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第1章:濃緑の森(咲希16歳)/小説『うすあかりの部屋』

小説『うすあかりの部屋』お知らせ記事はこちらから


1.

 朝、わたしは脱皮する。
 まだ暗がりのなか、誰にも気づかれずにひとりペチペチと微かな音をたて、わたしは密かに脱皮する。鈍色に光る抜け殻が乱れた毛布のうえに転がり落ち、わたしは新しいわたしになる―、つもりなのに、一体、あと何回脱皮をしたら、わたしは本当のわたしを生きることができるのだろう。
 
 大きなあくびをひとつして、壁にかけてある地味な紺色の制服を見ると、胃のあたりがきりりとする。わたしの胃のなかに住んでいる小人たちが槍で胃壁をつつくのだ。そのあと決まって小さなおくびがひとつ出る。

「咲希、早く降りてきなさい。起きてるの?」

「ごめん!今、行くところー」

 でも、母の掛け声にはとっさに明朗な声でこたえることができるのは、器用というか、悲しき性というか、もう条件反射という名の病気だ。
 
 慌てて身支度を整え、階段を下りてリビングルームに続く扉を開ける。白い。この家のリビングルームは広々としていて、なんだか白い。全体的に白すぎるのだ。近所の団地住まいから三年前に引っ越してきたこの家は、庭付き二階建ての瀟洒な佇まいの一軒家で、吹き抜けのリビングルームには飾り物としての暖炉があり、壁が白く、チェストも白く、テーブルも椅子も白く、カーテンまでもが真っ白に統一されている。おまけに今日はチェストのうえに飾られている花までもが真白いユリの花だ。

「もう咲希ったら目覚まし時計に気づかなかったの?昨日、何時に寝たの?」
 
 食卓につくなり母に問われた。

「ごめん、昨日は一時過ぎに寝たの。宿題して、そのあとテストに向けて勉強してたから」

 目の前にはすでにスーツを着た父が食後の珈琲を飲んでいて、「おはよう」とわたしが言うと、父は新聞紙に視線を落としたまま、「おはよう」と低い声で返事をした。

「テストも大事だけど、まずは体を大事にしなさいと。勉強がすべてじゃないんだから」

 裾にフリルのついた白いエプロンを身につけた母は、スクランブルエッグとサラダとトーストをひとまとめにのせたプレートをわたしの目の前に置いた。スクランブルエッグには日替わりでハムかベーコンが付く。今日はカリカリに焼けたベーコンだ。

「でも、なんだかんだいっても、もう二年生になったし。そろそろ大学受験に向けて本格的に勉強してモチベーション上げていかないといけないからさ」

 つらつらとわたしは言う。溌剌な十六歳、という仮面をつけて。

「まあそうだけど、でもそんな、受験に今から追われてもねえ。レベルの良いところだけがいいとも限らないしねえ」

 母はスープを入れた陶器のカップをテーブルのうえに置いた。思いのほか勢いがついて置いたため、ガチャンと甲高い音が響き、父が一瞬新聞紙から顔をあげて眉をしかめた。

「ねえ、あなた。あなたもそう思うでしょう」

 母の促しに父は憮然としたまま、「ああ」とだけ答えた。

 噓つき。わたしは思う。もし、わたしの持ち帰ったテストの点数が悪かったら、もし、わたしが受験に失敗したら、あなたたちは怒ったり、恥ずかしがったり、罵ったりするでしょう、と。小学生のころ、わたしのマンガ本を勝手に捨てて、嫌がるわたしを無理やり塾に入れたのは誰?中学生のころ、わたしが赤点をとったときに近所の優秀な子と比べて責めたのは誰?どうしてこうも抜け抜けと本音と違うことが言えるのだろうかと、わたしはいつも首を傾げたくなるけれど、あ、でも、わたしも一緒か、とすぐに思い直す。わたしも口にしていることと、思っていること、全然違う。遺伝なのかしら。

 言葉ってなんなのだろうと、ときどき思う。言葉がこの家ではいつも機能していない。感情を包む容れものが言葉だとしたら、いつも間違えた容れものにぎゅうぎゅうに感情を押し込んで、わたしたちは投げ合っている。このまま投げ合いを続けたら、いつか歪みが生じて空中分解。そうしたら、この家はどうなるのだろう。わたしたちはきっと、外から見れば仲良し三人家族だ。父は大手企業で部長という役職があり、母は専業主婦、わたしは私立の進学校に通う女子高生だ。絵に描いたような真っ当な家族。

「桜の木も、もうすっかり花が散ったわね」

 庭を囲む塀の向こうに見える桜の木を眺め、母が言う。うすい色をした空のもと、桜の木の黒い枝にはいくつか緑が芽吹いている。まだ花も少し残ってはいたけれど、わたしも父も「うん」とだけ返事をした。

 スープは透明で、膨らんだワカメがぬめりと広がっている。わたしはフォークを使って、ワカメを取りだして齧り、それからスープを一気に飲みほした。近所の家で飼われている犬のけたたましい鳴き声が聞こえてくる。

「あら、ほこり」

 天井を見上げ、母が呟く。ぶら下がる大きな照明の傘に細かなほこりがうっすらかぶっていて、朝の日差しを受けたそれらはきらきらと微細に光ってみえた。白いな。わたしは思う。やっぱりこの家は白すぎるのよ。わたしは胸のうちでそっと、呟いた。

2.

 教室を開けるとふわりと甘い香りがたちこめた。
 最近流行っているストロベリーの香水だ。担任に何度も注意されているのに、何度も「もうつけません」とみんな口を揃えて良い子ちゃんな返事をするのに、次の日になれば、みんなすまし顔で香水をつけて登校してくる。
 
 だって、わたしたちみたいに受験に追われる優等生たちは、こういう息抜きくらい認めてもらわないとやってられないじゃん。ちまたの女子高生なんてみんなお化粧してるのに、うちらってすっぴんなだけまだ偉いじゃん。と、正々堂々言うのは萌々香だ。今日もくせ毛の髪の毛を頭のてっぺんでお団子結びでまとめ、水玉模様のシュシュをつけている。甘ったるい香りをまとった萌々香はわたしに気づくなり、子犬みたいな無邪気な笑顔で駆け寄ってくる。

「おはよー、咲希。英語の宿題やった?」

「うん、徹夜でやったよ。見てよ、ちょっとクマできてない?」

 わー、本当だあ、と言いながら、萌々香は席に座ろうとするわたしの顔をのぞきこむ。萌々香のくりくりした丸い瞳と、小麦色の肌に散らばるソバカスが視界いっぱいに広がる。

「でも大丈夫!咲希は美人だから。いいなあ、美人は。クマができても美人は美人だもん。あー、うらやましい。わたしの知るなかでも咲希はトップスリー、いや、うちのクラスのナンバーワンだね」

 萌々香はやけに芝居がかった口調で言いながら、自分で自分の物言いに勝手にうけている。

「なによ、そんなにおだてて。さては宿題忘れたな」

「分かった?ごめん!実は昨日借りてきた映画、観てたらすっごく良くて、妹と夜中まで熱く語りあっちゃってさ。すっかり宿題でてたこと忘れて、そのまま寝ちゃいました」

 えへへ、と萌々香は落語家みたいなそぶりで頭を掻くと、ブレザーのポケットからミルキーを二つ、机の上に置いた。萌々香のいつもの賄賂だ。

「なんの映画観たの?」

 鞄からキャンパスノートを取りだし、萌々香に渡す。

「ビフォアサンセット」 

 あ、とわたしは思う。それ、わたしも好き。言葉に出さずにわたしは胸のうちで言う。ジュリーデルピーがとてもキュートで、イーサンホークもかっこよくて、パリの風景と、音楽のように小気味よく交わされる二人の会話がとっても素敵だった。それに内容も結構奥深い。恋人までのディスタンスの続編だけど、こっちの方がもっと好きだった。タイトルに原題を使ったのも良かったし、なにせ流れる時間が切なくて、胸が焦がれて、わたしはそれを何度も何度も繰り返し観た。恋愛映画を家族と一緒に観るなんて我が家では絶対にありえないから、わたしはそれを自分の部屋にある小さなDVDプレーヤーを使って、夜中にこっそりひとりで観た。わたしのベッドの下の奥にはリバティプリントの花柄の道具箱がある。そこには母と父に内緒で買い集めてきたビフォアサンセットを始めとする気に入りの映画のDVDが数枚入っている。ヴァージン・スーサイズとか、ピアノレッスンとか、十七歳のカルテとか―。両親はわたしの好むような映画は嫌いだから、見つからないよう、隠しておかないといけない。

「いいな、好きな映画を語り合う妹がいて」

 ひとりごとのようにぽつりと言葉が漏れる。ん?なんつった?萌々香が言う。

「やっばーい」

 教室の中央で菜帆が大きな声を出した。

「ナプキン持ってくるの忘れちゃったー。今日二日目なのに、最悪なんだけどー。誰か持ってない?」

 菜帆は慌てた様子で鞄のなかをあさっている。鞄の持ち手についている赤いハートを抱えたクマのぬいぐるみが揺れている。

「ごめん、わたし持ってないよー」

「わたしも切らしてるしー」

 菜帆のまわりに女子が集結してくる。菜帆はこのクラスの中心グループのリーダー的存在だ。取り巻きというほどではないけれど、わたしから見るとちょっと異様に見える結束力で、菜帆を真ん中にして女子十人ほどがいつも徒党を組み、そして実際、クラスを牛耳っている。

 わたしと萌々香は、そういう中心メンバーからは外れている。かといって、仲間外れというわけではない。付かず離れずの曖昧な立ち位置を維持している。面倒くさいのだ。女子たち特有のしがらみや嫉妬やいさかいをベールで覆い、作り笑いで無理やり繕った平和のなかに身を置くのは。萌々香がいてくれて良かったと思う。かといって、孤独になるのは嫌だから。窓側の隅っこの席に目を向ける。ああやって、朝から机に突っ伏して寝ている園子みたいに、孤独に卒業を待つなんて、わたしにはできない。そこまでわたしは強くない。

「咲希、ナプキン持ってない?」

 ふと菜帆と目が合って訊かれ、わたしは一瞬動揺しながらも首を横に振る。

「そっかあ、困ったな」

 菜帆が大きくひとりごちる。ふいに園子が顔をあげた。少し口を開く。でも、何も言わずにすぐにまた机に突っ伏した。

「あ、わたし、持ってるかもしれない」

 萌々香が急に思い立ったように教室のうしろに整列するロッカーに走り、ガチャガチャと派手な音を立てて探し始めた。みんなの視線が一斉に萌々香に集中する。

「あった!あるよー!」

 萌々香が高々とナプキンの入った巾着を片手に掲げると、

「萌々香ってば、やるう。ありがとー!」

 菜帆が猫なで声をあげて両手をあげた。
 キャッチボールをするみたいにナプキンが宙を飛んでいく。

「サンキュ!」

 菜帆が満面の笑みをみせると、教室はいつもの喧噪を取り戻した。
 顔を少しだけ紅潮させた萌々香がわたしの元へ戻ってくる。

「ポイントゲット!」

 長いものには巻かれておかないとね。耳元で萌々香がそっと囁いた。焦げ茶色の瞳にはちょっといやらしい笑みが含まれている。わたしの背中はぶるりんと震えた。長いものには巻かれておかないとね。萌々香の発したその言葉がわたしの体のなかにするりと入りこんで、冷たさをともなってべたり。伸び広がって、張りついた。

3.

 わたしが通うのは中高一貫の女子高で、だからもう、この学校に通いはじめて今年で五年目になる。五年。五年も経つのだ。でも、過ぎてみればあっという間、と言える感覚に到達するにはわたしはまだ幼い。

 思えばずっと、つまらなくて退屈な日々だった。空虚、とも言える。本当は、幼なじみの鈴子や香奈のように公立の中学校に行きたかったけれど、両親がそれを許さなかったし、反抗するなんてことすらも、その頃のわたしには思いもつかなかった。

 小学校時代からの仲良しである鈴子と香奈。三年生のときに同じクラスになって以来、ずっと仲良し三人組でいつも一緒に遊んでいたけれど、卒業を境に、わたしは私立へ、鈴子は公立へ、香奈は違う街へ引っ越したので、別の学区の中学校へそれぞれ進学することになった。それでも定期的に三人でよく集まっては遊ぶことを続けていた。正直言って、萌々香を除く今の学校の友人たちよりも一緒にいてずっと気楽で落ち着くし、心安らぐし、楽しかった。泊まりっこをしたり、遊園地に行ったり、公園で遊んだり―、どれだけの時間をわたしたち三人は共有してきたのだろう。 

 でも、それも中学校卒業までのことだ。高校生になると、それぞれが勉強や部活や様々な事情で忙しくなり、以前のように三人で会うことが困難になった。当たり前なのかもしれないとは思う。でも、ちょっぴり淋しい気もした。最近では三人で集まることはほとんどなくなって、メールのやりとりをたまにするくらいだ。香奈にいたってはメールをしても返信が戻ってくるのは三日後、ひどいときには五日後だ。でも悪気のないことも知っている。香奈って、そういう性質だった。男気あるというか、さばさばしているというか―。懐かしい。郷愁に浸かるにもわたしはまだ幼いけれど、三人で築きあげた友情は今の自分を確実に励ましてくれている。

 黒板のうえでチョークの削れる音がする。
 現代文の授業中だ。
 
 教師に指名された菜帆が立ち上がり、女優気取りで文章を音読している。変な抑揚をつけて、やけに感情をこめて文章を読んでいる。菜帆って、いつもこんな感じだ。少し気持ち悪い喋り方で音読をする。本当はみんなもちょっとおかしいと思っているはずだけど、無論、誰も笑わないし、指摘もしない。わたしたちはみんなお利口だから、日々繰り広げられる滑稽な出来事や理不尽な出来事に対し、卒なく受け流すことができるのだ。だけど、ななめ前方に座る萌々香がこっそり振り返り、わたしに向かってにやりとするから困ってしまう。「変だよね、あれ」声には出さない声が聞こえてくる。「ほんと、変だよね」まわりにばれないように、だからわたしもこっそりにやりとして、すぐに教科書に目を戻す。

「はい、ここ、線を引いて」

 教師の指示に従い、作者の言いたいポイントだという一文に蛍光ピンクのマーカーで線を引く。教科書をめくる音がさざ波のようにたつ。

「じゃあ、次は倉本さん」

 名前を呼ばれた萌々香が慌てて立ち上がり、たどたどしく音読を始める。しわくちゃのプリーツスカートのお尻のあたりがテカテカと光っている。わたしは再び上の空。ふと床に目を落とすと、長い髪の毛が何本も散らばっていた。共学もこんなふうに髪の毛、落ちているのかな、と思う。窓の外を見ると、空は痛いくらいに真っ青だった。気持ち良さそう。こんなときに教室にこもってお勉強だなんて、なんだかとても損している気分だ。窓側の席の園子も頬杖をつき、窓の外をぼんやり見ている。園子もわたしと同じで上の空だな、と思った瞬間、園子がこっちを向いた。急に目が合って、わたしは慌てて目をそらす。胸がドキドキしている。

 園子とは、中学校一年生のときに同じクラスだった。
 そのときの園子は明るくて、気さくで、わたしも特別仲が良かったわけではなかったものの、会話を交わすことは普通にあった。その後、クラス替えで別々になり、高二になって久しぶりに園子と再会したわけだが、そのとき園子はすでに独りぼっちになっていた。違うクラスにいた三年のあいだに何が起きたのかは具体的には知らないが、萌々香によれば、中学三年生の終わりごろ、同じクラスにいた菜帆に目をつけられたらしい。小柄で華奢で、真面目そうな園子。きっと悪いことなんてしていないだろう。ただ、何かが菜帆の癪にさわったのかもしれない。その何かが、何かを、わたしは知らないのだけれど。
 
 園子はだから孤独だ。ずっと孤独に見える。分かりやすくいじめられているというより、クラスの皆から存在を無視されている。お利口な人たちのする狡猾なやり方だ。みんなずっと同じ鳥かごのなか、受験に追われてストレスが溜まっている。園子はその恰好の餌食となったわけだ。悲惨なのは、今の高二のクラスは高三になってもクラス替えをせずに、そのままエスカレーター式に上がるということだ。受験期に無駄な変化を起こして気を取られ、勉強の集中力を欠くことがないようにという学校側の配慮らしいが、人によっては地獄のシステムとなる。

 わたしは目立たず、何事もなく、卒業までの二年間をやり過ごしたい。退屈だけど、退屈なりに息しているし。学校も家も窮屈だけど、とりあえず自分のなかにある小さな喜びの種は持っているし。わたしはファッションが好きだ。毎月お気に入りのファッション誌を買い、部屋でひとり眺めるのは胸躍る。本当は大学なんて行かずに服飾の専門学校に行きたい。デザインの勉強とか、パタンナーの勉強とかしてみたい。両親は無論、反対する。特別な才能があるわけではないのよ。堅実な道を生きなさい。それが一番の幸せにつながるのよ、と。父も母もそう信じて疑わない。わたしもそこで反論はせず、すぐに良い子のふりをして、きゅっと締まろうとする喉を無理やりこじ開けて、そうだよね、堅実に生きなくちゃね、なんて思ってもいないことを笑顔で言ってしまう。本当のわたしの夢なんて、うっかり親に語ってしまってはいけないのだと思い知る。どうせすぐに打ち砕かれるのだから。

 正面の壁にかけられた丸時計に目をやる。あと十分で授業が終わる。

 ―わたし、今、何をしているんだろう。

 左斜めうしろから、なんとなく園子の視線を感じたけれど、怖くてわたしはもう、振り返れない。

4.

 天気の良い日は夕焼けもきれい。
 建ち並ぶ住宅と住宅の隙間からちらちら見え隠れする橙色の夕日を眺めながら、わたしはひとり家路につく。伸びる影。図書館でしっかり勉強したあとの疲れた脳みそを積んだ頭に、少し寒いくらいの風が気持ちいい。自分の家のある駅に着くと、わたしの胸はいつもほっとする。高校まで一時間弱かかるこの土地に、わたしの知る限り同級生は一人もいない。

 見慣れた景色を尻目にアイポッドのイヤホンを耳に差し、音楽を聴く。スウェーデンのアーティストの歌声はちょっと切なくて、今は春だけど、冬の海を眺めているような心持ちにさせる。ふっ、と口から息が漏れた。家に帰るのは億劫だ。帰ったところで、楽しいことなんてなにもない。でも、お腹は空くし、両親を心配させるわけにはいかないから、寄り道せずにわたしの足は我が家へと堅実に歩みを進める。艶やかに磨かれた黒いローファーの先端がアスファルトに転がる小枝を蹴飛ばす。

「咲希」

 うしろから駆けてくる軽快な足音とともに声がする。その刹那、胸が、きゅんとする。

「いま帰り?お疲れさん」

 立ち止まったわたしのもとへ、吉井くんがやってくる。リュックサックを背負い、Tシャツにライトグレーのパーカーをはおっている。吉井くんのスタイリングはいつもカジュアルでかわいい。別の誰かが同じ恰好をしたら野暮ったくみえるかもしれないけれど、吉井くんなら何でもかわいくなってしまうから不思議だ。

「うん」とわたしが頷くと、

「おや、この顔は勉強のしすぎだな」

 吉井くんは無邪気な笑顔でわたしの顔をのぞきこんだ。夕日が、吉井くんのふわりと柔らかそうな髪の毛をオレンジ色に染める。甘い吐息がこぼれそうになるのを飲み込んで、わたしは「ひどい」と言って笑う。目のくま、気にしているのに。

「うそうそ。あいかわらず咲希はかわいい顔してるから大丈夫」

 吉井くんとわたし一緒に並んで歩きだす。

 吉井くんは、わたしが今の家に引っ越す前に住んでいたマンションの住人だ。わたしが小学校二年生のときに吉井くん一家が別の街から引っ越してきて、それ以来の付き合いになる。三歳年上だから、今は大学二年生だ。兄弟のいない吉井くんはわたしのことを妹みたいにかわいがってくれて、わたしも吉井くんのことをずっと兄のように慕っていて、でも、いつの間にか吉井くんは男の子から男の人になっていて、気づいたときにはもう、わたしはすっかり吉井くんに恋をしていた。 

 ありきたりな展開。わたしは恥ずかしさをごまかすために、胸のうちでいつもそう毒づいてしまう。なんてありきたりな展開。ばかみたい、と。でも、好き。好きになってしまったのだ。誰にも内緒の恋心。きっと吉井くんも気づいていない。

「大学って、楽しい?」

 歩きながらわたしが訊くと、吉井くんは苦虫を潰したみたいな顔をしたあと一瞬「ため」をつくり、それから満を持したように、

「もー、やばいくらい楽しいよ」

 と明朗な笑顔を見せた。おどけた顔もかわいい。やっぱり好きだな。わたしはそう思うけど、でも、そんな胸のうちはおくびにも出さずに、「ふーん、そうなんだ」とすまし顔でクールに答える。

「いいよ、大学は。履修が多くて大変だけど、授業だって好きに選べるし、自分次第でいくらでも自分の時間をつくれるし。なんていうか、自由だよ」

 いきいきと答える吉井くんと目が合う。瞳がほんのり薄い色をしていて、わたしはたまらず目を逸らす。

「選べるっていいな」

 うつむいたまま、わたしは呟く。  

 沢山の教科書とノートの入った鞄が肩に食い込むけれど、今は不思議と軽くなる。朝の通学のときと重みが全然違う。鞄の重さはきっと、心の重量に比例している。

「自由もいいな」

 わたしが低めのトーンでさらに呟くと、吉井くんはぷっと吹き出した。

「おいおい、悩める女子高生かよ。大丈夫かー。悩み事があるならいつでも相談に乗るから、声かけな」

 吉井くんは小学生の頃のわたしにしたのと変わらぬ感じで、わたしの頭をくしゃくしゃ撫でる。こういうのって、少女漫画の一コマみたい。わたしがそう茶化すと吉井くんははにかんでちょっと照れた。好き。やっぱりそう思う。吉井くんのすごいところは、とても頭が良くて優秀で、わたしの学校の生徒の多くも進学を希望する難関大学に通っているのに、全然そんなふうに見せないところだ。悠々と軽やかに毎日を過ごし、受験だって簡単にクリアした、ようにわたしには見える。吉井くんのことは、だから、わたしの両親も信頼を寄せている。わたしも吉井くんと同じ大学なら、通ってもいいかな、なんて思う。あそこなら両親も反対はしないだろう。

 十字路にさしかかり、わたしたちは立ち止まる。ここで吉井くんは右折して、わたしはこのまま真っ直ぐに道を行く。二人の影が伸びて、わたしも吉井くんも足の長いのっぽさん。落ちきる前の夕日は煌々としていて、濃いオレンジ色の光でわたしたちを染めあげる。

「吉井くん」

 わたしは思いきって口を開く。

「そろそろ進路決めなくちゃいけないから大学の見学したくて…。だから今度、吉井くんのキャンパスを案内してもらっても、いい?」

 胸がドキドキしている。

「うん、いつでもいいよ。なら、来週あたりに来る?」

 響く鐘のように気持ちよく返事が返ってくる。良かった。わたしは胸を撫でおろす。喜びの種ひとつ、吉井くんから受け取った。これを次会えるときまで大事に育てて、生きていく希望にしよう。なんて、大仰なことを考えながらわたしは笑顔で大きく手を振った。また来週。楽しみにしているね。吉井くんも片手をあげて言う。

「じゃ、またね」


5. 

 毎日は坦々と過ぎていく。小さな痛みや傷が生じても、感じぬ振りをして何事もなかったように、縷々と流れてゆく。限りある命をわたしたちは日々費やしていく。グラノーラに牛乳をかけるみたいに、目玉焼きに醤油をかけるみたいに、どぼどぼと当たり前にわたしの命はこの高校生活に注がれていく。
 
 今日、進路についての面談が行われた。
 ひとりひとり順々に資料室に呼び出され、担任と二人きりで話をする。クラスを任されて日の浅い、まだ経験の少ないつぶらな瞳をした男性教師はベージュの野暮ったいジャケットをはおり、少し落ち着きのない様子で何やら個人の成績や進路希望などについての詳細が記されているらしいファイルをめくりながら、「山野はどこか狙ってる大学はあるの?」と受験するのが当然であるかのように質問をする。

「先生、大学にはなんで行く必要があるんですか?」

 資料の積まれた棚に囲まれた部屋は埃っぽくて、空気が薄い感じがする。

「え?ええっと…」

 わたしの問いかけに担任は目を丸くしたあと、言葉に詰まる。なにも、そんなに驚かなくてもいいのに。担任は想定外の問いかけに分かりやすく困惑の表情を浮かべた。この高校に通う生徒は大学受験するのが当たり前だ。なのにこんな質問をしてごめんね、と眉間に皺の寄ったおでこを眺め、わたしはちょっとだけ罪な気持ちになる。

「まあ、そうだなあ」

 担任は小声で言い、

「大学でしっかり勉強をして、希望の会社に就職して、世の中に貢献するためかな」

 悩んだあげく、世にもつまらない回答をよこす。これ以上話をしても多分無駄、と判断したわたしは「はい、分かりました。ありがとうございます」と礼を言い、志望校として吉井くんの大学の名を挙げた。すると担任は急に顔色を戻し、水を得た魚のように学習についてのアドバイスを与えてくれた。

「じゃあ、次は横田を呼んできて」

 資料室を出て、わたしは息を吹き返す。ぬめりと光る、川のようなひんやりした廊下をぺたぺたと音をたてて歩く。上履きが汚れているのが目に入った。今度、持ち帰って洗わなくちゃ。

 きっと―。
 わたしは思う。
 
 きっと、こんな当たり前のことに立ち止まるからいけないのだ、と。いちいち当たり前のことにわたしは立ち止まってしまう。朝起きて、高校に行くのが当たり前。黒板に向かって真面目に座り、勉強をするのが当たり前。受験をするのが当たり前。大学に通って、卒業したら就職するのが当たり前。結婚して、子供を生むのが当たり前。当たり前で世の中は成り立っている。でも、やっぱりわたしには分からない。どうしてみんなは人生における大きな事から日々の些事にいたるまで、すべてを当たり前として受け入れて、当たり前にこなしていけるのだろう。わたしにはできない。分からない。

「咲希、とりあえず長いものには巻かれておけ」

 耳のうしろで萌々香の笑っている声が聞こえたような気がした。萌々香は風邪を引いて、昨日から欠席だ。教室に戻っても、だから今日はつまらない。次に面談の横田さんに声を掛け、わたしはひとり席に座り、萌々香のために今日習ったことをルーズリーフに書きまとめる。


 一階の下駄箱で靴に履きかえていると、背後にそっと、人の気配を感じた。振り向くと園子が立っていて、わたしは思わず「ひゃっ」と小さく声をあげた。

「ひどい。そんなに驚かないでよ」

 園子はうっすら笑みを浮かべて上履きを脱ぎ、下駄箱から艶やかな焦げ茶色のローファーを取りだして床に置く。

「ごめん」

 言うと、園子は黙ったまま笑顔で首を横に振った。

「大丈夫。慣れてるから」

 わたしの胸に細い針がすうっと突き刺さる。

「咲希と話すの、久しぶりだね。中一のとき以来かも」

 小柄な園子はわたしを少し見上げて言う。きれいな桜色をした唇は薄くて、透明感のある白い皮膚も薄くて、園子は全体的に薄い。量の少ない細くてさらさらした髪の毛を赤いゴムで一つにうしろにまとめている。

「うん、そうだね」

 わたしは言って、黙る。何と言えばいいのか分からなかった。別に園子のことを嫌う理由なんて、一つもわたしは持っていない。なのに、胸がざわざわした。誰かにこの現場を見られたらどうしよう。菜帆の耳に入ったらどうしよう。自分は関係ないつもりでいたのに、すでにわたしも見えない支配の傘下にいる。

 わたしが黙ったままでいると園子の方がそっと口を開いた。

「咲希も気つけてね」

 ささやくように言う。え?と訊き返すと、園子は薄い色の瞳を真っすぐに向けた。

「咲希って美人だから、菜帆に狙われてるかも」

「どういうこと?」

 遠くから聞こえてくる廊下を歩く生徒たちの話し声に気を取られながらもわたしが訊くと、園子は耳元で、

「菜帆って、自分にないものを持ってる子を見ると、まるで自分からそれを奪われたような気分になるみたいだから」

 そう言って、園子は瞬きを数回繰り返した。長い睫毛がばさりばさりと揺れ、わたしは一瞬頭が白くなる。

「わたしとおしゃべりしてるところ、見られない方がいいから、わたし、先に行くね」

 クラスメイトが数人下駄箱にやってきたのと入れ替わるように、園子は足早にその場を離れ、エントランスで傘を広げた。真っ赤な傘。音もなく降りつづけている雨は景色を霞ませ、園子のうしろ姿は徐々に小さくなって、やがて消える。

 わたしは唾をごくりと飲みこんだ。それから何事もなかったようにクラスメイトの子たちに「また明日ね」と明るく言い、一人、外へ出た。


6.

 しっとりと降っていた雨は、歩いている途中でやんだ。でも視界にはまだ少し靄がかる。水を吸った地面が黒い。
 
 帰り道、わたしは遠回りをして森に立ち寄った。
 
 森―、それはわたしが子供の頃によく訪れていた公園に勝手につけた通称だ。今の自分にとっても十分に広く、緑深い大きな公園ではあるが、小学生時分の自分の目にはさらに広く緑豊かな場所に映り、この場所はまさしく「森」と呼ぶのにふさわしかった。
 
 制服姿のまま、折りたたんだ傘を片手に持ち、わたしはゆっくりと人気のない道を歩いた。両側には無数の背の高い木々が生い茂り、水気を含んで湿度のあがったそれらはより鬱蒼とし、濃々と息づいて見えた。耳を澄ませば、精霊たちの内緒話が聞こえてきそうだ。
 
 気持ちいい。わたしはひとりごちた。呼吸をすると酸素を多く含んだ甘い空気が肺にいっぱいに満ち、吐き出せば、学校や家で積もり積もった鉛色の思いがこぼれ落ちていく感じがする。

「咲希も気をつけてね」

 園子の言葉が粘着質を伴って耳の奥に残っていたけれど、ここにいると、その得体のしれないものへの不快感がきれいに洗い流されていくような気がする。無論、それは錯覚で、森を出ればその粘着質なものが体内へと流れ戻ってくるのは、容易に想像できるのだけれど。

 日が落ちていき、うっすら紫色になる森のなか、わたしはそこで小さなわたしを見つける。鈴子と香奈と一緒にかけっこをしたり、おてんばに木登りをしたり、鬼ごっこやかくれんぼをしたりして遊んでいる小さなわたし。きゃっきゃっと笑い声をあげながら無邪気に駆け回っている。あの頃、わたしはまだ世界を何も知らなかった。いや、今でも何も分かってはいないのだけれど、でも、あの頃のわたしは今よりももっと、楽に世界に溶けこめていたように思う。毎日を営むことに伴う困難さを、あの頃のわたしはまだ想像すらできなかったし、親や教師の教える世界がすべてだと真に受けて、何の疑いも持たなかった。  

 でも、今は違う。知ってしまったのだ、はからずも。世界はここだけではないのだと。見えているここだけがすべてではないのだと。当たり前と教え込まれてきたことが、必ずしも当たり前ではないのだと。しかし、それらを知ったところで、わたしはここから抜け出す術をまだ知らない。

「高校生もさ、いろいろと大変なんだよ」

 わたしが話しかけると、小さなわたしはきょとんとして、それからまた無垢な笑い声をあげて元気いっぱい駆けていく。わたしはすうっと息を吸って、吐いて、右肩にかけた鞄を左肩にかけなおすと小さなわたしにバイバイと手を振って、ひとり森をあとにする。

 厚い雲に覆われた帰り道、教科書の入った鞄がわたしの肩に急に重くのしかかる。


7.

「先生、面談で何か言ってた?」

 夕食の席、真向かいに座る母がティッシュで口を拭いながら心配そうに訊いた。

「この調子でこのままいけば、第一志望も難しくないだろうって」

 カレーのどろりとしたルウをスプーンで掬いながら答えると、母は安堵の表情を浮かべてみせた。その隣で父は無言のままサラダのレタスを食べている。父と母とわたしの咀嚼する音と、食器のぶつかる音だけが部屋に響く。真白い照明のもと、いつもと変わらぬ静かな食事の時間だ。

 母は家にいるときも綺麗な服装をして、化粧をしている。父もスーツから着替えたものの、アイロンのかかったシャツに外出用と何ら変わらぬズボンで、まったくくつろぐ姿にはならない。だからわたしも必然的に部屋着というにはフォーマルすぎる格好をせざるを得ず、よそ行きでも良さそうなスカートとカットソーを身に着ける。本当はもっと、くだけてみたい。母がすっぴんで父がステテコ姿なら最高だけど、我が家でそれは「恥」と呼ばれる出で立ちだ。皿のすみに残ったカレーをスプーンで擦るようにしてかき集めると、父が顔をあげた。

「音」

 一言だけ父は放つ。あ、とわたしはスプーンを動かすのをやめ、
「ごめんなさい」と謝った。音をたてて食べてはいけない。急に胃のあたりが収縮し、喉が閉じて、おいしかったはずのカレーはすぐさま砂の味になる。

 父は神経質だ。いちいち食べるときのマナーにこだわる。それなのに父といったら、自分は平気で音をたてて食べているから釈然としない。レタスをくちゃくちゃと音をたてて食べているけれど、本人はどうやらそれに気づいていないらしい。こんなとき、母はいつも何か言いたげな顔をするけれど、でも、黙って静かに食べている。変に父に指摘をして事を荒げる方が、わたしにも母にもよほど不利益なことを充分に承知しているからだ。面倒臭いな、とわたしは思う。窓の外から通りを歩く若そうな男女の楽しげな話し声が聞こえてくる。

「今日」

 フォークを置き、父が顔をあげた。

「電車に乗ったら、目の前に座っていた若い男がコンビニの袋からパスタの入った容器を取りだしてどうするのかと思って眺めていたら、平然と車内でパスタを食べはじめたもんだから度胆をぬかれたよ」

 単調な口調で父は言う。電車でパスタ!わたしは浮かんだ光景が間抜けでちょっと愉快で笑いそうになるけれど、口を一文字に結んでぐっと堪える。

「まったく、下品だな」

 父は憮然としたまま言い捨て、またむしゃむしゃと青虫のごとく葉っぱを食する。

「親のしつけがなってないのね」

 母が答える。わたしはただ黙って聞いている。

「いまどきの子たちは汚い食べ方をして、平気で残して捨てる。ああいう若者たちは世の中にいる餓死している子供たちのことを考えたことはないのかね」

 父はまたフォークを置き、話す。電車の中から世界へと、話は突飛な方へと飛んでいく。

「今の子たちは自分のことしか考えないのよ。苦労を知らないから。それよりも自分の髪型とか洋服とか、そういうものにばかり関心を寄せているのよ」

 母が言う。

「そうだな。もっと自分を犠牲にしても、人を助ける心を身につけた方がいい」

 父が言う。わたしはまた黙っている。でも、心のうちでわたしも言う。ねえ、知ってる?わたしたちにとって、餓死している人たちのニュースと、例えば自分の頬にできた痛いニキビはある意味で同じ「問題」にかわりないってこと。自分の目から見える距離でしか、結局のところ物事は測れないから、テレビを通して見える問題と、自分のいま目の前にある問題とを天秤にかけたら、どうしてもニキビの方が先に気になっちゃうの。でもね、だからといってわたしたち、餓死していく人たちのことに胸を痛めないわけじゃない。何かできることがあれば協力したい気持ちだって持っている。今の子たちは自分のことしか考えないなんて言うけれど、自分のことを考えられない人間が誰のことを救えるというの?自分のニキビ治して、痛み取り除いて、それで初めて人のことを救えるの。自己犠牲は美徳じゃないよ。自己犠牲のうえで成り立つ平和なんて、本当の意味の平和じゃないよ。わたしはひとりメガホンを手に取り演説する。胸のうちで、虚しく拍手が聞こえてくる。

「ごちそうさま」

 言うと、母はカレーの残る皿を見て、「残してるけど、食欲ないの?」と心配そうな顔をする。

「うん、ちょっと。餓死しちゃう人たちの話が出たところなのに、ごめんなさい」

 わたしが申し訳なさそうに言うと、

「無理することはない。疲れてるんだろう。今日は早く寝て、体を休めなさい」

 父も優しい声で言う。二人ともわたしに厳しく、そして甘い。わたしはだから、時々やるせなくなる。反抗する気持ちと同時に湧きあがる罪の意識。母はわたしのカレーには好物の人参を大目に入れてくれる。父は受験勉強の息抜きになるだろうと、たまに駅で配られているフリーペーパーをわたしのために持ち帰ってきてくれる。両親の娘に対する真摯な愛情。でも、父と母は、わたしが望むわたしの生き方を認めてはいない。自分たちの勧める道なら、わたしが幸せになれると信じて疑わない。わたしの求める愛と、両親の信じる愛には、計り知れない溝がある。わたしはただ、わたしのすることを認めてくれたら、それでいいのに。それだけで、充分なのに。

 失敗や恥さらしを犯して傷つかないよう、両親はわたしを必死に守るけれど、それはわたしの失敗や恥であり、彼らのものではない。彼らが本当に守りたいのは誰なのだろう。わたしは、でも、父のことも母のことも大好きだし、もっともっと愛されたい。だからすべては忌々しく、厄介なことなのだ。

「咲希はいい子に育ってくれたから、うちは安心ね」

「そうだな。ともあれ、体を壊したら元も子もない。勉強もほどほどにしないとな」

 父と母が微笑みながら言う。

「うん、ありがとう。無理はしないけど、頑張るね」

 あ、また、いい子ちゃんしている。言いながら、わたしは思う。心は苦しさでいっぱいなのに、それらはいつも綺麗なラッピングで隠されてしまう。

 テーブルに飛び散っているカレーの汁が一滴目について、それをティッシュで拭き取ったあと、わたしは静かに席を立った。真白い照明が微かにジジジと音をたてている。

 やっぱりこの部屋は白すぎるのよ。そう思いながら、わたしは自分の部屋に向かう階段を駆け上る。


8.

 ブルマよりはマシだけど、ハーフパンツもちょっとださい。中途半端な丈で、脚が太く見えてしまう。体育の時間、血管の透けるまだら色の太ももをさらけ出し、わたしたちはテニスコートに向かう。今日の授業はテニスだ。晴天のもと、女教師の指示で全員体育座りをして、これから行うテニスの練習についての説明を受ける。

「今日はペアになって、二人でボール打ち。それが終わったら、ちょっと軽くゲームしてみようか」

 逆光のせいで女教師の顔が黒く見える。二列前には菜帆がいる。「菜帆に狙われてるかも」下駄箱で園子にそう言われて以来、否応なく菜帆のことが気になってしまう自分がいる。菜帆の丸まった背中をわたしはぼんやり眺めている。真白い体育着の下に、ブラジャーの細い紐がうっすら透けているのが見える。

「ぶっ」

 女教師が突然吹き出す。

「それにしても、みんな揃って眉間に皺よせて、ぶっさいくな顔してるなー」 

 宝塚の男役のような雰囲気のある女教師は豪快に笑う。

「ひっどーい、先生。ここ、眩しいからですよー」

 生徒たちが一斉に笑いながら抗議する。歯に衣着せぬこの女教師は人気がある。受験に直接関係のない科目なだけに、教師も生徒も互いにゆとりがあるのだ。

「ごめん、ごめん。じゃあ、さっさとペア組んで、始めてー」

 女教師が両手をぱんぱんと叩く。一瞬、誰と組もうかという(そして仲間外れになりたくないという)緊張が走りながらも、みんなそそくさとペアになる人を探して、大体いつもと同じ組み合わせに落ち着く。わたしはもちろん萌々香とペアになる。

「あれ?」

 一人浮いてしまった園子を見て女教師が近づく。その光景を見て、先生、どうして何度も同じことを繰り返すのですか、とわたしは胸のうちで尋ねる。うちのクラスの人数は奇数なんです。欠席か見学がでない限り、必ず一人余るんです。その一人は毎回園子なのに、どうして先生は気軽くペアを組んで、と指示をだして、わたしたちに相手を選ぶ権利を簡単に譲ってしまうのですか。
 
 女教師は、でも、そんなことにまったく気づいても気にしてもいない様子で園子の背中を押すようにして、

「ここだけ三人組になって。交代でボール打ちして」

 近くにいた子たちに園子を託す。
 所在なげな園子は少し背中を丸め、申し訳なさそうにその二人組の女子のペアに混ざる。幸い、菜帆に属する中心グループの生徒ではなかったものの、その地味な女子二人も目を見合わせて困惑した表情を浮かべている。本当に困惑しているのは園子の方なのに。

「早く咲希、ボール打とうよー」

 うしろからやる気満々の萌々香が肩を叩く。振り向くと、萌々香はわたしの分のテニスラケットを持ってきてくれていて、意気揚々とわたしの腕を引っ張っていく。パコーン、パコーン、とボールを打つ軽快な音がコートじゅうに響き渡る。

「ちょっと、どこ飛ばしてんのよー」

「すごい!ラリーしてるよー」

 罵声もあれば、笑い声もあり、生徒たちの生き生きした声が飛び交うなか、どうしても園子のことが気になってちらりと見ると、園子はテニスラケットを両腕に抱えたまま地味な二人の生徒が楽しそうにボールを打ち合うのをぼんやり眺めていた。園子の下に落ちている小さな濃い影は微動だにしない。

「咲希!どこ見てんのー!行くよー!」

 萌々香が黄色いボールを打つ。勢いよく飛んでくるボールをわたしも打ち返す。気持ちのよいラリーが続く。あの二人上手だね。どこからともなく声がする。

 テニスは嫌いじゃない。昔、母がテニスを習っていて、子供だったわたしはそれにいつも一緒についていっていた。見よう見まねでコートのはしっこでわたしも壁打ちをしたり、ラケットを素振りしたりして遊んだりしていた。数年、母はテニスを続けていたが、わたしが中学受験の勉強に本格的に入る時期と同じくしてテニススクールを辞めてしまった。塾の送り迎えやわたしの勉強のサポートに勤しみたい、というのがその理由だったが、わたしは母の楽しみを奪ってしまったような気がして気が咎めた。代わりに母は父の勧めで自宅で英語の勉強をし始めた。父の買ってきた単語や会話文のテキストを毎日一枚一枚めくっては必死に取り組む。それが母の新たなる習慣となった。その先の目標は知らないけれど、母の英語の勉強は今もなお、休むことなく続いている。

「ターイム。疲れた。休もー」

 ラリーを終え、萌々香がラケットを振りながらやってくる。額に滲む汗をきらきら光らせ、顔を真っ赤に上気させている。

「脇汗やばいことになってる」

 笑いながら萌々香は言い、二人でコートのすみの木陰に座る。お尻がひんやり冷たい。

「やっぱり体動かすのはいいねー。机に向かってばかりいたらバカになるよ。テニスしてストレス発散!って感じ」

「でも明日になったら絶対筋肉痛になってそう。もう勉強できないよー」

 二の腕をさすりながらわたしが言うと、萌々香も引き締まった二の腕をさすって頷く。汗の匂いに混じりながら、萌々香の首筋から甘い香りが発散される。

「ねー、咲希さあ」

「なに?」

「咲希って、ここ、何かお手入れしてるの?」

 萌々香がわたしの膝小僧を人差し指でつんつんとつつく。ちょーきれい。萌々香は感心したように言う。

「べつに。何もしてないよ。普通にお風呂で洗ってるだけ」

 言うと、萌々香はわざとらしくのけぞり、

「さすがー。なんで咲希って、細部まで美人なわけ?わたしなんてさ、角質ひどくて見てよ、真っ黒じゃん」

 けらけら笑い、自分の膝を叩いてみせた。美人、か。萌々香が冗談半分で言っている言葉に、つい反応してしまう。わたしはでも、それは隠して、暑いね、と空を仰ぐ。雲が、ない。青一色だ。

「ごっめーん」

 鼻に掛けた声がして、黄色いボールが萌々香の股のあいだにコロコロと転がり入ってくる。菜帆だ。

「こっちに投げてくれるー?」

 萌々香は立ち上がり、笑顔でボールを投げ返す。

「ありがとう」

 菜帆はしなを作った笑顔でボールを受け取ると、またボール打ちを再開する。

「なんか怖いね」

 座り、萌々香がこそっと呟く。

「表と裏があるのバレバレな感じ」

 萌々香は続けて言い、わたしも小さく頷く。

「ねー、ねー、咲希さあ」

 地面を見つめながら、小声で萌々香が言った。

「実はわたし、この前ヤバイの見ちゃったんだ」

「何を?」

 萌々香はすぐには答えず、目をまんまるくして含み笑いをする。

「なによ。なに?なに?」

 焦らされてせっつくと、萌々香はわたしの耳に手をあて、

「菜帆がさあ、この前、渋谷のクラブから男と二人で出てきて、煙草吸ってた」

「え!」

 わたしが声を挙げると、萌々香は慌ててわたしの口を両手で押さえる。

「静かに!わたしはそのクラブの近くにあるカラオケに妹と行ってたんだけどさ、その帰りに偶然見かけちゃったんだよね。あれは絶対に菜帆だよ。なんか、いかにもすぎない?表では優等生で、裏では煙草吸ってるって。ありきたりすぎてダサすぎるよ」

 萌々香は声をひそめて笑う。

「制服着てたの?」

 わたしが真面目に訊くと、萌々香はバカと言って笑い、

「もちろん私服だよ。ラメの入ったちょっとセクシーなお洋服だったよ。でも、なんか無理してるなあって感じにみえたけど」

 そう言うと自分の口に手をあてて、あーみんなに言いたい、と両足をばたばたさせた。

「萌々香、だめだよ。その話を誰かにしたら、萌々香が菜帆の餌食になっちゃう」

「分かってるから大丈夫。そんな自爆行為はしないよ。このクラスでこんなこと言ったら、自殺行為っしょ」

 萌々香はしれっと言う。大丈夫かな、とわたしは思う。萌々香って、ちょっとへらへらしているところがある。ついうっかり、なんて事故を起こさなければいいな、と懸念してしまう。

 無意識に視線は菜帆へと向かっていた。ラケットを振り終えた菜帆がこちらを向く。目が、合う。わたしは口を「あ」の形に開いてしまうが、菜帆は特にそれに気づかぬまま、にこりと笑みを浮かべてみせたので、わたしもぎこちなく笑みを浮かべ返す。

「聞こえてないよね?」

 隣で萌々香がおどついた声で言う。

「まさか、聞こえてるわけないでしょ。そこまで地獄耳じゃないよ」

 言いながら、わたしもやけにおどおどする。

「こらー!そこの二人!いつまでさぼってるのー!」

 遠くから女教師の怒号が飛んで、わたしたち二人はそろって飛び上がる。まわりの生徒がくすくす笑っている。

「十秒以内にコートに戻って練習再開しないと、今日のボール拾いは二人にさせるよー」

 十、九、八。女教師がカウントを始める。わたしも萌々香も慌ててコートに向かって走り出す。七、六、五。走りながら、ふと、園子のことを見ると、突っ立たままの園子も他の生徒たちと同じようにくすくす笑っていた。ラケットで口を隠しながら、一人、くすくす笑っていた。


9.

 待ちに待った吉井くんの大学を訪れる日。
 わたしは朝早く起きて、顔を洗い、いつもより念入りに化粧水をつける。ローズの天然の甘い香りがたちこめる。
 
 装いは何にしようかしら、と考える。クローゼットを開き、視線を左右させるけど、両親好みの地味な服ばかりが目について思わずため息をこぼしてしまうけれど、そのなかに一着、ウエストに切り替えしの入った華やかな花柄のワンピースを見つける。これにしよう。これは去年、祖母がわたしの誕生日に買ってくれたものだ。毎年祖母はわたしをデパートに連れていき、「好きなものを選びなさい」と言って、わたしに服を与えてくれた。そこでわたしが何を選んでも、祖母は決して眉をひそめたり否定したりすることはしなかった。店員と一緒になって、大げさに思えるほどわたしの姿を褒めてくれるのだ。そんな優しい祖母のことがわたしは大好きだったけれど、祖母は今年の二月に病に倒れて他界してしまった。淋しいと思う。悲しいと思う。わたしに選択の自由を与えてくれた唯一の身内だったのに―。ワンピースの裾を握りしめ、そんな感傷に浸りながらも、でも、誕生日には今年も好きな服を自分で買おうと決める。毎年貯めてきたお年玉というへそくりがわたしにはある。
 
 階段を下りて、居間のソファでくつろいでいる母に声を掛けると、母は目を見開き驚いた顔をした。

「やだ、あなた、そんな恰好で行くの?」

 非難するような口調で言われ、わたしはその場でたじろぐ。母の向かいで本を読んでいた父もわたしを一瞥し、すぐにまた無言で本に視線を戻す。

「吉井くんに大学の案内をしてもらうんでしょう。そんな恰好をしていくなんて、はしたないわ。遊びに行くんじゃないんだから、制服で行きなさい」

 母は立ち上がり、呆れた顔をしてわたしのそばに近寄りワンピースの裾を指さす。

「こんな、ヒラヒラしたの」

 眉間に皺を寄せた。わたしの視界には、蝶々が沢山プリントされている母のオーガンジー素材のスカートが目に入る。お母さんだってヒラヒラしているのに、と思ってもやっぱり言葉は嘘をつく。

「そうだよね。休日だから、ついついおしゃれしようとしちゃった。うん、そうだよね。そうだった、そうだった。すぐに制服に着替えてくる」

 うっかりさんを演じるわたしは踵を返し、いま下ってきたばかりの階段を急いで駆け上がる。自分の部屋に戻り、ベッドのはしに座って、浅くなった呼吸を整える。耳が、熱い。壁にたてかけてある全身鏡に映る自分と目が合うと、顔は嘘をついていなかった。への字の口に下がった眉毛、悲しい瞳。わたしは溜息を宙にひとつ吐いて、ベッドの上で小さく丸まる。あと何回脱皮をしたら、わたしは、本当のわたしになれるのだろう。

 桜貝のような色をした小さな自分の爪をじっと見つめたあと、青白い脚を両手でさすり、わたしは目をかたくつむる。吉井くんの顔がまぶたの裏に浮かんだ。大丈夫。わたしはひとりごちる。大丈夫なんだから、これから吉井くんに会えるんだから。

 学習机の上に置かれた置き時計の針を見て、わたしは慌てて立ち上がり、着なれた紺色の制服の袖に腕を通す。

 土曜日でもキャンパスには沢山の人がいた。

「これが掲示板。ここに授業の休講情報とか、教室変更とかの情報がいろいろ貼られるわけ。あと、この奥が大教室。ちょっとおいで」

 吉井くんは相変わらずのティーシャツにカーディガンにデニムパンツといった軽装で、まだ高校生にも見えそうな初々しさを残した笑顔でわたしを建物の奥へと案内してくれる。わたしは迷子にならないよう、親に必死にくっついていくカルガモのヒナみたいに吉井くんの背中を追う。建設されてまだ日の浅いというこの建物は、全体的に明るくて清潔で、天井が高い。

「どれどれ」

 吉井くんは大劇場にあるような厚くて重たい扉を泥棒のようにおそるおそる押し開けて、なかをのぞく。

「お、ラッキー。いま授業してないね」

 吉井くんはそう言うと、扉を堂々と勢いよく開けた。広々とした大きな教室には階段状の席と横長の机がずらり整然と並んでいた。

「ここは階段教室。こんなに大きい教室は高校にはないでしょ。教授がさ、ここでマイク持って授業するわけ」

 ホワイトボードの前にある薄いグレーの教卓をぽんと叩くと、吉井くんは階段をどんどん上がり、一番うしろの席によっこらせと言って腰をおろした。

「すごーい。高いね。こんなに上から見下ろすんだー。目が悪いとホワイトボードの字なんて見えなさそう」

 驚きの声をあげながら、わたしも吉井くんの隣に座る。

「いいのいいの。ここはさ、やる気のない人たちの特等席だから。プリント見るふりして、居眠りとかしちゃってる人も結構いるし」

 吉井くんは机にうつぶせて、横目でわたしをちらりと見て笑顔をみせる。わたしの胸はとたんキュッとする。柔らかそうな髪の毛がかわいい。  

「咲希は大学で学びたいこととかあるの?」

 うつぶせたまま、両腕をだらりと前に投げ出した姿勢で訊くから、吉井くんの声は、なんだか寝ぼけている人の声みたい。

「分からない」

 わたしは首を横に振る。

「大学行って、何の勉強をしたいのかは分からない。でも、デザイナーとかには憧れているから、服飾の勉強はしたいと思ってる」

 密かに抱いている夢について語ると吉井くんは体を起こし、いーじゃん、と言って目を輝かせた。

「デザイナーだなんて、かっこいーじゃん」

「でも、だめなの」

 わたしは間髪入れずに言った。

「うちの両親は知ってのとおり、ああいう人たちだから。専門学校はだめだし、大学で服飾関係の専攻を目指すのも反対だし。服飾の勉強なんて、何の役にも立たないって思ってるの。どうせデザイナーになんてなれないと思ってるから」

 今度はわたしが机にうつぶせる姿勢になる。ほっぺがひんやりする。新しい木の青い匂いがする。

「ならさ、頑張って両親を説得してみれば」

 頭のうえから吉井くんの真面目な声が降ってくる。

「俺からも何か言ってみようか。他人から言われたら、咲希の両親もちょっとは耳を傾けるかもよ」

「ううん、いいの。負け戦はしないの。疲れるし」

「だって、そう言っても自分の人生じゃん」

「そんな理屈はあの人たちには通用しないもん」

「理屈って…」吉井くんは苦笑する。

 あーあ、とわたしはくっきりと言葉にし、それから大きな溜息をつく。情けない声音が空っぽの大教室に反響する。

「なあ、咲希」

 吉井くんはわたしの髪の毛をくしゃりと撫でる。ぶるっとわたしは体を震わせる。でも吉井くんはそれには気づかぬまま、わたしに優しく諭すような目をして語りかける。

「咲希だって、まだ二十歳前だけど、もう立派な大人なんだよ。親の言うことばかりを聞かなくたっていいんだよ。そりゃあ、親はありがたい存在だよ。でも、言い方悪いかもしれないけど、べつに俺たちって、親の期待に応えるために生まれてきたわけじゃないだろ」

 わたしは顔をあげ、吉井くんの顔を見た。吉井くんもわたしの瞳を見つめる。真面目な顔をしている。

「自分の意志で、自分の人生を好きに生きてもいいんだよ」

 ゆっくりとした、労わるような口調で吉井くんは言った。分かるよ、分かる。分かってるの。でも、やっぱり分からないから苦しいの、と思ったわたしはつい吹き出してしまう。本当はすごくすごく泣けるほど吉井くんの優しいお説教は嬉しいのに、恥ずかしくなって茶化してしまう自分はなんて弱くて嫌になる。

「おーい、こっちは真面目」

 わたしの頭をつつき、吉井くんも笑う。

「まあ、俺と咲希は真逆だな。うちはさ、親の方がわりと本気でサッカー選手とかアイドルとか、そういうのを目指せって言ってたんだけど、俺はこう見えて弁護士になりたくて。だから親の期待は一切無視して、法学部を選んだんだけどね」

 吉井くんは両手をあげて、うんと背伸びをした。

「親はどう思ったか分からないけど、自分は満足してるよ。なりたい自分を目指して頑張ろうと思うし。咲希だって、なりたい自分を目指した方が絶対にいいよ。自分の人生なんだし」

 わたしは口ごもる。すぐにでも頷けたらいいのだけれど、そんな自由な生き方に飛び込むことは、高いジャンプ台の上から下を見下ろすみたいに足がすくむことなのだ。

「よし」

 そんなわたしを見て吉井くんは言う。

「なら、咲希、神様にお祈りしてみよう。咲希が楽しく自分の望む人生を生きられますようにって」

 クリスチャンでもないくせに吉井くんはアーメンと言って両指を組んで目をつむる。よし、いま祈りが届いたぞ!なんて言って、茶化して笑う。吉井くんは優しい。優しくて強い。わたしはへらへらと曖昧な笑みを浮かべて思う。だけど吉井くん、本当はわたし、吉井くんと同じ大学になら通ってもいいって、そんな不純な動機で夢を捨ててしまう不誠実さを抱えている。自分の人生に誠実に生きるって、結構難しい。吉井くんのように、沢庵を切るみたいにサクサクと軽妙な音をたてて迷いや恐れを断ち切って前進していく力、はたしてわたしにもあるのかな。わたしって、なんだかいつも納豆みたいにねばねばしている。自分の本当の気持ちと、それに反する両親の期待を混ぜ合わせて飲み込んで、無理やり消化させようとして、もがいている。どんなに頑張ってみたところで、その相反するものが融合することなんてなくて、ただただ吐き気をもようすだけなのにね。

 大教室を出ると、うすい色をした空に泡状の雲が浮かんでいた。レンガ色の古めかしい建物や、近代的な打ちっぱなしの建物の並ぶ通り沿いに植えられた欅の木々の緑がやわらかな風に揺れている。おしゃれな格好をして友人と楽しそうに歩いている人。立ち止って教授らしき人と語りあっている人。ベンチに座り一人で読書をしている人。みんな、思い思いに時間を過ごしている。大学はたぶん、悪いところではない。それは充分に分かった。

 吉井くんは腕時計をちらりと見て、もう行こうか、と言った。このあとサークルの集まりがあるのだという。吉井くんはフットサルのサークルに入っている。文武両道ってやつだ。

「今日はありがとう。なんだか未知の世界って感じで楽しかった」

 正門のところまで見送りにきてくれた吉井くんは、わたしの言葉に満足そうな表情をして鼻の下を指でこすった。

「もし良かったら、今度学祭にも来てみなよ。秋にあるから。サークルの出店とかもあるし、盛りあがって楽しいよ」

 うん、とわたしは頷いた。吉井くんとはここでお別れだ。なんだかとても淋しい。吉井くんが明朗な笑顔で手を振ってきたので、わたしもそれに負けじと笑顔で手を振った。正門は夢と現実のボーダーライン。わたしはどう頑張っても十六歳の女子高生でしかいられない。

 ひとり駅に向かう途中、派手な看板を下げたドラッグストアに立ち寄った。床に置かれたカゴに無造作に山積みされた口紅をあさり、コーラルピンクの小さな口紅を一本買って、鞄の奥にしまい込む。馬鹿げているのは分かっているけれど、でも、早く大人になりたい。そう思った。

10.

 人生は突然狂う。
 朝、いつものように教室に入るとクラスメイトの視線が一斉に集まった。

「おはよう。何かあったの?」
 
 わたしが尋ねても、クラスメイトは首を傾げて困ったように口ごもる。明らかに普段と様子が違う。萌々香もやってこない。いつもならわたしの顔を見るなり快活な声でおはようとやってくるのに、萌々香はわたしに背を向け、机の前で座ったままでいる。

「萌々香、おはよう。なんかあった?」

 わたしから声を掛けにいくと、萌々香は振り返り「おはよう」と返事をしつつも気まずそうな表情を浮かべ、体を落ち着きなく左右に動かした。

「どうしたの?トイレにでも行きたいの?」

 冗談めかしてそう言った瞬間、うしろから背中を叩かれた。菜帆だ。

「咲希って、サイテー」

 開口一番、菜帆は言った。

「真面目ないい人そうに限って、こういうことするんだよねー」

 両腕を組み、高圧的な態度で菜帆はわたしをいきなり睨みつける。

「なんのこと?」

 突然の出来事に動揺し、わたしの顔は熱くなる。心臓が鳴る。

「はあ?しらばっくれないでよ。わたしが煙草吸ってるって、有りもしない噂を流したのはあんたでしょ。いい加減にしてよ。わたしがあんたに何をしたっていうわけ?嫉妬?嫌がらせ?本当に最悪だよね」

 教室が一気に静まり返る。みんなの注目が集まる。萌々香?わたしが萌々香の方を見ると、萌々香はばつの悪そうに眼を逸らした。嘘でしょ。声にはできず、胸のうちで言う。

「わたしね、推薦を考えているの。邪魔しないでよ!」

 菜帆が声を荒げた。萌々香の耳のはしっこが真っ赤になっている。わたしの頭は、もう、真っ白だ。

「…ごめん」

 小さな声がした。

「ごめん!わたしなの!その噂を流したのはわたしなの!」

 萌々香が急に立ち上がり、倒れ掛かるようにして菜帆の両肩を掴み、叫んだ。クラスメイトの視線が今度は萌々香に一気に集まる。菜帆は、でも、何も動じずに溜息をふっと吐いた。

「あんたって、本当にサイテーだね。大切な友達に自分の罪の肩代わりをさせるなんて、マジで信じられない」

 菜帆の目にはもはやわたしのことしか映っていないようだった。萌々香の必死の訴えはむなしく宙に散る。

「まあ、いいや」

 ふふっと菜帆は不敵な笑みを浮かべた。

「今日から咲希は透明人間ね」

 菜帆は言う。

「みんなも聞いて。山野咲希さんは透明人間になっちゃったから、今からもう見えなくなるよー」

 わたしはただ呆然と立ち尽くしていた。熱かったはずの顔は血の気が引き、蒼白になる。やば、うちのクラスに透明人間が二人もいるわけ。菜帆の取り巻きの生徒の一人が言って笑った。

「じゃ、ね」

 菜帆は笑顔で言うと、そのまま自分の席に颯爽と戻っていった。その瞬間、わたしの視線は誰にも合わなくなった。萌々香もうつむき、小さく震えている。

 一体、何が起こったのか。わたしには分からなかった。

―咲希、気を付けてね、菜帆に狙われているかも―。

 園子の言葉が耳の奥で反芻される。チャイムが鳴った。みんなが席に座る。わたしはでも、立ち尽くしたままでいた。窓からさんさんと太陽の日差しが教室に降り注ぎ、空気に舞った微細な埃が繊細な光を放っている。きらきらっ、きらきらっと。

 さっきまでみんな、揃ってわたしを見ていたのに、今は誰もわたしを見ようとはしない。きっと怖いのだ。きっと面倒なのだ。世界が急変したその瞬間、園子だけがわたしを見ていた。困ったように、同情するように。

 園子と目が合っても、わたしはどんな顔をしたらいいのか分からない。たぶん、わたし、今、死んだ魚の目をしてる。



 夕日差すなか、わたしはとぼとぼと影を連れてひとり帰路につく。鞄の紐が重く肩に食い込む。

 今日の出来事が夢だったらいいな、と思った。たとえば人間観察バラエティのテレビ番組の企画で、明日になったら、「ドッキリでした」とクラスのみんなが笑いながら迎えてくれたらいいな、なんてことを頭に浮かべ、でもそんなことはあるわけないだろうと現実に戻り、わたしは気持ちを暗くする。

 結局、萌々香とはそのあと一言も話すことができなかった。菜帆の視線があったからだ。昼休みもいつもなら萌々香と机で向い合せになり、一緒にお弁当を食べるのに、萌々香は菜帆のグループに誘われて、半ば強制的に吸収されてしまった。仕方なくわたしはひとりで机にお弁当を広げて食べたけれど、胃のあたりが詰まった感じがしてほとんど残してしまった。園子の方を見ると、園子は淡々とひとりでお弁当を食べていた。そして食べ終わるといつものように、机に突っ伏し、ひとり昼寝していた。

 地獄みたいな一日だった、と思う。いや、地獄の始まりの一日だったのだ、きっと。一歩進むごとに、溜息をみちしるべのように落としてしまう。

「咲希?」

 うしろから懐かしい声が聞こえた。

「鈴子!」

 振り向くと幼なじみの鈴子がいた。

「久しぶりー」

 セーラー服姿の鈴子は肩にかかるセミロングの髪の毛を揺らしながら駆け寄ってきた。

「元気?元気?なんかすごい久しぶりだね。わー、嬉しい」

 子供の頃みたいに二人で両手と両手を合わせて叩きあった。小学生の頃の面影を残したままの鈴子は、笑うと両頬に可愛らしいえくぼができる。

「なんか咲希、綺麗にならない?前よりもさらに美人になってる感じがするけど」

 鈴子はわたしの足元から頭のてっぺんまでをふわりとした視線で見ると、嫌味のない口調で言った。

「そんなことないよ。鈴子の方こそ相変わらず綺麗でしょ」

 言うと鈴子は照れて、

「いきなり褒め合ってるね、わたしたち」

 と、くすくす笑った。

 すごくほっとした。強張っていた心が鈴子に会ったとたん、一気にほぐれていくような気がした。

「途中まで一緒に帰ろうよ」

 鈴子は歩きだした。前よりも少し、背が伸びた感じがする。それを指摘すると鈴子は眉を下げ、

「まだ成長期なのかも、わたしー」

 と間延びした口調で言った。

 住宅街の小道を二人で並んで歩く。途中、軒先にバラの咲いている家の前で鈴子は立ち止まり、うっとりして目を細め、きれいねえ、と呟く。

「ほら、咲希も目の保養になるから。ほらほら、見ておいた方がいいよー」

 鈴子があまりにも平和な声で言うので、わたしはぷっと吹きだしてしまう。鈴子って、昔からのんびりしている。見た目も雰囲気も大人っぽいし、妹がいるせいかお姉さんっぽくもあるのだけれど、いつも落ち着いていて、ほんわかしていて、全体的にゆっくりしている。鈴子といると自然と空気が和む。幾重もの花びらをつけたコロンとした形のバラの花をしばし二人で眺めたあと、また並んで歩きだした。

「そういえば最近、香奈に連絡してる?」

 訊かれ、わたしは首を横に振った。

「えっとね。一カ月くらい前に連絡したきりかな。香奈って、メールしても返信遅いし」

「咲希にもそう?わたしにもだよ。いっつも返信遅いの。なんていうか、さばさばしてるっていうか男っぽいんだよねー、香奈って。それ言うと怒るけど」

「そうそう。でもそこが香奈のいいところなんだけどね」

「ねー」

 二人して笑う。久しぶりに会ったとは思えない親しみと安心感が鈴子にはある。土台のしっかりした関係を築いているわたしたちにとって、多少の会えない時間なんて、まるで関係ないのだ。

「でも、まあ、香奈は引っ越しちゃったから、ばったり会わないのは仕方ないとしても、咲希とうちってわりと近所なのになかなか偶然会わないものだよね」

「うん、そうだよね。登校時間も帰宅時間も違うからね」

 わたしは高校まで一時間強かかるのに対し、鈴子の通う高校はバスで二十分ほどの場所にある。

「あ、でも、咲希のお母さんはこのまえ駅前で見かけたよ。あいかわらず綺麗だねえ。うちのお母さんとは大違いだよ」

 鈴子は昔からわたしの母のことを綺麗だとよく感心してくれるけれど、わたしからすれば鈴子の母親のいかにもお母さん的な化粧気のない、素朴で優しい雰囲気の方が、よほど羨望の的になる。お互いに、ないものねだり、というところだろうか。

「今度また、三人で遊ぼうね」

 二人の岐路になる小さなクリーニング屋の前で立ち止まり、鈴子は柔らかな笑みを浮かべてみせた。ランドセルを背負っていた頃の郷愁が胸に押し寄せてきて、わたしはちょっぴりセンチメンタルな気分になる。

「ねえ、鈴子」

「なに?」

「鈴子も高校からは女子高でしょ。いじめとかって、ある?」

 いじめ?鈴子は首を傾げてしばし考え、

「わたしの知る限りはないかなあ。うちは大学までエスカレーター式に進学できちゃうし、みんなのんびりしてるからなあ。ある意味平和ボケしてるって感じ。あ、でもわたしが知らないだけで、いじめのあるところにはあるのかもしれないけど…」

 ぼんやりした顔で鈴子は言う。いじめなんて単語とはまるで縁のないような安らぎを身にまとって。

「咲希のところはあるの?」

 きょとんとした目で問われ、わたしの心臓が激しく鳴る。

「となりのクラスに一人いるみたいで。女子高だからなのかなあと思ってさ」

 まさか自分が標的になっているなんて言えるはずもなく、わたしは飄々と言った。

「女ばっかりだとね、色々あるよね。特に咲希のところは頭いいし、進学校だからストレスとかで大変なのかもね」

 鈴子はしみじみと言った。鈴子みたいにふんわりと穏やかな雰囲気の人がうちのクラスにもいたら、もっと空気は良くなるのかもしれない。

「香奈みたいに共学だったら楽しいんだろうなあ」

 わたしの言葉に鈴子は大きく頷き、

「青春してそうだよね。今度香奈に会ったら色々聞き出してみようよ。わたしたちなんて毎日女だらけの世界だからさ、ちょっと未知の世界を教えてもらおうよ」

 そうだよね、わたしたち、女だらけの世界だもんねー。わたしも言って、二人して頬を染めて笑った。

「じゃあ、またね」

 鈴子が手を振り、踵を返そうとしたとき、「あ」とわたしの口から無意識に声が漏れた。「うん?なに?」鈴子がわたしの目を見たけれど、わたしは「なんでもない」と笑顔で繕って手を振った。

 あれ、わたし、今、何を言おうとしたのだろう。
 わたしは首をひねる。勝手に口が動いたのだ。本当はわたし、いじめられているの。そんなことでも言おうとしたのだろうか。

 夕日が落ちて、あたりが闇に包まれはじめ、同時にわたしの胸にも闇が落ちてきて、わたしの体も心も憂鬱の波に呑まれていく。通りの向こうに鈴子の姿はもう見えない。ねえ、鈴子。わたしは胸の内で呟く。ランドセル背負っていたあのときみたいに、明日の心配なく眠れるほど幸せなことってないのかも。

11.

 透明人間勧告をされたあの日以来、わたしはずっと教室で独りぼっちだ。萌々香からは一度だけメールが届いた。

「ごめんね、咲希の味方できなくて。本当にごめんね、わたしのせいで」

 メールの文面はひたすら謝罪の台詞の繰り返しだった。正直すごくショックだったし、腹も立った。でも、きっと遅かれ早かれわたしはこうなっていたのだろうと思う。菜帆はきっと、煙草の噂話を流したのが本当は誰なのかなんて関係なかったはずだ。わたしを透明にするきっかけをずっと探していたにちがいない。萌々香のことをだからわたしも責める気にはなれず、「いーよ、気にしないで。もうしょうがないもん」と当たり障りのない言葉を書き連ねて送った。萌々香からは「わたしにできることがあったら何でも言ってね」と返事がきたけれど、一体萌々香に何ができるというのだろう。現に萌々香は今だって、わたしのことを一切見ない。菜帆の率いる中心グループにすっかり馴染んで、休み時間なんて大きな声で笑い声をあげている。その声を聞くたびにわたしの胸はきしきし痛む。体育の時間は必然的に園子とペアを組むようになった。ずいぶんと調子のいい話だと思うけれど、

「全然気にしなくていいよ」

 園子は言う。それどころか、わたしは咲希とペアになれて嬉しいし、なんてことまで言ってくれる。なんで園子はそんなに強いのだろう。唯一の話せる相手ではあるけれど、だからといって教室でわたしと園子がつるむようなことは決してない。色を失ったもの同士、二人それぞれ大人しくしている。もうこれ以上傷つくのはごめんだから。

 だけど、やっぱり辛かった。存在を無視されるほど屈辱的なことはなかった。親にも担任にも相談なんてできなかった。担任は頼りにならないし(下手したらもっといじめがひどくなりそうな予感がしたし)、親に言って変に事を大きくされたり、心配をさせることもまた苦痛だった。

 休み時間は園子みたいに机のうえに突っ伏して過ごした。十分という時間がこんなに長いなんて知らなかった。机がこんなに固く冷たく、臭いものだなんて知らなかった。みんなの笑い声がこんなに耳の奥に痛く突き刺さるなんて知らなかった。孤独がこんなにも辛いものだなんて、わたしは全く何も知らなかったのだ。

 それでも先に受験は控えていた。いつもどおり図書室でしっかり勉強をして、それからわたしは家に帰る。その帰り道、吉井くんとばったり会った。吉井くんは相変わらずの安穏とした顔をして、「よお咲希、元気かー」なんて言う。わたしは突然泣きたくなった。

「どーした?暗い顔して」 

 わたしは立ち止まり、唇をかすかに震わせながらうつむいた。

「あれ?本当にどうした?何かあった?」

 わたしの様子に気づいた吉井くんは慌てて屈むようにしてわたしの顔を覗き込んだ。とたん、涙が一粒落ちて、地面に小さな黒いほくろをつくった。「あれれ、あれれ」吉井くんは言う。そしたら続けざまに二粒三粒と涙が落ちて、地面はもう水玉模様。

「なになに?なにがあった?」

 吉井くんは背負っていたリュックサックのなかから慌ててポケットティッシュを取り出し、わたしに数枚手渡した。わたしはぐずぐずしながら涙を拭う。固い紙が肌に痛い。

「もう学校嫌なの。やめたい。ぜんぶやめたい」

 押さえ続けていた言葉が口をついてでた。

「大丈夫か?何が一体あったの?」

 吉井くんは背中をさすってくれた。わたしはもう嗚咽しかだせず、返事はできない。

「とりあえずうちにでも寄って、温かいものでも飲んでいくか?」
 
 吉井くんに言われ、わたしは泣きべそのまま、子供みたいにこくりと頷いた。


 久しぶりにあがる吉井くんの家はカレーの匂いがした。

「今日、母親出掛けてるから、遠慮しないでいいよ。最近さ、親父が残業のときは平気で夜に友達と飲みに出掛けたりするんだよ」

 お、カレーだ。吉井くんは台所で鍋の蓋を開けて呟く。

「咲希も食べてく?うちのカレー。夜遊びするときには一応、夕食だけは作っておいてくれるんだよね」

 わたしは首を横に振った。家で夕飯食べるから、と。

 部屋に吉井くんと二人きり、というシチュエーションに体は緊張していた。子供の頃はしょっちゅう二人でこの部屋でゲームをしたり、漫画を読んだりして遊んでいたというのに、今、目の前にいるのが「男の子」の吉井くんではなくて「男の人」の吉井くんだから、妙に意識してしまう。吉井くんはでも、昔と変わらぬ調子でわたしを部屋の奥へと招き入れ、居間にある座布団のうえにわたしを座らせ、自分はひとり台所に戻り、お茶の用意をしてくれている。わたしは所在なくあたりを見回す。壁が以前より少し黄ばんだ感じがする。天井も乾燥でヒビが入っている箇所がところどころある。部屋の隅には昔はなかった大きな水槽が置いてあり、綺麗な色をした小さな魚がたくさん泳いでいた。時間の経過を感じるけれど、吉井くんが図工の時間に作った粘土の変な置物とか絵画コンテストで入賞した消防車の絵とかは以前と変わらぬ様子で飾ってあり、懐かしく、それらを見ているとタイムスリップしたような気持ちにもなる。

「紅茶と珈琲、どっちがいい?」

 台所から声がして、わたしは珈琲と返事する。普段は紅茶だけれど、ちょっと背伸びをしてみた。

「牛乳か豆乳いれる?」

 また声がして、じゃあ豆乳、と答える。なんとなくその方が良い気がしたから。すると吉井くんは、「ソイラテ入りましたー」と冗談めかして言った。目の前の真っ黒なテレビ画面には落ち着かない様子のわたしが映っていた。目が腫れてブス。せっかく二人きりになれたのに、こんな顔して嫌になる。白いハイソックスの薄汚れた先っぽをいじっていると、吉井くんが満を持して両手にマグカップを持ち、やってきた。

「お待たせー」

 湯気の立つマグカップは、ひとつは横笛を吹くスナフキンで、もうひとつには傘を持ったミーが描かれていた。

「かわいい」

 わたしが微笑むと、母親の趣味だから、と吉井くんは苦笑を浮かべた。うちの食器って結構ムーミン一家だらけよ、と。

「昔からそうだっけ?」

「いや、三年前に突然目覚めたらしい」

 けらけらっと吉井くんは笑って、あぐらをかいた。
 豆乳珈琲にはすでに砂糖が入っていて、甘くておいしくて、胸のあたりが温かくなった。

「おいしい」

 わたしが言うと、

「俺、前にスタバでバイトしてたから」
 
 吉井くんはやけに誇らしげに胸を張った。

「で、どーしたわけ?」

 吉井くんはすぐさま本題に入ろうとした。いじわるミーを見つめながら、わたしは口を結び、うーんと唸る。

「べつに言いたくないなら、言わなくたっていいよ」

 吉井くんはさらっと言う。

「言いたくないことだってあると思うし」

 言いたくないわけではないけれど、言葉が見つからないのだった。わたしに起こった屈辱的な出来事をどう伝えたらいいのか、考えあぐねていた。上唇と下唇を糸で縫われたみたいにじっとわたしは黙りこくる。

「まあ、生きてりゃ泣きたくなることもあるよな。でもさ、大丈夫だよ。って何も知らないのに無責任かもしれないけど、でもまあ大抵のことは時間が過ぎれば笑い話になるから」

 吉井くんは優しい口調で言うと立ち上がり、ちょっと待っててな、と言って台所に小走りをした。

 吉井くんは「北風と太陽」でいうのなら間違いなく太陽だ。ぽかぽか暖かな日差しでわたしの冷えた心を照らす。だからわたしも上下の唇を結んでいた糸をぷちりぷちりと切りだして、吉井くんにだけならと口を開く。

「実はちょっと、友達といろいろあったの。それで軽い嫌がらせを受けちゃった」

 軽くなんてないけれど、でも真実を伝えるにはこの場所は平和すぎる。オブラートで幾重にも包み込んで、吉井くんが投げ返しやすい言葉を選んで投げないと、わたしも吉井くんもきっと、疲れる気がする。

「嫌がらせ?あー、そういうこと?女子にはいろいろありそうだからなあ」

 吉井くんはビスケットの入った黄色い箱と赤い箱を両腕に抱えて戻り、わたしに差し出した。咲希の好きなビスケットがあったよ、と嬉しそうに言う。それは小学生のころ、わたしがよく好んで食べていたビスケットだった。今ではたいして好きではないのだけれど、わたしは吉井くんの好意がありがたくて、黄色い箱の方のビスケットを一枚取り出して食べる。

「たぶん、嫉妬してるんだな。咲希はかわいいから」

 吉井くんはしゃくしゃく音を立てながら食べる。ミルクの甘い香りが漂う。ぱさぱさっと粉が床に落ちる。

「女の友情って薄情だよ」

 わたしが言うと、吉井くんはぷっと吹き出す。

「まーなー。その台詞、うちの同級生の女の子も言ってたな。その子、彼氏を友人に取られたみたいで。でもその子たくましくてさ、すぐに新しい恋人をつくってたよ。やっぱり女は強いねー」

 吉井くんが茶化すように言い、わたしも小さく笑う。

「ま、でも本当に辛いときは我慢せずに沢山泣いたらいいよ。それに助けを求めたっていいじゃん。その揉めた友達以外にも咲希が相談できる子とかクラスにいるんでしょ?」

 悪意のない吉井くんの言葉が胸を突き刺す。わたしは頷き、嘘をつく。クラスに相談できる友達なんていない。ぽこぽこと、水槽から空気のあぶくの音がする。

「咲希は俺にとって、本当に妹みたいに大事な存在なんだからさ、なにか俺にできることあったら何でも言いな。話を聞くだけでもいいし」

 吉井くんの澄んだ瞳がわたしを見つめる。わたしは鼓動の高まりを感じてとっさに目を逸らす。

「ありがとう」呟くように言うと、

「なに照れてるんだよー」

 吉井くんはわたしの頭をぽんぽんと叩く。そんなことされたら、わたし、どんどん吉井くんのこと好きになっちゃうのに。どんどん愛おしくなっちゃうのに。でも吉井くんはわたしのそんな気持ちを知る由もなく、無邪気な笑顔をわたしにみせて、
「頑張れよ!咲希!」
 だって。

 仕方ないからわたしも「うん」と元気な笑顔を無理やりつくって大丈夫なふりをする。本当はぜんぜん、大丈夫ではないのだけれど、でも吉井くんといると大丈夫になりそうな気もしてくるから不思議なのだった。


 家に帰り、わたしは吉井くんと過ごした幸福な時間の余韻に必死に浸かる。油断したら明日から始まる日々への不安に侵食されてしまいそう。

 帰り際、吉井くんは「家まで送ろうか」と申し出てくれたけれど、わたしはそれを断った。吉井くんとは少しでも長く一緒にいたいけれど、家まで吉井くんがついてきたら、母に根掘り葉掘り聞かれてしまう。それだけは避けたい事態だった。わたしの内緒の恋心。それはすくすくとわたしのなかでゆっくりと育つ。誰にも邪魔されず、密やかに、そっと。

 階下で母が夕食の準備をしている。料理のあまい匂いがする。今日はわたしの好きなロールキャベツだと、帰るなり母は口調明るく言った。お腹、やっぱりまだ空いてはいないけれど、わたしはそれをきっと残さずきれいに平らげる。ロールキャベツは母の愛情のしるしだから。

 わたしは学習机の引き出しの奥に隠しておいた、前に買った小さな口紅を取りだして、そっと、唇に塗りつけた。思ったよりも赤い色。わたしの薄桃色の唇が色を持つ。大人になりたい。早く、大人になりたい。今ってなんて中途半端。子供だけれど子供ではないし、かといって大人にもなりきれていない。吉井くんに会うたびに、吉井くんに胸焦がれるたびに、わたしは指先までしびれを感じ、わたしの胸は丸く膨らみ、わたしの体は必死に「女」になろうとする。鏡を手にとる。でも、どんなに背伸びをしたところで、肌が、幼さを隠してはくれない。

「咲希、ごはんよー。早く降りてきなさい」

 母から呼ばれ、慌てたわたしはウェットティッシュで口紅を乱暴に落とす。薄皮が剥がれて少し出血し、ひりりと痛い。

「咲希、聞こえてるのー?」

 母にもう一度呼ばれ、がさがさの唇のままわたしは階段を急いで駆け下りる。

12.

 透明人間になって三週間。時間は否が応にも過ぎるけれど、わたしは透明人間であることに慣れることなんてできず、毎日ちくちくする針のむしろのうえを生きる。
 
 今朝の朝食はスクランブルエッグだった。ちょっと柔らかめの出来で、黄色の液が白いプレートに広がっていた。
 
 わたしはいつものように食卓につき、新聞を読む父の前で静かに食事を始めたけれど、急に込みあげるものがあって持っていたフォークをテーブルの上にそっと置いた。そのあとパンを少しちぎって口に入れてみたものの、飲み込もうとしても喉がそれをなかなか受けつけようとはしてくれずに手こずってしまった。母が「食欲ないの?」と心配そうな顔をして尋ねた。

「ちょっと調子悪くて。残しちゃってごめんなさい」

 答えると母はわたしの隣の席に腰をかけて、「あなた、最近ちょっと疲れてるんじゃないの?あまり顔色良くないし」と母は母なりにやはりわたしの異変に多少気づいていたらしく、不安そうな表情を浮かべたけれど、わたしはいつもの妙に頑張ってしまう悪い癖で、

「大丈夫。ちょっと勉強のしすぎかも。若いのに体力が落ちたのかもしれない」

 冗談めかして言って、その場を取り繕った。黙って母とわたしのやりとりを聞いていた父が急に顔をあげ、

「勉強も大事だけれど、これから受験に向けてもっと忙しくなるんだから、運動でもして体力をつけることもしないといけないな」

 と低い声でもっともらしく言う。

「そうね、運動も大事ね。勉強がすべてじゃないものね」

 勉強がすべてではない。我が家でおなじみの言葉がまた飛び出して、わたしはそれを肯定も否定もせず、「ごちそうさま」とだけ言って席を立った。


 一時限目が終わって、昼休みに入った。
 やはり今日はずっと気分が悪く、保健室に行こうと席を立った。教室を出ようとする途中、萌々香の席の脇を横切った。萌々香の席の前には菜帆がいて、二人は向き合って何かおしゃべりに興じていて、すっかり仲良しみたいに見えた。そんな姿をつい横目で見ながら、でも足早に通り過ぎようとしたそのとき、萌々香の机から少しはみ出し気味に置かれてあったペンケースに体が当たり、萌々香のペンケースが床にぽんと落ちてしまった。

「あ」
 
 萌々香は言い、すぐさま拾おうと椅子から腰を浮かせ、腕を伸ばした。その刹那、菜帆がその腕をがっと抑えて首を振り、萌々香に目配せをした。何事だろうかとわたしが思う間もなく、

「なにいまのー、見た?」

 菜帆がすっとんきょうな声をあげた。

「超怪奇現象じゃない?このペンケース、いま勝手に落ちたよね。見た?見た?」

 わざとらしく騒ぎ出した。萌々香はわたしと目を合わせることはしなかったが、すごく困った顔をしていた。わたしはいたたまれない気持ちになったが無言でペンケースを拾うと、萌々香の机のうえにそっと置いた。

「やだー。いま勝手に浮いてきた。怖い。なにこれー」

 菜帆は芝居じみた口調で言う。取り巻きの女子たちがくすくす笑う。

「ねえ、なにか見える?」

 菜帆が斜め後ろの生徒に訊いた。「なにも」その生徒は答える。

「ねえ、ユキコは?なにか、見える?」

 また別の生徒に訊く。「なにも」その生徒も同じように答える。

「萌々香も見える?」

 菜帆が言う。挑戦的な目付きだ。萌々香は一瞬息を呑み、それから、

「…見えない」

 蚊の鳴くような声で返事をした。

 わたしはその場から走って教室を出た。吐き気がした。今にも吐きだしそうになった。それでトイレに駆け込み、便器に顔を突き出して胃のなかのものを出そうとしたけれど何も出ず、おくびも出ず、生暖かい空気だけが口から洩れた。

 一体わたしが何をしたのだろうと思った。まだ新学期が始まって三か月目に入ったところだ。まさかこんなことになるなんて、桜の咲く頃には想像すらできなかった。平穏な日々は一瞬にして、たった一人の圧力によって、こんなにもくるりと変わるものなのだろうか。非情とは、こういうことを言うのだろうか。

 わたしはそのまま職員室に行き、担任に体調不良を訴えて早退することにした。教室に鞄を取りに戻ったとき、透明人間に対して一斉にみんなの好奇の視線が集まり沈黙が流れたけれど、わたしが鞄を取りだし帰り支度を始めると、すぐにいつもの喧噪に包まれた。


 まだ青い空のした、宛てもなくさまようわたしの足は、すがるような気持ちで気づくと吉井くんのキャンパスに向かっていた。

 平日のキャンパスは以前に訪れたときよりもずっと多くの生徒たちで賑わっていた。笑顔で会話をしながら歩く人たち。教授とおぼしき男性と熱心に語りあう生徒たち。サークルらしき集団が芝生のうえで円陣を組んで話し込んでいる。

 楽しそう―、わたしは思った。ここには自由というものがあるように思えた。もちろん、ここにいる人たちのなかにも少なからず苦しんいる人はいるのだろうけれど、今のわたしの瞳に映るものはすべて、憧憬の対象となる。

 正門近くにある木製のベンチに腰をかけていると、向こうから吉井くんが駆けてくるのが見えた。わたしにすぐに気づいて、一直線に向かってくる。わたしは気持ちを弾ませるけれど、なぜか喜び一杯の表情にはなれず、中途半端な笑みを浮かべてみせた。

「ちょっと、突然どうしたの?高校は?いきなり連絡くるからびっくりしたんだけど」

 吉井くんはわたしの目の前で立ち止まると息を切らしながらそう言った。わたしの体はきゅっと固くなる。だって、吉井くんが明らかに困惑しているのが分かったから。

「ごめんなさい」

 それでわたしは小さな声で謝った。

「いきなり迷惑だよね」

 吉井くんは片手に携帯電話を握りしめたまま、

「いや、迷惑じゃないけど、まさかいきなり来るとは思ってなかったから」

 と口ごもりながら言って、そして黙った。わたしの胸はちぎれそうになった。そりゃ、いきなり来たら困るよね。だけど、もっとあたたかな反応を期待していた。吉井くんに裏切られたような気がするのは勝手すぎるけど、でも傷つく。

 吉井くんは乱れた髪の毛を指で梳くようにして整えたあと、わたしの隣に座り、言う。

「本当は咲希の相手をしたいんだけど、今ちょっとタイミング悪くて」

 吉井くんはちょっと焦っていた。正門に常駐している警備員の男性がこちらをちらりと見る。

「あ、ちょっとごめん」

 吉井くんの携帯電話が震え、吉井くんは片手で口元を覆うようにして電話に出て話すけど、声は丸聞こえだ。ごめん、ごめん、ちょっと近所の子が急に来たっていうから。吉井くんは声を潜めて話す。近所の子、か。わたしはちょっぴり悲しくなる。聞き耳なんてたててはいないけれど、微かに漏れ聞こえてくる声から電話口の話し相手が女の人だと分かる。

「ああ、すぐに戻るから」

 吉井くんは電話を切ると、うなだれて頭を抱えた。

「まずいなあ」

 吉井くんは呟く。わたしは何も言えず、ただただ押し寄せる後悔と罪悪感を、鞄と一緒に膝のうえで抱きかかえる。

「お、吉井。お前、早く部室に戻れよ。あいつ、泣いてるから」
 
 ショルダーバッグをたすきがけした背の高い男性が通り過ぎざま吉井くんに声をかけた。

「あ、ああ。すぐ戻るわ」

 吉井くんが片手をあげて答えると、その男性はにやりとして、「早く仲直りしな」と言って悠々とした足取りで正門から出ていった。吉井くんはこれみよがしな大きなため息をつくと、横目でわたしをちらりと見て、苦々しい笑みを浮かべてみせた。

「ごめんね、咲希。実はちょうど彼女と喧嘩してた最中だったわけ。だけど咲希から連絡あったから、彼女置いて飛び出してきちゃったから、さらに火に油そそいだみたいでさ」

 吉井くんの誠実な口調から、吉井くんは別段わたしを責めるつもりではなく、事情の説明をしてくれているのがよく分かった。わたしはでも、申し訳ない気持ちでいっぱいになったし、同時にショックも受けていた。彼女、いたんだ。そう思った。そりゃいるよね。そうとも思った。ばかみたい。胸のうちで呟く。

「女の子を泣かせたまま放っておいたらまずいよね。ごめんね、咲希。だから俺、もう戻るわ」

 吉井くんは言う。そして、

「用事があるなら、今度また連絡してくれる?あと、ここに来るときには必ず前もって連絡してもらえるかな」

 言いつけを破った子供に言い聞かせるみたいに吉井くんはゆっくりとした口調で話すと立ち上がり、いつもみたいに頭をぽんぽんと叩いてくれることはせずに、じゃあね、とだけ言うと足早に去ってしまった。ここにいるあいだじゅう、吉井くんは気持ちここにあらずだった。

 わたしはベンチでひとり座ったまま、遠ざかる吉井くんの背中を見送っていた。泣いてる子、ここにもいるよ。声にはならない声でそう訴えた。いつの日か萌々香が褒めてくれたつるつるの膝小僧。そのうえで握る手が、ひんやり冷たくなっていた。


13.

 人生って結構厳しい。
 神様はわたしに一体どれだけの試練を与えるつもりなのだろう。辛くて気持ちの落ちているときに限って、叩きのめすように、試すように、嫌な出来事が立て続く。世の中、そう相場が決まっているみたいに。
 
 吉井くんとの出来事で気持ちが塞いだまま家に帰るや否や、三和土で靴を脱ぐわたしに向かって母が、「話があるからすぐに部屋に来てちょうだい」と告げた。低い声音から何か良くない話だろうと察しがついて、胸のあたりがざわついた。
 
 居間に入るなり、飛び込んできた光景にわたしは立ち尽くした。
 
 ソファに姿勢良く座る母の前にあるローテーブルのうえに、わたしの隠しておいた口紅や、内緒でしまっておいたDVDや写真集が、たたき売り商品のように一列に並べて置かれてあった。

「これは一体どういうことなの?お母さんに内緒で化粧したり、こんなはしたないDVDとか本を見たりしていたの?」

 母は目を吊り上げて淡々と言った。

「あなた、来年は高校三年生なのよ。そうしたら、すぐに受験になるのよ。今から気を引き締めておかないといけないのに、こんな…」

 わたしの手はわなないた。怒りとショックで頭に血がのぼる。母が差し出したそれらはみんな、わたしが机の引き出しやベッドの下に隠しておいた箱の中に入れておいたものだ。つまり、母はわたしのいないときに、わたしの部屋のなかを勝手に探ったということになる。

「なんで…」

 わたしは言う。

「なんで勝手にわたしの部屋に入って、勝手に人の物を見たりするのよ!」

 尖った声が出た。母は目を丸くして驚いた顔をする。そうだよね。だってわたし、こんな声、今まで親に向かって出したことなんてない。

「わたしにだってプライバシーがあるのよ。子供だからって、何でも勝手に見ていいわけ?」

 半分叫びながら言うわたしの瞳から涙がこぼれ落ちる。悔しさと、屈辱と、怒りと、もうよく分からない気持ちで胸は一杯。母はでも、わたしのように声を荒げることはなく冷静に、

「あなたの様子が最近ちょっと変だから気になって、それで部屋をのぞいたのよ。そしたら偶然見つけただけよ。普段から勝手に見ているわけじゃないの。でも、あなた、ちゃんと聞きなさい」

 座ったまま、わたしの目を見て言う。

「あなたはこれから先に大学受験があるの。わたしもお父さんも、あなたがこんなものを買うためにおこずかいをあげているわけじゃないの。もっと、あなたの将来に有益になるものに使って欲しいのよ。今日のことはお父さんには内緒にしておくから、これらは受験が終わるまで、お母さんが没収しておくからね」

 そう言うと母は立ち上がり、デパートの空袋を持ってきて、そのなかにDVDや口紅や写真集を入れると居間からさっさと出ていってしまった。わたしはただ涙を流したまま立ち尽くしていた。

 お母さん、受験が終わるまでって言うけど、受験までまだ一年以上あるのよ。わたし、それまで自分に何の蜜も与えちゃいけないの?
 
 わたしは震える小さな声で呟いた。母はわたしの分からないどこかへそれを置いてくると、いつものように台所で夕食の支度をし始めた。トントントンと包丁のまな板を叩く軽妙な音がする。真白い部屋のすみに置かれた小さな丸テーブルのうえに、赤いバラの花が一輪飾られている。花はわたしの唯一の慰めだ。ぐずぐずしたままわたしはすがるような気持ちでそれを眺め、ひとり脱力する。

「いつまでそこで泣いてふてくされてるの?咲希、あなた、もういい年なのよ。部屋に行って、着替えてきなさい」

 キッチンカウンターの向こうで、まな板に視線を落としたまま母が言う。
 
 ねえ、お母さん。わたしって大人なの?子供なの?どっちなの?
 生じる疑問は母の流す水の音ですぐにかき消される。もういいや。わたしは居間から出て、階段を駆けあがる。

 自分の部屋に入ると、いつもと同じ顔をした部屋のはずなのに温度を失ったみたいに冷たく見えた。大切なものを失った部屋はまるで大きな柩のよう。わたしは制服姿のままベッドのうえに仰向けになり、天井を見上げた。チューリップ型の薄いピンク色のシェードランプから垂れる紐が、微かに揺れている。

「わたし、なんで生きてるの?」

 そんなことをひとりごちたあと、くすりと笑った。大げさよ、こんなこと、たいしたことじゃないもん。もう一人のわたしが耳元で囁いた。シェードランプから洩れる光が涙で滲んで、ぼんやり虹の輪っかをつくっている。右目から溢れた涙が一筋頬をすべり落ち、耳のなかを冷たくくすぐる。涙、止まらないのね。かわいそう。もう一人のわたしがまた囁く。

「わたし、なんで生きてるの?」

 左目からも涙がこぼれ落ちたそのとき、ぱちん。もう一人のわたしがシャボン玉のように、音をたてて消えた。


14.

 しとしとと雨が降っている。東京も梅雨入りしたみたい。外はうすぼんやりと暗く、青み帯びた空気だ。
 
 学校に行きたくないな。
 
 そう思いながらもわたしの体は自動的に朝起きて、きちんと身だしなみを整え、学校へ行く準備をしてしまう。わたしの意志に反して体が何かにコントロールされているかのように勝手に動くのだ。でも、ちょっと緩慢。
 
 母がわたしの部屋に入った一件以来、わたしはなんとなくわだかまりを抱いているけれど、母は何事もなかったかのように今日もわたしのために朝食を用意し、サラダにはわたしの好物の人参を大目に入れて、体気をつけなさいよ、と心配りもしてくれる。父は相変わらず憮然として新聞を読んでいる。子育ては母に一任して自分は仕事に専念しているような体裁でいるけれど、ちょっと無責任だとわたしは思う。いわゆるイクメンとは真逆のタイプだ。わたしのまわりには父親と仲良し親子している子もいるけれど、わたしにとってはまったくもって理解不能な光景だ。でも、まあ、父がある日突然親しげに接してきたとしても、わたしはきっとそれを拒否してしまうだろう。この親にしてこの子あり。互いに天真爛漫なタイプではない。
 
 朝食をむりやり胃に押し込んで、わたしはいつものように満員電車に乗って学校に行く。ふっと電車が揺れた瞬間、自分のたましいが体から抜けて飛んでいきそうなほどに気持ちは死んでいる。地下鉄を走る電車の窓に映る自分の顔は、嫌になっちゃうほどの暗い顔。わたしって、こんな顔してたっけ?時々、自分で自分にびっくりする。
 
 学校に着けば、いつもように誰とも話すことなく、目も合わさず、ひとりただ静かに机に向かい、時間が経つのを待つだけ。唯一、園子とだけは時々おしゃべりをする。それもクラスメイトの前は避けて、二人きりになれるタイミングのあるときだけだ。

「今日、帰りによかったらお茶でもしていかない?」

 長い授業が終わり、下駄箱で靴を履きかえていると園子が近づいてきて、声を掛けてきた。なんとなくまわりが気になって挙動不審な動きであたりを見まわしたけど、そこにはわたしと園子以外だれもいなくて、わたしはこくりと小さく頷いた。

「三つ隣の駅にあるカフェでもいい?」 

 園子は言った。誰かに見られるとなんか嫌だもんね。そう首をすくめながら。

 粉のような細かい雨の降りしきるなか、わたしと園子は傘をさしてふたり並んで歩く。

「いつぶりかな。クラスメイトとお茶するなんて」

 園子は前を向いたまま微笑んだ。セミロングの髪の毛をうしろに一つに結び、姿勢の良い園子はテンポよく歩く。

「いいの?わたしとなんかで」

 わたしが訊くと園子はふっと息を漏らすように笑い、

「それ、わたしのせりふでしょ」

 言って、わたしの顔を見た。

 園子の肩に、落ちた雨粒がガラス玉みたいに光っている。園子って結構美人だな。そう思った。色白で全体的に薄い印象だけれど、透明感のある感じ。雨のせいか、ちょっとぼんやりと景色に浮いているように見える。車が雨に濡れた地面を削りながら走り過ぎていく。

「透明人間同士、たまにはちょっと、語りあおうよ」

 園子はそう言うと、鞄のなかから猫の顔の形をした定期券ケースを取りだした。



 園子が案内してくれたのは、駅前の商店街を抜けた先の路地にある紅茶専門店で、店先には茶葉の入った木箱が沢山置かれてあった。その奥には木調で統一された椅子と丸テーブルの並ぶ落ち着いた雰囲気の小さなティールームがあり、わたしと園子は窓側の席に座り、向かい合った。

「よくここに来るの?」

 訊くと園子は頷き、

「ときどき姉と来るの」

 と言った。

 ふーん。わたしは思う。園子ってお姉さんいたんだ。なんとなく雰囲気は一人っ子っぽい気がしていたから、意外な気がした。

「姉は大学生なの。三つ年上」

 園子の姉の通う大学はわたしもよく知る有名な国立大学だった。自分もそこを目指しているのだと園子は包み隠さずに続けた。

 白シャツに黒いエプロンを身に着けた店員の女性がわたしと園子に紅茶を運んでくる。目の前に白磁のティーカップが置かれる。

「お注ぎしてよろしいですか?」

 店員は丁寧な所作で高い位置から紅茶をカップに注ぐ。甘い香りのする白っぽい液体。わたしも園子に倣って、おすすめだというローズミルクティーを注文した。

「いい香り」

 鼻の穴をひろげて言うと、園子はちょっと嬉しそうな顔をした。水玉模様のティーコージーを眺めながら、わたしは甘いそれをゆっくりと味わいながら飲んだ。濃いミルクの紅茶にバラの甘い香りがあわさって口のなかに広がっていく。久しぶりに「味」を舌できちんと味わったような気がした。

「咲希、最近顔色良くないけど大丈夫?」

 園子に訊かれ、わたしは唇からカップをそっと外し、テーブルのうえに静かに置いた。

「大丈夫…と言いたいとこだけど、全然大丈夫じゃないかも」

「そうだよね」

 ひっそりと園子は言う。たぶん園子しか今のわたしの気持ちを分からないような気がするし、わたしも今になって初めて園子の気持ちが分かるような気がしている。ヒリヒリとする胸のうち。

 天井の隅にあるスピーカーから優しい音色のクラシックの音楽が流れている。飾り棚には高級そうな美しい食器の数々。きっと園子はこういうクラシカルというか、上品な雰囲気のものが好みなのだろうと思った。

「ねえ、訊いてもいい?」
 
 わたしが言うと園子は頷く。

「なんで園子は菜帆から目をつけられたの?」

 ずっと気になっていた。なぜ園子が標的になったのか。わたしが園子と久しぶりに同じクラスになったとき、それはすでに当たり前として存在していた。園子はとっくに消えた存在になっていた。

 園子は紅茶を一口飲んで喉を潤したあと、ためらいなく口を開いた。

「わたしさ、菜帆より成績が良かったの。わたし、クラスでいつも一番だったんだ。菜帆はいつもその次で。それにわたし、結構担任に気に入られてたの。だから菜帆、わたしのこと許せなかったみたい」

 園子は言うと、小さく苦笑した。

「それだけのことで?」

 驚いてわたしが訊くと、

「それだけのことだよ」

 園子は平然と言った。

「本当にばかみたいな理由。でも、担任に褒められるわたしを見つめる菜帆の目って、いつも被害者みたいな目をしてた。成績がわたしのほうが良かったときもその目で睨んできた。まるでわたしが菜帆の大事なものでも奪ったみたいに」

「それって嫉妬ってこと?」

 園子は首をすくめた。

「それであとは咲希と一緒。あるとき突然、透明人間勧告されちゃって。良しにも悪しにも菜帆って力があるんだよね。世の中の独裁者と一緒」

 嘲笑するように園子は言うと、わたしの目をじっと見た。

「でもね、咲希、知ってる?菜帆って本当は孤独。菜帆のことを本当の友人だと思ってる子なんて一人もいないよ、きっと。みんな、ただ巻き込まれるのが面倒で付き合ってるだけ。いじめなんてさ、大抵弱くて孤独な人間のすることだもんね」

 園子は笑った。わたしはちょっと、背筋を寒くした。ならば菜帆も、わたしと園子と同じように孤独の仲間なのかな。

「それに菜帆の家族って、みんなエリートらしいよ。菜帆のお姉さんも妹も、菜帆よりずっと優秀なんだって。それで菜帆って、いっつも親に叱られてるっていう、うわさ」

 園子の言葉はとまらない。わたしはただ黙ってきいている。

「菜帆って、本当にかわいそうな子」

 園子は言った。学校といるときと違って、園子が別の人みたいに見える。わたしの知っている園子より、いま目の前にいる園子はずっと強くて、頑丈で、凛としている。

「園子って、学校辞めたいとか思ったことないの?」

 それでおそるおそる訊いてみた。いつしかわたしは園子と自分を重ね合わせて見ていた。同じ種類の人間だと思っていた。でも、園子とわたしは違うような気が、今はしてきている。

 園子はわたしの問いに目を丸くした。

「なんで辞めなくちゃいけないの?」

 心底驚いた声を出す。

「菜帆のためにわたしの人生、棒に振れないよ」

 園子は胸の前で手を振ってみせた。笑っているけれど、ちょっと憤慨している様子だ。

「親にいじめのことを話したときも、家族は転校することをわたしに勧めたの。転校することは決して恥ずかしいことではないって。それは自分を守ることだからって」

 園子は言う。途切れなく続ける。

「わたしもそれはそう思うの。転校したって恥ずかしくない。負けでも逃げでもないって。ううん、むしろ勇敢な行為だと思う。でもね、わたしは断ったの。だって、わたしが行きたくて選んだ学校だもん。ここはただの通過点だしさ。わたしの希望する大学に進学するために、ここには優秀な教師や学習環境が揃っているし、それに予備校に通わなくても充分なカリキュラムが用意されているのも魅力的。わたしは単に勉強しに行ってるだけだから、わざわざ別の学校に転校する方がよっぽどリスク。べつにいまさらクラスメイトになんて、なんの期待もしてないし」

 あ、でも咲希だけは別だよ。園子は最後にそう付け足す。わたしはちょっと、たじろいだ。ティーカップの華奢な取っ手を意味なくさすり続けていた。

「すごいね、園子って」

 わたしが言えたのはかろうじてそれだけだった。他に何が言えるのだろう。だって、園子とわたしは全然違う。同じ透明人間、なんかじゃない。園子は今や好きこのんで自ら透明になっている。逆らっても透明になってしまうわたしと違って、自分の目標を達成するために、煩わしさから自分を守るために、自ら透明になっている。それに決定的に違うのは―。

 園子は家に帰ればしっかりと色を取り戻せるのだ。いざというときの逃げ道を用意してくれている家族という強い味方がいるのだ。でも、わたしには―。

 わたしは押し黙った。ショックだった。勝手だけれど、園子に裏切られたような気持ちになった。

「咲希は辞めたいの?」

 心配そうに園子が訊く。わたしは首を傾げた。

「分からない」

 自分でもよく分からなかった。園子はうっすら微笑むと、おもむろにティーポットを手にとり、

「咲希、あと二年なんて、きっとすぐに過ぎるよ。二人で透明人間なまま頑張ろうね」

 言いながら、わたしのカップに紅茶を注いでくれた。園子の励ましは、でも、今のわたしには何の役にも立たない。なみなみ注がれた紅茶を飲んでも、わたしの舌は味を感じてはくれない。無味。さっきまで、あんなに香り豊かでおいしい紅茶だったのに。

「嫉妬や妬みを甘んじて受けいれちゃだめ。甘んじることなく、軽やかに受け流さなくちゃ。ね?」

 園子は言う。痛い。耳に痛い。心に痛い。すべてが痛い。
 もちろん園子は悪くない。悪くはないけど、たぶんわたし、今、菜帆と一緒で園子にすごく嫉妬している。でもそれを隠してわたしは無理やり笑顔をつくって頷いてみせる。そうだよね、なんて同意しながら。

 ちりんちりんとドアベルの音とともに客の入ってくる音がする。小さな窓の外を見ると、雨はもう、止んでいるみたいだった。

15.

 自宅のある駅に着く。
 
 夕日が落ちて夜になる手前の薄紫色の空の下、わたしは家ではなく森へとひとり向かった。

 そこは昼間、雨の降ったせいで草木と土の匂いが濃く漂い、それはわたしの鼻孔の奥を優しくくすぐった。鬱蒼とした緑はより青々として多くの酸素を放ち、吸うと肺がいっぱいに膨らんだ。澱んだ黒いものを一緒に吐き出すように、細く、長く、息を吐く。高い木々に囲まれた人気のない道は森閑とし、わたしの生きている音―呼吸する音、歩く音、鼓動の音―がよく聞こえてくる。

 すべて、消えてしまったらいいのに。

 ゆっくりと歩きながら、わたしは思う。舗装された灰色の道から外れ、草の繁るうえを歩くと、まだ水気を含んだそれはしっとりと柔らかく、湿った土がローファーの靴先にくっついた。

 森に迷い込んだように木立のなかを歩きつづけると、視界の開けた場所にでる。そこに忘れ去られたように、ぽつんと一本の小さな桜の木が佇んでいる。子供の頃、わたしと鈴子と香奈が偶然見つけた秘密の桜の木だ。

 お花見の時期になると、ここでいつも三人でお花見をした。この公園を訪れる人たちのほとんどは中央広場にある桜の群集を目的として花見に来ていたので、わたしたちの見つけたこの場所はまさしく穴場というのにふさわしかった。というよりも、この痩せっぽちな桜の木ではお花見をするのには物足りないから、見向きもされなかったのかもしれない。でも、わたしたちには十分だった。いや、むしろ中央広場にある立派な幹の桜の木よりもずっと愛着をもっていた。

 三人で淡い光をまとった桜を見上げ、どんなに楽しい時間を過ごしたことだろう。風で桜の花びらが舞い落ちるたび、みんなで歓声をあげた。持ち寄った弁当やお菓子を分け合っては感想を言い合い、水筒のお茶をお酒にみたてては酔っ払いの振りをした。沢山、笑った。沢山、喋った。そしておどけた。すべてが楽しかった。本当に、すべてが楽しかったのだ。よみがえる記憶はいつでも豊かな色彩に満ちている。

 濡れた黒い木肌は触るとひんやりとして、ごわごわしている。中央広場にある大きな桜の木の群集からまるで仲間外れにされたみたいなこの木は、今の自分とちょっと重なってみえた。濡れた葉を見つめ、わたしは呼吸を繰り返した。生きている。そんな感じがした。息継ぎできないまま泳ぐ毎日に溺れかけている自分にとって、ここは救いの場所だ。わたしは目をつむり、小さな頃の自分を思い浮かべる。あの頃は子供すぎて決して自由ではなかったけれど、でも、今よりはずっとましだった。明日に希望を抱き、今を生きていた。心許しあえる友人がいた。ふと、香奈のことを思い、携帯電話を鞄から取り出し、一番最近やりとりをしたメールを開く。『了解!また会おう!』ピースマーク付きの短い文章。ふふっとわたしは笑う。香奈ってメールも男気ある。今頃どうしているのかな。そう思ってメールを打とうとしたけれど、やっぱりやめた。

 あたりがだんだん暗くなってきて、見上げると木々の葉のシルエットの合間にのぞく夜空にうっすら白い月が浮かんでいるのがみえた。かすかに吹く風がちょっと冷たい。急に胸のあたりがざわつきはじめ、心細くなってきて、わたしは森を急いであとにした。背中に、桜の木の懐かしむような、慈しむような、優しい視線を感じながら。


16.

 朝、目を覚ますと天井が一瞬歪んでみえた。
 目をこすり、あくびをしてから上半身を起こすと、頭がずきんと痛んだ。胸の奥を不快なものが支配していて、歩くと沼にはまったみたいに足が重かった。

「咲希、遅れるわよ。さっさとしなさい」

 食卓につくと母がはっぱをかけるように言い、目の前に手際よく朝食ののったプレートを用意する。父は新聞をたたみ、空になった自分の食器を台所に運ぶ。わたしはぽつんと一人、カリカリに焼けた食パンを頬張った。父の立ち去った席の向こうにある窓から曇った空が見える。

「嫌ねえ、梅雨は。じめじめしちゃう」

 母はオレンジジュースをいれたコップをわたしの目の前に置いた。

「あなた、傘、持っていかないとだめよ」

 居間をあとにする父の背中に向かって母が言う。

「咲希の折りたたみ傘は玄関に出しておくから、忘れないであとで鞄に入れなさい」

 わたしはありがとうと言って、食事を続ける。お腹に食べ物は入るけど、満たされている感じがしない。かといって、お腹が減っている感じもしない。ただ、味気なくて、いつもより玉子に多く塩を振った。

「お母さん」

 台所で家事に勤しむ母に声を掛けた。

「なに?」

 母が顔をあげる。

「なんでもない」

 わたしは言った。母は首を傾げる。わたしも胸のうちで首を傾げる。わたし、いま、なにを言おうとしたのだろう。

 いつものように父が出勤した十分後、母の見送りを受けてわたしは玄関を出る。厚い雲に覆われた空は今にも泣き出しそうな色をしていた。

 園子は一緒にお茶をした翌日からも変わらず淡々とクラスで一人ぼっちで過ごしている。ときどきわたしと二人きりになるタイミングがあれば、些細なことをおしゃべりしにきてくれる。わたしはでも、あの日以降、園子のことが少し怖い。わたしとは似て非なるもの。今日は体育の授業がある。きっとまた園子とペアを組むことになるのだろう。満員電車に揺られ、ぼんやりしたままつり革をつかまる。途中、乗り替えのために電車を降りて、蒸し暑い連絡通路を歩くわたしの足が、勝手にとまる。ぷつっと、糸の切れる音が、した。わたしは踵を返し、通勤する人々の波に逆らうように、いつもとは違う方向へ歩きはじめ、いつもとは違う電車に乗り込んだ。


 日が完全に沈み、家の窓から灯った明かりが夜を切りとるようにこぼれている。わたしがインターホンを押すと、形相を変えた母が扉を開けるやいなや、

「どこに行ってたの!」

 大声をあげた。

「どうして携帯にもでなかったの!」

 母はぼんやりしたわたしの腕を強くひっぱり、居間に連れていく。そこにはスーツ姿のままの父がソファに座る姿もあった。

「今日、学校から連絡があって、あなたが来ないっていうじゃない。心配して、色んなところに連絡もして、お父さんにもいつもより早く帰ってきてもらったのよ」

 わたしの両肩をつかみ、母は目に涙を浮かべ、言う。

「一体、どこで何をしていたの…」

 わたしは片手に握りしめていた紙袋に視線を落とした。

「買い物でもしてきたのか」

 ソファに座っていた父が冷静な口調で尋ねた。

 いつもと違う電車に乗り込んだわたしはその足でよく祖母と訪れていたデパートに行き、そこで繊細な花模様の刺繍のあしらわれた若草色の美しいワンピースを一着買った。支払いは、母が何かあったときの緊急用として財布に忍ばせてくれていた二万円を使った。もちろん、それはあとで自分のお年玉貯金から返すつもりでいた。

「学校、さぼったのか」

 父は重ねて訊いた。
 その隣で母は今まで一度も見せたことのない、裏切られたような、非難するような、傷ついたような瞳でわたしを見た。

「わたし…」

 痛かった。父の声も、母の瞳も、痛かった。

「なに?」

 母は目に涙をためて言う。

「わたし、もう学校に行きたくない。受験もしたくない。わたし、服飾の専門学校に行く」

 部屋が静まり返る。父が腕組みをしたまま口をへの字に曲げてわたしを見つめている。

「なに言ってるの!」

 母がまた声をあげた。

「一体、何があったの?咲希、どうしちゃったの?あなた、自分が何言ってるか分かってるの?」

 わたしが返事をしないでいると、

「再来年の二月には受験なのよ。大学目指して、毎日勉強を頑張ってるんじゃない。それなのに突然どうしたの?学校さぼったうえに辞めるだなんて、そんなことできるわけないでしょう」

 母は声を震わせながら言った。

「でも、お母さんもお父さんも、勉強がすべてじゃないって、いつも言ってたじゃない」

 わたしが反抗すると母は、「それとこれとは別でしょ」と語気強く言って、簡単に手の平を返す。

「なんで嘘つくの?わたしの好きなように生きちゃだめなの?勉強がすべてじゃないって、いつもいつも言ってたくせに!」

 わたしがなおも食い下がると、

「咲希!」

 母が叫んだ。

「大きい声ださないの!ご近所に聞こえるでしょ!」

 わたしの喉はきゅっと閉じた。心拍数が一気に上がった。

 黙って母とのやりとりを見ていた父が立ち上がり、わたしのそばにやってきた。わたしは一瞬身構えたが、父は「勝手にしなさい」と低く冷たい声で言い捨てた。

「お父さんもお母さんも、お前のことを思って今まで色々やってきてあげたつもりだ。でも、それが分からないなら、お前ひとりで勝手に生きていけばいい」

 突き放すように父は言った。そのあまりにも冷酷な物言いに母がうろたえた顔をする。

 わたしは見放されたような、見捨てられたような、絶望的な気持ちになった。父らしいことなんて今まで何一つしてきていないこの人に、こんなこと言われたくない。いつも黙って、見て見ぬ振りをしてきたこの人に、何も言われたくない。

 わたしの手を握ろうとする母の手を振り払い、わたしは居間を飛び出し自分の部屋へと駆け込んだ。そしてベッドのうえに突っ伏して泣いた。階下で母と父の言い合う声がした。わたしのせいで、きっと喧嘩している。そう思うと、もう心が砕けそうだった。

 一体、わたし、なんで生きているんだろう。

 息がうまく吸えなくなるほどわたしは泣いて、泣いて、泣きまくり、そのまま疲れはて、気づくと深い眠りにおちていた。

17.

 翌朝、目を覚ますと案の定、お岩さんみたいにまぶたが腫れ上がり、皮膚がひりひりと痛んだ。水で顔を洗っても腫れは引く気配なく、気持ちも体も重くて学校に行く気には到底なれず、具合悪いから今日は学校休むね、と母に言い置いて寝巻に着替え、布団に再びくるまった。
 
 外から声が聞こえてくる。のろりと起き上がり、レースのカーテンを開けて、窓を開けると、ぬるっと湿った風が部屋に入り込んで、ハンガーにかけてある制服をかすかに揺らした。登校する小学生たちの黄色い帽子と元気な話し声。すたすた歩くスーツを着た男性のうしろ姿。その少し先に、出勤する父のうしろ姿も見えた。いつもの朝の光景だ。でも、見ている位置がいつもとちょっと違う。なんとなくほっとするような、でも居心地が悪いような、なんともいえない気分だ。電線のうえで鳩が一羽、羽根を休めている。雲が太陽を隠し、空は曖昧な色をしている。だるい。窓を閉めて、しばらくうたた寝をしたあと目を覚ましたら、お腹がぐうと音をあげた。
 
 寝巻きから着替えず、ばさばさの髪の毛のまま階段をおりて居間の扉を開けると、母が中腰になり壁に向かっていた。

「どうしたの?」

 訊くと母は振り向き、

「汚れが落ちないのよ」

 と、白い壁についた黄色い小さな染みを指さした。洗剤を含ませた濡れ雑巾でごしごし拭いている。

「なんの染みなのかしら。全然、落ちない」

 母は無心で壁をこする。漂白剤のとがった匂いが鼻につく。

 ねえ、お母さん。 

 わたしは胸のうちで言う。

 白いから、染みが目立つのよ。あとね、染みばかりを見てるから、染みが余計に気になるのよ。

 母は背中を丸め、憑りつかれたみたいに壁をこすり続けている。わたしもでも、きっと母と同じなのだろうと思う。わたしもいつも染みばかりに目を向けてしまう。人生に付着した染みばかりに目を向けてしまうから、染みがどんどん大きくなっていく。本当は染みなんてほんの一点で、あとはほとんどが白で、染み自体は大して広がってもいないのにね。無理に消すこともないのにね。

 わたしも母も、たぶん父さえも、うちの家族はみんな染みにばかり目を向けてしまう癖がある。分かっているのに、止められないのだ、もう。

「ご飯、食べられるの?」

 壁に向かったまま母は訊く。風邪を引いているわけでもないし、昨日は夜ご飯も何も食べていなかったのでお腹は自然と減っていた。

「うん」

 わたしが小さく返事をすると、母はわたしの方を見ずにそのまま雑巾を片手に台所に行き、朝食の準備をし始めた。わたしは罪悪感をおぼえた。

「ごめんなさい」

 それで言うと、

「いいのよ。あなたの人生なんだから、好きにすればいいのよ。でも、学校休むとあとで勉強に追いつくのが大変になっちゃうから、早く学校に戻れるよう、しっかり体休めてあげなさい」

 なんだか矛盾しているな、と思う。好きにすればいいと言いながら、好きに生きてはいけないと言っている。結局、わたしが泣こうか喚こうが、変化なんてなにもない。両親はそろって頑固だ。でもそれは言わずに黙ったまま、パジャマ姿のわたしは食卓の椅子に静かに腰をおろした。こういうだらしない恰好のまま朝ごはんを食べることに憧れていたけれど、全然嬉しくない。台所からフライパンのうえで玉子の焼ける音がする。

「咲希。お父さんもああ言ってたけど、本当にあなたのこと心配してるのよ」

 料理をしながら母が言う。

「お父さんは咲希の将来を真剣に考えているのよ。だからああいう言い方しちゃったのよ。聞いてるの?」

 母の言葉がわたしの溝うちのあたりを押して、鈍い痛みをもたらす。もう、これ以上言わないで、お願いだから。

「咲希?」

 母に言われ、

「うん、分かってるから大丈夫。明日には学校行くから」

 わたしは仕方なくうわっつらの返事をした。いや、でも、あのときは本当に学校に行こうと思っていたのだ。そうするつもりだったのだ。

 でも、結局、それは嘘になった。

 わたしはその後、三日間連続で学校を欠席した。そして今日で四日目になる。

 朝になると、体が思うように動かないのだ。母は病院に行った方がいいと言ったけれど、わたしはそれをかたくなに拒否した。心配した父はわたしのためにと、会社帰りに立ち寄った店で見舞いのシューアイス買ってきてくれた。

 
 ずっと暗い部屋にひきこもっていた。カーテンは開けたし、窓も開けたけど、明かりはつけなかった。ベッドの上で体育座りをしていた。何しているんだろう、わたし。そう思った。一体、自分に何が起きてしまったのだろう。飛行機が急にエアポケットに落ちたみたいに、すとんと、わたしはまっさかさまに暗闇の底に落ちてしまった。

 学校を休んでいるあいだ、ただ頭をめぐるのは、生きているってなんだろう、ただそれだけだった。

 園子からは欠席二日目の夜に携帯電話にメールがきた。大丈夫?体調まだ悪いの?咲希のぶんのノートとっておくからね、と。それにたいしてわたしは、ありがとう、とだけ返事をした。園子はこんなわたしのことを弱い奴だと思うのだろうか。そもそもわたしの抱えていることって、きっと世の中からみたらちっぽけだ。もっと苦しんでいる人なんて山ほどいるし、傍から見たらわたしはたいそう恵まれている。立派な家があって、食べ物にも不自由なく、私立の高校に通い、両親の保護のもとに生きている。でも苦しみや悩みって、他と比べることなんてできるのかな、とも思う。わたしにとっての苦しみと誰かの苦しみは別物だ。それぞれの瞳を通して見て、肌に触れて、心で感じて、それはその人だけのものだから。はあ、と溜息。自分で考えていながら、よく分からなくなってくる。そうしたらぐうとお腹が鳴った。食欲はあまりなくても腹は鳴る。

 夕食の席、母はわたしのためにお粥を作ってくれた。ほぐした梅干しが入っている。わたしは病人ではないのだけれど、母はわたしを病人だと信じていて、父も無愛想ながら冷房の温度を少し上げて、わたしの体調を気にかけている。わたしは黙ったまま背中を丸め、寝巻姿のまましずしずと食事をする。

「咲希、明日お医者さんに行きましょう。ちゃんと一度看てもらって、お薬もらって、しっかり静養すれば元気になって、元の生活に戻れるから」

 母は言う。

「そうだ。ちゃんと体を休めて治せば、また気力を取り戻して学校にも行きたくなるさ」

 父も言う。

 わたしは黙って頷く。きっと学校を辞めるなんて発想は、この両親にはないのだろう。それにそれを希望したところで即却下されるのだろう。わたしが学校に行くことがわたしのためだと信じ、それが愛だと信じているのだから。

 心配な視線を背後に受けながら、食事を終えたわたしは自分の部屋へと戻る。さすがに夜になると真っ暗なので電気をつけると、部屋が眩しいほどに真っ白になった。学習机のうえに教科書が山積みされている。その隣に置いておいた携帯電話がメールの着信を知らせるランプを点滅させている。見ると、吉井くんからのメールだった。

―咲希、元気?最近見ないからどうしてるかなと思って。この前はせっかく訪ねてきてくれたのにごめんね。本当は顔見て直接謝ろうと思ってたけど、なかなか会わないからメールしました。次会えたらなにかおごるから!遠慮はするなよ(笑)―

 わたしは携帯電話を胸の前でぎゅっと握りしめた。そして深く呼吸した。目頭が熱くなり、涙がひとすじ落ちた。吉井くんは優しい。いつだって優しい。吉井くんの澄んだ瞳を思い出す。きっと、ずっと美しいものに目を向けてきたから、彼の瞳は澄んでいるのだ。きっと、人生に染みが付着することがあったって、吉井くんの瞳は常に光の方を向いていた。吉井くん…。わたしは呟いて、ありがとう大丈夫だよ、と短めの返信をした。すぐにメールが返ってきて、マジごめん!、だって。吉井くんらしくてわたしはちょっと笑う。あとどれだけ美しいものを見たら、わたしはこの瞳の澱みを取り除くことができるのだろう。

 フローリングに座り、壁にもたれかかる。背中がひんやりと冷たい。吉井くんのメールで潤った心は、でも、瞬時に渇いた。どうしちゃったの、わたし。階下から父と母の声がした。声音からあまり良い雰囲気でないのが分かる。実際のところは分からないけれど、どうにも原因は自分のせいであるような気がして、わたしはいたたまれずベッドにあがり、蓑虫のように毛布にくるまった。

 生きるってなんだろう。

 油断すると、すぐにこんなことばかり考えてしまう。
 疲れたな。わたしは思った。疲れたよ。今度は声に出して言ってみた。実際、わたしは疲れていた。体が自分のものではないみたいで言うことをきいてくれない。頭もずっと岩でものせたみたいに重い。わたしの人生ってなんなんだろうと思った。園子も吉井くんもしっかり自分の人生を自分で選んで決めて、進んでいる。わたしって、今まで何かを自分で決めたことなんてあるのかな。なんとなく、だったのだ。なんとなく、生きてきてしまった。なんとなくの代償が、今のわたしなのかもしれない。なんとなくの報いを今、わたしは受けている。

 だったら自分で選べばいい。自分で決めて生きていけばいい。頭では分かっている。でも、心がそれに追いつかない。ましてや体は動かない。
 
 ずっと眠れなかった。ぼうっとしているのに、睡魔は襲ってこなかった。手と足裏がやけに冷たかった。

 静かに夜が更け、やがて遠くの空から明け白んでいく。


 ふと、森の光景が頭をよぎった。一本の桜の木があった。ひどく孤独な桜の木だった。あそこだけがわたしの唯一の癒しの場所だった。

 わたしはふっと息を漏らすように笑った。

 いけないこと、考えた。でも、そのいけないことに希望を感じてしまった。もう何も考えられない。理性は働かない。

 こうなってしまったのは誰のせいなのだろう。菜帆?萌々香?園子?吉井くん?先生?お父さん?お母さん?それともわたし?

 分からない。だって、みんな必死に生きているだけだった。自分を守るのに精一杯なだけだった。だからわたしは誰も責めない。わたしはただ、疲れたのだ。息していることに疲れはてたのだ。世の中には最後に恨みつらみを書き残していく人もいるけれど、そういうことはしたくない。人魚みたいに泡になって消えたい。そもそも存在しなかったかのように、生きていた痕跡ごと消えてなくなってしまいたい。

 鳥が鳴いている。

 窓を開けると空気は澄んでいて、空は薄く透明な色をしていた。わたしはクローゼットを開け、紙袋に入れたままのワンピースを取りだした。きれいな若草色にかわいい刺繍の花模様。袖をとおすとふわりと軽くて、きれいなラインをしていた。そうだ、と思う。靴もとっておきのお出掛け用の靴で行こう。わたしはそれを決して脱がずにおこう。

 大丈夫。わたしは呟く。

 きっと、世間はこんなわたしのことを馬鹿だというだろう。わたしもなにか間違っているような気もしている。でも、そうだとしても、もうそれを正す気力はわたしにはない。だからこれはもう仕方がないことなのだ。

 わたしは携帯電話のメールボックスに保存されているメールすべてを削除した。そしてもう必要のないそれをゴミ箱に放り投げた。カランと底に当たる音がした。

 お父さんもお母さんも大好きだった。だけど、彼らはわたしの望む愛を分からない可哀想な人たちだった。そしてわたしも彼らの望む愛を受けいれることのできない駄目な子供だった。だからごめんね。お母さんのご飯おいしかった。お父さんはいつも無愛想だから、これからはお母さんにちゃんと優しくしてほしいな。届くか分からないわたしの想い。それから吉井くん、園子。彼らもみんないい人だった。だからわたしのこと忘れてね。そして鈴子と香奈―わたしの大切な親友。二人にはもう一度会いたかったけど、…でも、もう、いいか。


 今日、わたしは最後の脱皮をする。ペチペチと微かな音をたて、わたしは密かに脱皮する。鈍色に光る抜け殻が、乱れた毛布のうえに転がり落ち、わたしの背中から濡れた羽根がいびつな音をたてて広がりはじめる。そしてわたしはひとり静かに、濃緑の森へ向けて飛びたっていく。


(了)
→『第2章:影踏み(香奈27歳)』へ


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