「自殺…」

「そう、自殺。嫌だよなあ。俺はそんなに親しい奴じゃなかったんだけど、でも結構明るくて、真面目ないい奴だったんだよね」

 私の胸は小さく疼く。祐二は続ける。

「聞いた話だと、彼女に振られたのが原因みたいなんだよな」

 淡々と祐二は言った。

「はかないよなあ。そんなんで死んじゃうなんてさ。俺なんて、だったら何回死んでるんだって話だよ」

 祐二は茶化して笑う。私はでも、笑えない。耳の奥が、キンとなる。

「分からないよ」

 私は言った。

「何が原因で死んだのかなんて、本当のところは本人じゃなくちゃ分からないよ」

 祐二がきょとんとした顔をする。とたん、祐二は腹を抱えて笑いだし、無遠慮に私に抱きつくと、かき乱すようにして私の頭を撫でまわした。ぬるまるい、柔らかい、図々しい体が密着してくる。

「お前、ちょっと深刻!いいね、そういう顔見るの久しぶり」

 バカ。私は思う。本当にデリカシーのない男だとつくづく思う。酒の匂いに、桃の甘い匂いも加わった分厚い唇が、私の唇に吸いついてくる。

「もう一回、しちゃう?」

 無邪気に祐二は耳元で囁く。私はくすくす笑う。ばからしくなって、抵抗すらしない。

 テレビの向こうで知らないけど知ったつもりの誰かが死んで、祐二の知っている私の知らない誰かが死んで、それでちょっと驚いて高揚して失望して恐怖して、でもすぐに現実に戻って生々しい匂いを嗅いで、温度を感じて、生きることの快楽を貪ろうとしている。それが現実だ。生きているのって、なんだか臭い。

 私の友人にも―。

 言おうとしてやめた。カーペットの上に人を押し倒し、乗りかかってこようとする祐二はなんて下品な生き物だ。でもたまらなく愛おしい。胸の痛みがよみがえる前に、私は静かに目を閉じた。

4.

 暗い森のなか、少女が一人歩いている。

 黒いシルエットだけを私は目で追っている。少女は片手に何かを持っている。でも、よく見えない。しばらくして、少女は一本の桜の木の前で立ち止まる。慣れた様子で木に登り、手にしていたそれを枝にくくりつけている。縄跳びのロープだ。少女はロープで作った輪のなかに首をとおし、ためらいなく身を投げた。うっ、という低い声がした。足が地面に届かず、じたばた苦しんでいる。早く助けなくちゃ、と私は焦るが、体が動かない。少女はじたばたしている。助けて―。掠れた声が、かすかに聞こえた。

 咲希?

 私はそこで少女が誰なのかに気づく。咲希!咲希!私は叫ぶけど、足が沼にはまったみたいに動かない。助けて。か細い声がする。だんだんと空が白みはじめ、森が青い空気に包まれていく。少女はもう動かない。真っ白い脚がだらりとぶらさがり、腕もたれて、こうべもたれて、咲希はもう動かない。

 咲希!

 私は叫ぶ。何度でも叫ぶ。そしてその悲痛な声は実際の私の耳まで届き、私はその声で目を覚ます。明け方。まだ部屋のなかはうっすら暗い。夢を見ていたのか。いや、夢ではないのだ、いつも。浅い眠りのなか、ふと目が開いて、夢かうつつかも分からないぼんやりとした状態のなか、砂嵐のような暗闇のうえに咲希の自殺したときの様子が生々しく浮かぶのだ。無論、実際に私はそれを目撃したわけではない。それなのに、その映像は、何度でも何度でも私の脳裏にリアリティをともなって浮かんでは私を苦しめるのだ。

 咲希は高校二年の六月に亡くなった。小学生の頃、よく一緒に遊んだ大きな公園にある桜の木で首を吊り、死んだ。よりによって思い出のあの場所を選ぶなんて。考えると、悲しみと同時に怒りがわく。第一発見者は早朝、犬の散歩をしていた近所の主婦だった。咲希は靴をはいたまま枝にぶら下がっていて、遺書もなく、当初は事件性も疑われたらしいが、結局自殺ということで落ち着いた。

 しばらく私たちの思い出の場所には黄色のテープが張られ、立ち入り禁止とされた。咲希の訃報は鈴子の母親からの連絡で知った。子供の頃からずっと一緒に遊んでいた大切な友人のあまりにも突然の死は、なによりもまず驚きだった。頭が真っ白になり、そのあと、鈍い頭痛がした。

 咲希の葬式は近所の小さな寺でひっそりと執り行われた。梅雨の時分、しっとりと雨が降っていて、鬱蒼とした緑繁る境内は線香の匂いがたちこめていた。私は母とふたりで参列をした。弔問客はみな誰もが悲痛な面持ちでいた。なかでも咲希の高校の同級生らしい子たちが数人、チェックのスカートにブレザー姿でかたまりあって啜り泣いていたのがやけに目立っていた。「お若いのにね」「ご両親がお気の毒ね」どこからともなく同情の声が聞こえるなか、私は鈴子を探した。鈴子は私がいた場所から少し離れたところ、紫陽花がこんもりと咲く場所に鈴子の母親と一緒にいた。駆け寄ると、鈴子は呆然とした面持ちで私を見た。

「どうしてだろう」

 鈴子は声を震わせていた。

「私、ちょっと前に咲希とばったり会ったんだよ。そのときは笑顔でいたのに」

 鈴子は涙を流してはいないものの、目も鼻も真っ赤になっていた。鈴子と会うのはそのとき一年ぶりくらいだったけれど、そんな時間は関係なく、一緒にいた頃と変わらぬ親しさで私たちは抱き合った。

「咲希とね、今度また一緒にお茶しようねって話してたのに」

 鈴子が悲しみにくれた声で漏らす言葉に「うんうん」と私は涙を流しながら頷きながらも、でも、心の片隅でちょっとだけ嫉妬している自分がいることに気が付いていた。

 子供の頃から鈴子と咲希と私の三人でずっと仲良しだったけれど、鈴子と咲希が二人きりでいる時間の方が、自分のそれよりも親密な気がしていた。美しくて可憐な咲希と、落ち着いてのんびりした雰囲気の鈴子の方が、活発で男っぽく、小柄でずんぐりむっくりした自分よりも、見た目も中身も合っているような気がして、疎外感を覚えることがときどきあった。二人が偶然会っていたことを何も知らなかったことに、ほんの少し、胸に黒いものがわいた。私もでも、自殺する一か月ほど前に咲希から近況伺いのメールはもらっていた。私はその返信を三日後に送った。そっけない内容の返信だった。あれが最後のやりとりになるなんて。でも、あとのまつりだ。

 咲希の棺にお花を入れる段階になったとき、わらわらと弔問客が棺の方へと向かい、皆、係の女性から白い花を受け取っていた。私も花を受け取ろうと、鈴子の手を引っ張った。

「いや」

 小さな声がした。

「行けない」

 鈴子は言った。

「どうして?咲希とのお別れなんだよ。一緒にお花入れてあげようよ」

 私はもう一度、鈴子の腕を引っ張った。

「いや!私は行けないっ」

 鈴子は今度は強い口調で抵抗した。

「なんでよ!友達でしょ、私たち。昔からの友達なんだよ。そんなのひどいじゃん」

 気の立った私はとがめるように言った。

「本当の友達だから、行けない」

 鈴子は鈴子の母親の胸に隠れるように抱きついた。鈴子の母親が「ごめんね、香奈ちゃん。鈴子、怖いのよ」と慰めるように言った。

「友達だから行くんでしょ!本当の友達だから、咲希の最期を送ってあげるんじゃない!」

 鈴子の母親の言葉に耳を貸すことなく私は声を荒げ、ひとり、咲希の眠る棺へと向かった。やりとりを見ていた私の母が鈴子に謝る声が耳のうしろの方で小さく聞こえた。

 白い花を受け取り、棺のそばに歩み寄ると、お団子むすびをした高校の友人らしい女の子がひとり、咲希の顔のあたりをのぞきこみ、泣き女みたいに声をあげて激しく泣いていた。咲希、咲希、咲希。みんなで嗚咽まじりに呼んでいる。

 友達だから送ってあげる―。そう鈴子に啖呵を切ったのに、私は棺のなかで眠る咲希の顔を見ることができなかった。急に怖じ気ついて、沢山の花で覆われた足元に、そっとそれを置いた。置く瞬間、手のあたりが冷たい冷気に覆われてひんやりとした。そのなかで眠るものが私の知っている咲希だとは、到底信じられなかった。咲希の父親と母親が私に気づき、頭を下げた。私は心のなかで咲希に言った。ばか。なにも死ぬことないでしょ。なんで私に相談してくれなかったのよ。私たちって友達じゃなかったの?

 悔しかった。悔しかったのはでも、咲希の死に対してだけではなく、鈴子と咲希の二人の関係に対する嫉妬もあったのかもしれない。

 私は結局、そのあと鈴子のもとへ戻ることができなかった。鈴子が怯えた顔をして私を見ているのが分かったから。あの日を境に、私と鈴子のあいだには透明な壁ができてしまった。そしてそれは今もなお、沈黙したままそこに存在しているのだった。

5.

 駅前の大通りに植えられた木々はだいぶ葉を落とし、道のはしには黄色や赤の葉の吹き溜まりができている。昔ながらのブティックや飲食店や小さな商店が軒を連ねるこの通りは、住人の少なさや、潰れた店がいまだそのままの状態で放置されているせいか、どうにも活気に乏しい。ときおり吹く冷たい風には焦げたような匂いが混ざっている。

 つい先日まではハロウィンの飾り付けをしていたショーウィンドウは十一月も半ばに入り、今はサンタやトナカイの置きものが飾られている。控えめだけれど電飾もほどこされ、それなりにクリスマスの雰囲気をかもしだしてはいるものの、中学生の頃にこの町に越してきたときに抱いた古くてさびれた印象はいまだ拭えず、歩いていても気持ちはいまひとつ華やげない。

 実家に向かう途中、和菓子屋に立ち寄り、三笠山を三つばかり購入した。みたらしだんごを食べたい気分だったが、本日中にそれを母が食べるかは怪しいので、念のため日持ちのする三笠山にした。カスタードの入った小さな饅頭は姉の息子の分だ。今日は姉も遊びにきている。

 レンガタイル貼りの三階建てコーポ二階にある部屋の前に立ち、私は息を大きく吸い込んだ。十年間暮らした家なのに、ここに立つと、急に空気が薄くなったように息苦しくなる。古くなってところどころ剥げたインターホンのボタンを強めに押すと、なかから足音が近づいてきて、のぞき穴が一瞬暗くなると、すぐに扉が開いた。

「おかえり」

 そう言って出迎えたのは姉だった。

「もう来てたんだ」

 三和土にあがり、鍵をかけると、

「そう。三十分くらい前にね」

 姉は言いながら短い廊下を歩き、居間に続く扉を開けた。とたん、わーと叫びながらおもちゃの剣をふりかざす甥っ子の姿が目に入る。座布団に座る母は勢いよく頭頂部を殴られ、痛いと声をあげつつも落ち武者のごとく切られた振りをしている。

「相変わらず、やんちゃのさかりね」

 私がテーブルの上に和菓子の入った袋を置くと、五歳になる甥は私には目もくれずに「チョコレート?」と駆け寄るなり袋のなかをあさり、期待していたものではないと分かると姉のところに行って駄々をこねた。

「久しぶりに来るんだから、もっとこの子の喜びそうなものをお土産にしてくれればいいのに。まったく、気が利かない子だね」

 その様子を見た母が言う。

「香奈のことだから、手土産忘れて、慌ててあそこの和菓子屋で買ってきたんでしょ」

 笑いながら話す姉の隣に私は腰をおろした。いつもこうだ。お土産ありがとう、と礼を言う前に文句を言う。だから嫌なのだ、この家に帰るのは。

「嫌なら食べなきゃいいでしょ」

 ふてくされた私を見た甥は慌てて姉の腕から飛び出し、

「大丈夫。僕、おまんじゅうも好きだから、ちゃんと食べる」

 と胸を張った。母と姉が相好を崩す。

「おー、いい子だね」

「あらあ、優しいわね」

 二人で甥を囲んで撫でさすり、甥は頬を真っ赤にしたあと興奮したようにテーブルのまわりを全速力で駆けまわった、と思ったら派手に転倒し、今度は大きな声をあげて泣き出した。

 おーよしよし、かわいそうに。泣きじゃくる甥を母が抱き寄せようとすると、甥はそれを両腕で押しのけて拒否し、姉の胸に顔をうずめてしゃくり声をあげた。やれやれ。その一部始終を見ていただけで私は妙に疲れ、思わず息を吐いてしまった。

 引っ越し当時、新築だったこの住まいは、今ではすっかり壁が黄ばみ、天井は乾燥のせいか枝分かれ状にひびが伸びている。襖は二年程前に新調したが、甥によって今は大きな落書き帳になってしまった。ダイニング兼居間であるこの部屋と、姉と私の共用の部屋、母と父の寝室で構成されたこの小さな住まいは、家具を押し込むと家族四人で暮らすにはいささか窮屈に感じることもあったが、でも、生活するには十分だった。あの頃、まだ引っ越しをして間もなかったあの頃、父と母は家族四人で、ここから再出発することを夢見ていたのかもしれない。


 物心をついた頃から、父と母の仲は犬猿としていた。居間で、台所で、寝室で、玄関で、よく二人が口論している現場を目撃した。何が原因なのか、その頃の私にはよく分からなかったが、大抵母がかなきり声をあげて、父もそれに応戦するものの、最終的に父の方が母の勢いに負け、顔を真っ赤にした父がその場から逃げるようにして去っていくのが常だった。怯える私と目が合うと父は、

「お前には関係ないことだ。気にしないでいい」

 と穏やかな表情を一生懸命に見せ、「煙草を買ってくる」と言い残し、サンダルをつっかけ家を出ていった。そうやって父がいなくなると、母は泣いた。四つ年上の姉に事情を訊くと、「子供は知らないでいいの」と適当に流された。ヤスゲッキュウとかフビョウドウとかダマサレタとかシッパイとか、そんな言葉ばかりが耳についたが、それらが何を意味していたのかは分からなかったし、子供心にもなんとなく訊いてはいけないものだと思っていた。それでも母は表向きには活発な明るい母として毎日の家事をしっかりこなし、父は母に罵られても一定のペースは崩さず(それが余計に母の怒りを買っていたこともあるが)真面目に会社勤めをし、姉はまわりの影響を受けることなくマイペースに生き、私は私なりに普通に学校生活を楽しく過ごし、毎日はとりあえず無事に過ぎていった。

 引っ越しをする、と突然告げられたのは中学生にあがるときのことだった。それまでの木造二階建てのアパートではなく、コーポと名のつく建物に引っ越すのだと母から説明された。私は学区が変わってしまうのが嫌で反対したけれど、それは既に決定していたことで、姉は少しでも部屋が広くなるのならと嬉々としていた。

「あの家は北側を向いていたから、きっと良くなかったのね」

 新しい家に引越しをしたときに、最初に母が言ったことだ。

「ここは南向きで明るいわね。きっと、いい運気が入ってくるわ」

 当時、人気のあった風水の本を母は何冊も購入し、そこに載っている方法を片端から実践した。玄関に龍の置物を置いたり、鬼門に盛り塩をしたり、財布を鮮やかな黄色のものに新調したりと、出来る限りのことを母はした。私の中学校のナイロンバッグに魔よけの変なシールを貼ろうとしたのはさすがに勘弁して欲しいと思ったが、前よりも母は穏やかになり、両親のけんかも減って、きっと風水のおかげなのだろうと私は思った。こんな日が続けばいいなと思っていたが、でも、平和な日々は長くは続かず、気づけば母と父はまた口論を繰り返しはじめた。お金のことが原因なのだと、その頃の私はうすうす勘付いていた。私が何も訊いていないのに酒が入ると父は、「お前の大学進学まではしっかり出すから安心しろ」といつも言ったし、母はそれまでもパートに出ていたが、その数をさらに増やして家を不在にする時間が多くなった。せっかくの新しい住まいはお日様がよく入って暖かいはずなのに、食卓にはいつも冷たい空気が漂っていた。喧嘩ばかりしていた両親も、次第に口をきかなくなった。

「さっさと離婚すりゃいいのに」

 姉はよく吐き捨てるように呟いていた。

「こんな家になんていられないよ、まったく。でもあんたが大学進学するまでは離婚しないつもりなんでしょ」

 と、まるで私が悪者であるかのように姉に睨まれ、私はいたたまれない心地になった。部屋に飾っていた縁起の良いパイナップルの飾り物や竜の置物や水晶にも気づけば埃がかぶり、効力を失ったそれらはやがてすべてゴミ箱へと捨てられた。根本的な問題はどうにも風水の力では変えることができなかったらしい。結局、私が無事大学に進学するのと同時に両親は離婚した。

 父とはその後、何回か姉と一緒に会いに行ったことがある。

 父の暮らす町の駅前にある小さな喫茶店で待ち合わせ、三人で食事をした。父は毎回、必ず最後に私の好物であるショートケーキを注文してくれた。そして帰り際にはいつもポチ袋に入れた千円札をこずかいに持たせてくれた。まるで幼い子供に対するような行為だったかもしれないが、でも、それは私の密やかな楽しみにもなっていた。

 父が再婚すると聞かされたのは私が二十歳になったときのことだった。相手は父よりも一回り以上年下の若い女の人だった。その人はすでに父の子を妊娠していた。臆面もなくその報告をした父は、驚く私たちの反応を気に留めることなく「これからも変わらずに会おうな」と提案してくれたが、私たちはそれを断った。なんとなく、気が引けたのだ。それでもメールでのやりとりは続けていたが、父から子供が生まれたという報告を受けたのを最後にそのやりとりも終えた。私たちの行動について母があまり良い顔をしていないことと、父が再婚相手にうしろめたさを感じていることを、私も姉も、なんとなく感じ取っていたからだった。おそらく私から連絡をすれば、父はいくらでも応じてくれたのだろう。でも、できなかった。異母姉妹がいる。男の子だったら良かったのに、と思った。生まれてきたのが男の子だったら、まだマシだったのにと。娘が生まれたと聞いたとき、父を奪われた気がした。負けた気がした。

 それからしばらくは女三人で同じ屋根の下で暮らしていたが、結婚を機に姉が家をでて、私も就職をきっかけに家をでて、今は、母ひとりきりの暮らしだ。

 家をでるとき、「あんたのために離婚しないで頑張ったのに、私ひとりを置いてくの」と母に恨み節を言われた。姉も、「まさかあんた、このまま家を出て、そのままお母さんの面倒を私ひとりに押し付けないよね」と半分冗談に、半分真剣に言われた。すっかり私は疲れ果ててしまった。

 家庭というものが何なのか。家族というものが何なのか。分かるような、分からないような、私には曖昧な輪郭をした集合体にみえる。たとえば咲希の家や鈴子の家は、しっかりと家族という形が見えたけれど、私の知っているものはいつもぼんやりとしていて、幸せも不幸もすべてが霞んでみえた。霧雨のなかに見る景色みたいに、美しいのか汚れているのかもよく分からない。

 人の良い父がお金をだましとられたとか、株だか投資だかに手をだして失敗したとか、真偽のほどは大人になった今でもよく分かっていない。母と姉は本当のところを知っているのだろうが、何歳になっても私のことを子ども扱いし、それを教えてはくれない。単に、話すのが面倒くさいだけなのかもしれない。


「あれ、持ってきてくれた?」

 甥を膝のうえに抱きかかえたまま姉が言った。テーブルのうえには姉の買ってきたロールケーキの食べ残しが油のついたセロファンや銀紙と一緒になって散らばっていて、甘ったるい匂いをあたりに漂わせていた。

「どうぞ。大事に使ってよ」

 バッグからデジタルカメラを取りだして渡そうとすると、甥がそれを奪うようにして受け取ったので、びっくりして思わず私は小さな悲鳴をあげてしまう。物取りみたいね、と私が苦笑すると、人聞きの悪い言い方しないでちょうだい、と母が眉根を寄せた。そんなやりとりを気にすることなく姉は、「サンキュ。助かるわ」と軽やかに言うと甥からカメラを奪い、自分のバッグのなかに無造作に突っ込んだ。今度、長女である小学校一年生の姪の学芸会があるのだという。その矢先に姉のカメラがいきなり故障してしまい、それで急遽、私のデジタルカメラを貸してほしいとの依頼を受けて、私は今日ここにやってきたのだ。やむをえず。

「沙帆ちゃん、大きくなった?来年が二年生だよね。早いね」

 姉は嬉しそうに頷き、すっかりおませさんよ、と言って微笑む。

「最近は好きな子ができたみたいで、毎日おしゃれしてるの。その男の子と結婚したい、なんて言うのよ。すごいでしょ」

 姉の言葉に母が肩を揺らして笑う。私も笑う。

「あんたもさ、早くしないと、沙帆に負けちゃうよ」

 紅茶をすすり、姉はさらりと言った。負けちゃうよ。私の胸は、ちくりとする。

 別段、結婚願望は抱いていないし、結婚が自分を幸せにしてくれる、なんていうことは幻想だということに疾うに気づいてもいるし、子供を好きというわけでもないから結婚そのものに興味も執着もない。それなのに、姉の発する「負けちゃうよ」という言葉につい反応してしまう自分がいる。

「そういえば」

 テーブルの上を台布巾で拭きながら母が顔をあげた。

「この前、鈴子ちゃんのお母さんにスーパーでばったり会ったのよ。鈴子ちゃん、今度結婚するみたいね」

 え、私は口を開ける。そんなの、聞いてない。

「これからみんなにお知らせするらしいわよ」

 甥が「僕はママと結婚するよ」と耳打ちをし、姉は甥の頬にキスをする。

「私のこと、おばさんに何か言った?」

 母に訊いた。思いのほか、きつい口調になった。

「何を?そんな怖い顔してどうしたの」

「だから、私のこと、何か話したの?」

「べつに何も言ってないよ。香奈ちゃんは元気かって尋ねられたから、相変わらず仕事が忙しいみたいって答えただけだよ」

 また、胸のうちに黒いものがわいた。結婚に対する嫉妬なのか、鈴子から報告のなかったことに対する苛立ちなのか。

 姉は私の顔をじっとみたあと、大きく吹き出した。

「なに慌ててんのよ、香奈。まあねえ、三十代に近くなると焦るっていうよね。私は早々と結婚したから、そういうの分からないけどさ」

 姉は勝ち誇ったような顔をする。昔から姉は私のうえに立ちたがる癖がある。

「べつに慌ててなんかいないわよ」

 声を低くして言うと、強がってさ、と、私の真実は姉の真実に都合よくすり替えられる。

「まあまあ。でもね、本当にあっという間に年取るからねえ。ウェディングドレスの似合わない年齢にすぐになっちゃうからねえ」

 母が言う。ただの合いの手だ。何の思惑もない。話題はすぐに姪の小学校での父母会の様子に変わる。私は紅茶の入ったカップを意味なくさすった。これだからこの家は嫌なのよ。胸のうちで何度もつぶやく。テーブルの下でゴミのように私の買ってきた土産の袋が転がっている。ほらね、やっぱり日持ちのするものを選んで正解だった。私は呆れた気持ちで、そう思った。


 家に帰る途中、乗り替えする駅に隣接したデパートのなかにあるカフェに立ち寄り、ひとり、お茶をした。

 平日だから、買い物帰りの主婦らしい女性や学生のような若者がちらほらといるだけで、全体的に店は空いていた。お腹は空いていないのでホットコーヒーを一つ頼んだ。

 負けちゃうよ―。

 姉の言葉が胸に執拗にへばりつく。なによ。私は思う。こうやって、優雅に一人でお茶する時間もないくせに。自分の身なりに気を使う余裕だってないくせに。すぐに姉の声が返ってくる。

 ばか、何言ってんのよ。結婚や子育ての喜びを知らないくせに。だいいち、娘が大きくなったら二人でお茶できるのよ。それって、最高に幸せでしょ。あんたって淋しいやつ。いつも強がってさ。

 昔言われたわけでもないし、実際、姉がそんなことを言うかも分からないのに、それはやけに現実味をともなって私の耳の奥を突き刺してくる。

 コーヒーを飲みながら、祐二に会いたいと思った。無性に思った。会って、祐二の口から聞きたい。そのままのお前が一番いいよ。お前のそういうところが俺は好きだよ。いつもの調子で聞かせて欲しい。今頃きっと、祐二は営業で外回りでもしているのだろう。電話、してみようかな。思ったけれど、やっぱりやめた。感じの良さそうな店員がやってきて、水を注ぎ足す。グラスのなかで氷が揺れる。店員は会釈し、他の客のテーブルに向かう。

 今日はしっかり料理をしよう、と思った。そういえば最近、出来合いの総菜や冷凍食品ばかりを食べていた。ならば、しっかりと手の込んだ料理を久しぶりに自分のために作ってやろうと思った。デパ地下に入っている食材店で、上質なものを買いそろえてやろうと思った。

 べつに負けてなんかいないもの。私は小さく呟いて、珈琲の残りを一気に飲みほし席を立った。

6.

 十一月も中旬になり、店頭にはクリスマスツリーが飾られ、店内の壁にも佐伯さんの作ったトナカイや柊の装飾があちこちに貼り付けられている。

「これは?」

 昼休憩を終え、カウンター業務に戻ると、東京バナナがひとつ置かれてあった。

「さっき山井さんが来て、お土産に、って置いていったんですよ」

 佐伯さんが甘い声で囁く。お茶目ですよねえ。そう言って佐伯さんはうふふと笑う。このまえ祐二が家に来たときに一緒に観ていた番組で紹介されていたそれを、私が食べてみたいと言ったのをきっと覚えていたのだろう。祐二は案外まめなところがある。私は小さく微笑み、カウンターの下にそっとそれを忍ばせる。

「荻野さん、私の休憩中にもしかしたら加納様っていう学生のお客様がご来店されるかもしれないから、もしいらしたら対応お願いしていいかしら。キャンセル料のこともよく説明しておいてね。この前も未成年のお客様のトラブルあったでしょう」

 入れ替わりに休憩に入る木村支店長がやってきて、てきぱきと指示を出す。

「佐伯さんは手の空いたときに販促品のカイロの整理お願いね。裏に段ボール箱届いてるから」

 はーい、と佐伯さんは間延びした声で返事をする。

「じゃあ、失礼しますね」

 木村支店長はにこりとすると、プードルのアップリケのついた小ぶりのトートバッグ片手に、大きなお尻を揺らして店をあとにした。 

 バイオリンのBGMが流れている。

 店のなかは私と佐伯さんの二人きりだ。

「木村さんって、すごいですよねえ。さっき、怖い感じのお客さんが来たんですけど、その人、行き先も予算も何も決めていなくて、なのに何か良い旅のプランを作れって、いきなりすごんできたんですけど、木村さん、一切動揺せずに上手に対応されてました」

 ボールペンをかちかち鳴らしながら佐伯さんは言う。

「本当だよね。木村さんからは見習うことがいっぱいあるよね。経験豊富で何でも訊けるし、でも威張ってないし。嫌な男の上司よりもずっと頼れるよね」

「ほんとー、仕事ばりばりだし、生涯キャリアウーマンって感じですよね」

「そうだよねえ、もっと出世してもいい人なのにね」

 実際、木村支店長は今まで出会ったどの男性上司よりもずっと仕事ができるように感じるが、出世となると男性の方がいまだ有利のようである。男女平等をうたう世の中になっても、まだまだ見えない壁があるのだろう。聞いたところによると裏では、仕事だけの女、と呼ばれているらしい。おそらくそれは仕事のできない男性陣の嫉妬なのではないかと私は思うが、確かに木村支店長は独身でずっと仕事を精力的にこなしている。これまでに結婚を考えたことがあるのかないのかといったプライベートな話題をしたことはないが、噂では過去に外資系ホテルの営業マンと付き合っていたが、突然破談してしまったと聞いたことがある。真偽のほどは定かでないし、それを知りたいとも思わないが、しかし、私も将来は木村支店長のように仕事だけの女とまわりから扱われる日が来るのだろうかと、木村支店長を見ているとしばしば考えてしまうことがある。

「香奈さん、今日、仕事帰りにほんのちょこっとでいいので、お茶に付き合ってもらえませんか。少し話したいことがあって」

 上目遣いで佐伯さんが言う。相変わらず睫毛をくるりと上向きにカールさせ、唇はつやつやした桃色だ。

「いいよ」

 用事もないので私は即答した。

「いらっしゃいませ」

 佐伯さんが急に姿勢を正し、声のトーンを上げた。自動ドアが開き、常連の種田様がやってきた。チャコールグレーのジャケットを羽織った種田様は床屋帰りなのか短く清潔に整えられた白髪をし、爽やかな笑みを携えたまま一直線に私の目の前の席に座ると、

「こんにちは。お元気かな」

 と、いつものように紳士的な口調であいさつをした。

 種田様はいつものおしゃべりのためのお立ち寄りのようで、カウンターに片肘をついた姿勢のまま来月に控えた温泉旅行の計画を語りだした。私もいつもように相槌を打ちながら、種田様に提供できる周辺の情報を話しながらも、頭の片隅では佐伯さんに珍しく誘われたことがずっと引っかかっていた。きっと辞めたいという申し出をするのかもしれない。今まで何人もの派遣社員から珍しく声を掛けられたかと思えば、その理由は仕事を辞めたいという相談だった。木村支店長に話す前のワンクッションというわけか。仕方がない。そうなれば、すぐに次の人員を探せばいいだけのことだ。佐伯さんには作業マニュアルの足りない部分の更新を頼んでおこう。そんなことをつい、考える。

「じゃあ、そろそろおいとましますかね」

 種田様が重たそうな腰をあげた。

「お忙しいとは思いますが、また年寄りのおしゃべりにお付き合いしてくださいね」

 まだまだ話は尽きないようだったが、べつの客が入ってきたので種田様は立ちあがり、別れの挨拶代りの笑顔を見せた。やや黄味がかった、でも丈夫そうな歯が見える。

「またいらしてくださいね」

 私が言うと種田様は片手をあげてそれに応え、ゆっくりとした動作で去っていった。入れ替わりに髪の毛を茶や赤に染めた若い男性四人組が騒がしくやってくるなり、一目差に佐伯さんの席の前に派手な音を立てて座った。きっと木村支店長の言っていた客だろう。

「加納ですけど、電話で聞いたとこの申し込みにきたんだけど」

 片手を投げだし、横柄な態度で一人の男性が言った。私はカウンターの下で『キャンセルの注意事項』と書いたメモを佐伯さんの膝のうえに載せて知らせる。佐伯さんはそれを一瞥したあと、すぐに笑顔で卒なく対応する。すっかり慣れたものだ。優秀な派遣社員を失うことは正直痛い。でも、私に佐伯さんを引き留められる理由もない。彼女の人生の責任を私が負うわけにもいかないのだから。端末の細かい入力画面に目を凝らしながら、私は佐伯さんの話を聞く前から勝手にそんなことばかりを考えていたが、でも、佐伯さんの話は私が想定していたものとは全く違っていた。

「ひどいんですよ、香奈さん。聞いてくださいよ」

 仕事あがりの夜の八時。近くにあるコーヒーショップに二人で立ち寄り、ソファ席で向かいあう。最近出来たばかりのこの店は清潔で、間接照明の控えめな明かりがちょうど良く、流れるサックスの音色もあいまって優雅な雰囲気がある。チェーン展開しているわりに席間も広く、居心地が良い。私はそこで珈琲を、佐伯さんはすでに甘みのついているミルクティーを頼んだ。会計は私が持ち、受け取ったトレイは佐伯さんがテーブルまで運んでくれた。

「もー、誰かに話さないと彼氏にぶちまけちゃいそうで」

 佐伯さんはミルクティーに口をつける間もなく喋る。淡いピンク色のウールコートを丸めてとなりに置き、モヘアのタートルニットにミニスカートをはいた佐伯さんは店にいるときよりも幼く、渋谷にいる十代の女の子のようにみえる。

「どうしたのよ。何があったの?」

 濃紺のコートを腿のうえに丸めて置いたまま、私は珈琲カップ片手に訊いた。辞職の話でないことに内心ほっとしながら。

「彼氏、メール全然返してくれないんですよ」

 佐伯さんは口を尖らせた。

「はい?」

 私が訊き返すと、

「だ、か、ら」と佐伯さんは一文字ずつくっきり言って、

「私の彼氏、私がメールしてもなかなか返信してくれないんです。三日後とかも普通にあるんです。そのことを前に文句言ったら、なにが?って。もー、ありえないですよ。まったく反省しないんですから。ひどいですよね」

 佐伯さんは大きな目をさらに大きくしながら鼻息荒く言う。そんなこと?私は思って、ぷっと吹き出した。とたん佐伯さんは怪訝な表情を浮かべ、

「なんで香奈さん、今、吹き出したんですか」

 睨まれながら低い声で言われ、私は慌てて首を横に振った。

「ごめん。違うの。私も佐伯さんの彼氏みたいに、なかなかメールの返信ができない女なの。だから佐伯さんに笑ったんじゃなくて、私ってつくづく女子力が低いんだなあと思って、私自身にうけちゃったの」

「えー、嘘でしょー。香奈さんも彼氏寄りの人なわけ?」

 佐伯さんは大仰に言って、そのあと笑った。

「私の場合だけど、べつに相手のことをぞんざいに扱ってるつもりはなくて、単なる不精なの。というか、すぐにメールの文面も思いつかないのよ。不器用というか」

「へー、そういうものなんですか。でも今どきの人はすぐに返信するものですよー」

 たいして年齢も変わらないはずの佐伯さんは愉快そうに、世代違いの人に教え諭すかのごとく言い、紅茶をすする。焦げ茶色のエプロンをつけた店員がトーストの載った皿を持ってうろうろしている。

「…でも」

 私は持っていた珈琲カップを置いた。

「すぐに返信しないと、後悔することもあるかもしれない。だからやっぱり、返事はすぐにするべきかもね」

 私は言った。ふと、咲希からのメールの返事をいつも数日後にしていたことが頭をよぎったからだ。咲希からのメールにすぐに返事をしてれば―。もっとまめに、日頃から丁寧に連絡をしていれば―。幾度となく考えては自分を責めた。きっと結果は変わらなかったのかもしれない。そう言って慰める自分と、いや、もしかしたら、その機微な行動の違いが大きな差を生んで、咲希はまだこの世にいたのかもしれない、と責める自分との狭間で今もなお、ときどき苦しくなる。

「ですよね?」

 佐伯さんは急に味方を得たかのように目を見開いて強気に言う。

「今日、これから彼氏、うちに来るんですけど、今の香奈さんの言葉言っておこー。後悔するかもしれないよって」

 たぶん私の思うことの意味など知る由もない佐伯さんは楽しそうにくすくす笑った。私も「その調子だよ、頑張ってね」と拳を作って応援する。

「良かったあ、香奈さんに話せて。今日このまま彼氏に会ってたら私、超深刻になって、ひょっとしたら別れてたかもしれないです」

 店を出る際に佐伯さんはそう言って、ありがとうございました、と律儀に礼を言って頭を下げた。

「お役に立てたのなら良かった」

 私も笑顔で応じた。

 軽やかに去っていく佐伯さんの背中を見送りながら、きっと佐伯さんのように気軽く何でも相談できるなら、人生はもっと楽なのかもしれない、と思った。目の前に深刻な問題が浮上したって、すぐに溶けて流れゆき、悠々と軽やかに前へと進めるのかもしれない、と。実際の佐伯さんのことはよく知らないけれど、でも、彼女を見ていたら、そんな気がした。

 通りは家路を急ぐ人たちで賑わっている。見上げると、やけに明るい夜空を背景に、カラオケ店や飲み屋のけばけばしいネオンがあちこちで滲むように光っていた。

7.

 建ち並ぶビルの隙間から見える空に、小指の爪くらいの大きさの飛行機が飛んでいるのか見える。空気が凛としている。心持ち毛穴も引き締まり、今日は肌がさらさらしている感じがして気分は上々だ。女性的魅力に欠けると言われることが間々ある私だが、私だって、肌の調子やファッションには関心があるのだ。

 片腕にはチェック模様の紙袋がぶら下がっている。休日、あてもなく街をうろつき、何気なく入ったセレクトショップでたまたま陳列していた靴に一目ぼれをしてしまった。華奢なヒールのエナメルのパンプス。イタリア製のそれは、薄給の自分にはかなり良い値段がしたが、ボーナスの季節だし、たまにはこんな贅沢もいいだろうと珍しく衝動買いを自分に許した。買ってみたら、思いのほか気持ちが踊った。合わせる服ははたしてどうしようかと考える。クローゼットにある服はどれも地味で洒落気に欠ける。いわゆる定番と定番の組み合わせばかりを好んできたのは、ファッションに疎いというよりも、単純に楽ちんだからだ。これも女性らしさに欠けると言われてしまう所以だろうか。でも、祐二はそんな私が良いと言う。着飾った、いかにも女性らしい女性よりも、「素」な私の方が魅力的でいやらしいと言う。祐二の妻はでも、女性らしかった。しなつくような態度もなければ、可愛らしい装いをするタイプでもなかったけれど、大人の女性の魅力が、その白いうなじから、そのほっそりとした足首から、その長い睫毛から、その濡れた唇から、こぼれ落ちているような気がした。たった一度しか見かけたことがないのに、その姿はやけに鮮明に私の脳裏にいまだ残っている。無論、比べるつもりも勝負するつもりもない。そもそもの土俵が違うからだ。

 携帯が鳴る。

 見ると、鈴子の名前と『メール着信あり』というメッセージが表示されていた。両脇に店の並ぶ通りの真ん中で立ち止まり、メールを開く。

―香奈、元気?久しぶりだね。実は今度、結婚することになったの。相手は二年くらい前からお付き合いしている人です。これから招待状を送るんだけど、その前にお知らせだけさせてください。

 文面の最後には結婚式の日程と会場であるホテルの名前、それに「忙しいと思うけど、ぜひ香奈には来てほしいです。よろしくお願いします」という丁寧な言葉が綴られていた。

 何よ、直接電話してきなさいよ。私は胸のうちで呟く。でも、電話をできない鈴子の気持ちを察することもできた。咲希の死をきっかけにできた透明な壁はいまだ静かにそこにあった。葬式のとき、最期の見送りを拒否した鈴子を非難した私は、そのあと、鈴子に対して優しい言葉をかけることができず、鈴子も鈴子で私に対して何か恐れているような、変に気を使うような雰囲気があり、あのときを境になんとなく二人の関係にぎこちなさが生じてしまった。そして葬式の日以後、私と鈴子が二人で会うことはなくなった。今でもかろうじてメールのやりとりや季節の挨拶程度の葉書きのやりとりは続けているが、互いにどこかよそよそしい感じがあるのは否めなかった。だからきっと、いざ鈴子から直接電話がきたら、私は動揺するのかもしれない。友達なのに。大切な、友達のはずなのに。

 ショーウィンドウに映る自分と目が合う。友人の祝い事を喜ぶ顔とは程遠い暗い顔がそこにあった。いけない。私は思い直し、背筋を伸ばす。いつもなら返事は三日後くらいに打つが、佐伯さんのように気にする子もいるのだ。私はすぐに返信をした。おめでとう、もちろん行くよ。選ぶ言葉はいつでも快活に、そして簡潔に。すぐに鈴子から返事がくる。ありがとう、また連絡するね、と。何気ない言葉なのになぜだろう。風船に降りおちる雨粒みたいに、鈴子の言葉が私の皮膚を弾いて、するんとすべるようにして地面に落ちて、黒い影を落とす。と同時に、胸にもやりとしたものが湧く。その正体が何か分からないまま、私は足早に駅に向かった。

 結婚式で着る洋服を買わなくちゃいけないな、と思う。靴は今日買ったパンプスがちょうどいい。なんて皮肉な天の配剤だ。私は苦々しく笑みを浮かべる。でもまあ、せっかくだ。なるべく汚さないよう、パンプスはあまり履かずにおこうと決める。

 来年、鈴子の結婚式の席で私はどんな気持ちでいるのだろう。私はそのとき、どんな自分でいるのだろう。そして久しぶりに会う鈴子に、私はどんな顔を見せるのだろう。

 空に思いを馳せて見上げても、答えは降ってきてはくれない。

8.

 ドアチャイムが鳴った。ドアスコープを覗くと、スーツ姿の祐二が体を揺すりながら立っていた。どうして?来るときには必ずアポイントメントを入れることは祐二と交わした最低限のルールのはずだ。それなのに、何の連絡もなしに突然の訪問だなんて―。

 動揺しながらも一瞬、腹が立った。でも、同時に嬉しさも胸に湧いた。

 また、チャイムが鳴る。部屋はさして汚くないが、テーブルの上にはまだ夕飯の残骸であるコロッケの食べかすがプラスチック容器に入ったままの状態で放置されてある。その隣にはビールの空き缶とチーズスティックの包み紙。それに、風呂あがりの今の自分の顔はすっぴんで眉毛もないし、上下スウェット姿で、こんな醜態をさらけだしたくはないけれど、ドアスコープから漏れる明かりで今さら居留守もできない。

「香奈、いるんでしょー。開けてー」

 ドアの向こうから遠慮のない声で祐二が言う。ああ、もう、と私は慌てふためきながらもコロッケだけはかろうじて台所に放り置き、小走りで玄関に向かってドアを開ける。

「会いたかったー」

 外の冷たい空気と一緒に祐二の体がするりと入り込む。そしてそれはすぐに、私の体を両腕で抱き寄せた。

「なんなのよ、突然。約束もなしに来るのはルール違反でしょ」

 声に不満をあらわにして訴えるが、体はなされるままに引き寄せられてしまう。

「ごめん。無性に会いたかったから」

 祐二はそう言うと、また一段と強く私を抱きしめた。酒の匂いはしない。酔っているわけではないようだ。祐二のスーツ越しに伝わる柔らかな感触。苦しいよ。私は言って、ゆっくりと祐二の体を引き離す。三和土に立つ祐二と、上り框に立つ私の視線は、ほぼ同じだ。寒さのせいで白い頬を赤くし、唇をピンク色に染める祐二は赤ちゃんみたいな甘い匂いを放っているようで、たまらなく愛おしくなる。

「入ってもいい?」

 私の返事を待たずに祐二は革靴を無造作に脱ぎ捨てると、部屋に上がり込んだ。ちょっと待って、と制するのも聞かず、ちゃんと片付けていないから、と恥じらうのも構わず、祐二はいつもの場所―ベッドを背もたれにした床の上にどさりと座り、ネクタイを外した。

「あ、揚げ物の匂い。もしかして駅前の肉屋のコロッケ?」

 テーブルに放置したままの空き缶を片付ける私の背に向かい、くんくんと鼻をきかせながら祐二は訊く。

「ばれた?あそこのおいしいんだよね。駅に着いたら良い匂いがするから、つい買っちゃたよ。チーズ入りの肉コロッケと、明太子コロッケ。私の今日の夕飯」

 うまそうだな、と言いながら祐二はあぐらをかき、勝手知ったる素振りでテレビをつけ、エアコンのリモコンをいじる。ピピッと、機械音がする。

「でも、普段はちゃんと手作りもしてるんだからね。いつも出来合いばかりってわけじゃないんだからね」

 冷蔵庫から冷えたビール缶を取りだしながら、訊かれてもいないのに言い訳するように私は言った。

「いーじゃん、べつに。出来合いでラクしたって。それはさ、怠けじゃなくて、工夫ってやつだよ」

 スポーツ番組に視線を向けたまま祐二はあっけらかんと言った。それって奥さんにも言えるの?と思いながらも缶ビールを祐二にさしだすと、祐二はサンキュと言って幼げな笑顔をみせた。

「ねえ、お腹空いてないの?何か食べる?簡単なものなら作るけど」

 冷蔵庫に戻り、なかを見ながら祐二に訊くと、

「いや、職場で食べてきたからいいや。今日の晩飯はね、弁当屋の焼き肉弁当。でもまあ、塩崎と一緒に残業しながら食べたから、せっかくの肉がまあずくて、まあずくて」

 祐二は一緒に営業をまわっている課長の名前をあげ、苦虫を潰したような表情を浮かべてみせたので、私はくすくす笑ってしまう。塩崎課長は眼鏡をした長身の細身の男性で、私は一緒に仕事をしたことはないけれど、ものすごく真面目で細かい人だと別部署の友人から聞いたことがある。あまりにも祐二とタイプが違うので、さぞかし気苦労するだろうと、私はつい、塩崎課長の方に同情の念を寄せてしまう。

「あ、燻製チーズもあるけどいらないの?」

 祐二はいらないと言う。思わず奥さん然として振る舞ってしまったことが急に気恥ずかしく、

「ルール違反は一度だけにしてよね」

 私は不服をあらわにして口を尖らせ、祐二の隣に座ってビール缶のプルトップを開けた。かんぱいとは口にせず、二人で缶を軽く重ねあわせる。

「ごめんごめん。違反は今日だけだから。まずはほら、先に一杯して、それから、ね」

 祐二はにやにやしながら言う。まったく、下品でえげつない。祐二はシャツのボタンを外し、ふっくらした胸板をのぞかせている。

「それからって、なんなのよ。いやらしい」

 私は呆れたように言いながら、でも、自分の体がすでに熱味帯びていることに気づいて苦笑する。これだから嫌なのだ。これだから困るのだ。体に温度を分けないでほしい。どうせいなくなるくせに。どうせ事が済んだら、甘いものを食べて、それから帰巣本能にしたがって戻るところに戻るくせに。

 いらないけど欲しい。うざったいけど愛しい。淋しいけど幸せ。祐二の突然の訪問は、私の気持ちをことごとく矛盾させる。

 毛羽立ったスウェットや眉毛のない顔にも無頓着で鈍感な、このぬいぐるみみたいな風貌の軽薄男が、どうしてこんなにも恋しくてたまらないのだろう。ビールをひとくち飲み、私は祐二にそっともたれかかった。そのとき、『天国と地獄』の賑やかなメロディーが鳴り響いた。祐二の携帯電話だ。でないでよ、と思ったが祐二は携帯電話を鞄から取り出して見るなり、「え、何だろう」と不安そうに小声で呟くとすぐに電話にでた。「あ、はい。はい。え?本当に?」もたれかかる私を片手で押し離し、祐二は深刻そうな顔をする。電話口からかすかに女の人らしき声が漏れ聞こえてくる。

「はい、今すぐ」

 祐二は電話を切ると慌てて立ち上がった。よろける私。

「ごめん、香奈。俺、帰るわ」

 手刀を切って詫びる祐二を下から見上げる。祐二の鼻の黒い穴がふたつ、よく見える。

「何かあったの?」

 祐二は困り果てた子供のように眉毛をハの字に下げ、落ち着きなく両手で両腿をさすっていた。

「いや、玲奈のお母さんからの連絡だったんだけど、ちょっと玲奈が体調崩して倒れたみたいで。今はもう大丈夫みたいなんだけど、まだ病院にいるみたいで。だからその、玲奈の様子が気になるから、ちょっと…」

 祐二は言う。あけすけに言う。玲奈、玲奈、玲奈。

 もう一つ、祐二と交わしていたルールがあった。奥さんの話をしてもいいけど、名前はださないで、と。嫉妬するつもりはないけれど、でも、名前を聞いたとたん、ふたりのあいだに現実が寝そべって隔たりができるような、興ざめするような、そんな感じに襲われるのが私は嫌だった。でも祐二は今、ルールを破っていることに気づくこともなく、慌てて鞄を手にとり玄関へ向かう。

「香奈、ごめん!この借りはいつか返すから!」

 背中を丸めて靴を履きながら、祐二は大きな声で言う。

「借りなんてもらってないからいいわよ。それより慌てないで、気をつけて行ってね。お大事に」

 見送りはせず、居間で膝を抱えた姿勢のまま私は返事をした。心配も同情も怒りも含まず、職場で指示を出すときみたいに平淡な口調で。

「悪い!サンキュウ!」

 祐二は気の置けない男友達に言うみたいに威勢よく言うと、駆け足で外へ出ていった。ドアの閉まる鈍い音。遠ざかっていく足音。

「鍵、閉めなくちゃな」

 私はぽつんと言った。

 祐二のいなくなった部屋はやけに静まり返り、孤独が際立つような気がした。突然のルール違反な訪問はまるで嵐だった。祐二の座っていたところに目をやると、祐二のネクタイがとぐろを巻いて置き忘れてある。拾い上げると、私の知らない猫のキャラクターが水玉模様のように全面にプリントされてあった。

「なにこれ?ウケ狙い?こんなのが営業の役に立つわけ?」

 誰に言うでもなくひとりごち、「バカ」と言って少し笑う。

 悔しいでもなく、悲しいでもなく、私はやけに冷静になってくる。あんなに祐二の突然の訪問に不甲斐なく嬉々とし、体だって熱味帯びていたのに、今はすっかり色気のない日常に戻り、下手すれば安堵までしている自分がいる。

 祐二は私のものではない。祐二はでも、玲奈さんのものでもない。たぶん、誰だって誰かのものにはなれないし、誰かを所有することはできない。ただ分かっているのは、祐二が帰る場所がここではないということ。それは明白なことだった。物理的な意味ではなく、精神的なものとして。祐二はここにいるときも、私と抱き合っているときでさえも、心は絶えず玲奈さんのところにあるのだ。

 私は重い腰をあげて玄関に行き、ドアの鍵を閉め、それからドアチェーンをガチャっとかけた。

9.

 また、夢を見た。

 いや、夢か現か分からないその狭間で、ぼんやりとしたまま私は咲希を見た。

 助けて、と咲希は言った。いつもいつも、咲希は助けてほしいと私に乞う。かなしばりにあっているみたいにでも、私は手も足も動かせず、何かを話そうとしても、出てくるのはかろうじて唸り声だけになってしまう。助けて、助けて。そう言われて、私は困った。でも咲希、私には何もできないんだよ。胸のうちで私は言った。次第に咲希の姿は薄くなり、靄のように消えてしまった。

 暗闇が、砂嵐のようにちりちりと揺れているように見える。最初から私は目を開けていたのだろうか、閉じていたのだろうか。判然としないまま空気を思いきり吸い込んだら、視界が完全に開き、揺れもおさまり、目の前がクリアになった。

 まっさらな薄闇にシェードランプの傘の輪郭がうっすらと見える。足元にもたついていた毛布を顎のところまで引き上げてかけ、サイドチェストに置かれた時計をみると、まだ夜中の二時四十分だった。その時計の隣には、祐二の忘れ物のネクタイが畳んで置かれてある。

 たとえばもし、私がそれを使って首を吊ったなら、祐二はどんな反応をし、何と言うのだろう。俺たちってそんなに深い関係だったの?香奈って割り切ってるんじゃなかったの?それとも―。

 私は天井に向かって、ふっと息を吐いた。ばからしい。そんなこと、する理由もないし、だいいち自殺ほど損なことはないということを、咲希の死をとおして痛切に感じたものだ。

 咲希が死んだあと、町にはいろんな噂が流れた。失恋よ、とか、いじめよ、とか、ノイローゼだったのよ、とか、なかには薬をやっていたんだって、なんて誰が流したのか突飛な噂まで駆け巡った。たいして仲良くもなかった小学校の同級生から突然連絡があって、おもしろ半分に色々聞かれたこともあった。咲希が化けて出てきたら怖いと怯える人もいた。咲希の葬式のとき、泣き女のように棺の前で泣いていた咲希の高校のクラスメイトの何人が今もなお、咲希のことを思い出し、悼んでいるというのだろうか。

 咲希が死んだところで世界は何も変わりはしない。本当に悲しんでくれる人にとっても結局は生きている今がすべてなのだから、どんなに悲しみに暮れても日常にやがて戻るし、戻らざるを得ない。 

 咲希が他界したあとに生まれた楽しいことが沢山ある。食べ物や映画やレジャースポットやファッションや、本当に数えきれないほどの様々なもの。私はそれらをいくらでも堪能できるのに、でも、咲希は決してそれらを享受することができない。そのことを思うたび、私はいちいち驚愕する。学習能力なく、何度でもそのことに驚きと空虚さを感じてしまう。生きていれば受け取ったかもしれない沢山の可能性を見す見す自分から手放してしまうなんて。

 ―そんなの分かってたよ。分かってたけど、でも、もう無理だったの。

 咲希の声がする気がする。仕方がない。何を考えたところで、苛立ってみたところで、咲希はもういないのだ。

「ねえ、咲希。なんで死んだの?」

 私は呟く。咲希が死んでからずっと抱いていた疑問が虚しく夜の闇に吸いこまれていく。いい加減、この質問がいかに無意味なことなのか最近になって分かりかけている。結局のところ、死んだ本人にしか理由なんて分からないし、ひょっとしたらその本人さえも分かっていないのかもしれない。いずれにせよ、知ったところでもう過ぎたことなのだ。巻き戻しはできないのだ。私が解決してやれることなんて、何一つないのだ。

「なんでなの」

 それでも執拗に私は呟く。

―ごめん香奈。うそうそ。私、本当は死んでないって。

 ふっと、あるとき突然咲希が笑ってあらわれるような気が、今でも時々する。ばかみたいに。

 私は深く息をついた。そして寝返りを打ち、再び固く目を閉じた。

10.

 ドアの前に立ち、インターホンを押そうとしたところで中から甥の高い笑い声が聞こえ、同時に鍵の開く鈍い音がして、姉が顔をだした。

「何?今来たの?ちょうど帰るところなのに」

 甥を重たそうに抱きかかえた姉は大きなショルダーバッグをたすき掛けしており、今日はいつもより化粧が濃いめにみえた。珍しくピアスもしている。

「どうぞ」

 姉に促され、姉と入れ違いに玄関にあがったそのとき、

「あ」

 姉が小さく声をあげた。

「香奈のそれ、私も色違い持ってる」

 私の姿を下から上まで舐めるように見たあと、姉は私の肩にかけていた小ぶりのバッグを指さした。

「私の真似、したんでしょ」

 姉は得意気な顔をしてみせた。冗談なのだろう。幼少の頃からいつも、私が姉と同じものを選ぶと、それがたとえ完全なる自分の意志によるもので姉の影響はないとしても、「私の真似したんでしょ」と姉は言って、こちらがいくら否定しようともそれを譲らなかった。

「真似じゃないわよ。私、お姉ちゃんがそれ持ってたのも知らないし」

 でも、何年経っても、いまだに私はそれを軽く受け流すことができず、つい本気で反論してしまう。

「あ、そ」

 姉はつまらなそうに肩をすくめる。昔と違うのは、こうして姉の方から私の反論を受け流すということだ。昔は私が泣き出すまで執拗に「真似、真似」と言われたものだ。

「あ、ブスだ」

 コアラのように姉の体に両手両足をからめて抱きついていた甥が突然、私の顔を指さし、にやりとして言った。姉が豪快に笑う。

「ごめんね、この子。なんでも正直に話しちゃうの」

 これもまた、冗談なのだろうか。

 私は苛立ちを感じたがしかし、五歳児を前にそれを全面にも出すわけにもいかず、

「憲太くん、お口には気をつけないと、災いの元よー」

 優しい声音で柔らかなほっぺを突いてやる。すると甥はきょとんとし、「災いってなに?」と姉に訊くので、

「ちょっと、いじわるなこと言わないでよね」

 姉は本気で気分を損ねたように眉根を寄せた。それから腕時計を一瞥すると、「沙帆がもうそろそろ帰ってくるから行かなくちゃ。今日はこのあとピアノのレッスンがあるんだから。あー、忙しい。主婦って本当にやることが沢山あって忙しいんだからね」と言うとにこりと微笑み、たくましく甥を片腕に抱えたまま、「じゃあね」と去っていた。相変わらずあっさりとしたものだ。そのあっさりに、私は今まで何度傷ついたか分からない。

「まだ玄関にいるのー?」

 部屋の奥から母の声がする。私は家にあがり、短い廊下を歩き、居間に続く扉を開けて目を丸くした。

「二人で何話してたの?玄関は寒いでしょ」

 母に訊かれたがそれには答えず、

「どうしたわけ?泥棒でも入ったの?」

 私は思わず息をのんだ。

 居間の床には赤や黄色や緑色のカラフルなレゴブロックが散乱しており、飾り棚にあるはずの日本人形や工芸品の数々も無残な姿で転がっていた。さらには切り刻まれた折り紙がテーブルやらサイドボードのうえやらありとあらゆるところに散らばっている。家のなかを台風が横切ったみたいだ。

「いつものことでしょ。やんちゃのさかりなのよ」

 腰を折り曲げ、四つん這いになった母はそれらをもくもくと拾い集めていた。テレビ画面には幼児向け番組のDVDが流れたままで、着ぐるみの熊が踊りながら聞いたことのない英語の歌を歌っていた。

「お姉ちゃんたちに片付けさせればいいじゃないのよ」

 私もバッグをおろし、コートも脱がないまま一緒にそれらを拾い集める。小さなレゴブロックには憲太くんの遊びだろう、星のシールが沢山貼られてあり、埃と一緒にそれらはきらきらと光った。

「あの子もね、忙しいのよ。べつにこれくらいしてあげたって減るもんじゃないし、口出ししないでちょうだい」

 丸めた背中を向けたまま母は言う。今に始まったことではないけれど、私は思わずため息を漏らす。長女の沙帆ちゃんが生まれたときも姉は実家を保育園代わりにして日中ここで過ごし、自分は何もせずにすべてを母に任せ、部屋のなかを荒らしに荒らしたあと何も片付けずに夕方になると平気な顔をして自分の家へ帰るのだった。そのたびに一人で片付けをするという母が私は不憫でならなかったが、当の母自身はそれを特に不憫とも感じていないようで、私にとってそれは理解不能なことでもあった。

「ああ、いけない。忘れていったわ、これ」

 小さなミニカーを拾い上げた母の顔を見て、私は再び目を丸くする。

「ちょっと!どうしたの顔!傷があるじゃない」

 母の鼻のあたまには切り傷があり、盛りあがった血が黒く固まっていた。顔だけではない。母の着ているセーターの胸部分には赤いマジックでバッテンやらマルやらサンカクが派手に落書きされている。すぐに検討はつく。憲太くんの仕業だろう。

「孫がかわいいのは分かるけどさ、いくらなんでもひどすぎるんじゃないの?」

 私は呆れを通り越して悲しくなってしまった。

「たいしたことないわよ。ちゃんばらごっこしてたら、ちょっと物差しが顔に当たっちゃっただけよ。この服だって、もう古くてそのうち捨てる服なんだし」

 それが正当でもあるように母は口早に言う。

「なにそれ?甘やかすのもいい加減にしたら。そんな怪我までして、私からお姉ちゃんに言ってやろうか」

 立ち上がり、母を見た。とたん、母は私を見上げ、

「冗談じゃない!絶対にそんなこと言わないでよ!」

 大きな声をだした。

「あのね、子供っていうのはね、こういうものなの。伸び伸びとやらせてあげないといけないんだよ。それに沙奈だって忙しいんだから協力してやらないと…。それが、家族ってもんだろう。香奈だって、子供持ったら分かるわよ」

 母は続けざまに言った。DVDが終わり、ENDの文字が表示がされるとテレビの画面は真っ青になった。

「なんなのよ、こっちは心配して言ってるのに。私には理解できないよ。だって、自由に伸び伸び育てるのと、何も教えないで野放しにしておくのでは意味が違うじゃない。お姉ちゃんだって、少しはお母さんに感謝したっていいんじゃないの?私が言ってることって、間違ってる?」

 つい、私も声を荒げた。悲しかったのだ。母のことを慮って言ったことがまったくべつの意味となって受けとめられ、そして吐き捨てられたことが。

「何言ってるの?香奈がとやかく言えることじゃないでしょ。香奈のために大学入るまで離婚しないで頑張ってきたっていうのに、就職したとたんこの家を出て、私のことを置いていったあんだが。あのね、沙奈はね、結婚してもずっとこの近くに住んでくれてるの。しょっちゅう私に会いにきてもくれるの。あの子に恩知らずだなんて言えた義理、香奈にはないんだから」

 責めるように母は言った。私は絶望した。何も分かってくれやしない。何も認めてくれやしない。母も姉も、私とはまったく違う。そもそもの考えの土壌が違うのだ。どんなに理解を求めたとしても、だからそれは不毛なことなのだ。

 母はリモコンを手に取りテレビを消すと、無言でブロックをプラスチックの収納ケースに片付け始めた。丸まった背中から母の不満が漏れ伝わってくる。私も納得できないまま、無言で日本人形や工芸品を飾り棚の定位置に戻していく。しばし気まずい空気のまま時間が過ぎたが、母は溜息ともとれない大きな息を一気に吐き出すと私に向き直り、「これ、沙奈がありがとうって」と床に置かれてある紙袋を指さした。なかを見ると、以前に貸したデジタルカメラが入っていて、その横に近所のスーパーマーケットの包装紙で包まれた何かも一緒に入っている。開けてみると、絹織の腹巻が一枚入っていた。

「何これ?お姉ちゃんから?」

「違うよ。それは私。これからどんどん冷えるだろうから、それしなさい。仕事、忙しいんでしょうから。無理はしないのよ」

 母は仏頂面のまま言う。とたん、私の鼻はつんとする。急に込みあげるものがあったからだ。と同時に、一緒に母と住むことのできない自分に対する罪悪感も湧いた。

「ありがとう」

 決まり悪く、小さい声で言った。

「べつにいいのよ。また来月になったら暖かい靴下、買ってあげるから」

 ぶっきらぼうな声音の調子とは裏腹に、母がいまだ私を小さな子供の頃と変わらずに心配してくれているのがよく分かる。もう帰ろう、と思った。暮れかかる前に帰ろうと。本当は、手土産に持ってきた母の好物である羊羹を一緒に食べてから帰ろうと思っていた。でもこれ以上一緒にいたら、私はいたたまれなくなって、きっと泣いてしまう。日が暮れてしまったらきっと、私は母を置いて帰れなくなる。それで片付けを終えると私はテーブルのうえに手土産をそっと置き、自分の家でしなきゃいけないことがあるからもう帰るね、と母に嘘をつき、家を出た。

 まだ明るい空のした、私はコートの襟を上げ、足早に駅に向かう。歩きながら、母はきっと姉がこの町から去ってしまうことが怖いのだろうと思った。父が去ったように。私が去ったように。そう思うと、胸がきしんだ。でも、私はもうあそこへは帰れない。二度と帰りたくはないのだ。

 人気のないホームに立ち、滑り込む電車の殴るような風にスカートを翻す。私は帰る方向とは反対方向の電車に乗り込んだ。


11.

 日が落ちるのが早くなり、あたりはだいぶ薄暗く、歩いている途中、公園のなかの街灯の明かりが一斉に灯った。ジョギングやサイクリングをするのにも最適な広さを持つこの大きな公園は、子供の頃からの馴染み深い公園であり、当時の恰好の遊び場でもあった。最近は木々や道が整備され、数メートルおきにベンチが増設されたり自動販売機の数が増えたりと、以前よりも明るく、すっきりとした印象になった。舗装された道の端には赤や黄色や茶色の落ち葉が寄せ集められていて、街灯の明かりの届かない鬱蒼とした木立のなかはいっそうと暗さが増し、そこから犬を散歩させている人たちの枯葉だらけの地面を踏む乾いた音が聞こえてくる。

 私は街灯に照らされた道のうえを一人、薄い影を連れて歩く。このまま道なりに進んでいくと左折する道があらわれ、そこをまた道なりに進むと中央広場に出る。そこには大きな桜の木がいくつもあり、春になると美しい花が一斉に咲き乱れ、青々とした広場は花見客で溢れかえる。今はでも、芝生は枯れ、木々たちも寒々しい姿をしていることだろう。

 前方から自転車のヘッドライトの白い光が見える。高校生らしい男女が連れ立って歩いてくる。男の子が自転車をひいて歩き、その隣で女の子が嬉しそうな顔をして話している。私がもし引っ越しをしていなければ通うことになったはずの高校の生徒だろう。女の子はピーコートを着ていて、丈の短いチェック模様のプリーツスカートを穿いている。さほどレベルの良くない学校ではあるが、制服はかわいい。確か、シャツに付けるリボンがあり、そのリボンが何色かあって選べたような気がする。

 通り過ぎざま、女の子が私の手元をちらりと見やり、微笑んだ。私は大きな花束を抱えていた。駅前の花屋で見繕ったものだ。くすんだミルクティー色のバラと、深紅色のダリアを合わせた花束。まったく、手向ける花としてはふさわしくないだろう。花屋の店員もまさか、それが死んだ子に向けられたものとは想像すらしないだろう。でもきっと、咲希なら喜んでくれるだろうと確信に満ちて私は思う。

 中央広場に続く道を通り過ぎ、そのまま直進し、自動販売機を目印に道から外れて雑木林のなかを行く。夜気を吸い込んだ土が冷たくて固い。常緑樹の深い緑繁る暗いなかを少し歩くとぽっかり開けた場所があり、そこに一本の小さな桜の木がひっそり佇んでいた。中央広場にあるものと比べると何とも華奢で健気な桜の木だが、根はしっかりと太く、幹はごつごつとしてたくましい。

 咲希はここで死んだのだった。器用に縄跳びのロープを使い、首を吊って。

 咲希のばか。私は呟く。屈み、根元にそっと花を置いた。命日の頃はもちろん、それ以外でも、ふと私はここを訪れ、その都度、華やかな花束を咲希に手向けていく。手なんて合わせない。ただ、心のなかで語りかけるだけだ。もちろん、もうこんなところに咲希の魂がとどまっていないことは知っている。というよりも、そう望んでいる。もうとっくに成仏しているだろうと信じている。だけど、ここに来ると咲希に語りかけずにはいられない。どうして死んだのよ、咲希。少しは私に悩みを打ち明けてくれてもよかったのに―。無論、返事はなく、ただ風に吹かれた枯葉の音がするだけだ。

 私はしばらく咲希に語り続けた。

 懐中電灯片手に犬の散歩をする男性が私に気づき、ぎょっとした顔をして通り過ぎていく。夜になると薄墨色の景色に覆われ、ここは不気味だ。なのに私は不思議と安らかな気持ちになってくる。

 小学生の頃、私と咲希と鈴子の三人でよく、この場所で小さなお花見会をした。親に作ってもらったお弁当をそれぞれ持参して、それは心愉しい、密やかなピクニックだった。この公園を訪れる人のほとんどは中央広場にある桜の木のもとで宴を開いていたので、私たちの場所はちょっとした穴場となっていた。

 鈴子の持参したレジャーシートのうえに座り、三者三様のお弁当を広げた。鈴子のお弁当はおむずびとウィンナーとピーマンの炒め物に玉子焼き、それとミニトマトと茹でた人参の入った中身の充実したもので、味付けは素朴で優しく、きっとこういう食べ物が鈴子のおっとりとした性格をつくるのかな、と子供心に私は思った。咲希のお弁当はやはり咲希らしく、いろどり豊かなお弁当で大抵がサンドイッチ、それも卵やポテト、ハムやチーズや野菜などの様々な具材を挟んだ豪華なサンドイッチで、それにマカロニサラダと付け合せのフルーツもあり、いつも身ぎれいにしている咲希の母親らしい料理だと思った。私はだから、いつもちょっと恥ずかしかった。持参したタッパウェアのなかには手作りを装ったクリームコロッケや、グリーンピースとトウモロコシの粒の茹でたものやミニハンバーグが、澄まし顔をして堂々と入っていたからだ。

「うわあ、香奈のママって料理上手なんだね」

 天然キャラの鈴子が的外れにそう言ったことがある。すべてレンジでチンしたものだというのに。

「普段うちは冷凍食品を食べさせてくれないから、香奈のおかずはいつも楽しみなの」

 嫌味ではなく、咲希は本当にいつもおいしそうに私のおかずをつまみ食いした。本当はみんなのお弁当のように手作りのものを私も食べたがったが、家計のために忙しく働いている母にそんなわがままは言えなかった。でも、だからこそ、この花見は特別だった。それぞれのないものねだりを満たす絶好の機会だった。それぞれがそれぞれの家のお弁当をつまみ食いする楽しさ。鈴子は、「うちっていつも地味な和食だから、こういう洋風のものに憧れるよ」と咲希のサンドイッチをかぶりつくようにして食べていたっけ。

「あの頃、楽しかったね」

 桜の木に話しかけてみた。目を閉じても閉じなくても、あの頃の様子は今でも色鮮やかに思い浮かべることができる。

 薄紅色の桜の花びらがひらりと舞い落ちて、咲希の水筒のコップに落ちた。咲希は笑って、それをそのまま飲みこんだ。おいしい?と訊いたら、咲希は分からない、と言ってけらけら笑った。鈴子はお尻が冷たくなってきたと言って立ち上がり、青い空を見上げて両手を万歳のように天に伸ばした。何してるの?と訊いたら、空とお話し中なの、と意味の分からないことを言ってくすくす笑った。これだからお嬢様二人は嫌になるのよね。小学生時分の私はちょっとお姉さん気取りで肩をすくめたっけ。

「なにもこんな思い出の場所を選ばなくたってね」

 桜の木肌はがさがさで、でも触れると生温かく生気に満ちている。

「ねえ、あなたもとめてやってよ」

 桜の木に愚痴をこぼしたところで桜の木も困ってしまうだろう。

 三人でお弁当を食べて、おしゃべりをして、それが済んだら追いかけっこをして、かくれんぼをして、わけもなく走りまわって、無邪気だったあの頃は本当に悩みなんてなかった。悩みなんてない―、いや、そうだったろうか。忘れた。記憶はいつでも塗り替えられる。 

 三人で遊んで息を切らし、夕陽に影が伸びるころ、私はいつも悲しくて怖かった。みんなはきっと、家に帰れば温かいご飯やお風呂が待っていたのだろうけれど、私はひとりぼっちの暗い部屋に戻るしかなかった。父も母も仕事でいなかった。姉はその頃中学生で、夜遅くまで吹奏楽部の活動に励んでいた。みんなに手を振りひとり帰る途中、小高い丘の上から心もとない気持ちで暮れゆく町を眺めた。橙色の太陽が家々の背後に沈んでいく。私の影が伸びていく。思い出は甘さとともに苦さも含んでいる。だから私は忘れたかったのだ。甘さだけを残して、苦さはすべて忘れたかった。でも咲希の死のせいで、甘さも苦さもすべてが虚しさにとってかわった。

「生きていると辛いことばかりね」

 無意識に口を突いて出た言葉に私は思わず笑ってしまう。辛いの?私って。胸に手を当てる。ひょっとしたら、そうなのかもしれない。今まで誰かに本気で愛された記憶も、認めてもらった記憶もない。ただがむしゃらに、あるいは坦々と、毎日を生きてきた気がする。

 ねえ、咲希も辛かったの?辛いから死ぬことにしたの?

 胸のうちで問いかける。咲希は一体、どんな気持ちでここをひとり訪れたのだろう。普通の精神では絶対できないことだ。よほど追い込まれていたのだろうか。一体なにに?―考えても仕方のないことを、また、考えてしまう。体が冷えてきたので立ちあがり、私は手をこすりあわせた。

 またね、咲希。

 私は言う。木々の梢の合間から、夜闇に浮かぶ薄っぺらい白い月がぼんやり見えた。

12.

 ひよこの絵柄のついた販促品のホッカイロに、六つ折りにしたチラシをセロテープで貼り付けていく。店は静かで、私と佐伯さんが作業する音と、木村支店長が端末のキーボートを叩く音だけが響いている。

「すっかり冬ですねー。一年経つのって早いですねー。なんだか年々早くなる感じがしちゃう」

 隣で佐伯さんが間延びした調子で言う。

「本当にあっという間だよね。すぐ年とるわけだわ」

 私が言うと、それを黙って聞いていた木村支店長がぷっと吹き出し、「若い二人がずいぶんと淋しいこと言わないで。だったら私なんて、すぐに棺桶に片足つっこんじゃうようだわ」と言って三人で笑ったそのとき、自動ドアが開き、モヘア帽を目深に被った老婦人がひとり入ってきた。

「種田様、いらっしゃいませ」

 立ち上がり、礼をした。カウンターに広げていた作業途中のカイロを佐伯さんが静かに自分の方へと寄せた。

「ご無沙汰しています。お元気でしたか?もう少しでご旅行ですよね。先日、ご主人様もいらして、楽しそうに計画をお話されていかれましたよ」

 常連である種田様の夫人がひとりでやってくることは珍しい。それを気にしながらも私は笑顔で目の前の椅子を勧めた。色白で小柄な種田夫人はうすく微笑んだあと、

「それがね、キャンセルをお願いしようと思って今日は伺ったのよ」

 と申し訳なさそうな顔をみせた。開襟のコートの襟元から大きなカメオをつけたファーがのぞいている。

「どうかされたんですか?」

 私は訊いた。佐伯さんも木村支店長も手をとめてこちらの様子を窺っている。夫人は小さく息をつき、

「主人がね、ちょっと体調を崩してしまって入院したんです。今はもう退院して大丈夫ではあるんですけど、この寒いなかに新潟って、結構遠いでしょう?旅行はしたいんですけど、そこまで遠出するのはまだ不安で…。とても楽しみにしていたし、荻野さんにも色々と相談にのってもらっていたから心苦しいんですけれど、なんといっても年ですから、無理して何かあるとまわりにも迷惑をかけるでしょう。それで、今回は諦めましょうってことになったんです」

 そう言うと夫人は小さなハンドバッグのなかから財布を取りだした。ひょうたんの根付けが揺れる。

「本当にごめんなさいね。キャンセル料はおいくらになるのかしら?」

 夫人の落胆した様子から苦渋の決断だったことが伝わってきて、私も辛くなってしまった。種田様にとって旅行は本人も言うように生きる糧になっているのはよく知っているし、夫人にとってもそれは同様であることを、これまで何度も旅のお手伝いをさせてもらい充分に承知している。お節介は性に合わないし、客を贔屓するつもりもないが、でも種田様は特別だった。毎回旅の報告をしてくれて、色々な話題を提供してくれる種田様から、私は物理的な利益ではなく、精神的に何か温かいものをいつも受け取っていた。

「だったら種田様、近場に変更されてはいかがですか?もしご体調が許すなら、今からすぐに種田様に満足いただけるような宿を探して手配させていただきます。変更料は生じますが、それでもまったく予定がなくなるより、行ける場所で楽しい時間を過ごされるのはいかがでしょうか」

 私はただ、役に立ちたかった。それで気づけば身を乗り出すようにして提案していた。夫人はちょっと驚いた顔をしたあと、笑みをこぼした。

「そうねえ。だけど、こんな急にお宿なんてとれるのかしら?ご存知のとおり、あの人、宿にこだわりがあるから、良いお宿でないと納得しないかもしれないわ。意外と頑固だから」

 眉間に皺を寄せながらも夫人の声が嬉々としていることに私は気持ちを良くし、すぐに頭のなかで勧めるべき宿を探った。箱根、伊豆、鬼怒川、伊香保―。

「荻野さん、今日、そういえばキャンセル一つ出たんじゃないの?あそこは?」

 木村支店長が席を立ち、私のうしろに回り、箱根にある高級旅館の名前を挙げた。なかなか予約のとれない人気の宿だが、午前中に急遽キャンセルが出たのだった。まだ今なら間に合うかもしれないわよ、と支店長に急かされ、すぐに確認を入れてみると部屋はまだ空いたままだった。佐伯さんが慌てて席を立ち、ヒールの音を忙しなく響かせながらその旅館の掲載されてあるパンフレットを二部用意して、カウンターテーブルの上にのせた。

「種田様、箱根の強羅にあるこちらの旅館なら今ならお取りできます。箱根ならロマンスカーで新宿から一時間ほどですし、こちらの旅館はお湯も熱すぎず、お体に優しいですし、お料理も和懐石で大変おいしくて評判の宿です。お部屋からは箱根の大文字が見えます。いかがでしょうか」

 夫人は目を細め「素敵ね」と微笑んだ。

「でも私ひとりでは決められないし、主人と相談しないと」

 遠慮がちに言う夫人に、

「それはもちろんです。ご体調が一番ですし、あくまで提案ですので、考えてみて、やはり今回は見送りにされるならもちろんそれでまったく構いません。仮に検討中にこちらの宿の予約が埋まってしまった場合でも、他にも種田様にご満足いただけそうな宿をいくつか探しておきます」

 はきはきと私は言った。誰かのために何かをすることは、それが結果的に余計なお節介だったとしても、体に力がみなぎってくる。やりがい、なんて言葉を久しぶりに私は思い出していた。

「なら、今すぐに帰って主人と相談して連絡します」

 夫人は嬉しそうに言った。

「きっと主人なら、あなたの提案するところなら間違いないと言うと思うわ。ただあとは体の調子の問題ね。でもなんとなく大丈夫そうな予感がするわ」

 夫人は声を弾ませた。来店時とは違う、頬を紅潮させた顔を見て、私も木村支店長も佐伯さんも、みんなでひとまず胸を撫でおろした。

「香奈さん、今ちょっと、ドラマに出てくる熱血仕事人って感じでしたよ」

 種田夫人を見送り再び作業に戻ると、佐伯さんがからかうように言った。

「本当ね、荻野さん、今、燃えてたわね」

 と木村支店長も楽しげに言う。

「ありがとうございます。お二人のご協力のおかげです」

 私も満足な心持ちだった。実際に箱根に行く行かないは種田夫妻の自由であるけれど、出来る限りの最善は尽くしたい。時に恥ずかしい熱血仕事人になったとしても、だ。

「あ」

 佐伯さんが声をあげた。

「そういえば、香奈さん知ってます?山井さんのところ、奥さんがおめでただって。昨日、香奈さんがお休みの日に山井さんが来て、嬉しそうに話してたんですよー。わざわざノロケにきちゃって。昔と違って今なら妊婦さんも温泉大丈夫だし、山井夫妻にも今度温泉でも勧めてみましょうか」

 佐伯さんが愉快そうに言う。

 私は目をしばたたかせた。カイロにチラシを貼る手がとまる。

「へー、全然知らなったよ。おめでたいね」

 声、震えていなかっただろうか。無理やり笑顔をつくったら、左頬が小さく震えた。木村支店長がこちらを見ているのが視界のすみに入ったけれど、私はもう一度、「良いお知らせだね」と精一杯の祝福を、空っぽの気持ちのまま笑顔で言った。

13.

 アポイントメントの時間どおりに祐二はやってきた。

 扉を開けると、いつものようにまるでもう一つの我が家に帰ってきたかのように部屋に上がり込み、ネクタイを緩める。片手にさげたビニール袋を掲げ、

「これ、土産。うまそーなカレーパン。一緒に食べて太ろうぜ」

 楽しげに祐二は言う。

 私はスウェット生地のワンピースにレギンスという出で立ちのまま、胸の前に突き出されたそれを受け取る。

「ありがとう。おいしそう」

 個装されたカレーパンは時間が経っていたのか、油分が染み出ていて透明な袋を汚している。コンビニのカレーパンなんかで喜ぶと思われているなんて、自分はなんて安い女なのだろう。

「ちょっと失礼」

 祐二は床にあぐらをかき、リモコンをとってテレビをつける。祐二の渦巻くつむじ。柔らかそうな祐二の髪の毛は先のほうが脱色していて、照明の明かりのもと、それは少し金色に見える。

「それさ、前から食べてみたかったんだけど、家で食べると奥さんがうるさいんだよなあ。ダイエットしろって、しつこくて。おいしいものが人生をいかに豊かにするかを知らない人なんだよなあ。俺らと違って」

 祐二はテレビに視線を向けたまま喋っている。テレビは今日行われた野球の試合結果を伝えている。

 台所に立ちながら、私は特に相槌も打たずにビールとつまみの準備をし、カレーパンをレンジで温めていた。たぶん今までなら、そうだよねえ、なんて笑って相槌を打って、安い女でも構わないと二人でおいしくカレーパンを平らげていただろう。だけど、今は憎しみが湧いている。自分でも不思議に思う。分かっていたことなのに。彼には妻がいる。妻と別れるつもりがないのも知っているし、別れて欲しいとも願っていなかった。だから祐二がいずれ子供を持ち、父親になる可能性があることも知っていたはずだ。それなのに今、目の前で呑気に腹を突き出して、人の家でくつろぐ祐二の姿を見ていると、胸のあたりがもやついて、大らかでいられない自分がいる。

「うわっ、なんだよ、お化けかよ」

 真剣にテレビに見入っている祐二のうしろに立ったら、振り向きざま祐二は飛び跳ねて驚き、そして笑った。

「カレーパン持ったお化けはないか」

 愉快そうに祐二は言う。私は無表情のまま、皿に乗ったカレーパンを荒々しくテーブルの上に置いて祐二の隣に座った。

「私に話すことないの?」

 祐二は、何が?、と声には出さずに首を突出し、目で問いかける。

「今日、佐伯さんから聞いたの。奥さん、おめでたなんだってね」

 低い声で言うと祐二は一瞬黙り、それから大きく吹き出した。

「嘘!まじ?お前、まさか焼いてるの?」

 祐二は笑いながら私の手を引っ張り、自分の胸に抱き寄せた。柔らかな肉々しい感触。祐二の体はいつも赤ちゃんみたいにほっこり温かい。

「意外だな。香奈がそういう態度みせるなんて」

 私は抱かれたまま黙っていた。頭のうえから祐二の声が降ってくる。

「そうなんだよ。まだいらないって思ってたんだけど、子供、できちゃったんだよね。ま、こればっかりは授かりものだからね」

 祐二の心臓は規則的にゆっくりリズムを刻んでいて、私の心臓はやけに早いリズムを刻んでいる。

「だからさ」

 祐二は言って、体をほどき、私の瞳をじっと見つめた。

「もっと会いたい。これからはもっともっと、香奈に会いたい」

 そう言って、また、強く抱き寄せた。なんてデリカシーのない男なんだろう。なんて下劣な男なんだろう。私は思う。ここで乱暴に突き放して、三行半でも下せばいい。二度とうちに来ないでと強く言えばいい。そう思うのに、体は磁石みたいに祐二に吸い寄せられて離れられない。油の匂いがする。カレーパンの油が皿に滲みだしている。祐二の唇が私の唇に吸いつく。離せばいい。突き放せばいい。なんて屈辱だろう。なんて無様なのだろう。でも私も祐二に吸いつく。必死に吸い付く。抗えない。私の体も熱味帯びる。

 耳元で祐二が愛していると囁いた。あけすけに囁いた。祐二の体が覆いかぶさってくる。

 そのとき、私の瞳から落ちた一筋の涙に、祐二はきっと、気づきもしない。


 

 夢を見た。

 また、いつもの夢だ。

 暗闇のなか、少女が歩いている。顔はよく見えない。足早にどこかに向かっている。淋しさだけが彼女の胸には詰まっている。

 一本の桜の木の前で少女は立ち止まる。そしてためいなく木によじ登り、ロープみたいなものを枝にくくりつける。そして輪っかにしたロープらしきものに頭を突っ込み、身を投げる。苦しんでいる。もがいている。助けて、助けて、と声がする。

 助けて。助けて。

 その声が夢と現のあいまで響き、そしてそれは実際の私の耳にまで聞こえ始める。 

「助けて!」

 私は自分の叫び声で目を覚ます。両眼から涙がこぼれ落ちて枕を濡らし、心臓が激しく鳴っていた。

 上半身を慌てて起こし、私は必死に息を整える。洗面所に走り、冷たい水で顔を洗った。鏡のなかの顔が、真っ青になっている。

 夢から覚める寸前、少女の顔がはっきり見えた。

 それは咲希ではなく、私自身の顔だった。

14.

「今日はお客様の多い日でしたね」

 端末の電源を落とし、カウンターの後片付けをしながら佐伯さんが言う。今年も残すところあと二週間になった。街はすっかりクリスマス一色だ。佐伯さんはこれからデートらしく、いつもより目元にパールのカラーが入り、メイクにも気合が入っている。

「香奈さん、ちょっと痩せました?」

 ふと佐伯さんが私の顔を覗きこんだ。

「全然。むしろ太っちゃったよ。最近、クリスマス向けのおいしそうなものが沢山あるからさ」

 笑ってみせた。本当は少し痩せた。ここのところ食欲があまりなかった。頬紅を多めにつけて、接客中は通常どおり元気に働くものの、客が去ると、とたんに覇気を失う感じがしていて、それは佐伯さんにも伝わっていたようだ。

「なら、いいですけど。年末になると、疲れが溜まってきますもんねー」

 あ、いいエステ知ってますよ、私。と佐伯さんは特にしつこく気に掛けることなく、最近お気に入りだというサロンを紹介してくれた。私はふっと笑顔でそれに応えたあと、視線を落とし、小さな紙の包みを見つめた。

「種田様、とても喜んでいましたね。香奈さんに寄せる信頼がさらに大きくなったって感じ。私まで、あの笑顔見てたら嬉しくなっちゃいましたよ」

 私の手元を見て佐伯さんが言う。

 種田夫妻が本日、ふたり揃って来店された。箱根の強羅にある宿に宿泊した感想を伝えるために、わざわざ来てくれたのだ。種田夫妻は部屋にも温泉にも食事にも大満足したと、心からの感謝を伝えてくれた。「香奈さんはさすがだね。あなたに訊けば間違いない」と自分には大きすぎるほどの太鼓判まで押してくれた。土産にと、私たち三人には温泉まんじゅうを、私個人には寄木細工の小さな容れ物をくれた。胸が満たされた。ひょっとすると、泣きそうにもなった。荒れていた気持ちに思わぬところから塗られた軟膏は、思いのほか心に沁みた。

 祐二とはでも、結局今も続いている。別れるなんて言葉を自分から言える気もなく、祐二から別れを切り出すなんてこともありえなそうだ。下手すれば、そもそも俺たちってそういう関係だった?なんて、遠慮なく言われてしまいそうな気すらする。

 ただ削れていく―。

 祐二と会うたびに、最近はずっとそんな心地がしている。

「お先に失礼します」

 佐伯さんは身の回りを整理すると、語尾に音符をつけたような調子で言って、意気揚々とカウンターをあとにした。

 私と木村支店長はいつもどおり、残りの処理や雑事をしてから退社する。

「荻野さん」

 帰ろうとすると、私服に着替えた木村支店長に声を掛けられた。

「今日よかったら、少しお茶でもどう?」

 珍しいな、と思った。木村支店長はプライベートを重視するタイプなので、業務外の時間に声を掛けてくることは今までほとんどなかった。

「あ、はい。ぜひ」

 私はでも、特に気にせずそう答えた。断る理由もなかったからだ。木村支店長は嬉しそうに顔をほころばせると、まんまるとした笑顔を私に向けた。

 木村支店長と入ったのは前に佐伯さんと二人で入った珈琲ショップだった。私も木村支店長もホットコーヒーを注文し、勘定は木村支店長が済ませてくれた。

「荻野さん、大丈夫なの?」

 ソファに腰をおろすやいなや、木村支店長は言った。

「何がですか?大丈夫ですよ」

 とっさに答えたものの、表情は嘘をつけずに固い笑顔になった。だって、最近は全然大丈夫なんかではなかった。毎日、少しずつ壊れていくような気がしている。自分を動かすエネルギーを貯めるタンクがあるならば、そこにヒビが入って、少しずつ漏れていくような、でもどうすることもできないような、そんな感でいた。

 木村支店長はいたわるような瞳を私に向けていた。薄い藤色のタートルネックのセーターにウールのタイトスカートという出で立ちになった木村支店長は、制服姿のときよりも幾分若く、柔和で優しい雰囲気に見えた。

「近頃、ちょっと荻野さん、元気ないわよ。それに疲れてみえるし」

「そうでしょうか」

 私は姿勢を正したまま、珈琲の入った白磁のカップのつるんとした縁を指先で撫でた。

「山井くん」

 木村支店長は言った。突然発せられた祐二の名前に私の体は分かりやすく反応してしまう。

「仕事以外のことに口を出すつもりはないけれど、自分を大事にしないといけないわ」

 木村支店長はお説教といった調子でも、何かを諭すような調子でもなく、さらっと言った。私はうまく返事ができず、うつむき加減のまま口ごもった。木村支店長はすべてを知っているようだった。それもそうだろう。同期の友人からもそんな噂があると、つい先日聞かされたばかりだ。そんなことあるわけないでしょ、とそのときは笑ってごまかしたものの、このまま続けていたら、祐二との関係が明るみになるのは時間の問題なのかもしれない。そうしたら、私はどうするのだろう。仕事を辞めるのだろうか。

 木村支店長は珈琲を一口飲んで、店内を見回した。

「ここ、清潔な店でいいわね。私、この店に入るの今回初めてなの。荻野さんは?」

 急に話題が変わり、私は慌てて「先日、佐伯さんと」と答えると、

「佐伯さんね。あの人、なかなかいいわね」

 木村支店長は笑顔で言う。

「なんていうか、いまどきの子なんだけど、力の抜き具合をよく知っている感じで」

 木村支店長の言葉に私も「そうですね」と相槌を打つ。店はひっきりなしに人が入ったり出たりを繰り返し、そのたびに自動ドアの開閉する音が聞えてくる。

「ねえ、そういえば荻野さん、知ってる?」

 木村支店長が急に思い出したように言った。

「私ね、たまに趣味で家で絵を描いたりするんだけど、たいてい鉛筆は2bとか3bっていう芯の柔らかいものを使うのね。その方が紙のうえで鉛筆がスムーズに滑って描きやすいから。あ、でも絵の方はね、まだまだ下手くそなのよ。でね、同じ感覚で前に試しで2hとかhの鉛筆を使ってみるとね、これが不思議と結構折れやすいのよ。ぽきっとね。でも、2hとかhの方が芯としては丈夫で硬いはずなのよ。でも硬さと強さって、イコールじゃないのよね。矛盾するようだけれど、柔らかい芯の方が弱そうだけれど、ある意味でしなやかで強いよ」

 木村支店長は楽しげに話す。

「ねえ、荻野さん」

「はい」

「人間も一緒じゃない。強がってばかりいたら、いつかポキンと折れちゃうわ。柔らかさを含めての強さなのよ」

 木村支店長は柔和な眼差しを向けて優しく言うと、「ちょっと例えとしては分かりにくいかしら」と耳を赤くした。

 私はもっと、耳が赤くなった。

 お見通しなのだ。私の強がりなんて、ただの張子の虎だということを。

 祐二の妻が妊娠をしたと聞いたとき、恐怖を感じた。きっと祐二は去ってしまう。私はまたひとりになってしまう。ひとり?今までだってずっと私はひとりだったのに。そう思いながらも、でも私はどこかでずっと人肌を求めていた。祐二が子供を持ち、幸せな家庭を築くことに嫉妬しかねない自分がいた。父が再婚し、その相手とのあいだに子を儲けた、あのときのように。

「私、今、ちょっと恥ずかしいです。木村さんはすべてをご存知だったんですね」

 つい小声になった。木村支店長は明るく笑った。

「いやあね、荻野さん。私なんて、だったらもっと恥ずかしいわよ。荻野さんも私の噂、聞いたことない?私ね、昔、婚約破棄されたのよ。もう惨めだったわ。招待状まで出していたのに。あのときは本当に辛かったわ。真面目が取り柄みたいな自分でしょ。それまで失敗なんて、自分の人生にないと思っていたから」

 木村支店長は包み隠さずに続けた。

「だいぶ苦しんだけどね。うん、本当に苦しんだんだけどね、でも、そんな惨めな自分を許してやったらだいぶ楽になったかな。でもそれ以来、結婚がばからしくなっちゃって、いまだ独身だけどね」

 おどけるように木村支店長は言った。

「でも、結婚がすべてじゃないですし、結婚が自分を幸せにしてくれるわけではないと思います」

 それは木村支店長をかばうというよりも、私の本心だった。でも、木村支店長は私の言葉に「そうね」と優しく同意したあと、

「私もそう思うわ。結婚が自分を幸せにしてくれるわけじゃないって。結局は結婚していようがしていないだろうが、本人次第。実際にそうだと思うのよ。でもこの年になってね、結婚が自分を幸せにしてくれるって、信じてみることができるのも悪くなかったなって思ってるの。もちろん、どっちが良いも悪いもないのよ」

 木村支店長は言う。懸命に、私のために話してくれている。私はただ頷いた。

「なんていうのかな。荻野さんは優秀で素敵だし、そういう人が身を滅ぼすように生きて欲しくないの。今日だって、種田ご夫妻も喜んでいたじゃない。荻野さんに圧倒的な信頼を寄せていたでしょう。あんなふうに人から思われるのって、すごいことじゃない。そんな荻野さんが自ら自分を滅ぼしていくのって、なんだかとても悔しいのよ。ま、余計なお世話よね。でもこの年になるとね、色々言いたくなっちゃうのよね」

 木村支店長は大きく笑った。

「…そんなことありません。余計なお世話なんかじゃありません」

 私の声はわずかに震えた。嬉しかったのだ。木村支店長の気持ちが私の胸をひたひたと満たしていく。

「私、今まで人から認められたことがなくて…。というか、家族に認めてもらったことがなくて。自分はいつもちっぽけな存在だと思っていました。私なんて、愛される価値がないんだって。そんなふうにひねくれたりして…。だから、木村さんの言葉が今、素直に心に響いて嬉しいんです」

 木村支店長は私に同情とも慈しみともとれる視線を向け、

「家族に認めてもらえないからって、自分の存在を否定するなんて馬鹿らしいことよ。愛される価値があるかどうかを決めるのは自分自身よ」

 静かにそう言った。私はその言葉を聞いて、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。そして抜けるのを感じて初めて、肩に力が入っていたことに気がついた。きっと私は知らず知らずのうちに力を入れて生きてきたのだろう。でも、そのことすら忘れてしまっていたのだ。

「…木村さんみたいな人がいたら、救われたのかもしれません」

 つい、言葉が漏れた。

 咲希のことが、ふっと頭に浮かんだからだった。

 もしも木村支店長のような人が咲希のそばにいたなら、咲希は死なずに済んだのかもしれない。もちろん、それは希望的観測にすぎないとしても、でも、人は誰かのちょっとした言葉で救われることがあるのはむず痒いが真実だ。

 なんのことかと首を傾げる支店長に咲希の話をすると、木村支店長は小さく息を漏らした。

「…そう。そうなのね」

 木村支店長は神妙な面持ちになった。それからしばし黙り、ひとり何かに対して小さく頷くと、

「実は私もね、昔のことだけど、身近で自死をした人がいるのよ」

 そう告白をした。

「その人ね、いつも死にたがってたのよ。死にたいっていつも言ってたんだけど、でも、死ねなかった。生きたいくせに死にたがって、死にたいくせに生きたがってた。でもね、あるとき、本当に死んじゃったの。マンションから飛び降りてね」

 木村支店長は淡々と話した。私は息をのんだ。

「自殺されるのって、本当にショックだし悲しいことよね。親しければ、親しいほどにね…」

 木村支店長は悲しげな笑みを浮かべてみせた。身近な人というのが身内なのか友人なのか、それとも先ほど話していた破談になったという恋人なのか―。詳しくは訊けなかったが、きっと大切な人だったのだろうと思った。

「でもね、荻野さん」

 木村支店長はじっと私の目を見つめた。

「悲しみを受け入れる時間はもちろん必要。だけれど起きてしまった辛い出来事に、いつまでもずっととらわれ続けているのは何か違うと思うのよ。私たちにできるのは、自分を大切にして、今を精一杯に生きること。ただ、それだけ」

 木村支店長は言った。

「だって、私たちって、どんなに頑張って息を止めてみようとしても、否応なく息しちゃう生き物じゃない」

 木村支店長の言葉にうまく反応できないでいると、「ほら、荻野さん、今、頑張って息止めてみて」そう言われ、私は言われるまま息を止めてみた。けれどすぐに苦しくなって、息をした。当たり前だ。私は笑った。

「ほらね、やっぱり息しちゃう」

 木村支店長も笑った。

 否応なく息をしてしまう生き物。否応なく息をしてしまうというのはきっと、私たちは生きるために生まれてきたからなのかもしれない。

「本当ですね」

 二人で笑った。そうなのだ。分かっているのだ、本当は。いつまでも咲希の死に心を留めてもがいていても、なんの解決にもならなければ前進にもならないということを。息して笑って、ただこうして生きていくことが、私たちにできる唯一の弔いなのかもしれない。

「あらやだ、すっかり珈琲が冷めちゃってる」

 木村支店長は珈琲を一口飲むと眉をしかめ、私の返事も待たずに「熱い珈琲を注文してくるわ。それだけ飲んで、暖まったら帰りましょう」と財布片手に席を立ってしまった。

 大きく揺れるお尻を眺めながら、私はちょっとだけ泣けて、ちょっとだけ笑えて、そして初めてちょっとだけ、自分を認めてあげることができそうな、そんな気がした。

15.

 夕陽を背中に浴びて、遊歩道を歩く。片手に提げたビニール袋にはコンビニで買った肉まんとピザまんが一つずつ入っている。

 休日、昼近くに目覚め、溜まっていた家事に精を出していたら、あっという間に時間が過ぎた。お腹が空いたからといって久しぶりに手作りの料理をするでもなく、すぐにコンビニに直行してしまうというのは、我ながら女性らしさに欠けるというか、だらしないというか、少し呆れてしまうけれど、でも実際、肉まんとピザまんはおいしいのだから仕方がない。

 白いウールセーターにデニム、それにダッフルコートを羽織り、足元はスニーカーという軽装で、住宅に囲まれた通い慣れた道をひとり歩く。

「いつもありがとうございます。今日は肉まんが恋しくなるような寒さですよねえ」

 レジで会計を済ませたとき、コンビニの店員は笑顔でそう言った。

「実は私も今日のお昼は肉まんとピザまんだったんですよ。おいしいですよね、これ」

 親しげに話しかけてくるこの店員は近所に暮らしているという中年の女性で、しょっちゅう通っているうちに親しくなってしまった。他に友人や知り合いもいないこの町で、一人くらい挨拶以外の軽い会話のできる相手がいるのも悪くないかな、と最近は思う。

 住宅街を抜けると、急な上り坂がある。夕刻を知らせる夕焼け小焼けのメロディーがどこかのスピーカーから流れている。昔住んでいたあの町とこの町は、どこか似ているような気がする。

 私は一歩一歩、踏みしめるようにして道をのぼった。目の際に光が差す。夕陽の色は沈むにつれて濃く、光は強くなる。まるで最後の悪あがきみたいに。

 木村支店長は私に真に何を言いたかったのだろう。私がもしかして、死んでしまいそうにでも見えたのだろうか。そんなバカなこと、するわけがないのに。たかが祐二のことなんかで。

 いや、違う。理由はもっと、べつのところ―。

 私はずっと愛されたかった。認めてもらいたかった。父に、母に、姉に。どこかで自分を責めていた。愛され、認めてもらえないのは自分のせいなのだと。そしていつも怒っていた。愛されない、認めてもらえない、そのことに。祐二だけが私を愛し、認めてくれていると思っていた。本気でそう信じていた。だけど、そうではなかった。

 坂道をのぼりきり、高台になった位置から町を見おろす。橙色の光の粉をまぶしたマンションや建ち並ぶ家々が見える。私の影が細く、長く、伸びていく。

 辛かった。淋しかった。悲しかった。苦しかった。けれど、自分のそんな本心を、いつも見ない振りをしていた。

 子供の頃、咲希や鈴子と遊んで別れたあと、私はひとり、影を連れて歩いた。あのときの私もずっと辛くて、淋しくて、悲しくて、苦しかった。でも言えなかった。言ったら、すべてを失う気がしていた。認めてしまったら、自分が壊れる気がしていた。

 でも真実は逆だった。

 今ごろ気づいた。今さら気がついた。

 光があれば影がある、なんて、そんなことを書いた小説や歌があれば、なんて陳腐なのだろうと思った。ありきたりで当たり前のことだと思っていた。だからそれを聞いて、一体なんの励ましになるのだろうかと。でも、まだ私は本当にそれを理解していなかった。影からは逃れられない。影を失ったとき、同時に光も失う。私が踏んでいる影は、生きているもうひとりの私なのだから。

 甘く煮えた杏のような夕陽が建物の背後に沈み、やがて完全に見えなくなると、空はてっぺんから濃紺の幕をゆっくりと降ろし、街は薄闇に包まれて、明かりがぽつりぽつりと灯りだす。まるで段重ねのバースデーケーキのろうそくのように、明かりがゆらゆらと滲んで見えた。

 瞳から、涙が落ちた。

 咲希―。私は胸のうちで呼びかけた。咲希、私は死なないよ。どんなに辛くても悲しくても淋しくても苦しくても絶対に死なない。私は生きることを選ぶよ。だから、これからも私は絶対に生きるから。

「知ってるよ」

 咲希の声が、聞こえたような気がした。

「知ってるよ。香奈なら絶対にどんなことがあっても死なないって。だって、香奈って男気あるじゃん」

 笑いながら、咲希がそう言っているような気がした。

 私は手の甲で涙を拭った。そして自分の暮らす小さなアパートへ向け、再び歩きはじめた。

16.

 台北、フランス、北欧、イタリア、オーストラリア。ラックに並んでいる気になるパンフレットを片っ端から拾い集めていく。

「香奈さん、一体どうしたんですかあ」

 背後から声がして振り向くと、カウンターのテーブルを雑巾で拭きながら佐伯さんが不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。

「ちょっと久しぶりに旅行でもしようかなと思って」

 ずっと旅をしていなかった。そもそも旅行が好きで入った会社だったのに、旅行をすることからはすっかり遠ざかっていた。

 たまにはリフレッシュ旅行でもしてきたら?―、カフェに寄り道をした帰り際、そんなことを木村支店長が勧めてきてくれた。有休たくさん余ってるでしょう。こっちは心配しないでいいから、旅行するのも勉強になるし、見送ってばかりもつまらないじゃない、と。

 佐伯さんの隣で今日も黙々と木村支店長はパソコンに向かっている。営業時間を終え、支店内はいつものように女性三人だけだ。今日も多くはないけれど、色々なお客様が来店された。近所の主婦らしい人、スーツ姿の男性、若いカップル。意気揚々としている人もいれば、仕事なのだろうか、あまり楽しくなそうな人や、やけに焦っている人など、さまざまだった。私にはでも、種田様と等しくすべてが大事なお客様であり、その一人一人の喜びや安全を祈りながら旅のお手伝いをすることにやりがいを感じる―、なんて言ったら、ちょっと何かの回答例のようでこそばゆいだろうか。でも、やっぱり仕事は楽しい。私の選んだ大事なひとつの生き甲斐だ。危なかった。危うく手放してしまいそうだった。自分を見失って、誤った判断をしてしまうところだった。手放すべきものは仕事ではなく―。

 祐二とは別れた。

 うちに来たとき、いつものようにあがりこもうとする祐二を拒み、玄関で別れを告げた。祐二は最初、きょとんとした顔をした。それこそクマちゃんの人形みたいに、ずんぐりむっくりした体を棒立ちにして、目を白黒させた。

「もう私、無理みたい。ごめんね。もう祐二のこと好きじゃないの。さっぱり別れましょう。いいよね?」

 私の言葉を聞いた祐二は笑った。腹を抱えた。

「お前さあ、本当にあっさりしてるよなあ。さすがにそれは俺も傷つくよ」

 本気?と聞かれ、本気、と答えたあと、祐二は少しばつが悪そうな顔をして黙りこみ、何か言葉を探しているようだった。困ったように顔を赤くしている祐二を見ていたら、いたたまれないような、愛おしいような、何とも言えない気持ちに襲われそうになったけれど、どうにか耐えて、私はそのまま沈黙を貫いた。祐二は「そうだよなあ」と小さな声で呟くと、ぷよぷよの自分の頬っぺたを両手で触りながら、

「ま、俺もお前のこと、傷つけてきたのかもな」

 と、どうにか自分を納得させたようだった。

 別れ際、土産に持ってきた大判焼きを渡された。「餞別に」そう言って、祐二は去っていった。

「いい父親になりなよ」

 背中に向かって言ったけれど、祐二は振り向かなかった。最低な男だった。いい父親になんてなれるのかな。私は思うが、私も祐二を責める資格なんてない。私だってずっと、同じことをしてきたのだから。

「香奈さん、やっぱりスペインがいいですよ。ここ行ってみたいなあ」

 いつの間にか佐伯さんがカウンターから出てきていて、一緒にパンフレットを拾い集めていた。

「佐伯さんもどこか行くの?」

「まさか。私なんて安月給ですよお。行けるわけないじゃないですかあ。あ、でも、いつか彼氏に連れていってもらおうっと。これみよがしに今度彼氏が来たとき、テーブルのうえにパンフレット置いておこうかなあ」

 うふふと佐伯さんは笑う。

「私は連れて行ってくれる人いないから、とりあえず一人旅だなあ」

 私がぶつぶつ言うと、

「あら、いいじゃない」

 木村支店長がパソコンから顔をあげた。

「一人旅って、楽しいじゃない。私もよく一人旅したわ。たまには自分にご褒美あげなくっちゃ。待っていても、誰もくれないもの」

 佐伯さんが「それって淋しいですよー」と茶化すように言って笑った。私も笑った。木村支店長も笑った。

 とりあえず笑えれば、それでいい。生きていればきっと、生きていて良かったと思う日は必ずくる―、なんて、なんの保証もないけれど、でも、神様が息を引き上げるそのときまで、ばかみたいにそれを信じて生きてみよう。だって、否応なしにも私たちは息してしまう生き物なのだから。             

                               
(了)
→『第3章:うすあかりの部屋(鈴子32歳)』へ


お読みいただきありがとうございます。