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第3章:うすあかりの部屋(鈴子32歳)/小説『うすあかりの部屋』

第1章:濃緑の森(咲希16才)はこちらから


1.

 水色のスーツケースを引きずるようにして、見慣れた道を歩く憲太郎の額にはうっすらと汗がにじんでいる。

「信じられない」

 私はさっきからおかしくて、笑いがとまらない。

「もー、だから一緒に送ればよかったのに」

 肩に提げたトートバッグからペットボトルの水を取り出して一口飲み、憲太郎にも差しだすが、憲太郎は首を横に振る。

「タクシーでも拾う?」

 と言ってみたものの、住宅街の真ん中ではタクシーなんて流れていない。それどころか夜になると、このあたりは人影すら見当たらない。スーツケースのタイヤが地面を削るゴリゴリという音だけがあたりに響く。

「大丈夫。あと少しだろ?」

 苦笑しながら憲太郎は言い、住宅街を抜けた先にそびえ立つ私たちの暮らすマンションを見つめた。このあたりでひときわ大きく目立つマンションはほんのり明かりを灯し、夜の闇に灯るろうそくみたいに見える。

 やっぱり送りたくない―。

 長時間のフライトを経て成田空港に到着し、スーツケースの宅配カウンターで手続きをしていると、突然憲太郎が自分のスーツケースは送りたくないと言いだした。フランスはパリ七日間滞在の旅で、行きに比べると荷物は倍以上に膨れあがり、かなりの重量になっていた。急にどうしちゃったの?と訊くと、自分のスーツケースには土産がたくさん入っているから今日中にやっぱり持ち帰りたい、と真面目な顔をして子供のようなことを言う。べつに割れ物や生ものが入っているわけではないし、明日は休日で会社に土産を持っていく必要もないし、なにを急いでわざわざこんな重い荷物を持って帰るのか私にはまるで理解できなかったけれど、憲太郎は意固地に持ち帰ると言ってきかなかった。それで結局、作業員が集荷室に運ぼうとしていた憲太郎のスーツケースは戻してもらい、私のスーツケースだけが宅配されることになった。私のスーツケースは明日の午後には届く予定になっている。

 エレベーターで十一階までのぼり、二重ロックのドアを開け、なかに入り照明のスイッチをつけると、妙に部屋全体が白く明るく感じられた。

「いやあ、おつかれさんでした」

 汗だくになった憲太郎は倒れ込むようにして居間のソファに寝転がった。しばらく留守にしていたにも関わらず、部屋の空気はまったくこもっていなかった。私の母が毎日ここを訪れていたからだろう。きっと今日も午前中にやってきて、窓を全開にして空気の入れ替えをしてくれたにちがいない。その証拠にダイニングテーブルのうえには七日分の郵便物が日ごとにきちんと仕分けされて置かれてあった。

「お母さん、毎日きてたみたいね」

 湯沸しポットに水を注ぎながら、カウンターキッチン越しに私は言う。

「ああ、助かるね。早く電話したら?心配してるでしょ」

 寝転がって宙を仰いだまま憲太郎は言った。

 憲太郎は私の母が自分たちの留守中、合鍵を使って勝手に家にあがることに対して一切の不満を抱かない。それどころか、面倒見の良い母にいつも感謝すらしている。私の実家から歩いて五分ほどの距離にあるこのマンションを購入するときだって、憲太郎にはまったくのためらいもなかった。まるで妻の実家のそばに住むことが当然のことであるかのように。

 ポットの電源を入れ、留守電にたまっているメッセージをひととおり聞いたあと、受話器をとって母に電話をした。ワンコールで母は出た。おかえりなさい、無事で良かったわ、と開口一番に母は安心しきったような声をだした。何歳になっても母にとって私は小さな子供なのだろう。パリの様子、天気、ホテルのこと、食事のこと、観光のこと、飛行機のこと、もろもろ一気に母は訊き、私はそれらの質問ひとつひとつに丁寧に答えた。答える横で憲太郎がむくりとソファから体を起こし、スーツケースを開き、土産をがさこそ音をたてながら取り出しはじめる。

「じゃあ、今度お土産持っていくから、楽しみにしていてね。お父さんにもよろしく言っておいて」

 受話器をおろすと、憲太郎がこっちこっちと手招きする。ソファやローテーブルのうえには大小いくつもの紙袋や箱が憲太郎によって積み木のように並べられており、パリの甘い香りがそこから微かに放たれているような気がした。

「すごいねえ。こうしてみると、結構買ったよね」

 並べられた土産の山を上から眺め、私は感心したように言った。土産を手に取ると、ついさっきまでパリにいたことが嘘のように思えてくる。夢の世界にいた余韻がふと、よみがえる。

「ほら、やっぱり。今日持ち帰って正解だったろ?こうやって、帰国してすぐに土産を見るのがいいんだよ」

 次々と楽しそうに土産を手にとる私を見て、憲太郎が得意気な顔をする。

 七日間のパリ旅行。

 それは私たち夫婦にとって、毎年恒例としている行事の一つだった。子供のいない私たち夫婦は結婚以来、毎年欠かさず海外へ旅行をする。昨年はオーストリア、その前の年はイギリス、さらにその前の年はオランダへ旅行した。憲太郎の仕事の都合によって行く季節は毎年変わる。今年は六月初旬。日本と違って梅雨のないフランスは爽やかな陽気で天気にも恵まれ、始終快適に心地よく過ごすことができた。人にこんなことを話すと、まったく優雅よね、と言われることもあるけれど、年に一度くらい、夫婦共通のこんな楽しみを持つのも悪くないと、私も憲太郎も考えている。

「それにしても…」

 私は義母たちへの土産を手にして言った。

「どれも日本にあるものばかりね」

 老舗紅茶店の缶入り紅茶、有名食料品店のミルクジャムにラズベリージャム、赤いチェック模様の箱に入ったビスケット、そしてありがちな黄色い南仏模様のポプリ。

「まあ、いいんじゃないの。いま日本にないものを見つける方が大変でしょ」

「うーん、まあ、それはそうなんだけど、でもやっぱり、ブランド物の一つくらい買ってきても良かったんじゃないのかな」

 憲太郎が意固地に「いらない」と言うので、義母たちにブランド物の土産は何も買わなかったが、私の父と母にはジャムやビスケットのほかにブランド物の財布も買ってきたので、なんとなく気が引けるものがあった。

「いいの、いいの。田舎の人たちだし、そういうものだとかえって気を使っちゃうから。それにほら、分かりやすいものの方がお袋たちも喜ぶからね」

 呑気に憲太郎は笑った。

 そりゃあ憲太郎はいいけどね、と喉元まで出かかった言葉を私はくいっと飲み込んだ。嫌味を言われるのは私なんだからね、と。私は義母に好かれていない。嫌われているとまでは思わないが、好かれていないのは事実だ。土産一つに気を使うのはだから義母ではなく、私の方なのだ。

 憲太郎はそんな私の胸の内を知ることもなく、床のうえにあぐらをかき、パリで見つけた古本屋で購入した写真集に見入っている。仕方なく私はダイニングテーブルのうえに置かれた電気ポットから湯を注いで緑茶を入れ、椅子に座って七日分の郵便物を順々に眺めた。どれもDMや広告ばかりだったが、そのなかに一枚、真っ青な海にオレンジ色の家々が建ち並ぶ風景の絵葉書きがあった。裏面を見るとAIRMAILと赤ペンで書かれてあり、『荻野香奈』の文字があった。

「香奈から葉書きがきてる。ニースだって」

 葉書きをひらひらさせながら言うと、憲太郎は写真集を床に置いてやってきた。

「どれどれ?あ、本当だ。香奈さんも俺らと同じときにフランスにいたんだね」

 向かいに座った憲太郎に湯呑みを差しだすと、憲太郎は小さな声でサンキュと言ってお茶をすすり、受け取った葉書きに目を通す。

「香奈は仕事で行ってたみたい。あいかわらず忙しそう」

「あまり観光する時間がなくて残念です、なんて書いてあるよ。香奈さんって、バリバリだねえ。確かまだ結婚してないよね?」

「うん、独身みたい」

「結婚するつもりなんてないのかな?」

「どうなんだろう。あまりそういう話題に触れたことがないから、分からないや」

「ふーん」と憲太郎は言って、葉書きをテーブルの上にそっと置いた。香奈からのエアメールはこれで何通目になるのだろう。本社勤務に異動してから海外に行くことが多くなったと聞いてはいるが、特にここ数年は仕事だけでなく、プライベートにおいてでも、香奈は旅先から頻繁に葉書きを送ってくれる。葉書きは増える一方なのに、あいかわらず私と香奈の距離については縮まっていないような気がしている。結婚式で久しぶりに会ったときだって、互いにぎこちない会話しかできなかったのだから。いや、あれは結婚式の席だったから、くだけて話すことができなかっただけかもしれないけれど。

「久しぶりに香奈さんに会ってみたら?」

 湯呑みを片手に憲太郎は言う。その何気ない提案に、私は瞬時、体を固くする。

「いいの。べつに会わなくても。会っても、なんとなくお互いに辛くなっちゃうと思うし」

 言いながら、壁にかけてあるカレンダーに目をやった。六月。咲希の命日のある月だ。憲太郎も私の視線を追ってカレンダーを見るなり、私の気持ちを察したのか、そのまま口をつぐんだ。

 香奈と咲希。

 私の幼なじみ。子供時代、私たちはいつも一緒にいた。いわゆる仲良し三人組というやつだ。こんなに気が合う友達に出会えたのは奇跡だと思うほど、私たちは知り合ってすぐに仲良くなれた。それは小学校三年生になったときのことで、新しいクラスで、咲希は私の席のひとつうしろの席に座っていた。先生から配られるプリントを渡すとき、この子とは合いそうだな、と直感した。物静かで大人しいけれど、よく笑う咲希は、雰囲気がどことなく自分と似ているような気がした。そして香奈。彼女とは理科の実験の時間に同じ班になったのをきっかけに仲良くなった。香奈に関しては、でも、自分とは正反対のタイプの子に思えた。快活で、積極的で、はっきりした性格をしていて、まわりから見たら不思議な組み合わせに思われることもあったけれど、だからこそ、私たちは惹かれあったのだと思う。咲希もそれは同じだったようで、私を介して香奈と咲希も仲良くなり、気づけばいつも三人で行動をともにするようになっていた。だから五年生にあがる際のクラス替えのときはもう、必死だった。仲良し同士はクラスを別々にされるという噂を聞いて、誰の提案かは覚えていないが、三人とも同じクラスになるよう一生懸命お祈りをした。神様に宛てて手紙を書いて、それを校庭の土に埋めたりもした(今考えるとちょっと怪しい行為だけれど)。その願いが通じたのかは分からないが、幸運なことに私たちは卒業するまでずっと同じクラスでいることができた。学校にいる時間も、放課後の時間も、私たちはかなり多くの時間をともに過ごした。まるで三人姉妹のように。あるいはそれ以上に。

 初めて私たちが離れ離れになったのは中学校にあがるときのことで、私はそのまま地元の公立中学校に進学となり、香奈は違う沿線の街に引越しをし、咲希は私立の中学校に進学を決め、三人とも別々の道を進んでいくことになった。けれどそんなことは私たちにとってみれば、クラス替えをしたくらいの距離感だった。ときどき会って、喋って遊んで、仲良し三人組は以前と何ら変わらず仲良し三人組のままでいられた。距離を感じるようになったのは、高校生になってからだろうか。環境や生活の違いによって次第にずれが生じ始め、会う機会がぐんと減ってしまった。だからといって三人のつながりが絶えたわけではないと、私も、きっと香奈も咲希だって、そう信じて疑わなかったはずだ。あんな日がくるまでは。

 香奈の葉書きに描かれたスマイルマークを指でなぞる。香奈の文章の締めくくりには昔から必ずスマイルマークが描かれてある。

「香奈とはね、葉書きとかメールとか、そういうのだけでもちゃんと仲良くやっていけるから、会わなくても大丈夫ってことなの」

 なんとなく申し訳なそうな様子の憲太郎に私は笑って付け加えた。

「そうか。そうだよな。幼なじみって、そういうもんだよな」

 取り繕うように憲太郎は言い、リモコンを手にとりテレビをつける。深夜のお笑い番組の大袈裟な笑い声がどっと部屋中に響く。

「それより、あんなにお土産やらなんやら出しちゃって。寝るのは片付けてからにしてよ」

 冗談めかして低めの声で言うと、憲太郎は頭をかきながら、

「その前に風呂入らなきゃ。おっと、まだ入れてないよな。じゃ、風呂入れてきまーす」

 と、おちゃらけた態度で席を立ち、浴室に向かった。私は笑いながら憲太郎の背中を見送り、それから床やソファに無造作に置かれた土産や散らばった衣類を片付けに席を立った。

 次の水曜日。咲希の命日には何の花を持っていこう。

 しわくちゃの衣類を片手にそんなことを考えながら、私は再度カレンダーに目を向ける。浴室から、憲太郎のご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。


2.

「バニラアイス入れてみる?」

 冷凍庫からバケツ型の大きな容器を取りだしてきて、夏美が訊いた。

「じゃあ、入れてみる」

 言うと夏美は子供のような笑顔をみせ、硬そうなアイスをスプーンですくってアイスコーヒーのうえにたっぷりのせてくれた。

「暑くなってきたら、コーヒーフロートよね。コーヒーとアイスが混ざるとシャーベットみたいになるのがもう最高」

 夏美は自分のアイスコーヒーにも大盛りのアイスをのせて、嬉しそうに話す。夏美の隣で娘の花音ちゃんが口のまわりをベタベタにしながら、ストロベリーアイスクリームを夢中になって食べている。

 夏美とは、大学で同じ専攻になったのをきっかけに知り合い、それ以来の仲になる。三十歳になる前には絶対に結婚すると周囲に宣言していた夏美はその宣言とおり、二十六歳のときに職場で知り合った男性と結婚をし、今では四歳の娘を持つママになった。偶然ではあるけれど夏美が隣町(といっても、私の家から自転車で十分ほどの距離にある)に引っ越してきてくれたおかげで、ときどき私たちはおしゃべりをするために互いの家を行き来するようになった。とはいえ、最近の夏美はママ友との付き合いが忙しいらしく、二人で会うのは久しぶりのことだった。

「ねえ、あのさ。やっぱり鈴子は子供つくらないの?」

 花音ちゃんに目を奪われている私を見て、ふいに夏美が訊く。

「いじわる。知ってるくせに」

 アイスコーヒーに溶けていくバニラアイスをスプーン付きのマドラーでかき混ぜながら、私は夏美をにらむ。

「えへ、ごめんね。そうだよね。鈴子は子供いらない主義なんだよね。憲太郎さんだけで十分なんだもんね」

 夏美はいたずらっこのような笑みを浮かべてみせた。

「そう。うちは憲太郎だけで十分なの。子供はいらないの」

 よく不思議がられるが、結婚しても子供はつくらない、という考えは、私のなかでごく当たり前のものとして昔からある。

「でも、子供はいいわよ。かわいくって」

 夏美は愛おしい目をして花音ちゃんの形のいい頭をなでた。花音ちゃんはその手が邪魔だったらしく、むっとした表情で頭をぶんぶん横に振る。

「かわいいのはもちろん分かるよ。でも子供を欲しいとは思わないの。私って、変なのかな?」

 憲太郎からプロポーズをされたとき、私はイエスと答える前にそのことをまず確認しなくてはいけなかった。それは私にとって、とても重要なことでもあった。私は子供を欲しくないの。それでもいいの?と。驚くかな、こんなことを言ったらひいてしまうかな、とある程度の覚悟は決めていたが、憲太郎はそれにあっさりと答えた。いいよ、それでも構わない、と。

「変だなんて思わないけど、私たちって来年には三十四歳でしょ。一人目をつくるなら、そろそろつくった方がいいのかなあって思ったの。だって子育てって、なんだかんだいっても、やっぱり体力勝負なんだもん。年取るほどきつくなるのは事実だから、ちょっと余計な心配してみただけ」

 言いながら夏美はテレビをつける。ちょうど子供向けのアニメが放映されていた。どろどろになったアイスをスプーンでいじっていた花音ちゃんは、テレビがつくなり画面のそばへと駆け寄り、今度は食い入るようにテレビを観始める。

「でも」

 私が何も言わずにいると、夏美は付け足すように言った。

「鈴子の信念は揺るがなさそうだし、心配はいらないね」

 グラスにまとわりついた水滴が幾筋も垂れ落ちて、底に小さな水たまりをつくっている。私はマーブル状に溶けていくアイスクリームを見つめたまま、答える。

「うん。私はずっと夫婦二人でいいと思っているし、憲太郎もこのままでいいって言うし、だから今後も子供を欲しいと思うことはないから大丈夫」

「そっか。そうだよね。今はそういうスタイルも普通にあるよね。私はいいと思うよ。夫婦二人だけで仲良くやっていくのも素敵だもん」

 夏美はニカッと笑いかける。そのすっぴんの表情は学生の頃の完璧にメイクを施していたときの表情よりも柔らかな印象を与える。ちょっとごめん、と席を立った夏美は麦茶を入れたミッフィーのマグカップを片手に花音ちゃんのそばに行き、虫歯になるからお茶飲んで、と一口それを含ませる。

 居間のすみに置かれた黄色とピンクのプラスチックの収納ケースのなかには溢れんばかりのおもちゃが入っていて、その隣に置かれたスチールパイプの棚には花音ちゃんの作品―粘土のお城やぞうさん―や、パパとママをクレヨンで描いた絵や、花音ちゃんが赤ちゃんのときの写真や家族で旅行したときの写真などが飾られてあり、それらを見ていると、この家の空気の中心は花音ちゃんなのだなと感じる。そしてそのイコールが、夏美の幸せなのだとも。

 夏美がちゃんと「母」をしているうしろ姿を眺めていたら、急に罪悪感が沸いてきた。戻ってくる夏美と目があったとたん、私は言い訳するように口走っていた

「私、子供はいらないけど、でも子供のことは本当にかわいいって思ってるのよ」

 夏美は立ち止まり、一瞬目を丸くするが、すぐに笑う。

「どうしたの突然?大丈夫だよ。ちゃんと分かってるよ」

 日本茶でもいれてくるね、と言って夏美はテーブルを台布巾で拭くと、氷もアイスクリームも溶けて残りわずかになったグラスをお盆にのせて席を立った。

 言わなくてもいいようなことを、なぜ言ってしまうのだろう。もっと若い頃はこんなことはなかったのに。

 私は仕事をしていない。憲太郎との結婚が決まって、しばらくして辞めた。今後仕事を再開するつもりも、ない。一般事務と言われる業務を坦々とこなしている日々に終止符を打ちたかったわけだが、それ以上に嫌気がさしたのはまわりの人間関係のわずらわしさだった。悪口、かげ口、嫉妬、もろもろの負の感情。表面的には平和でも、内情はいつもぐるぐると黒いものが常に渦巻いているような職場に日々、辟易していた。一歩外に出れば、ばからしい、の一言で済む話が済まない人間関係に、入社して数年経ち、心身ともに疲れてはてていた。それでも頑張って続けようか、いや無理せずに辞めようかの応酬が自分のなかで繰り広げられつつ時間だけが過ぎていたが、同じ部署にいた女性から投げつけられた言葉が私にとっての決定打となった。

「矢内さん、あなたね、今度結婚するんでしょう。それなのに子供はいらない?びっくりしちゃうわ。言わせてもらうけど、子供を生まないなんて自分勝手な行為よ。あななたちの老後を支えるのは私たちの子供や孫たちなのよ。それ分かってて言ってるの?世の中、少子化だっていうのに、まったく。次世代を育てる義務があなたにはあるのよ」

 驚いた。そんなことを言う人がいるなんて、思いもしなかった。昼休憩のときに同僚から「子供つくるとしたら何人欲しいの?」という質問をされ、「私は子供はいらないの」と正直に答えたとたん、近くで耳をそばだてていた女性に激しく非難された。確かにその女性は職場でも一癖あると見られていた年配の女性社員だったが、そこまで真正面から非難された私はさすがに萎えた。

「矢内さんって、ほんわかしてるし優しいし、いいママになりそうなのに意外かも。なんで?」

 同僚にまでそんなことを言われ、一気に心労がたまった。

 もう働きたくない。会社に行きたくない。あるとき私が漏らすと、憲太郎はあっさりと言った。

「俺の収入だけでも十分に食べていけるし、辞めちゃえばいいよ」

 その言葉を聞いたとたん、体がふうっと軽くなったのを覚えている。あのときの憲太郎には後光がさして見えたほどだった。

 しかし、厄介なのは世間の目だった。結婚をして、仕事を辞めて、でも子供はいない。子供をつくらない夫婦は共働きであると世間で定義されているのか、会う人会う人に「何しているの?」と訊かれた。「子供もいないし、仕事もしていないなら、何をしているの?」と不思議な目で見られる。「専業主婦」なんて答えたら「あら、優雅でいいわね」と言われる。よほどの金持ちなら彼女たちは納得がいくのだろうか。でも、私のような普通の身分の主婦に対する風当たりは強かった。世間というよりも近所の目だね、そんなの気にしないでいいよ、と憲太郎は言うが、私は気にしてしまう。まるで自分が常識外な人間であるように見られることに、ときどき戸惑いを感じてしまう。

「はい、どうぞ」

 茶托にのせたお茶が目の前に出される。お茶からは微かに湯気がたっている。

「ありがとう」

 言うと、夏美はにこりとする。熱いお茶をゆっくりとすすりながら、

「なんかさ」

 と夏美が言う。

「なに?」

「ううん、やっぱいい」

 含み笑いを浮かべているので気になって、なに?と再度訊くと、

「いや、あのね、急に思い出しちゃったの。怒らない?」

 言いながらすでに夏美は思いだし笑いをしている。

「なに?」

「あのね、憲太郎さんって、ワンちゃんみたいだなあと思って」

「ワンちゃん?!」

 突拍子もない言葉に私の声は裏返りそうになる。

「ほら、この前、鈴子の家に遊びに行ったでしょ。憲太郎さんもお休みでいたじゃない。憲太郎さんって、鈴子が「あれとって」とか「これとって」って言うと、ハイ、ハイ、って従順に動いてくれるでしょ。なんだかお利口なワンちゃんみたいだなあって思ったの。いい意味でだよ、いい意味で」

 夏美はくすくす笑う。

「ひどいなー。人の夫を犬だなんて」

 私も思わずうふふと笑ってしまう。憲太郎が犬か。このことを憲太郎に伝えたら、どんな反応をするのだろう。当たっているね、なんて言って、案外一緒になって笑いそうな気がする。

「いい人を見つけたよね、鈴子は。憲太郎さんって、本当に優しそうだから」

 湯呑みをテーブルに置きながら夏美は言った。私は憲太郎と結婚できて本当に良かったと思う。憲太郎のいない生活は考えられないし、憲太郎がいなければ私は何もできない気さえする。だから夏美は間違えている。ワンちゃんなのは憲太郎ではなく、私の方なのだ。

「ママ、こわいよー」

 突然、花音ちゃんが泣きながら夏美に飛びついてきた。どうやらアニメの主人公が敵に襲われてピンチを迎えているらしい。

「大丈夫よ。大丈夫」

 夏美は抱きついてきた花音ちゃんを優しく受けとめて頭をなでるが、花音ちゃんは泣きやむことなく、さらに声のボリュームをあげていく。

「子供って本気なんだよね。アニメでもなんでも」

 困ったように笑いながら夏美は言う。

「それだけ純粋なのよね」

 花音ちゃんの頭を私もなでる。

 柔らかくて繊細な髪の毛のあいまから、熱気がじんわりと手のひらに伝わってくる。花音ちゃんの泣き声がまっすぐで濁りのないエネルギーとなり、部屋中にこだまする。私もかつて、こうして泣いていた時期があったのだろう。アニメの世界が虚構だということに、私はいつ頃気がついたのだろうか。

 泣きじゃくる花音ちゃんの頭をなでながら、私は左手の薬指にはまる銀色の指輪を、ぼんやりと眺めた。

3.

 トルコ桔梗の花は淡い紫色できれいだから、咲希によく似合うと思う。優柔不断な性格ゆえに花屋で迷うのはいつものことだけれど、今日はそれでも、いつもに比べれば早く決まった方だ。

 私は右腕にトルコ桔梗の花束を抱え、左腕には帰るときに夏美が持たせてくれた夏美と花音ちゃんの手作りクッキー―うさぎや羊や猫の型でとったもの―が入ったビニール袋をぶらさげて、足早に歩く。袋の隙間から甘い香りが漂ってくる。

「作りすぎちゃったの、これ。砂糖入れすぎてるからものすんごく甘いけど、よかったら持っていって」

 帰り際、ようやく泣きやんだ花音ちゃんは夏美のうしろに隠れるようにして、目の腫れた顔だけをのぞかせて玄関で小さく手を振ってくれた。「ありがとう」と言うと、照れた花音ちゃんは顔をすばやく引っ込め、夏美のうしろに張りつくようにして隠れてしまった。

 公園の入り口に着き、私はいったん足を止めて息を深く吸い込んだ。

 咲希が最期に選んだ場所はこの公園、私たちの「森」だった。ジョギングコースや広場のあるこの大きな公園は、子供時代の私たちの恰好の遊び場だった。私たちはここを勝手に「森」と命名した。目にうつる密集した濃い緑の木々や、子供の背丈に比べてはるかに高く伸びる幹は、まさしく森そのものに見えたからだった。

 あれから何年もの月日が経つというのに、一歩足を踏み入れる瞬間はいつでも重々しい心地がする。咲希はこの公園で亡くなったのだ。雑木林を抜けた場所にある桜の木で首を吊って。まだたったの十六歳だった。

 咲希が亡くなったことは、小学校五、六年生のときに同じクラスだった加藤さんからの連絡で知った。加藤さんの母親が咲希の母親と親しかったからだろう。

 その知らせを受けたとき、「嘘でしょ」と私は言った。「なんで?」とも声にもならない声で呟いた。「だって…」と私が言葉を詰まらせたのは、その連絡を受ける一か月ほど前に偶然会ったときの咲希の姿が脳裏に浮かんだからだった。

 その日、帰宅途中だった私は通りの前方に咲希のうしろ姿を見つけた。同じ町に住んでいながら咲希と偶然会うことはめずらしく、その頃は互いに高校生活が忙しくて遊ぶこともなかったので、私は嬉しさのあまり思わず駆け出して咲希に声をかけていた。

「咲希!」

「鈴子!」

 振り向いた咲希も同じように嬉しそうな顔をした。

 昔のように、住宅街の小道をふたり並んで、おしゃべりをしながら歩いた。あのとき咲希は普通だった。何もおかしな様子はみえなかった。二人で他愛ない話をし、ごくごく普通な平和な時間を過ごしたはずだった。それとも、咲希はあのときサインをだしていたのだろうか。何かシグナルはあったのだろうか。―いや、あったのかもしれない。別れ際、咲希は何かを言おうと口を開きかけ、すぐに口をつぐんだ。私はそれを特に気にも留めなかった。手を振って別れたあと、振り返ることもしなかった。あとになって思い出し、もしかしてあのとき咲希は私に何か伝えたいことがあったのではないかと考えた。それなのに、私は何も気にかけずに流してしまった。そんな自分を、幾度となく責めた。不毛なことと分かっていても、責めずにはいられなかった。

 後日また、加藤さんから咲希の話を聞かされた。咲希は自殺したその日、きれいなワンピースを着ていたという。同じクラスにいたまた別の生徒の母親が、その日咲希を目撃していたのだった。その母親はその日旅行に行くため、早朝から車に乗って家を出た。その道の途中、咲希を見かけたという。まだうす暗いなか、きれいなワンピースを着た少女がひとり公園に向かって歩いていくものだから、違和感はあったらしい。でも車に乗っていたその母親は特に声をかけることもできず、まさかその少女がそのあと自殺するなんてことは思いもせず、ただ横目に通り過ぎてしまったらしい。

 その話を聞いて、私は息苦しさを覚えた。自分が目撃したわけでもないのに、映像がやけに生々しく浮かんだ。きれいなワンピースを着た咲希が、柔らかく長い髪の毛をなびかせて、華奢な白い手足をのぞかせて、まだ夜の気配を残した薄暗くひんやりとした空気のなかをひとり、私たちの森だった公園に向かって歩いていく姿を。雨の多い梅雨だったから、緑はいつも以上に鬱蒼とし、水分を多く含んだ空気は緑と土の濃い匂いがしただろう。森のなかの静寂は、かえって耳鳴りのように痛く耳の奥に響いただろう。

 自分がなぜ、その目撃者になれなかったのか。そんなことをまた、考えた。どれもこれも仕方のないことだった。なぜ咲希は死んだのか。なぜ誰もそれを止められなかったのか。どんなに考えたところで現実は変えられなかった。咲希は私たちの思い出の場所であるこの桜の木で人生を終える選択をした。それがすべてなのだった。

 そして今年もその桜の木は、青々とした葉を繁らせている。その根本には、すでに一束の花が手向けられていた。ピンク色の小さな薔薇の花束。香奈に違いない。私はとっさにあたりを見回したが、香奈の姿はどこにもなかった。示し合わせているわけではないが、私と香奈は毎年あえてこの場所を選んで花を手向けている。それなのに今まで一度も香奈に会ったことがないのはきっと、会社に行く道すがら香奈はここに立ち寄っているからなのかもしれない。

 私はスカートが地面につかないよう、裾を片手で抑えながらその場に屈み、薔薇の花束の隣にトルコ桔梗の花束をそっと置いた。薔薇に比べ、薄紫色のトルコ桔梗はおとなしく見える。私は英字新聞の包装紙に適当に包まれている薔薇の花をみて、ふふっと笑った。トゲのある花なんか選んじゃって。香奈らしいなあ、と。

 私はしゃがんだまま、夕風にざわざわと音をたてて揺れる葉を、見上げた。

4.

 鍵を開けようと玄関に立ったところで、ちょうどドアの向こうから電話の呼び出し音が聞こえた。慌てて鍵を開け、買い物袋を腕にぶら下げたまま滑り込むようにして受話器をとると、

「鈴子さん?」

 電話は義母からだった。

 私は第一声を耳にしたとたん、習性的に姿勢をただし、身構えた。夕飯の材料の入った二つの買い物袋は依然、腕に食い込んだままの状態で。

「お土産が届きましたよ。ありがとうね。あんなにたくさん、大変だったでしょう」

 義母は言った。

 憲太郎の指示のもと、義母たちへの土産は簡単な手紙とパリで撮った写真数枚を同封し、宅急便で送った。直接持っていくような距離に義母が住んでいないことは私にとって幸いなことだった。義母に会えば、きっと何か言われるに違いない。義母は私のことをあまり好ましく思っていないのだから。

「ビスケットね、さっき早速いただいてみたんだけど、おいしかったわ。さすがフランスは違うわね」

 義母は笑みを含んだ声で言った。

「でも、あんなに甘いものばかりじゃ、太っちゃうわね。あ、ポプリはお手洗いに飾ってみたの」

 どことなく嫌味にもとれそうなことを明るい声で義母は言う。続けて旅行のことや憲太郎のことを訊かれ、私はそのひとつひとつに慎重に言葉を選んで答える。

「ところで」

 ひととおり話が済んだところで、義母が声のトーンを落として訊いた。

「最近、変わりない?」

 私はその質問の意味を十分に承知している。承知しているくせに、わざとらしく鈍感なふりをして、調子を変えずにすぐに答える。

「ええ、特に変わりないですよ」

 穏やかな、落ち着いた声で。

 義母は少し黙る。それから聞こえるように大きな息を漏らし、

「そう、変わりないのね」

 あきれたように言う。

 義母から電話があるたびに繰り返される会話だ。鈍感なふりをしていても、私の胃は毎回きりきり痛む。

「今度、憲太郎と二人でまた顔でも見せにきてちょうだいね」

 最後に義母は言い、電話は切れた。

 ようやく私は買い物袋を床におろし、ソファに深く腰を掛け、大きく息を吐いた。腕には買い物袋の食い込んだ痕が赤紫色になってくっきり残っている。あーあ。私は声に出して言ってみた。あーあ、もう嫌になっちゃう、と。

 義母とのあいだに確執が生じたのは今年の正月、夫婦そろって憲太郎の実家に帰省したときのことだった。

 畑にかこまれた静かな環境のなかに立地する憲太郎の家は、古い大きな木造家屋で(でも四年前に大々的なリフォームをしたので、なかは外観の印象と異なり綺麗で新しく、全面バリアフリーだ)、正月になると毎年そこに親族が集まり、新年を祝う。今年も計十六人。かなりの人数が集まり、大広間の大きな座卓を囲んで宴会をした。

 義母の用意した豪華なおせちを食べ、正月ならではの高揚感で宴会は大いに盛り上がり、酔いで気分の良くなった義父が箸を両手に持って踊りはじめるなど、まさしく宴もたけなわな状況のなか、私はいつもどおり所在なく、憲太郎の横にぴたりと張りつき、お酒をちびちび飲んでいた。

 そう、そこまではいつもどおりの正月だったのだ。空気を変えたのは憲太郎の叔父の放った一言だった。

「そういや、憲太郎と鈴子ちゃんのところは、なに、あれかい?赤ちゃんはまだ、できないのかい?」

 遠慮のない大声で叔父は言い、同時に親戚一同が一斉に期待の目で私を見た。

「え、えっと…」

 いきなりの質問に憲太郎と私が喉をつかえさせていると、義母が大きく咳払いをした。

「どうしてあんたはそういうこと訊くの?デリカシーがないっ。かわいそうでしょう、鈴子さんが」

 義母は大きな声で叔父を一喝した。かわいそう?なんのことだか分からない私はほうけたように義母の顔を見た。そこに居合わせた親戚のみんなも状況が分からず、その答えを求めようと義母を見た。

「ああ、だからもうっ」

 義母は眉間に深い皺を寄せると「ごめんね、鈴子さん。こういうことはこの際、隠さずに言っておいた方がいいのよ」と私に向かって前置きをして、

「あのね、鈴子さんは赤ちゃんをなかなか授からないのよ。赤ちゃんができにくい体質なの」

 みんなに向かって、やけに神妙な声で告げた。とたん、あんなに盛り上がっていた部屋の温度が急に冷えたように感じた。みんなの酔いも一気にさめて、部屋はしんと静まり返った。

「なんだい、そりゃ。だったら早く言ってくれたら良かったのに」  

 叔父が非難するように言うと、間髪入れずに、

「そんなこと、なかなか言いにくいことでしょうよ」

 と義母は叔父をにらみつけた。叔父は赤い顔のまま何も返せず、ばつが悪そうに胸ポケットから煙草を取りだして火をつけた。

「そうだったの?」

「知らなかったわ」

「女性なら誰でも悩むわよ」

「でも今は色んな方法があるんじゃない」

「大丈夫よ、鈴子ちゃん」

 と、その場にいた女性たちが取り繕うように同情の声をあげた。私は頭が真っ白になった。一体どこでどうして、そういうことになってしまったのだろう。

「でも大丈夫よ。焦らなくても。そういうのって、本当にあるとき突然、授かったりするものよ。私だって、なかなか子供できなくて悩んだけど、ちょっとあきらめかけたときに、あらまっ、て感じで妊娠したんだから。ね、そういうもんよね、姉さん」

 憲太郎の叔母がなぐさめるつもりなのか、義母に言った。

「そうよ。そういうもんよ。鈴子さん、何も気にしないでいいのよ。ちゃんとそのうち、赤ちゃん、できるわよ。あきらめないでね」

 微笑みながら義母と叔母が同時に私を見つめた。合わせるように他の人たちも微笑みながら私を見た。

「え?」

 みんなの視線を浴びた私はとっさに何か答えなければいけないと思った。とっさに何かを。しかしなぜだろう。口を突いて出た言葉はバカ正直すぎるくらいに正直な言葉だった。

「…あの、私、そもそも子供を生むつもり、ないんですけど…」

 部屋の空気がまたしても一変した。しん、と静まり返る。元に戻りかけていた空気が私の一言で取り返しがつかないくらいの温度に冷えてしまった。氷点下だ、と思った。

「いや、だから、俺たち夫婦は子供はあえてつくらないで、二人だけでやっていこうと思ってるんだよ。今はそういうかたちの夫婦も普通にあるんだって」

 憲太郎もまさか私がそんなことを口走るとは思っていなかったらしく、しどろもどろになりながら釈明した。

「あー、それって聞いたことある。ディンクスっていうやつでしょ。ダブルインカムノーキッズ!」

 従妹の子供にあたる中学生の女の子が、空気を読まずに軽い口調で言った。その隣に座っていた母親が「鈴子さんは働いていないでしょ」と小声で耳打ちしたが、部屋が静まり返っていたせいでかえってその声は透き通るように響き渡った。

「憲太郎。鈴子さん。私は何も聞いていませんよ。私はてっきり、子供が欲しいのにできないんだって思って心配していたのに、子供を生まない?二人だけでやっていく?一体、どういうつもりなの?」

 義母の顔は鬼のようだったと言っていいだろう。目はつりあがり、声には怒りが混じってやけに低く、その言い方は妙に落ち着いたものだった。

「憲太郎、あなたは一人息子なんですよ。そのこと、ちゃんと分かってるんでしょうね?」

 私も憲太郎も叱られた子供のように黙りこんでしまった。

 結局、やむおえない事情があるわけではない私たちの説明は義母おろか親戚一同からの理解を得られず、気まずい雰囲気のまま宴会はお開きになった。結婚したら子供を生むのが当然だろう。ましてや働いていないのならなおさらだ。全員の意見はそれで一致だった。

 もちろん、私も言った直後に、しまった、とは思った。そう思ったが遅かった。反射的だったのだ。孫を抱けるという期待を持たせるよりは、ここではっきり宣言しておいた方がいい。その方がお互いのためなのだ、という判断が私のなかでさっとおりたのだ。

「でも、あのタイミングはまずかったな」

 帰りの新幹線のなかで苦笑しながら憲太郎は言った。

「それはそうだけど、でも憲太郎だって、ご両親にもっと前に言っておいてくれたら良かったのよ。私たちは子供をつくりませんって」

 雪だるまの形をした駅弁をつつきながら、私は力なく抗議した。

「まあ、そうだよな。俺が悪かった。いつかは言わなくちゃなあと思いながら、ついつい言いそびれちゃってたから。でもまさか、おふくろのなかであんなストーリーが勝手にできあがってるとは思ってもみなかったからなあ。ほら、知ってのとおり、おふくろって頑固だろ。昔から自分の考えが正しいっていうタイプだからさ。親父はまあ、なんとか分かってくれるとしても、おふくろが問題なんだよな。子供をつくらない、なんて考えが通るような相手じゃないし、なかなか手強いんだよ」

 髭のない顎をさわりながら、憲太郎は小難しい顔をした。

「私、きっとお義母さんを敵にまわしたわ。ううん、違う。親戚全員を敵にした」

 こころもとない声で呟いた。

「そんなことないよ。また今度ちゃんと説明して、徐々に理解してもらえればいいよ。べつに跡取りが必要な家でもないんだし、親の許可がいるってわけでもないんだから。気にすんな」

 憲太郎は励ますように言い、私の頭を大きな手のひらでぽんぽんと叩いた。説明。そんなことを言っても、説明できるようなことなんて何もないじゃないか。働きたくないから働かない。生みたくないから生まない。彼らに理解してもらえるような材料は私には何一つないのだから。

 ソファに横になり、真白い天井を仰ぐ。何度思い出しても、今年の正月は最悪だったと思う。新年早々、あんなに暗澹とした気持ちを味わうことはそうそうない。義母とうまくやっていく自信は、はっきり言って今の私にはない。

 うーん、と思いきり伸びをしたら、背中がポキポキと小気味良い音をたてた。勢いをつけて私は立ち上がり、寝室へ足を運ぶ。寝る部屋はシンプルであるべき、という憲太郎と私の同意見のもと、寝室にはおそろいのベッドが二つとそのあいだにランプを置いた小さなテーブル、部屋の端にチェストがあるのみで他は何もない。ファブリックも決して柄物にしない。落ち着いた色合い、例えば生成りや白で、素材はリネン。それが気持ちいいのだ。最初、憲太郎はダブルベッドにしようと言ったが、私はそれを頑なに拒否した。ダブルベッドなんかにしたら落ち着いて眠れないわ、と。眠ることは重要だもの、とも。憲太郎は渋々それを了承したが、今となっては別々のベッドにして正解だったと、あたかも自分がそれを決めたかのように胸を張って言う。一緒のベッドでなくたって、用があるときには憲太郎のベッドに行けばそれでことたりるのだ。

 私は憲太郎と結婚できて本当に良かったと思う。こんなに理解のある夫はいないと思う。憲太郎とは会社帰りに通っていたスポーツジムで知り合った。私の会社の近くにある銀行の行員だった。私はその男性を物腰の柔らかな人だと思った。笑顔が素敵な人だと思った。三歳年上のわりには童顔だと思った。でも、頼りがいがあると思った。憲太郎と結婚して驚いたのは、あまりに憲太郎に手がかからないことだった。自分の父親を見てきたせいか、男の人は結婚すればそれなりに世話が焼けるものだと思っていたが、憲太郎は何でも自分で出来てしまう。洗濯だって、掃除だって、料理だって、器用に自分一人でこなしてしまう。食事の後片付けだって、率先してやってしまうこともある。そんな夫を私は素晴らしいと思う一方で、ちょっぴり淋しいと思うこともある。そんなに自立している憲太郎なら、私がいなくても十分にやっていけると考えるからだ。手のかからない憲太郎。理解のある憲太郎。私には憲太郎が必要だ。私は憲太郎のベッドにゆっくりと寝ころがった。うす暗い部屋のなかは物音ひとつなく静かで、油断すると急に不安が襲ってきそうな気がする。でも、その不安の正体が何なのかは、よく分からない。

 会いたい―、無性に憲太郎に会いたいと思った。早く帰ってきて―、小さな声で呟く。憲太郎の匂いの残る毛布をつかみ、私は猫のように、身を丸くした。


5.

 細長い廊下はひんやりしていて、私と咲希と香奈は滑りそうになりながら、足音を響かせて一直線にそこを走る。曲がり角にさしかかったときに上履きが脱げそうになり、慌てて私は立ち止まり、待ってよー、と大声で叫ぶ。待たないよー、と香奈はわざと意地悪な笑みをみせて勢いをとめずにそのまま全速力で走っていき、咲希は少しこちらを気にかけて速度を落とすが、走ることはやめない。私は屈んでかかとをしっかり上履きにはめこんで、そしてまた、二人を追って走っていく。

 小学校の下駄箱は、埃っぽい匂いがした、水飲み場の青いネットに入った石鹸は、溶けるとぬるぬるとネットにまとまわりついて気持ち悪かった。日直当番と雑巾がけは嫌いだったけど、給食当番は嫌いではなかった。職員室に置いてある電気ストーブがうらやましかった。休み時間、音楽室にある木琴をひとり占めし、こっそりバチで叩くのが好きだった。放課後に、私と咲希と香奈の三人で屋上にのぼるのが、大好きだった。誰が一番先にのぼることができるのかを、いつも競争していた。

「ほら、見てみて」

 黒い下敷きを空にかざしながら香奈が言う。

「太陽がよく見える」

 日差しが眩しかった。屋上の緑色のざらざらしたコンクリートのうえに川の字になって寝そべったら、背中がひんやりとして気持ち良かった。

「あ、太陽が月みたいに見える」

 香奈から黒い下敷きを受けとり、咲希が言った。

「本当だ。太陽ってまんまるだね」

 最後に下敷きを受け取り、私が言った。

「気持ちいいなあ。お日様がさんさんとしているよ」

 香奈は言って、目を閉じた。私と咲希も一緒になって目を閉じた。太陽の光がまぶたをすり抜けて、目をつむっていても全面にオレンジ色が広がった。

「あったかいなあ」

 私は呟いた。

 よみがえる記憶はおぼろげで、それが小学校何年生のときのことなのかは思い出せない。ふと頭に浮かぶ光景には、でも、必ず三人が一緒にいる。

 あんなときもあったのだ、と思う。三人ともこの町のどこかにいた。どこかでちゃんと生きていた。でも今は、この町に暮らすのは私だけだ。私一人だけが、ここにいる。


6.

 義母はベージュのシンプルなワンピースに焦げ茶色のジャケットをはおっていた。化粧はいつもに比べると少し濃く、まぶたに薄い紫色のシャドウがのっていて口紅も赤い。胸元には、小さなサファイヤのネックレスが光っていた。

「急にお呼び立てしてしまって、ごめんなさいね」

 私が席につくなり、義母は小さく頭を下げた。

「いえ、ただ突然だったので、びっくりしちゃいましたが…」

 ウェイトレスの女性が水の入ったグラスをテーブルに置くなり、私はすぐにそれを一口飲んだ。六月だというのに外は真夏のような暑さで、中庭にある真白いテーブルと椅子の置かれたテラスには誰一人座っていなかった。

「今日は暑いわね」

 義母は目を細め、窓の外を見つめた。

 表参道にあるこの喫茶店で義母と会うのは今回で二度目になる。一度目は義父母が私たちの新居を訪れたとき、義母のリクエストで表参道に観光に行ったときに立ち寄った。そのときは土曜日だったので混んでいて席が空くまで待たなくてはならなかったが、今日は平日なので比較的空いている。

「あの…、お話って何でしょうか?」

 朝、憲太郎を玄関で見送って、いつもどおりに朝食の後片付けをして、洗濯機をまわし、窓を開け放して掃除機をかけていると、電話が鳴った。出ると義母で、いま東京にいると言う。ちょっと鈴子さんに話したいことがあるから会えないかしら、と義母は声を潜めてそう言い、この喫茶店の名前を告げたのだった。

「実はね」

 と義母が言いかけたところでウェイトレスが注文をとりにきて、慌ててメニューの中から私はハーブティーを、義母は珈琲を選んで注文をした。喫茶店のなかは焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂っている。

「実は、鈴子さんにお願いがあってね」

 ウェイトレスが去ったのを確認してから義母は言う。その表情は硬い。

「お願いって、何でしょうか?」

 義母が私にお願いすることって、何だろう。しかもわざわざ東京に出てきてまでするお願いだなんて。体を緊張させながらも私はいたって平静を装って応じた。義母の様子から察するに、思わしくないことを言われることは容易に想像がつく。だからこそ、防御としての笑顔もつくって。

「こんなことをお願いするなんて、おかしなことだって分かっているのよ。分かっているんだけれど…」

 言ったきり、義母は黙る。言いにくそうな様子で軽く目を伏せている。窓から入る日差しが義母の細い指にはまる指輪のダイヤに反射し、光が伸びる。

「どうぞ、遠慮しないでおっしゃってください。なんでしょうか?」

 親切ぶって促すが、それは溜めが余計に緊張を高めるのを阻止するためだ。なんの話をするのだろう。義父と喧嘩して家出でもしてきたのか、それともお金を貸して、なんて言われるのだろうか。頭のなかは昼間のお悩み相談番組に出てくるような内容で溢れかえる。

「…鈴子さん、やっぱり赤ちゃん、生んでくれないかしら?」

 義母は言った。赤ちゃんを生んでくれないかしら。

「え?な、なんて?」

 予想外の質問に私はつい、どもった。

「赤ちゃんを生んで欲しいのよ。私、どうしても憲太郎の子供を見たいの。…孫が欲しいのよ」

 いつも強気な態度の義母にしてはめずらしく、切迫した様子で義母は繰り返した。

「そんな、赤ちゃんを生んでくださいだなんて。私、べつに今妊娠をしているわけじゃないですし、本気ですか?」

 義母は黙り、悲しい目でじっと私を見つめている。そうだ、義母は本気なのだ。

「ごめんなさい」

 私はとっさに謝った。

「突然すぎて、よく分からないんです。どうしてそんな、そんなお願いごとだなんて」

 私の心臓はばくばく音をたてていた。水をもう一口飲み、姿勢を正す。落ち着け、落ち着け、と胸の内で繰り返す。

「鈴子さんには分からないかもしれないけれど」

 義母は小さな声で言った。

「憲太郎は一人っ子でしょう。あなたたち夫婦が子供を持たないということは、私たち夫婦に孫はできないってことになるの」

 義母はゆっくりと何かを教え諭すような口調で話し始めた。私は動揺を隠し、ただ頷いた。

「ずっと夢見ていたのよ。あなたたちが結婚を決めたときから、孫を抱ける日がくることをね。孫にお年玉をあげたり、敬老の日に贈り物をもらったり。またあの温かくて柔らかい、甘い匂いの赤ちゃん、抱っこできる日がくるのをね」

 そう言ったところでウェイトレスが珈琲とハーブティーを運んできたので、義母はいったん黙る。

「ハーブティーはこの砂時計が落ちてから注いでください」

 ウェイトレスは今の空気にそぐわない明るい声と笑顔で言い、私は小さく頷いた。珈琲のかぐわしい香りとハーブティーの涼しげな香りが私と義母のあいだで混ざり合う。

「ごっゆくりお過ごしください」

 ウェイトレスは一定のテンポをくずさずにステンレスの筒状の入れ物に丸めた伝票を差し込み、一礼して去っていった。私も義母も飲み物に口をつけなかった。ウェイトレスを見送り、義母は話を再開する。

「孫がいないなんて、淋しいものよ。うちのご近所さんも、私のお友達もみんな、お子さんが結婚されたところは全員お孫さんがいるのよ。私だけがいない。みんなおばあちゃん。孫のいるおばあちゃん。私だけが孫のいないおばあちゃんになるなんて…」

 義母は声を震わせ、目を伏せる。そして膝の上に置いていた小さなハンドバッグからハンカチをとりだし、目をふさぐ。

「そんなお義母さん、泣かないでください」

 言うと義母は顔をあげ、

「泣かせてるのはあなたでしょう」

 語気強く、非難するように言った。

「それに」義母は続ける。

「それに、鈴子さんは何の問題もないんでしょう。私だってね、あなたが子供を欲しいのに妊娠できないっていうのなら、納得しますよ。そのくらい、わきまえていますよ。でもね、あなたたちはそうじゃないでしょう。親に相談もせずにそんなこと勝手に決めるなんて、冗談じゃないっ」

 義母は自分の言葉でさらに自身の怒りを増幅させ、持っていたハンカチを膝の上に叩きつけた。

「でもお義母さん、私だって、実際に子供をつくろうとしても授かるかどうかなんて分からないんですよ」

 なだめるように言ったが私の言葉はさらに油を注いだようで、

「そんなこと、分かってて言っています」

 義母は怒りをあらわにして言った。私は困惑した。突然呼び出され、突然無理なお願いをされ、そして目の前にいる義母は今にも泣きくずれそうな気配で、いったい何をどうしたらいいのか分からず、私はすぐにでも逃げ出したい衝動にかられた。

 義母はハンカチでもう一度目元を拭う。

「きっと憲太郎は鈴子さんに合わせたのね。あの子、小さい子にも優しくて、子供のことが好きなはずなのに」

 ひとり言のように、でもよく聞こえるように義母は言う。私はなぜこんなに責められなくてはいけないのかと腹を立てる一方で、どこか委縮したのは否めない。憲太郎が子供好きなのはもちろん知っている。出掛け先で子供を見かけたときの憲太郎の優しい眼差しだって、痛いくらいに知っている。それでも。それでも、憲太郎は私の意思を尊重してくれたのだ。誰に指図される覚えはない。けれど、そう思いながらもずっと、憲太郎に無理を強要しているような、自分の都合を押し付けているようなうしろめたさを胸の奥底に秘め続けているのは確かだった。

「でもお義母さん。私も本当に申し訳ないと思っていますが、何を言われても、やっぱり私たち、子供をつくるつもりはないんです。夫婦二人でやっていきたいって思ってるんです」

 意を決し、断固とした口調で私は言った。義母は裏切られたような、絶望したような顔をした。

「私にはあなたたちの考えていることがまったく理解できないわ」

 目を充血させ、肩を落とし、あきれたような声で義母は言った。私だって…、と思ったが言葉には出せず、ただ、やるせない気持ちだけが胸に残る。

 珈琲もハーブティーも口にすることなく冷めてしまった。ただ沈黙だけが流れた。私は窓の外に目を向けた。日差しは変わらずに強く、地面を照りつけている。テラス席にはさっきまでいなかったスーツを着た女性が一人、手帳片手にアイスコーヒーを飲んでいた。

 義母はうつむいたまま黙っている。

「お義母さん、もう帰りましょうか。お時間、大丈夫ですか?東京駅まで送ります」

 私は言ったが、義母はうつむいたまま首を横に振った。

「いいです。私は大丈夫だから。一人で帰るわ」

 義母は小さな声で言った。

「でも」

「本当に大丈夫だから。鈴子さん、先に帰ってちょうだい」

 義母は顔をあげ、無理やりな笑顔をつくってみせた。しかしその瞳は正直に、あなたを許せない、と言っていた。

「分かりました」

 伝票を手に取り、私は立ちあがった。

「鈴子さん」

 背を向けようとしたところで義母は私を引きとめた。

「今日のことは憲太郎には言わないでね。お父さんにも嘘をついて、東京に出てきたの」

 義母はまっすぐな眼差し―でもそれは微かに怯えたような印象を与える眼差し―で、私を見つめた。

「大丈夫です。誰にも言いません」

 私は気丈なふりをして笑顔で言い、そして店を出た。

 暑い、と思った。手でひさしをつくり、空を仰ぐがまぶしくて何も見えない。一体、いま起きた出来事、目の前にいた人物は誰だったのだろうか、と駅に向かう足をいったん止め、外の空気を深く吸い込んで、思う。責められる理由、謝る理由が私にはあるのだろうか。

 私は自分の手が冷えきっていること、耳が熱くなっていることに気づき、苦笑する。もしかしたら、私は運が悪いだけなのかもしれない。世の中、私たち夫婦のように、子供をつくらないと決めて人生を歩んでいく人たちは沢山いるだろう。たまたま、私のまわりにはそれを理解してくれる人たちがいなかっただけのことだ。たまたま、なのだ。私は私に何度もそう言い聞かす。

 バッグから振動が伝わる。内ポケットに入れた携帯電話が点滅を繰り返している。見ると、憲太郎からのメールだった。

『鈴子が観たいって言ってた映画のチケットの前売り、さっき買ったよ。次の休みに観に行こうよ!ちなみに今日の夕飯なに?』

 私の頬は思わず緩んだ。憲太郎のバカ、と思った。私たちは子供がいなくたって、十分に二人だけで仲良くやっていける。私は軒先の日陰に隠れ、憲太郎にメールを打ち返す。でも、今日起きた出来事は憲太郎には秘密にしておこうと思った。お義母さんのためだけではなく、私自身のためにも。


7.

 期待していたスペイン映画は始終鮮やかな色彩だったが、内容はその鮮やかさに反して暗く、後味の悪いものだった。

「俺の好みじゃなかったな」

 パスタをぐるぐるとフォークに巻きつけながら、先ほどから憲太郎は映画についての感想を述べている。

「抑揚のない話のくせに、最後だけが不幸すぎるよ。あんなに希望の持てないストーリーはよろしくない」

 眉根を寄せて、トマトソースの絡んだパスタを頬張りながらも憲太郎の不服はとまらない。

「そう?私はいいと思ったけどな。たまにはバッドエンドの話があっても。だって、物語だし」

 私も一応感想を言う。アスパラガスのクリームパスタを頬張りながら。

 映画館をあとにした私たちは銀座にあるレストランで昼食をとっていた。たまたま通りがかりに見つけた、まだオープンして間もなさそうなトラットリアだ。

「でもやっぱり俺はハッピーエンドの方がいいと思うけどな。後味が悪いと、なんていうか、こっちまで落ち込んじゃうしさ」

 ティーシャツにデニムにスニーカーといった恰好の憲太郎は、スーツを着ているときよりも五歳くらい若々しく見えると思う。立派なごつい腕時計だけがやけに会社員っぽい。

「そうだね。確かにね。ハッピーエンドの方が、いいのかもね」

 不服が収まらなさそうなので、とりあえず憲太郎に同意しておく。

「まあ好みもあるのかもしれないけど…。あ、水ください」

 憲太郎はウェイターに水を頼む。とくとくと、ワイングラスに水が注がれる。私もグラスをそっと差し出す。

「あ、じゃあさ、今度、口直しにアクション映画でも観に行こうよ。すかっとする後味爽快なやつ」

 憲太郎はいいこと思いついたといわんばかりに表情をぱっと明るくしてそう言った。

 食後のデザートを食べ終えて店を出て、デパートやブランドショップが軒を連ねる中央通りを二人並んで歩く。休日なので通りは歩行者天国になっていて、道路の中央にはビーチにあるような白いパラソルと丸テーブルとチェアがところどころに配置されてあり、大道芸人がいるところにはドーナッツ状に人だかりができていた。普段は車道で歩くことのできない道を歩ける興奮で、子供たちが勢いよく道を走って横断していく。

 私は浮き浮きとしていた。憲太郎とこうしてデートをするなんて、一体いつぶりのことだろう。ここのところ憲太郎は残業続きで、休日はスウェット姿のまま死んだみたいに寝ているか、かろうじて動くとしても近所のスーパーに私の御伴でくっついてくるかのいずれかだった。

「入る?」

 憲太郎に促されてデパートに入り、混雑する店内を適当に歩きまわる。憲太郎自身はデパートでの買い物にさして興味はないらしく、もっぱら私の買い物に付き合うつもりのようだ。遠慮なく私は憲太郎を引き連れて、気になる店に入っては目につくものを片端から手にとってみるものの、結局買ったものは地下の食品売り場で売っていた天然酵母がウリの食パンだけだった。

「収穫ないねえ」

 パンの入った紙袋を見て、憲太郎は笑った。恋人同士だった頃から憲太郎はよく買い物に付き合ってくれた。私がどちらの店の服を買おうか迷って二つの店を何往復してしまうときも、憲太郎は根気強く付き合ってくれたし、案外その買い物に付き合う行為が好きなようにもみえた。憲太郎が主張して行きたい場所は、本屋とレコードショップと、あとは家電量販店くらいなのだ。

「今日の夕飯、何にしようかな」

 デパートをめぐり、家電量販店に寄り、最後に訪れた裏通りにある小さな喫茶店で紅茶を飲みながら、私は今日の夕飯のメニューについて考えていた。

「なんでもいいよ」

 珈琲をすすりながら憲太郎は言うが、それは決して投げやりではなく、労わりをこめた口調だった。

「うーん。なんでもいい、が一番困るんだけどなあ」

 白磁のティーカップをソーサーにゆっくりと戻し、私はカウンター席の向こうでせわしなく働く店主を眺める。カウンター席はやや窮屈なつくりになっていて、左隣に座った主婦二人の話し声が店内に流れるジャズの心地よい音色を潰している。

「それじゃあ、ハンバーグは?」

 憲太郎は屈託のない笑顔で提案した。

「ハンバーグ?好きねえ、ハンバーグ」

 思わずあきれた声をだしたのは、つい三日前にもハンバーグを食べたばかりだったからだ。

「いいの?またハンバーグで」

 念のために訊くと、憲太郎は目を輝かせて頷く。憲太郎はハンバーグが好物なのだ。子供みたい。私はそれを知ったとき、憲太郎のことをかわいいと思った。

「じゃあ、大根おろしにする?デミグラスにする?ケチャップ?チーズのせ?目玉焼きのせ?」

「この前はおろしハンバーグだったから、今日はデミでチーズのせ」

 略して憲太郎は言い、嬉しそうな顔をした。


8.

 耐熱カラスの厚ぼったいボウルのなかに、合いびき肉と炒めたみじん切りの玉ねぎ、それに生卵と塩とこしょう、ナツメグを入れてよくこねる。私はこのこねる作業が好きだ。肉の粒が見えなくなるまで、丹念に、かつ集中して、ただひたすらこね続ける。ひんやりした感触に、ときどき玉ねぎの熱が混ざり、やがてそれは一定の温度に整う。

「お先に」

 風呂からあがってきた憲太郎は石鹸の香り漂う湯気を引きつれてやってくると、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、リビングのソファにどさっと腰をおろして水を飲む。気持ち良さそうにごくごくと。

 私はカウンター越しにその姿をときどき眺めながら、ハンバーグのタネを楕円形に形作る。憲太郎のハンバーグは私のより一回り以上大きめに。

「昼飯に入ったレストラン、意外に当たりだったよね」

 ソファにもたれた姿勢のまま、少し大きめの声で憲太郎が話しかけてくる。

「そうだね、たまたま見つけたわりにおいしかったよね。お店の人の感じも良かったしね。また今度行くことがあったら、今度はピッツアを食べてみたいな。隣の人が食べてて、おいしそうだったじゃない。ナポリ風で、もちもちって感じで。奥に石窯もあったでしょ」

 ハンバーグの形を整えながら返事をすると、ピッツアね、と憲太郎は笑う。

「そういや駅前にピッツア屋だかピザ屋だか分からないけど、イタリアンの店が出来たみたいじゃない?この前、ビラ配ってたよ」

「駅前に?じゃあ、今度夏美とランチにでも行ってみようかな」

 と、言ったところで電話が鳴った。私はそのまま黙ってハンバーグ作りに専念し、憲太郎はソファから腰をあげ、ぺたぺたと足音を立てて、キャビネットの上に置かれた電話機の受話器をとった。テレビから音楽番組のにぎやかな演奏が聴こえてくる。

「ああ、親父?」

 憲太郎は言った。私は憲太郎をちらりと見やるが、憲太郎は立った姿勢のまま、壁の方を向いて話しているので私の視線には気づかない。義父からの電話ということは、ひょっとしたら義母のことかもしれない。そう思った私は手を動かしながらも、聞き耳をたてた。

 うん。ああ。え?そうなの?あ、ああ。うん。

 憲太郎の声が聞こえてくる。オリーブオイルを敷いたフライパンの上でハンバーグがこんがりした色に変わっていくさまを見ながら、私は耳を澄ませる。憲太郎がちらっと私の方に視線を向けたのを感じたが、私は気づかないふりをして料理を続けた。肉汁の、食欲をそそる匂いがあたりに漂う。

 ああ。そうか。うん。うん。

 憲太郎は相槌を打つばかりで何を話しているのか内容までは聞こえてこないが、声のトーンで察しはつく。やっぱりそう。先日の義母のことに違いないと。

 うん。こっちは大丈夫だから。なんかあったら連絡して。うん。言っておくよ。ああ、分かったから。うん。じゃあ、また。

 憲太郎は電話を切った。義母との件は憲太郎に内緒のままだった。ずっと胸に引っかかってはいたが、それを話すことで傷つくのは義母だけではなく私も同様だったからだ。いじられると膿んでしまう傷もある。それが、たとえ自分の罪の意識が勝手につけたものであっても。

「今の電話、お義母さんのこと?」

 憲太郎が今まさに話しだそうとするその前に私から切り出した。

「鈴子」

 溜息まじりに憲太郎は言った。

「どうして話してくれなかったんだよ」

 キッチンの前まで憲太郎はやってきて、腰に手をあて困ったように眉をしかめる。

「どうしてもなにも、お義母さんに言わないでって言われたの」

 カウンターをはさんで向き合った状態で、私は落ち着いた声で憲太郎に答えた。

「でも俺には言ってくれても良かったんじゃないの?親父から今聞かされてびっくりしたよ、そんなことがあったなんてさ。何も鈴子が一人で抱えるようなことじゃないだろ」

 抗議するように憲太郎は言う。湯あがり姿の、ティーシャツにスウェットパンツに、白いタオルを首からぶらさげた状態で。

「ごめんなさい」

 私は謝った。とたん、憲太郎はうろたえる。

「いや、べつに責めてるわけじゃないよ」

 憲太郎は人に謝られるのが苦手なのだ。その対処の仕方にいつもうろたえる。

「まあ、言いたくないような内容だったんだろうから、しょうがないのかもしれないけど。親父、謝ってたよ。鈴子さんに申し訳ないことをしたって」

 憲太郎はフォローするように言った。

「お義母さんはどうしてるって?」

 ずっと気になっていた。お義母さんはあのあと家に帰ってからも心中穏やかではいられず怒りにふるえ、そして私のことを許せないでいたのかと。もしくは悲しみにくれ、泣いていたのかと。

「落ち込んでるみたいだよ。鈴子にも悪いことをしたって、反省もしてるみたいだし。まあ親父は、時間が経てば落ち着くだろうって言ってたけどね」

「そう…」

 私はうつむいて、そのまま黙った。義母と対面したときのやりきれなさがよみがえり、胸が詰まる。テレビから流れてくる音楽はやけに軽妙なのに、部屋の空気はピンと張りつめる。

 憲太郎は肩で大きく息を吸って吐き、「まあ、でもさ」と沈黙が流れることを阻止し、声のトーンを上げて言う。

「まあ、でもさ、気にするなよ、おふくろの言うことは。親父は俺たちのこと理解してくれてるし、大丈夫だよ。もちろん、おふくろの気持ちも分からないわけじゃないよ。でも、俺たち夫婦は二人だけでやっていくって決めたんだから」

 な?と憲太郎は励ますように言って、カウンター越しに私の肩を叩いた。

 俺たちは夫婦二人だけでやっていくって決めたんだから。

 この言葉を私は一体何度、憲太郎の口から聞いたのだろう。

―きっと憲太郎は鈴子さんに合わせたのね。あの子、小さい子にも優しくて、子供のことが好きなはずなのに。

 義母が責めるような眼差しで言った言葉を反芻し、私は思う。憲太郎は何度もそう言って、自分に言い聞かせているのではないのだろうかと。本当は子供が欲しいのに無理をしているのではないのだろうかと。そう思ったとたん、不安な気持ちが溢れるように一気にわきあがった。

「本当にそれでもいいの?」

 ソファに戻ろうとする憲太郎の背中に向けて私は抑えきれずに訊いた。

「え?何?」

「だから、憲太郎は本当に子供がいないままでもいいの?」

 低い声のまま訊いた。

「何言ってるんだよ。いいに決まってるだろ。俺は子供はいらないよ。どうしたの?急に」

 憲太郎は目を丸くする。子供を持たないという夫婦の形に何の疑問も抱いていないみたいに。

「本当にいいの?無理していないの?」

 キッチンから出て、憲太郎のそばまで行き、しつこく私は訊いた。憲太郎が優しく答えれば答えるほど、無理されているような気がしてならないのだ。

「無理なんてしてないよ」

 私の目を見ながら誠実な口調で憲太郎は言う。

「だって、憲太郎は子供が好きなんでしょ。それなのに私のせいで我慢してるんじゃないの?そんなの嫌なのよ」

「どうしたの、鈴子?」

 憲太郎はなおも驚いた顔で言う。

「なんで泣いてるわけ?」

 憲太郎は私の両肩に手を置き、腰をかがめて顔をのぞきこんだ。私の目からは涙が溢れていた。泣くつもりなんてなかったのに、意思に反して次から次へと涙がこぼれおちていた。

「あのね、鈴子。俺は子供が欲しくて鈴子と結婚したわけじゃないんだよ。鈴子と一緒にいたいから結婚したんだよ。我慢なんてしてるわけないだろ」

 子供に言い聞かせるように、ゆっくりと憲太郎は優しい声をだした。頷きながら、私は手の甲で涙をふく。

「ごめんね。ちょっと不安になっただけなの」

 そう言って、肩に置かれた憲太郎の手をゆっくりと外した。もう大丈夫、と。

「なんだか私って、世の中の歯車とかみ合ってないのかもね。だって世の中、結婚したら女性は子供を生みたいって思うのが当然みたいな空気でしょ」

 鼻をすすりながら私は言った。

「そんなことないよ」

 憲太郎は困った顔をして言いなだめる。炊飯器がピーピーと音をならし、炊き上がりを知らせている。

「違う。そんなことあるのよ。だから肩身が狭いのよ。子供をつくらないことって、そんなに悪いことなの?あのときの私を見るお義母さんの目、犯罪者を見るような目だった」

「おおげさだよ」

 あきれたように憲太郎は言うけれど、あのときの目は確実に鋭く私を突き刺した。

「でもお義母さんの立場になって考えれば仕方ないのかもしれないよね。お義母さんはべつに間違ったことを言ってないもの。孫が欲しいっていう、純粋な願いだもの。私はただのわがままなんでしょ、きっと」

 すねたみたいな声がでた。涙がまた溢れてくる。これではまるで情緒不安定だ。

「誰もわがままなんて言ってないよ。俺たち夫婦で決めたことだろ。誰が悪いとかっていう話じゃないよ」

 とりあえず座ろう。憲太郎はしゃくりあげる私の背中をさすりながらソファまで連れていき座らせ、自分もその隣に座った。テレビのスピーカーから耳障りな歓声が響いてくる。憲太郎はリモコンをとって、音量を少しだけ下げる。

「でも、ときどき思うのよ。もうちょっと、結婚を待てば良かったのかもって。妊娠するのが難しいくらいの年齢だったら、誰も期待しないし、責めたりもしないでしょ」

 ほとんど愚痴のように私は呟いた。

「何言ってるの。俺はそんなに待ちたくないよ」

 ティッシュペーパーを一枚取り出し、憲太郎は私の顔に押し当てる。私は受け取ったそれでブンと音をたてて鼻をかむ。鼻をかめばかむほど、なぜだかどんどん虚しい気分になっていく。

「なんだか最悪ね」

 私は言う。

「せっかく楽しい一日だったのに」

 言って、また泣いた。こうなると自分でも止まらなくなる。自己嫌悪に陥りながらも、どうにもコントロールがきかないのだ。

「俺は楽しい一日のままだよ」

 背中をさすりながら憲太郎は言った。なんて辛抱強い夫なのだろう。私はそのことに感謝しなくてはいけない。

 その後も私の涙はとまらず、一方的に胸の内を吐き出しては泣き、吐き出しては泣き、を繰り返し、憲太郎は適度に相槌を打ちながらもずっと隣にいてくれた。夕飯作らなくちゃ、と頭のすみで気にしながらも溢れる涙が腰を重くして、私はその場から動けず、延々と泣き続けてしまった。大きなハンバーグと小さなハンバーグが二つ、フライパンの上で冷たくなって次の工程を待っているのもすっかり忘れて。

9.

 その年の梅雨は、例年にくらべて雨がいちだんと多かった。

 咲希の葬式の日もまた、雨が降っていた。しとしとと音もなく、白い空から落ちる細やかな雨粒が景色をベールのようにおおっていた。

 咲希の葬式は近所にある小さな寺で執り行われた。緑豊かな風情ある寺で、境内のところどころで紫陽花の青紫色の花が生き生きと咲いていた。葬式にでること自体は私にとって初めての経験ではなかったけれど、同じ年齢の、しかも大切な友人の葬式というのは初めてのことだったので、それはとても非現実的な出来事のように思えた。

 弔問客はまばらだった。黒い服を身にまとった人たちは皆一様に沈痛な面持ちでいた。お経の旋律とお線香の匂い。彼岸と此岸の境目がそこにはあった。

 母と一緒に焼香の順番を待っているあいだ、私はずっと足のすくむ心地がしていた。母の手には白いハンカチと水晶の数珠が握られていた。

 咲希。

 私は胸のうちで名前を呼んだ。立派な花々に囲まれた遺影のなかの咲希は、自分で死を選択したことが嘘のように思えるほど、満面の笑みでこちらを見ていた。やつれた顔をした咲希の母親は私に気づくとお辞儀をし、溢れる涙を拭っていた。抹香を香炉へ運ぶ手がおのずと震える。すぐそこの棺桶のなかに横たわっているのが咲希だなんて、どうにもこうにも信じがたいことだった。

 焼香をすませて外に出て待機していると、私に気づいた香奈が駆け寄ってきた。そして私たちは自然と互いを励ますように抱き合った。香奈は肩を震わせ、涙を流していた。

「どうしてだろう」

 近くで私の母と香奈の母がなす術なく、切なそうに私たちの姿を見守っていた。私の手に落ちた香奈の涙は痕が残りそうなくらいに熱かった。しとしとと雨の降るなか、私たちは傘もささずにそこにいた。他にも咲希の高校のクラスメイトとおぼしき女子高生が数人、制服姿で声をあげて泣いていて、彼女らは悲しみを分け合うように幾人かは抱き合い、幾人かは手を握りあっていた。

 私はでも、どうしても、涙が出てこなかった。悲しいし、辛いし、目も鼻も痛いのに、涙がどうにも出てこなかった。悲しみの輪に混じれない孤独に一人ほうけているなか、ふと横を見ると、喪服を着たすらりとした体格の青年がひとり、咲希のいる方を向いて、ぼうっと突っ立っている姿が視界に入った。彼もまた、涙を流してはいなかった。沈痛な面持ちというよりも、宙を眺めているような、ただ唖然としているような様子で、白檀の数珠を片手に握りしめて立っていた。彼の悲しくて透明な瞳がやけに私の目に焼き付いた。もしかしたら彼は、咲希の恋人なのだろうか。それとも、咲希に恋している人なのだろうか。ふいに私はそんなことを思いめぐらせてしまったが、当然それを問うことはできず、今でもそれは憶測の域を超えてはいない。

「棺にお花を入れてあげてください」

 葬儀社の人がアナウンスし、庭にいた弔問客は別れ花を入れるため再びなかに入っていった。香奈もお花を入れようと私の手を引いた。私はでも、それを拒否した。香奈に何度手を引かれても、私はかたくなに拒否し続けた。

「…行けない」

 依然涙のでない瞳で私は言った。香奈は憤った。しかし、どうしても無理だったのだ。怖くて、足が動こうとしなかった。開いた棺桶のなかに眠る咲希に会うことが、怖くて怖くて、仕方なかったのだ。香奈はそんな私を強く非難し、一人で花を入れに行ってしまった。そしてそのまま香奈が私の元に戻ってくることはなかった。

 庭には私の知らない大人が数人と、母と私、そしてぼうっと突っ立っていた青年だけが残った。どうしてみんな泣けるのだろう。どうしてあんなにごうごうと涙を流すことができるのだろう。私には不思議だった。咲希の高校のクラスメイトのことを私はよく知らないけれど、彼女らの泣き方はまるでドラマの一場面のような偽りに私の目には映ったし、香奈があんなに涙をこぼし、ためらいなく棺に花を入れに行けることが、そのときの私には理解できなかった。無論、香奈もきっと、涙を流さない、棺に花を入れにも行かない私のことを理解することはできなかっただろう。

 出棺の時間、霊柩車のクラクションが天につきさすように鳴り響いた。青年は青白い顔のまま、ただ雨に打たれて立っていた。私にはそのとき―彼のことは何も知らないのに―、その青年の気持ちだけが、痛いくらいに分かるような気がした。


10.

 小さな噴水の吹きでる人工池の水は透明な水色で、差し込む光が水面にレース模様をつくり、ゆらゆらと柔らかく揺れている。昼食に入ったカフェで私はランチセットの豆腐定食を食べながら、大きな窓越しに見えるその景色を一人、眺めていた。

 今朝、憲太郎に昨夜の件を謝った。罪滅ぼしのつもりで、憲太郎の靴も念入りに磨いておいた。

「もういいよ。気にするなって」

 玄関で背中を丸め、つややかになった靴を履きながら憲太郎は言った。

 義父から電話のあった晩、涙のとまらなくなってしまった私は結局、夕食を作ることを途中放棄して、そのまま何もせずに寝てしまった。残された憲太郎は仕方なくフライパンの上で待機していたハンバーグをラップで包んで冷凍し、かわりにカップラーメンを一人で作って食べたようだった。夜中に目を覚まして風呂に入り、台所に立ち寄ったときにそれに気がついた私はさすがに憲太郎に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。それで朝からずっと謝っているのだが、憲太郎はいたっていつもと変わらぬ穏やかな様子で、

「ほら、そんな顔してないで、気晴らしにどこかに遊びに出かけてきたら。天気も良さそうだし」

 と、目を腫らせた妻に向かってそんな優しい言葉までかけてくれる余裕さえうかがわせ、広い心を見せつけてくれた。

 なんて良い夫なのだろう。のろけではなく、心からの尊敬の気持ちを持ってそう思う。私にはもったいないくらいに出来た人だと。

 今まで私は憲太郎を含め、三人の男性と付き合った。一人目は高校生の頃、同じクラスの男子だった。互いにうぶで真面目な付き合いだったが、卒業と同時に自然消滅してしまった。二人目は大学生の頃、アルバイト先で知り合った二歳年上の美大生だった。彼とは四年間付き合い、結婚も意識して、プロポーズもされたのだが、最終的にプロポーズされた私の方が振られてしまった。自由奔放を気取っているわりに現実主義な彼は、子供はいらない、という私の考えにひどく憤った。

「だったら、もっと早く言ってくれよ。俺はいつかは父親になりたいんだよ。それにしっかり家庭を持ちたいんだ。それって普通じゃん。なんですずちゃんにはそういう考えがないわけ?すずちゃんって、のんびりしてるし、優しいし、家庭的な雰囲気があって、俺、そういうところに惹かれたんだよ。この人となら幸せな家庭を築けそうだなって。なのになに?俺には理解できないよ」

 夜景の見える高級なレストランで彼は怒りにみちた口調でそう言った。

「それ知ってたら、プロポーズなんてしてないよ。つうか、付き合ってないよ。時間返してくれよ」

 とまで言われた。返す言葉が見つからなかった。私も傷ついたが、彼の傷つきようの方がすごかった。夏美には、そんな男やめて大正解だよ。子供いらないからってそんな嫌な言い方する男なんて器が小さいよ、と励まされたが、事実、私は子供を生めない事情があるわけではなく単に生むつもりがないわけだし、そのことに彼のような人が納得いかなったのも仕様がないのかもしれなかった。ただ、結婚まで考えた相手との突然の破局、しかもそれが子供はいらないという私の考えによるものだという現実は、それなりの精神的なショックを私に与えた。だから憲太郎と出会ったときも初めのうちは警戒心が拭いきれないところがあった。もしかしたらこの人も、私の考えを知ったら去っていくかもしれない、と。でも、憲太郎は違っていた。子供をいらない私のことを、ちゃんと受け入れてくれた。二人で生きていくのもいいかもね、と賛同さえしてくれた。もちろん、考えることはあっただろう。父親にならなくてもいい、ということを簡単に決意したわけではないと思う。

 私はこんなに理解のある夫に恵まれて幸せだ―、なんてことをしみじみ噛みしめながら、ほうじ茶をすする。それなのに、と思う。それなのに、ときどき言い様のない不安にかられるのはなぜなのだろう。私と憲太郎はこのままでもいいのだろうか。子供を持たないという選択は果たして正しいのだろうか。結婚して時間が経つにつれ、矛盾する気持ちがちらりと顔をみせることがたまにある。先が見えなくて、迷子になりそうな心地になるのだ。

 カフェをあとにして、本屋に向かった。強い日差しが照っている。今年の梅雨は雨がほとんど降らない。白いタイルの敷き詰められた道に、自分の濃くて短い影が落ちる。低い太陽に焦らされて、首筋にじわりと汗がにじむ。真黒い虫の死骸がゴミ屑みたいに乾いて、地面に転がり落ちていた。

 結婚して仕事を辞めて、子供もいなくて自由で、平日の昼間に街に出て買い物をして、外食をしている。結婚前に思い描いていた優雅で、理想的な暮らしを実現していると思う。仕事をしていなくて子供もいないなら、何をして過ごしているの?暇じゃないの?と訊かれることは多いが、別段何をしているというわけでなくても、時間は案外すぐに過ぎていく。義母のことを除けば、何かに怯えることもなく、何かに気を遣うこともなく、私がいま身をおいているのは、もっとも安全で平和な場所だと思う。

 ぬるい風が吹き、スカートをひるがえす。閉まっている店のショーウィンドウのガラスに映る自分と目が合う。化粧をし、小綺麗な格好をし、流行りのバッグを片手に持っている自分がいる。気ままな主婦のように人からは見られるのだろうか。本屋に向かう道のうえでいろいろな人とすれ違う。リクルートスーツを着た女性。犬を連れて歩く老人。このあたりで働いているように見受けられる人たち。学校をさぼっているのか高校生のカップルもいる。すれ違う人は多いが、当然のことながら誰も私のことを知らないし、私も彼らのことを知りもしない。それは当たり前のことなのに、私に奇妙なまでに失速感を覚えさせる。誰かとつながることのない小さな世界に身を置いていることをまざまざと思い知らせるのだ。そして、それを選んだのも自分自身なのだ、と。

 白い蝶々がひらひらと舞っている。白昼夢のように一瞬、景色がぼんやりして見えて、私は慌てて意識を奮い起こす。そして密かに笑った。これ以上、何を望んでいるのだろう。


11.

 ダイニングテーブルの上にかりんとうの袋が三つ置かれてあった。

「また留守中に来たのね」

 私はひとり呟く。横に添えられてあるメモには母の筆跡で、帰ったら電話ちょうだいね、とある。来るときはあらかじめ連絡ちょうだいよ、とこれまで何度言っているにも関わらず母は勝手にやってきては無断で家にあがりこんでしまう。憲太郎が嫌な顔をしないので最近では黙認しているが、やはり留守中に家に勝手にあがるのは親子とはいえ、多少の遠慮が欲しく思う。母は行きつけの菓子問屋で買ってきたかりんとう―いつしか憲太郎がおいしいと言っていたそれ―をわざわざ届けにきてくれたようだった。

「黒糖と、唐辛子と、はちみつ味が憲太郎さんの好みでしょ。足りなかったらまだ沢山うちにあるから言いなさいね。持って行ってあげるから」

 呑気な声で、電話越しに母は言う。

「ありがとう。でも十分よ。あれ以上食べたら、憲太郎がデブになっちゃいそうだから」

「あら、そう?」

 残念そうに母は言う。

「で、用件はなに?」

 ああ、そうそう、と母は思い出したように言い、まだ先だけど、と前置きをしてから、三年前に亡くなった祖父の法事の日程やその後行う予定の食事会について相談をしてきた。まわりから雰囲気が姉らしくない、とよく言われるが私だが、これでも二人姉妹の長女なので、家の行事に関する話はたいがい最初に持ちかけられる。

「じゃあ、今回はそっちの日本料理屋にするわ。そうよね、この前の店はあまりおいしくなかったものね。特に揚げ物がね」

 親戚の話や妹の話で脱線しながらも、母の話は一応終了した。すぐそばにいるのだろう父の咳払いが聞こえてくる。

「じゃあ、憲太郎さんによろしく伝えておいてね。かりんとう食べ過ぎてデブになっちゃだめよって。私が怒られちゃうから」

 うふふ、と母は笑った。そして、またね、と一方的に電話を切ろうとしたので慌てて私は、お母さん、と呼びとめた。

「ごめん、いきなりだけど、一つ訊いてもいい?」

 私は言った。

「お母さんは、孫、欲しい?」

 受話器の向こうで母がきょとんとしているのが分かった。すぐに返事はなく、しばしの沈黙のあと、

「どうしたの?いまさら」

 と驚いた様子の声が返ってきた。

「ううん。なんでもないけど、ちょっと確認したくなったの」

 私自身も何を突然口走っているのだろうかと、しどろもどろになった。

「そりゃ、鈴子の子供が見たいと言えば見たいわよ。でも、子供を持たないって夫婦で決めたのなら、私はべつに孫の顔が見られなくても構わないと思っているわよ。自分の人生なんだから、自分が決めたいようにするのがいいと思うから。ただし、親としては後悔だけはして欲しくないけどね」

 母は答えた。

「…そうよね。ごめんね、突然、変なこと訊いちゃって」

 結婚前にも母にはこのことについて幾度か相談していた。なんで鈴子は子供が欲しくないのかしらね、と初めのうちは母も不思議がっていたが、最終的には結婚しても子供を持たないという考えに理解してくれたのだった。そしてそのときも、後悔だけはしないように、と釘をさされたのだった。

「何かあったの?」

 母は察したように声音を変えた。

「べつに。何もないわよ」

 私は平素を装って言ったつもりだったが、母にはお見通しのようだった。

「あちらの家の人に何か言われたの?」

 するどく母は尋ねる。

「べつに大丈夫よ。本当になんでもないの。ごめんね、心配させちゃって」

 母が小さく溜息をついたのが聞こえた。

「鈴子。あまり自分を責めるんじゃないわよ。べつに悪いことをしてるわけじゃないんだから。ね」

 しっかりとした口調で母は言う。うん、と私は受話器を握りしめて、うつむいたまま返事をする。

「あちらのお母さんが孫を欲しいと思うのは当然のことだと思うから、そこを責めるわけにもいかないけど。まあ、私には莉子ちゃんがいるから、こういうふうに言えるのかもしれないから」

 莉子ちゃんは妹の一人娘で、今年の冬で三歳になる。妹は結婚をして、すぐに子供ができた。たまに会うと、お姉ちゃんが子供生まない選択肢を選べるのは私のおかげよ、なんて恩着せがましい冗談を言われてしまう。

「なんだか難しいよね」

 ぽつりと言った。言ったが、すぐにそれを否定した。

「ううん、普通なら難しくないのかもしれない。何も考えずに子供を生むことが当然でいられたなら、悩むことなんてないのかも。ただ、私はどうしても子供を欲しいと思えないから難しくなっちゃうだけなのよね。普通の幸せな家庭で育ったのに、私ってどこか欠けてるのかな?」

 半ば自嘲気味だった。

「鈴子はどこも欠けていないわよ。あちらのお母さんには申し訳なくても、生むのも育てるのも鈴子なんだから、そこは自分の意志を大事にした方がいいと思うわよ。それに私は鈴子のためだけにそう言ってるわけではないの。子供のことも思って言ってるのよ。そんな曖昧な気持ちのまま、まわりの意見に流されて生もうなんてしたら、生まれてくる命に対しても失礼でしょう」

 母はぴしゃりと言った。

「分かってる」

 小さな声で私は言った。分かってるよ、そんなこと。

「あまり悩んでいないで、堂々としてれば大丈夫よ。今度、憲太郎さんと二人でまたご飯でも食べにいらっしゃい。近いんだから」

 明るい声で母は言い、私はありがとうとだけ言って電話を切った。

 子供を生むということ、母になるということ、家族をつくること。結婚すれば自然とその流れにみんな乗っていくものなのだろうか。それに乗ることを躊躇したり、説明なく辞退したりしたら、それはおかしなことなのだろうか。いっそ母が言うように、堂々としていれば、案外物事はどうってことなく過ぎていくのかもしれない。

 テーブルのうえに駅前の旅行代理店からもらってきたパンフレットを広げ、眺めてみる。気分が辛くなると、旅行パンフレットを眺めるのは私の謎の癖だ。どこか遠くに行きたい。パンフレットを一つ一つ開いては眺め、どこか遠い異国の地にいる自分を想像する。きっと煩わしさや悩みなんてすっ飛んで、気分は開放的になっていることだろう。西日の差しこむ部屋の片隅で、顔半分を橙色の光に染められながら、紙の上で私は何度も旅行をしては現実を逃避する。ふと、手にしたモロッコ旅行のパンフレットの左上に印字された会社の名前が目にとまる。それは香奈の勤める旅行会社の名前だった。香奈はきっと今頃、いろんな人たちに囲まれて、仕事をきびきびこなしているのだろう。私のように小さな世界にとどまって、くよくよ悩んでいることなんてないにちがいない。もしかしたら今もまた、どこか海外に行っている可能性だってある。香奈は子供の頃から行動的だった。のんびり鈴子ちゃんとは大違いだ。テーブルに広げたパンレットにある国すべてから、香奈から葉書きが届いていることに気づいて、私は小さく笑う。そのうち香奈は世界一周を果たしてしまうかもしれない。

 思い立って、キャビネットの一番上の段にある藤カゴを取りだしてきて、逆さにする。パンフレットのうえに葉書きがばさっと広がる。香奈からの葉書きだ。世界中のいろいろな景色の写真、異国の切手、見慣れた香奈の文字。気づけば夢中になって、これまで香奈から送られてきた葉書きすべてを読み返していた。こうして見てみると、ずいぶんと香奈は一人旅もしていることに気がつき改めて感心する。そして、香奈の文面はどれもその国での発見や感想だけにとどまっていて、締めくくりとして「今度会おうね」といった類いの社交辞令的な文句は決して記されていないことにも気づく。

 どこか躊躇してしまう。

 香奈との関係は、咲希の死をきっかけに少しずつ、ずれてきてしまったように思う。大人になれば当然、子供の頃のようにはいかないものなのかもしれないが、どこがよそよそしいような空気が、どこか慎重になってしまうような空気が、私と香奈のあいだにはある。メールもときどき、葉書きが届いたときなどにするが、それも近況報告を兼ねたお礼くらいで、それ以上のやりとりはしないのがもはや暗黙の了解になってしまった。香奈との関係は、すぐにでも切れてしまいそうに脆く、細い糸でつながっているのかもしれない。

 日が完全に落ちて、街の明かりが陽炎のように夜の闇に滲んで揺れる。私は席を立ち、窓のカーテンを勢いよく閉めた。


12.

「それって恋じゃないの?」

 うふふと笑いながら、毛布にぐるぐるとくるまって咲希が言う。

「早く彼女いないのか確認してみた方がいいよ」

 あぐらをかいた姿勢で枕を両腕に抱え、香奈も言う。

「ちがうよ。ただの憧れで、恋じゃないよ。それに先輩はみんなに人気あるんだから」

 ぺちゃんこ座りをした私は膨れ面で二人を見る。頼りないランプの明かりだけを残し、布団のうえで円陣をくんで、私たちは声をひそめておしゃべりをする。順々にそれぞれの話をし、耳を傾け、ときどき大きな声をあげて笑い、慌ててみんなで黙りこくり、そして目を見合わせて声には出さずに肩だけ揺らす。

 中学生の頃、私たちはときどきお泊り会をした。決まってそれは我が家で行われ、金曜の夜に集合し、私の母の手料理をみんなで食べ、順番にお風呂に入り、そのあと私の部屋で深夜遅くまで、あるいは夜通しでお喋りをした。

「山口がさ、授業中にヒステリー起こすから嫌なんだよね。来年はマジで担任から外れてほしいよ」

 と香奈が言えば、

「あー、山口ね。相変わらず化粧濃いの?」

 と咲希が言い、

「そういえば山口にとられた漫画って返してもらえたの?」

 と私が訊く。

「谷本さんが来月からイギリスに行っちゃうの。お父さんが転勤なんだって」

 と咲希が言えば、

「谷本さんって、前はアメリカに住んでた人でしょ。すごいよね。海外暮らしなんて慣れっこなんじゃないの」

 と香奈が言い、

「でも谷本さんって咲希の隣の席でしょ。いなくなっちゃうのは淋しいよね。谷本さんって優しい子なんだもんね。咲希、元気だして」

 と私が慰める。

 私も香奈も咲希も、それぞれ違う中学校に通っているのに、同じ学校にいるのと変わらないくらいにそれぞれの学校の内情や人間関係に詳しかった。中学生になって、それぞれが別の環境に身を置くようになって、そのことがよりいっそう私たちの距離を縮めてくれたように思う。知らないからこそ、なんでも言えたし、嫌な出来事も冗談にして笑い飛ばせた。

「この前クラスの子が言ってたけど、彼氏ができると、みんなそっちの方が大事になっちゃって、友達なんてどうでもよくなってきちゃうらしいよ」

 冗談めかして香奈が言うと、

「そうだよ、みんな友情より恋をとるんだよ」

 と咲希も一緒になって笑いながら茶化す。

「だから私はべつに恋なんてしてないって」

 私はむくりと上半身を起こし、寝そべっている彼女らを見おろして笑う。

 うそうそ、分かった分かった。ねえねえ、私たち、大人になっても、こうして三人で会いたいよね。大丈夫だよ、私たちならちゃんと友情続いていくよ。それぞれが恋するときがきたって、同時進行で友情も続いていくよ。だってほら、小学生のときから知ってるんだよ。あんなに小さな頃からだよ。それってすごくない?うちらってすごいよね。本当、考えてみたら、それって奇跡じゃん。

 三人そろってけらけらと笑い声をあげた。友情という言葉を好んで使った。友情という言葉があたかも自分たちに何か強い力を与えてくれるように感じていた。友情という言葉でつながっていれば、そのつながりは強固でずっと、揺るがないものだと信じていた。

 咲希が自ら命を絶ったそのとき、私たち三人のなかの何かが弾けて飛んだ。信じていた友情という言葉のうすっぺらさに恐怖を感じた。何も分からないまま、何も気づかないまま、咲希は逝ってしまった。それはひどい裏切りであり、自分の無力さを思い知らせる出来事でもあった。そして咲希を救うことのできなかった罪悪の根は音もたてずにひっそりと、私の心の隅に植えついた。

 ときどき、不思議に思うことがある。咲希の時間は十六歳で止まっているということだ。心のなかで咲希と向き合うとき、私は年を重ね、大人になっているのに、咲希は制服を着たままの、あの咲希なのだ。咲希は十六歳なのに、私は十六歳の気持ちにはどうしても戻れない。どうしたって私は今の、この私のままなのだ。妙に悲しくなる。なんで悲しいのかも分からない。ただ、悲しいのだ。

「私たちって将来、どんな大人になってるんだろうね」

 無邪気な笑顔で咲希が言い、

「そりゃ、素敵な大人になってるでしょ。夢かなえて、きらきらしてさ。もちろんお肌はきれいで、見た目はずっと若い感じでいるの」

 私は強気に言って、

「だったら今からお肌のケアのこと考えなくちゃいけないよね。良いお化粧品使ったり、大人になったらエステ行ったり。あ、でも恋が一番大事なのかな。あー、恋したいよー」

 香奈が言って足をじたばたさせて、三人で明朗な笑い声をあげ、でもすぐにまわりの静寂に気がついて慌てて声を落とし、また小さく笑う。ランプの温かな明かりがほんのりと私たちを包み、光に満ちた夜は果てしなく続いていくような―、気がしていた。


13.

 ガリガリと音をたてて、憲太郎がこんがり焼かれた食パンにバターを塗りつけている。向かいに座った私はオレンジジュースを一口飲み、ロールパンをちぎって口にほおりこんでもくもくと食べる。ガリガリガリガリ。目の前で憲太郎がまだ、バターをつけている。朝の柔らかな日差しが窓から降り注ぎ、空中を漂うほこりがきらきらしてみえる。

「あ、そうだ」

「ん?」

 手をとめて、憲太郎は私を見る。

「ジャムいる?昨日、マーマレード買ったの忘れてた」

「あ、うん。じゃあ、ちょうだい」

 席を立ち、冷蔵庫からマーマレードの瓶を取りだし、憲太郎に渡す。

「昨日ね。駅前に軽井沢のお店がきてたの。でね、試食したらおいしくて。手作りで保存料とかは一切入ってないんだって。安心でいいでしょ」

 私が言うと、

「ああ」と憲太郎は気のない返事をする。そして無言でバターの塗られたパンにマーマレードのジャムをちょこっとつける。私は目玉焼きを食べながら、憲太郎の顔をちらりと見やるが憲太郎はこちらに目を合わせることなく、もくもくと食べている。

「昨日のこと、気にしてるの?」

 たまりかねて訊いた。

「べつに。気にしてなんかいないよ」

 憲太郎は食べることはやめずにぼそっと答える。

「昨日は調子が悪かっただけなのよ。そういう日もあるでしょ」

 言うと憲太郎は顔をあげ、

「だから気にしてないから大丈夫だよ。そんなほじくり返さないでくれよ」

 弱々しく、でも抗議するような声をだす。

「ごめん」

「謝らないでいいって」

 憲太郎は苦笑して言い、マーマレードののったパンにかじりついた。

 昨晩のこと。私は憲太郎に抱かれることを拒否した。それは断固とした拒否だった。憲太郎は思わぬ私の反応に驚いた。決して憲太郎が嫌いになったわけでもないし、実際、体調が悪かったわけでもない。けれど、どうしてもそういう気持ちになれなかった。子供をいらない私にとって、その行為は何かよろしくないことのように思えてならなかった。おかしい、と自分でも思う。なのに自然と体が拒否してしまった。憲太郎もいつもとは違う、永遠に拒むかのような私の強固とした態度にうろたえていた。私は憲太郎を傷つけてしまった。

「このマーマレードおいしいよ」

 憲太郎は普通の顔をつくって言う。

「でしょ。ヨーグルトに入れてもおいしいよ」

 私もそれに合わせるように、いつものトーンで言う。

 ばつの悪いまま、憲太郎はそれからおずおずと一人ベッドに入った。私も自分のベッドにもぐりこみ、憲太郎に背を向ける恰好で横たわった。好きなのに、重なり合わさることに罪悪感を抱くなんて、と思ったら、つうっと涙が落ちた。本当にされたら絶対嫌なくせに、憲太郎が浮気の一つでもしてくれたら気が楽になるのに、と思った。泣いていることを知られたくなくて息を殺したら、喉の奥がぎゅっと縮んで痛かった。

「あのさ」

 珈琲を一口すすり、おもむろに憲太郎は言う。

「鈴子、また働いてみたらどうかな?」

「え?」

「パートとか、派遣とか、ちょっと軽く働いてみたらどうかなって思って」

 穏やかな声で憲太郎は言う。

「昨日こと、怒ってるの?」

 顔色を変えて私は言った。まさか憲太郎からそんな提案をされるとは思ってもみないことだった。

「やめてくれよ。怒ってるわけないだろ。それとこれとは別の話。最近の鈴子、浮かない顔でいることが多いから、ちょっと新しいこと始めて外の世界をのぞいてみるのも悪くないんじゃないかって思ったんだよ。家にばかりいても、余計なこと考えて息が詰まるんじゃないかって思ったから」

 食事を中断して、落ち着いた調子で憲太郎は話す。

「余計なことって?」

 思わずけんか腰な声がでた。

「だから、まあ、子供のこととかいろいろだよ」

 憲太郎は口ごもりながら言い、頭をかいた。私は何も返事ができずに黙りこくった。それは図星なことだった。

「べつに無理に働けって言ってるわけじゃないよ。単なる提案だよ。鈴子が働きたくないって思うなら、働かなくても俺は全然構わないからさ」

 憲太郎は言って、珈琲を一気に飲み干し、席を立って台所のシンクまで自分の食器を運びにいった。ごちそうさま。必ずその言葉は忘れずに。

 もう一度働いてみる。

 そんなことは考えたこともなかった。結婚して会社を辞めたとき、もう会社という組織では働きたくないと思った。どうしても生じる人間関係の煩わしさに二度と悩まされたくないと思った。それに会社にいれば嫌でも訊かれるのだ。子供はいるの?子供はつくらないの?と。組織にはいろいろな人がいるのだ。気を遣う人だけではなく、あけすけに何でも訊いてくる人もいるし、それが会話のただの糸口にすぎない質問だとしても、私には重い。風船がはちきれそうな状態のときには、軽い気持ちで訊かれる質問であっても、それは十分な針になるのだ。

「この前買ったネクタイ、どこにしまったんだっけー?」

 寝室から憲太郎が大きな声で訊いてくる。

「クローゼットの右側にかけてあるでしょー」

「えー、どこ?見つからないよー」

「いつものところにあるでしょー」

「ないよー。紺の水玉のやつだよ。やばい、遅れる」

 憲太郎が焦った声で言うのが聞こえる。

「あ」

 そういえば、昨日クローゼットの収納を整理したのを忘れていた。

「ごめん。違う場所に入れ替えしたんだったー。今、行くー」

 慌ててパンを飲み込み、席を立って私は小走りで憲太郎のもとへ向かう。さっきまでの会話なんてなかったことのように、私たちはいつもの私たちに戻ることができる。大きく開いた窓から入る早朝の清潔な空気が、部屋のなかをゆるりと横断していく。

 たぶん、このままでいても、時間は素知らぬ顔をしてどんどん流れていくのだろう。私が浮かない顔をしていても、憲太郎がそんな私の顔色を窺っていても、それでも時間はどんどん流れていくのだろう。私たちはいつもの私たち夫婦のかたちにすっぽり収まることで、きっと安堵する。

「じゃ、行ってきまーす。今日、多分帰り遅くなるけど、夕飯はうちで食べるから」

 憲太郎はいつもの調子で明るく言い、元気に家を出ていった。

 でも本当は、このままではいけないのだろうと思う。私がこのままでいたら、憲太郎も私自身もそのうち苦しくなる。

 玄関の扉の鍵を閉め、ダイニングに戻り、朝食の後片付けをしながら私は考える。だったら、どうしたらいいのだろう。また働いてみたらいいのか、それとも子供を生めばいいのか。珈琲とパンの香りの入り混じる食卓を眺め、

「分からないよ」

 私はひとり、呟いた。


14.

 駅のホームで咲希の母親を、一度だけ、見かけたことがある。

 咲希が亡くなって数年経ち、私が大学生のときだった。春のあたたかな日で、柔らかな風が吹くたびにホームのそばにある桜の木から雪のように花びらが舞っていた。淡い水色の空を背景に、咲希の母親はどこを見るでもなく、ただぼんやりと電車が来るのを待っていた。

 私は向かいのホームに立っていた。午後の授業に向かうところだった。咲希の母親の姿に、でも、私はすぐに気がつけなかった。咲希の母親は咲希によく似た美人で、厳しい雰囲気もあるけれど快活な印象の持ち主で、近所のスーパーに行くときでも化粧をして素敵な洋服を着ていくような人だったのに、そこで私が見かけた姿にはかつての面影はなく、化粧気のない、やせ細った、まるで生気が抜けてしまったかのような咲希の母親の姿だった。

 逃げなくちゃ。

 とっさに私は逃げなくちゃいけない、という衝動にかられた。私の姿を、元気に生きている幼なじみの姿を、咲希の母親に見せてはいけない。でも、動けなかった。気持ちとは裏腹に、私の視線は咲希の母親に釘付けになった。咲希の母親は私の視線にまったく気づく気配なく、ときどき空を仰いでみたり、目を細めてくるくる舞う桜の花びらを眺めてみたり、ただ下を向いてみたり、をしていた。消えそう。私は思った。今にも咲希の母親は靄のように散って、消えてしまいそうだった。

 風がふんわり吹いて、咲希の母親のスカートがゆっくりとめくれあがり、細い脚が二本あらわになっても、咲希の母親はスカートを押さえることなく、ただぼんやりと宙を見ているだけだった。

 私はドキドキしていた。それに、怯えてもいた。なんで人は簡単にいなくなってしまうのだろうかと思った。咲希が亡くなったことで世界が変わるなんてことはないし、咲希の死にまつわる噂話もすっかりなくなり、それらを噂していた人たちは咲希の存在があったことすら忘れてしまっているし、時は否応なく流れていき私たちは自分たちの生活を営んでいくけれど、でも、確実に消えない痕跡を残された人がいる。

『一番線に電車がまいります。危険ですので白線の内側にお下がりください』

 アナウンスが流れた。のどかな春の日だった。黄色い電車が轟音とともにすべりこんできて、咲希の母親の姿は車体に隠れて見えなくなった。私はほっとした。発車のベルが鳴り、電車がゆっくり動きだし、向かいのホームが視界に戻ってきたとき、咲希の母親の姿はもうなかった。かわりに鳩が一羽、呑気に何かをついばみながら、そこを歩いていた。


15.

 花音ちゃんは桃色のポンポンを両手に持って、はにかみながら飛び跳ねたり、まわったりして、さきほどからダンスを披露している。黄色いワンピースから伸びる細くて華奢な手足がリズミカルに動くさまを見て、私も夏美も微笑みながら手拍子をとる。

「すてきよー、花音ちゃん」

 私が言い、

「その調子よー。かっこいいぞ、花音」

 夏美も合いの手を入れる。

 桃色のポンポンが揺れるたびに、シャッシャッというセロファンの擦れる音がする。

「あー、だめ。だめだめだめっ」

 花音ちゃんは急に動きをとめて夏美に駆け寄ると、

「花音ちゃん、もうこれ以上できないから、これで終わりっ」

 そう宣言し、両手に持ったポンポンを巾着袋にしまってしまった。

「えー、あともうちょっとあるじゃない。鈴子にも見せてあげたらいいのに」 

 夏美が花音ちゃんの頭をなでると、

「だめなの。花音ちゃんはここまでしかできません!」

 と、花音ちゃんはきっぱり言って、テーブルのうえのオレンジジュースをストライプ柄のストローで勢いよく飲みこんだ。夏美はやれやれといった顔をみせ、

「このあとね、うしろを向いてお尻をフリフリする動きがあるんだけど、どうやらそれが恥ずかしいみたいなの」

 と、こっそり耳打ちをしてくれた。

 今日、夏美と駅前に開店したばかりのイタリア料理のレストランでランチをしてきた。こじんまりした店内の壁には大きなイタリア国旗が飾られていて、カンツオーネがBGMとして流れていて、店は盛況といった具合だった。ランチセットは千五百円だったが、夏美がクーポン券を持っていたので千円でいただけた。肝心のお味の方は、まあまあ、というところだった。夏美はペペロンチーノを頼んで、私は夏野菜のピザを頼んだが、夏美は「ま、普通だね」と感想を述べ、私は「これはピッツアじゃないね」と感想を述べた。デザートのアプリコットのタルトはとてもおいしかったので、これに関しては二人して口にしたとたん幸せな顔になった。

 店を出たあと、夏美と一緒に花音ちゃんを幼稚園まで迎えに行った。門のあたりにはすでに保護者たちが集まっていて、彼女らは子供たちを待っていあいだ、そこで井戸端会議を繰り広げているようだった。

「あー、花音ちゃんのママ、こんにちは」

 明らかに自分よりも若そうな保護者に声をかけられ、夏美ももれなくそこに混じるので、残された私は所在なく、すこし離れた場所から幼稚園の建物を眺めて過ごした。

 せんせいー、さようならー、またあしたー

 二階建ての小さな建物の窓から、子供たちの歌声が聴こえてくる。それが終わるとやがてクリーム色のエプロンを着た先生を先頭に、子供たちが玄関口からわらわらと出てきた。

「バスさんコースのみんなはこっちですよー」

「歩きさんコースのみんなはこっちですよー」

 おさげ頭の先生が子供たちを引率していく。帽子をかぶり、真白い丸襟をだした水色の制服姿の子供たちが、ばらばらと乱れながらも列をなして歩いていく。

「あ、きたきた」

 夏美が手を振る先には下駄箱の前に敷かれたスノコの上で一生懸命に靴を履く花音ちゃんの姿があって、花音ちゃんはたどたどしい様子で靴を履き終えるなり、満面の笑みを浮かべて夏美のもとへ走ってきた。

「ただいまー」

「おかえりー」

 勢いよく胸に飛び込んできた花音ちゃんを夏美はぎゅっとする。他の保護者も同様に自分の子供を笑顔で迎え、それぞれ手をつないで幼稚園をあとにする。

「今日は鈴子も一緒だよ」

 夏美が言うと、花音ちゃんはきょとんとした顔で私を見つめ、

「あのね、花音ちゃんはお迎えさんコースなの」

 と、誇らしく胸を張ったのだった。

 普段、冷房を入れるのを好まない私にとっては冷えすぎとも思える部屋のなかでも花音ちゃんは、帰るなり着替えたノースリーブワンピース姿のまま私が土産に持ってきた塗り絵に夢中になって取り組んでいる。

「チアって、幼稚園の子みんながやってるの?」

 夏美がいれてくれた麦茶を手にしながら訊いた。

「ううん、希望制だよ。部活みたいなものかな。でもね、すごい人気があるのよ」

 小皿に切り分けた羊羹をお盆にのせ、台所から戻ってきた夏美が向かいに座る。はい、どうぞ。黒く濡れた羊羹が二切れ、目の前に差し出される。花音ちゃんには帰りにコンビニで買ったカスタードプリンが差し出されるが、花音ちゃんはそれを無視して塗り絵を続ける。

「でもねえ」

 夏美はふうっと溜息をついた。

「チアに入ったら、花音の人見知りな性格も変わるかなあって期待してたんだけど、なかなかね」

 夏美は言って、麦茶を一口飲む。薄いガラスのコップに描かれた水玉模様はちょっといびつな形をしている。

「そんな、チアくらいで人見知りがなおるなら、私もチアに入りたいくらいだよ」

 私が言うと、夏美はおかしそうに笑った。

「そういえば鈴子って、意外に人見知りだもんね」

「そうよ。だから花音ちゃんの気持ちはよく分かるよ。要は慣れが悪いの。それだけのことなのよ」

 フォークで羊羹を切り、口に運ぶ。甘くて濃い味のする羊羹を咀嚼しながら、この慣れの悪い性格もあるから余計に働く気になれないのかもしれない、と思った。

「慣れかあ。確かにそうなのよね。慣れさえすれば、どんどん積極的に動けるのよね。最初の一歩が重いのよ、花音は。やっぱりもっと外に出して、人に接するようにさせないといけないなあ」

 夏美は母親の顔になって、花音ちゃんを見つめる。花音ちゃんは一人でもくもくと塗り絵を続けている。

「一人遊びが得意なのよ」

 困ったように眉を下げ、でも愛情のこもった口調で夏美は言った。

「私も一人遊びが得意かもしれないな」

 冗談めかして言うと、夏美はぷっと吹き出した。

 窓からはカリフラワーのようなかたちの大きな雲がぷかりと浮かんでいるのが見える。

「やっぱり私もまた働いて、外に出たほうがいいのかなあ」

 窓の外を眺めながら、呟くように言った。

「憲太郎さんの提案のこと?」

 夏美はコップを唇につけたまま、上目遣いで訊く。私は頷く。

「子供がいるわけでもないしね。家にばかりいても、よくないのかもしれないし」

「じゃあ、これなんてどう?」

 夏美は体をねじって片手を伸ばし、積み上げられた雑誌の上にのっているチラシを数枚とって、私に手渡した。どれも、パートやアルバイト募集のチラシだ。

「これなんていいんじゃない?総菜屋さんのパート。時給850円だって。週三回から可だってよ」

 夏美は身を乗りだしてチラシの文字を指でさす。

「それかこっちは?菓子メーカーでの一般事務。時給は1100円だって。鈴子、パソコンはひととおりできるでしょ。だったら、これもいいんじゃない?」

「そんな、いきなり勧められても考えられないよ」

 赤字で未経験者歓迎と印刷された文字を見ながら、気乗りしない声で私は言った。

「他にも派遣会社に登録してみるとか、インターネットで検索してみるとか、その気になればいくらでも仕事なんて見つけられるわよ」

 大きな目を見開いたあと、夏美はにっこり微笑んだ。

「そう言われても、その気がないから難しいわよ」

 眉根を寄せて私が言うと、夏美はにやりとした。

「ほらね。鈴子ってば、また働いた方がいいのかなあなんて、思ってもないこと口にするんだから」

 冗談よ、と夏美は私の手からチラシをひょいと取りあげ、

「これは私用にとっておいたチラシ」

 と言って、また元の場所に戻した。

「夏美、また働くつもりなの?」

 驚いて訊くと、

「違うわよ。あとで切ってメモ用紙にするのよ。節約よ。節約。というかエコかな」

 と夏美は言って、楽しそうに笑った。

 わあ、プリン食べよ。ようやく塗り絵を終えた様子の花音ちゃんが語尾にハートマークをつけたような声をだして、プリンを食べ始める。暑いのか、まんまるとしたおでこに前髪がぺたりと張りついている。

「でも私はどちらかというと働きたい方だから、いずれはまた働くかもしれないなあ。パートでもなんでも。といっても、まずは二人目ができてからのことだけどね」

 汗をかいたピッチャーからとくとくと夏美が麦茶を注ぎ足す。小さくなった氷がコップのなかで踊る。

「二人目?」

「そう、二人目。早く欲しいのよ。うちのクラスで兄弟がいない子って、花音とかおりちゃんとみのるくんくらいなんだもん」

「夏美って、そんなに子供が好きだったっけ?」

 ふと、学生時代の夏美の姿が脳裏に浮かび、私は尋ねた。華やかで、行動的で、夜な夜な外へと繰り出していた夏美。恋人も途切れることなくたくさんいた。私とは対照的なタイプで、今でもときどき、よくあの頃の夏美と私が仲良くなれたなあと思うことがある。

「ううん」

 あっさりと夏美は首を横に振った。

「子供はあんまり好きじゃなかったよ。でも、花音を生んだら、すごくすごくかわいくて、すぐに二人目が欲しくなっちゃったの」

 言いながら夏美がテレビをつけると、子供向けの番組がちょうど始まったところだった。

「そんなもの?」

「そんなものよ、みんな」

 夏美はけろりと答えた。テレビから聴いたことのない英語の歌が流れてくる。

「だから鈴子も、子供はいらないって思っていても、いざできたら、そんなものになっちゃうかもしれないわよ」

「それはどうか分からないけど」

 力弱い声で私は言った。夏美に限らず、子供ができた友人のほとんどはそう言うが、私自身が必ずしもそれに当てはまるのかは分からない。

「そりゃ分からないわよ。でも普通はみんな、そんなものなのよ。生んでしまえばね」

 夏美は続ける。

「それに、ごめん。ちょっといきなりだけど、鈴子にもしも、もしもよ、子供ができたとしたらどうするつもりなの?やっぱり生むよね?それとも中絶とかも考えてるの?」

 私はむせそうになる。慌てて花音ちゃんを見るが、花音ちゃんはテレビで夢中でこちらの話など耳に入っていないようだ。

「唐突ね。びっくりするじゃない」

 声を潜めて抗議すると夏美は首をすくめ、

「ごめんね。ちょっと気になったものだから」と言う。

 私は黙った。そして考える。夏美が私の返事を興味深そうにじっと待っている。

「そうね、ちゃんと子供ができないようにはしてるけど、万が一、予定外に子供ができたとしたら」

 できたとしたら?できたとしたら、私はどうするのだろう。憲太郎と私の子供。考えてもみない生きもの。それがお腹に宿ったのならば、私はきっと戸惑って、迷って、でも―、

「生むのかもしれない。おろすことは、できないような気がする。分からないけど…」

 自信なく、曖昧に答えた。

「そっか、そうだよね。ごめんね、急に変な質問しちゃって」

 夏美は安心したような声をだした。

「なんだか」

 私は呟いた。

「子供はいらないって決めたのに、最近ときどき言い様のない不安にかられるのよ。矛盾しちゃうけど、このままでもいいのかなあって。この選択に間違いはないのかなあって」

 夏美は真面目な顔で私の言葉に耳をかたむけ、

「いいんじゃない。べつに無理して決めないでも。今は子供いらない主義ならそれをつらぬいて。もし欲しくなったら、またそのときに考えれば。悩めるのなんて、選択肢があるうちだけだし」

 いたって楽観的な口調で話す。

「ほらだって、憲太郎さんがいいって言ってるんでしょ。二人が納得するなら、それでいいのよ。重く考えないでさ。ね?」

 夏美はにかっと笑い、「部屋暗くなってきたね」と言って照明のスイッチをつけに立ち上がった。

「夏美って、強いのね」

 私は感心して言う。部屋のなかが白熱灯の明かりで一気に明るくなる。

「そんなことないわよ。鈴子の悩みは贅沢だって言ってるの」

 人さし指をたてて、夏美は「ぜいたく」を強調して言った。贅沢な悩みか。でも私個人にとっては贅沢でもなんでもなく、ただの悩みなんだけどな。しかし、夏美のあっけらかんとした言葉は気持ち良く、私の心はちょっと軽くなる。

「とりあえず、鈴子は堂々としてればいいの。憲太郎さんだって、心配してるんでしょ。あんなにいい旦那さんを心配させちゃだめよ」

 立ったままの姿勢で夏美は言う。

「あ、この前、お母さんにも言われたことだ。堂々としていなさいって」

 言うと夏美はけらけら笑い、ほら、そうでしょう?と言って胸を張った。私も笑う。花音ちゃんが不思議そうな顔で私たちをちらりと見たあと、ふと思い立ったように立ち上がり、

「ママ、飴がほしい」

 夏美の服の裾を片手でひっぱり、もう片方の手で棚の方を指さした。


16.

 夏美の家を出たあとスーパーマーケットで買い物をし、両手に袋をぶらさげたまま郵便受けを開けると、チラシの束と葉書きと封書がなだれのように崩れ落ちた。スーパーの安売りチラシやリフォームのチラシや、あやしい便利屋のチラシにDMなどが地面に散らばり、私は溜息混じりに屈んでそれらを拾う。

「あら、大変」

 声がして振り向くと、見覚えのない白髪の女性が一緒になって郵便物を拾ってくれていた。

「すみません。ありがとうございます」

 礼を言うと、女性は上品な笑みを浮かべながら、

「中正記念堂ね、ここ。わたし去年行ったのよ。良かったわ」

 と拾ってくれたチラシとともに一枚の葉書きを手渡した。真っ青な屋根をつけた大きな白い建物の写真。左上にはローマ字でtaiwanと書かれてある。

「それじゃあ」

 女性は軽く会釈をし、そのままエレベーターの方へと去っていった。同じマンションの住人らしいが、名前はおろか顔も知らない人だった。私はその女性のうしろ姿を見送ったあと、受け取った葉書きの裏面を見た。見覚えのある文字。それにスマイルマーク。それは紛れもなく、香奈からの葉書きだった。


 鈴子へ

 私はいま台北にいます。今回は仕事ではなく、友達と食い倒れの旅です。こっちは暑いよ。でも楽しくて素敵な国です。食べ物がおいしいの。特に本場の小龍包は最高です。今朝、中正記念堂のある公園を散歩しました。太極拳をしている人とか、胡弓を弾いている人とか、ゆっくり時間を過ごしている人たちがいる景色を見て、とても和みました。公園の近くにパパイヤ牛乳のお店もあって、それもすごくおいしいの。明日には帰国ですが、時間が足りないくらいです。鈴子にも台北、おすすめしますね。

 荻野香奈より


 買い物袋をキッチンのカウンターに置いたまま、ダイニングの椅子に座り、葉書きを読んだ。しんと静まり返った部屋のなかで、何度も何度も、私は繰り返しそれを読んだ。

 躍動。

 私は思った。なんの変哲もない、いつもの香奈からの葉書きなのに、そこからはいきいきとしたエネルギーが発せられているような気がしてならなかった。なんて対極なのだろう。毎日献立を考えてはスーパーに赴き、買い物袋の重みで腕に赤紫色のすじをつけ、ダイニングの椅子に腰かけ夫の帰りを待ち、子供を生む生まないで悩み、世間の目に怯え、いつまでも煮え切らない思いを抱えて悶悶とし、でもそれは結局のところ世間では贅沢な悩みであり、どんなにもがいてみたところで堂々巡りをしている自分と、いきいきと仕事をし、働いている女性というきちんとしたポジションを得て、遊びもちゃんとして、有意義な人生を送っているようにみえる香奈は、あまりにも自分と対極であるような気がしてならなかった。

 立ち上がり、キャビネットに置かれた藤カゴのなかに葉書きを押し込む。

 椅子の背にかけてあるエプロンをとって身に着け、除菌ソープで手を洗い、買い物袋から材料を取りだして必要なもの以外は冷蔵庫にしまい、戸棚からボウルをだし、野菜を洗う。まな板を取りだし、まずは人参を切る。トントントンとリズミカルな音を響かせて、手際よく料理をすすめていく。考えなしでも手は習慣的に勝手に動いていく。

「だめだ」

 けれど私は包丁の動きをとめた。そして息を漏らすように呟いた。

「無理だわ」

 早送りのような速さで私はキッチンを出て、バッグから携帯電話を取りだし、エプロン姿のままソファにどさっと腰をおろした。少し湿った手のまま携帯電話の画面をスクロールし、香奈の名前のところでとめ、メール作成のボタンを押す。

―香奈、葉書きありがとう。台北楽しそうだね。私もそのうち夫と旅行したいと思います。そのときは香奈の会社にお願いしようかな。

 そこまで打ったが、ふいに顔をあげたとき、消えているテレビ画面に映った必死めいた顔の自分と目があって、とたん私は文章をすべて削除してしまった。

「ちがう」

 私は首を振った。

 メールではなく、香奈本人に会いたいと思った。なぜだか分からないが、やみくもに香奈に会いたいと思った。


17.

 無機質なデザインのビルが建ち並ぶ通りに植えられた街路樹の葉は、最近の雨不足のせいでカラカラとしていた。

「やばい、遅れるよ。早く、早く」

 紺色のベストにタイトスカートの制服を着た女性が二人、財布片手に小走りで横を通りすぎていく。

 香奈の勤める旅行会社は、オフィス街にある高層ビルのなかにあった。ランチどきなせいもあって、建ち並ぶビルのなかから人がぞろぞろと出たり入ったりをしていて、そこへ向かう途中の通りは混雑していた。お弁当を売りにきたワゴン車も何台か停まっていて、そこに小さな行列ができていた。

「暑いな、まったく」

 ノーネクタイ姿の中年の男性がタオルで汗を拭いながら私を追い抜いていく。

「クールビズっていっても、この暑さじゃ、冷房もっといれてくれないときついっすよね」

 若い男性が上司らしき男性に追いつこうと、足早に歩きながら過ぎていく。

 憲太郎は今日もちゃんとネクタイを締めていったから、きっと暑いだろうな。思いながら、私は日傘をさして通りを歩く。日傘のかたちをうつした黒い影がアスファルトの地面に落ちる。おそらく誰も私のことをこのあたりで働いている人間とは思わないだろう、と周囲を見まわして思う。テンポが違う。働いている人間と、そうではない人間との間に流れる時間のずれ。仕事をしていない人間特有のゆったりとしたテンポが私にはしっかりと染みついている。

 香奈に会おうと思い立ったとき、私はすぐにインターネットで香奈の会社の場所を確認した。電話をして約束をとりつければ簡単なことなのに、その簡単な行為にどうしてもためらいがあった。ごめん、忙しくて会えないわ。そんな言葉を言われたらどうしようかという懸念の方が先に頭に浮かんでしまったからだった。

 それにしても。私は思った。それにしても、これではまるでストーカーだわ、と。エントランスホールに置かれたベンチの一つに座り、行き交う人々を注意深く見つめる。はたしてここで待ち伏せをしていれば、香奈に会うことができるのだろうか。

 香奈の会社の入っているビルはまだ新しく綺麗で、吹き抜けになっているエントランスホールは開放感があった。入ってすぐ右手には「波」というタイトルのつけられた緑色の板ガラスを幾層にも重ねたオブジェがあり、左手には今私の座るベンチやステンレスの丸テーブルや椅子の置かれた休憩スペースがある。奥にはいくつものエレベーターがずらりと一列に並んでいて、さっきからひっきりなしに到着を知らせる音が鳴り、そのたびに多くの人々が行き交っているのだが、香奈の姿はまだ見当たらない。

 今日でここにくるのは連続で三日目だ。この突飛な行動は憲太郎にも内緒にしている。それなのに、香奈にはまだ会えていない。ばかみたい。私は思って、小さく笑う。昼休みから夕方近くまで待ち伏せをしていても、香奈はそんなに外に出る職種ではないのかもしれないから、偶然会える可能性なんて低いに決まっている。いっそ電話をして、いま一階にいるんだけど会えない?と訊けばすぐなのに、それができないだなんて。私は自分自身にもどかしさを感じながら、かける予定のない携帯電話を握りしめる。このビルの十五階から十八階のどこかに必ず香奈はいる。

 広々としたホールはひんやりとした空気が漂っている。隣に座った背広姿の男性が胸ポケットから煙草を取りだし、火をつける。ふわあっとたばこの匂いと煙が目の前をかすめていく。エントランスから入る光が床に反射し、床はぬるりと濡れているみたいだ。

「無理かな」

 自分にしか聞こえないような小さな声で呟いた。きっと今日も会えないわと。連絡もなしに、そんなに都合よく会えるはずがない。

 あきらめて席を立ち、バッグを肩にかけ、帰ろうとしたそのときだった。見覚えのある顔をした女性がエレベーターから降りてきたのは。

「香奈」

 私はその女性の顔を見つめた。

 ベージュのパンツスーツを着て、首から青いひもでくくりつけたIDカードをぶらさげ、手ぶらで颯爽とこちらに向かって歩いてくる女性は私の待ち伏せの相手、香奈に間違いなかった。

「え、えっと、どうしよう」

 待ち伏せをしておきながら、いざ本人を目の前に私はその場を動けず動揺した。香奈は私に気づくことなく、私の二つ先に置かれたベンチにどさっと腰をかけ、パンツのポケットから携帯電話をとりだすと画面をいじりはじめた。それから左手につけられたシルバーのバングル風の腕時計をちらりと見て、眉根を寄せ、何か考えごとをしているような表情を浮かべた。

 私は棒立ちになったまま、香奈を見ていた。隣に座っていた男性が怪訝そうに私を一瞥するのが分かった。行かなくちゃ。私は自分に向かって言い、息を大きく吸ってから思い切って香奈のそばに歩みよった。

「…香奈」

 名前を呼んだ。直接呼びかけること自体が懐かしい感覚だった。名前を呼ばれた香奈は私を見上げ、一瞬きょとんとした顔をした。

「え?」

 香奈は目をむく。

「鈴子?えー、鈴子じゃないの!」

 フロアに響き渡るような声で香奈は言い、携帯を片手に握ったまま飛びあがるように立ち上がった。

「ひさしぶり」

 緊張と嬉しさと興奮のせいで、私はぎこちない笑顔を浮かべて言った。

「びっくりした。なあに?どうしたのよ。なんでこんなところにいるの?」

 香奈も興奮した様子で言う。

「近くにちょっと用事があって」

 会いに来たの、とは素直に言えず、とっさに嘘をついた。

「だったら電話くれたら、時間とれたのに。ちょうど今、息抜きに降りてきたところなのよ」

 言いながら香奈は携帯電話をパンツのポケットにしまう。

 久々に間近で見る香奈は、前よりも少し痩せているように見えた。けれど快活で、いきいきとした雰囲気は今もなお健在だった。

「ごめんね。そこで香奈の会社の名前見つけたから、ちょっとのぞいてみただけなの。そしたら似た人がいるから、もしかしたらって、声かけてみたんだけど、よかった」

 つらつらと私は嘘を並べた。あんなに必死に香奈の姿を探していたというのに。

「えー、すごい偶然だね。ね、よかったら、ちょっと話していかない?と言っても、外に出るほど時間はないから、この安っぽい休憩所になっちゃうけど」

 楽しそうな声をだし、香奈は目の前にあるステンレスの丸テーブルを指さした。香奈の笑顔はまるで子供の頃に戻ったような無邪気な愛らしい笑顔だった。


18.

 香奈の右手の人差し指にはピンクダイヤの太めのリングがはめられていた。爪にはうっすらと上品なベージュのマニキュアが塗られていて、その、華奢だけれど力強い印象を与える手で缶コーヒーを握りながら、香奈は足を組んだ姿勢で椅子に座り、私の話に耳を傾けている。

 おかしなことだが、丸テーブルを挟んで香奈と向き合う恰好で座ったとたん、私は自分のなかに溜まっていたもろもろすべてを一気に香奈に吐き出してしまった。そんなつもりはなかったのに、真正面にある香奈の顔を見たとたん、堰を切るように言葉が、感情が、溢れだしてしまった。

「香奈、聞いてほしいの」

 私は言った。

「私、見てのとおり、いま働いてないの。いわゆる専業主婦ってやつで。それに子供もいないの。子供はつくらないって決めたから。でも、夫の両親とか親戚からは子供つくらないなんておかしいって思われていて、夫の母親にも嫌われてるの。だけど矛盾するみたいだけど、最近は子供をもたないままでいいのかっていう迷いもでてきちゃって、自分でもよく分からなくて。それで浮かない顔しちゃって、夫を困らせたりもしているの。働けばって言われたりもするんだけど、また働く気にもなれなくて。なんだか不安なの。何に対してなのか分からないけど、不安で…」

 いきなり始まった私の話に香奈は驚いた顔ひとつせずに、黙って耳を傾けていた。相槌を打つこともなく、ただ黙って聞いている。

「…ごめん」

 まっすぐな瞳で香奈が私を見つめていることに気づき、私はひるむように謝った。

「久々に会って、いきなりこれはないよね。これじゃあ愚痴を吐きにきたみたい」

 呟くように言いながら、そもそも私はなぜ香奈に会いにきたのだろう、と考えた。なぜ、やみくもに香奈に会いたくなったのか。

「それだけ?」

 香奈は言った。

「それでおしまい?」

 表情を変えず、首をかしげて香奈は言う。

 気を悪くさせたのかもしれない。そりゃそうだろう。仕事の合間に突然やってきた久しぶりの友人がいきなり愚痴を吐き出してきたら、誰だって気分を害して当然だ。私は戸惑いながらも「うん」と頷いた。すると香奈は一気に頬を緩ませてけらけらと明朗な笑い声をあげた。

「そんなことで悩まないの!」

 笑顔を残したままの表情で、香奈は喝を入れるように言った。

「ちょっと、鈴子は一体誰の人生を生きてるのよ。自分の人生でしょう?自分で決めなさいよ。好きにすればいいのよ」

 缶コーヒー片手に、香奈ははっきりとした口調で言った。

「でも、好きにすると言っても…」

 私が言葉を濁していると、香奈は缶コーヒーをテーブルのうえに置き、私の方にまっすぐ体を向けた。

「もっと、自分の生き方に自信を持てばいいと思う。そんな、誰かの期待とか、誰かの普通に応えられないからって、わざわざ十字架背負う必要なんてないと思う」

 瞳を見て言う。

「鈴子、不安だっていうけどさ、私なんて結婚もしてないんだよ。私だって、不安だもん」

 香奈はおどけた表情を浮かべてみせた。

「でも香奈はちゃんと働いているし、私とは違うわよ」

「同じよ」

 間髪入れずに香奈は言った。

「べつに変わらないよ。みんな、見えない先のことは不安でしょう?だから、同じよ」

 私は何も答えられずに黙った。黙ったけれど、そのあと妙におかしさが込みあげてきて、抑えきれずにくすくすと笑い声をあげた。

「なんだか」

 私は言う。

「なんだか、不思議。香奈と会わない時間がすごくあったはずなのに、今はそんなのなかったみたいな気がしちゃう。昨日もおとといも会ってたみたいな気がしちゃうよ」

 あんなに香奈に会うことを躊躇していたのが不思議に思えるくらいに、私と香奈は子供の頃と同じ感覚で今、向き合っている。それを感じているのは香奈も同じようで、香奈もおかしそうにくすくす笑い声をあげた。

「ね、本当にそうだよね。私も鈴子に言いながら思ってた。なんだかこういう場面、見覚えあるなあって。私たち、やっぱり変わってないんだなあって」

 と言ったあとにすぐ香奈は「いや、違うか」と呟き、

「変わってないんだけど、でも確実に変わったのよね」

 と言った。変わってないけれど変わった。それは今の私たちをあらわすのに的確な表現に思えた。

 まだ弱まることのない日差しがエントランスの大きなガラスをくぐり抜けて入ってくる。隣の丸テーブルでは男性が二人、煙草をふかしながら談笑している。休憩所は喫煙所でもあるらしく、煙草の匂いがずっと蓄積されている。

「あ、おつかれー」

 突然、香奈がエントランスの方を見て片手をあげた。見ると、スーツ姿の細身の若い男性がいて、彼も香奈に気づくなり黄色い封筒を片手にあげて笑顔で応じ、そのままエレベーターに向かい歩いていった。

「おつかい頼んでたの。結構かっこいいでしょ、彼。まだ二十六歳だよ。鈴子のタイプじゃない?」

 香奈はにやりとして言った。

「うん、今ちょっとかっこいいって思ってた」

 私も笑った。

 そのとき、ふと気がついた。自分の抱えていた悩みはすでにどこかへ飛んでいってしまっている、と。いや、悩みは実際には消えていないし、解決策がみつかったわけでもないのだが、香奈と話していたら深刻さが薄まり、悩んでいたことすら忘れそうになっていた。まるで子供の頃のお泊り会の夜のように、話すだけですべてがリセットできるような感覚を思い出す。

「友達っていいよね」

 それで、ついそんな言葉が漏れた。

「なあに?急に」

 眉をあげ、おかしそうに香奈は言う。

「なんだかしみじみ感じちゃうの。友達っていいなあって。全然会ってなかったくせに、今頃になってこんなことを言うのも変かもしれないけど」

 テーブルに置いた缶コーヒーを両手で包み、私は言った。

「しょっちゅう会ってるのだけが友達とも限らないよ」

 微笑みながら、静かに香奈は言った。隣にいた男性たちが席を立つ。休憩所にいるのは私と香奈の二人だけになる。

「さっきさ」

 男性たちの背中を目で追いながら、香奈はぽつりと言った。

「鈴子、子供を生むか生まないかで悩んでるってこと、話してくれたじゃない?私も実は、同じようなことで悩んだことあるんだよね。鈴子とは状況は違うけど」

「香奈が?」

「うん。私、三十歳のときに子宮の病気をちょっとね、しちゃって。それで、もしかしたら妊娠しにくいかもしれませんよって、先生に言われちゃってさ」

 視線を落とし、香奈は言う。

「それまではね、子供欲しいなんて考えたこともなかったのに、そう言われたとたん、頭のなかはずっと子供のことなの。まだ見ぬ我が子に思いはせちゃったりして。結婚もしてないし、彼氏もいないのに、だよ」

 香奈はふふっと笑う。私はうまく言葉を返せず、ただ曖昧に頷いた。

「ないものねだりだよねえ、きっと。持てない可能性が強くなると、やっぱり人って、持ちたくなっちゃうんだよね」

 香奈はそこで口を閉ざした。エレベーターの到着音が鳴っている。制服姿の女性が一人降りてきて、あくびをしながらエントランスから出て行った。再びこの空間にいるのは私たち二人だけになる。

「ねえ、鈴子」

 ふいに香奈が言った。

「命って、不思議だと思わない?」

「命?」

「うん、命。命って、不思議だなあって、ときどき思うの。子供が欲しいと思ってすぐ妊娠する人もいるし、できない人もいるし、いらなくても妊娠して母親になる人もいるし、妊娠できても事情があってあきらめなくちゃいけない人もいるでしょ。どこまで私たちって、命をコントロールできるものなのかなあって」

 香奈は真面目な瞳で私を見つめた。

 毎日、たくさんの命が誰かのお腹に宿り、そしてどこかで生まれ、どこかで死んでいく。生むとか生まないとか、自分で選んで決めているつもりでも、実際はそうではないように感じてしまうところもある。気まぐれな雨粒のように命はどこかに降ってきて、また空へと戻っていく。

「コントロールなんて、できないのかもね」

 私は言った。

「ううん、自分で決めなくちゃいけないし、欲しいなら努力次第で授かることもできると思うし、いらなければそれなりの方法もあると思う。でも、最終的には神頼みっていうのかな?そういうところが、もしかしたらあるのかもしれないね」

 私は自分で自分に言い聞かせるように言った。神頼みかあ、香奈が言う。

「なんかいいよね、神頼みって。結局のところ、絶対的に正しいことなんてないんだろうから、選んで決めて、やることやったら、あとは天にお任せーって感じでいる方が、生きていくのは楽ちんなのかもしれないね」

 香奈はそう言って、何かを思い出しているような、感慨深いような表情を浮かべた。

 きっとそう、私も香奈も今、同じことを考えている。

「ねえ、香奈」

 私は言った。今、話したいことがある。今だからこそ、ふたりで向き合いたいことがある。

「咲希のことなんだけど」

 いつか香奈と話したいと思っていた。ずっと避けていたこと。避けらないことなのに、ずっと避け続けていたこと。

「私たち、どうして咲希のこと、救えなかったのかな」

 頭では分かっている。救おうだなんて、今となってはただの驕りになるということも、どんなに罪の意識を抱いたところで、咲希が生き返るわけではないことも。

「助けを求めてくれなくちゃ、救えないよ」

 さとすように、香奈は言った。

「だって、何も知らなかったんだもの、私たち。咲希が苦しんでいることも、何かに悩んでいることも。私もずっと、そんなことばかり考えたり、自分を責めたりもした。死ぬなよ、咲希、って言ってやりたいって、何度も思った。でも、今となってはもう、咲希が選んだことを受け入れるしかないような気がしてる」

 そう言って香奈はすぐ、「好きで死ぬことを選んだわけじゃないよね」と、こころもとない声で付け加えた。

「そうだね」

 私も呟く。悔しいような、やるせないような気持ちが込みあげてくる。

 それから二人して、しばらく黙った。

 記憶がよみがえる。三人で過ごした記憶が、淡い色調を帯びてよみがえり、やがてはっきりとした色彩へと変わっていく。三人で手を取りあい、はしゃいだり、笑い転げたり、何か優しい光に包まれていたような懐かしい日々。そこに落ちた一滴の黒いしずくをもう、取り除いてもいいのかもしれない。

「ねえ、鈴子」

 呼びかけられ、香奈の顔を見た。

「私たち、もう咲希のことも、自分のことも、全部許してあげようね。咲希はいつまでも私たちの大事な友達だよ。だけど、私たちが今とらわれるのは咲希の人生じゃないと思う。そうやって咲希の最期にいつまでもとらわれるのって、結局のところ咲希を利用して自分から目を背けていることと同じような気もするし、そんなの咲希も望んでいないと思う」

 …だから、とそこで香奈はいったん言葉を区切ると、一生懸命な笑顔をつくり、

「私たちが今することは、ただ、自分の人生を守ること。だって、自分のこと救えるのって、結局のところは自分でしょ。だから、今いる自分の道を大切にしながら、自分らしく一歩ずつ前に進んでいこうね」

 力強くそう言った。うん、と私も頷いた。同じことを、私も思ったからだった。

 私も香奈も咲希も、同じ時間を共有した大事な友達だ。楽しい時間もそうでない時間も、多くの時間を共有した。でも、立っている道はあのときも、今も、みんな別々なのだろう。私は私の道を、咲希は咲希の道を、香奈は香奈の道を進んでいくしかない。遠くや近くから励ましたり、なにかを差し出したりすることはできたとしても、代わりに誰かの道のうえを歩くことはできないし、誰かに自分の道のうえを代わって歩いてもらうこともできないのだ。

「良かった」

 香奈がひとりごとのように呟いた。 

「鈴子がきてくれて良かった」

 繰り返し香奈は呟いた。

「え?」

 思いもよらない言葉に私が目を大きくすると、

「私からは会いにいけなかった気がするもん。こう見えても、結構、臆病者だから」

「臆病者?香奈が?」

「そうよ。臆病者だから、私からは会いにいけなかった。だって、もし断られたり、避けられたりしたら嫌じゃん。なんていうか、関係が壊れることに直面するのが怖いというか。でも、やっぱりつながりを断ちたくないから、旅先から葉書き送ってみたりして」

 片手で自分の髪の毛をさわりながら、香奈は照れたように笑った。

 そうか、と思う。香奈も同じだったのかと。私が香奈に会うことを躊躇していた理由、香奈が送ってくる葉書きに「また会おうね」といった類いの言葉を添えない理由、それはどちらも同じことだったのだ。

「臆病者はこっちも同じよ。私もすごーくドキドキしてたもの」

 そう言って、二人して笑った。

「というか、香奈。私が香奈に会いにきたって分かってたの?」

「そりゃ、分かるよ。こんなところに何の用事があるっていうのよ。不自然すぎるでしょ。それに鈴子って、嘘つくときに目が分かりやすく泳ぐのよ、昔から」

 香奈はおかしそうに笑った。くすくすと、それはなかなか収まることなく、心地よい音となって私の耳に届いた。


19.

 一歩前に進む。

 帰り道、しきりに私はそのことについて考えている。淡い夕空に桃色の雲が浮かび、オーロラのような模様を描いている。

「また今度、どこかでゆっくりお茶でもしながら話そうね」

 帰るとき、香奈はエントランスを出たところまで見送りにきてくれた。

「そうだね、またゆっくり会おうね」

 姿勢の良い香奈は凛々しく、格好良くみえた。

「バイバイ」

 私は大きく手を振った。香奈も大きく手を振りかえした。バイバイ。きっとまた会えるだろうという確信をもって、私たちはそれぞれのいるべき場所へと戻っていく。

 一歩前に進む。

 すべては今ではない場所に立ち止まり続けるからいけないのだと思った。なぜ香奈に会いにいったのか。それは進むためなのだと分かった。

 見えない先を憂えて悩んだり、過ぎたことを悔やんだりしていた私は完全に止まっていた。すっかりそこに安住さえしていた。でも本当は前に進まないといけなかった。生きていくということは、進んでいくということでもあるのだから。

 私は歩みを速めた。妙に気持ちが高まっていた。マンションのエントランスをくぐり、慌ただしくエレベーターに乗り込み、バッグから鍵を取りだして扉を開け、靴を履き捨てリビングルームへ向かう。頬が熱をもっていて紅潮しているのが分かる。心地よい汗を体全体に感じる。

 部屋はいつものままだった。朝、きちんと磨いておいたカウンターキッチン、ダイニングテーブルのうえにはカーネーションを挿した小さなグラス、その奥には二つのクッションの置かれたソファとローテーブルのうえには憲太郎が愛読しているビジネス誌と今日の新聞が置かれてあり、大きな窓は額縁のように空を切りとっている。いつものままなのに、それは不思議と私の目に真新しく映った。

 私はそのままゆっくりとソファのそばまで歩き、そのまま床の上に座り、窓から見える空を仰いだ。茜色の空が一面に広がっている。

「きれい」

 私はひとり呟いた。

 あえて照明をつけなくても、部屋のなかはうっすらと明るく、それは十分に私に満ち足りた幸福感を与えてくれた。

 私はしばらく座ったままの姿勢で、自分の規則的な呼吸に耳を傾けていた。ここからまた、新しく始めていこう。心のなかで、そう誓う。

 がちゃっと、突然、重い扉を開ける音がした。

 びっくりした私は飛びあがり、慌ててうしろを振り向くと、スーツ姿の憲太郎がぼうっと突っ立ってこちらを見ていた。

「どうしたの?電気もつけないで」

 憲太郎は不思議そうな顔をしながら照明のスイッチを入れる。窓が暗くなり、部屋全体が真っ白になる。

「憲太郎こそ、こんな時間にどうしたのよ?何かあったの?」

 立ち上がり、憲太郎のそばへ歩みよると、額に汗を滲ませた憲太郎は眉を下げ、

「えー、朝言ったじゃん。今日は健康診断のあと、そのまま休みにしたから、いつもより帰るの早いよって。残業に休日出勤と続いたあとだし、ひっかかりそうだよって話したじゃない」

 もー、聞いてなかったわけ?とすねたような口調で言いながらネクタイを緩める。

 すっかり忘れていた私は「ごめん、ごめん」と謝りながらも憲太郎に抱きついた。

「何?どうしたの?」

 突然抱きつかれた憲太郎はびっくりしてやや後ろにのけぞる。

「どうもしてないよ。ただ、こうしたいだけ」

 憲太郎のシャツに顔をうずめて、憲太郎の汗くさい、でも懐かしい匂いを嗅ぎながら私は言った。憲太郎は何がなんだか分からない様子でいるものの、私の行動にこたえるように、そっと私の体を優しく受けとめ、抱き寄せた。

 なんて良い夫だろう。憲太郎となら、どんな形であってもきっと私たちはうまくやっていける。私はさらに強く憲太郎の胸に抱きついた。

「苦しいよー」

 憲太郎は芝居がかった言い方でおどけてみせた。私はふふふと笑う。

「私ね、また何か始めてみるかもしれない。仕事でも習い事でもなんでも、何かしたいこと、始めてみようかなって」

 顔をうずめたまま、私は続ける。

「憲太郎が言うように、気分転換に新しいことしてみようかなって」

 そうなの?と驚く声が頭のうえから降ってくる。

「とりあえずだから、先がどうなるかは分からないけど」

 押し当てていた顔を外し、私は憲太郎の顔を見上げた。憲太郎のこげ茶色の瞳のなかに私が映る。

「ま、いいんじゃない。俺は賛成するよ。鈴子の好きなようにしてみたらいいよ」

 まるでどこかの学校の先生のように小難しい顔をしながら、憲太郎はうんうんと頷く。ありがとう、と私は笑顔で言った。

「浮かない顔ばかりしていてもしょうがないものね」

「そうだよ、同じ人生ならまわりの目なんて気にしないで楽しく生きなきゃもったいないでしょ。ま、これからも二人で仲良くやっていこうよ。それよりさ、今日の夕飯はなんだろう?」

 どさっとソファに腰をおろし、うーん、と憲太郎は伸びをする。呑気、という言葉がぴったりな人だなあとつくづく思う。

「夕飯?そういえば、まだ何も決めてないよ。どうしよう。何が食べたい?」

 訊くと憲太郎は不敵な笑みを浮かべ、

「ハンバーグ!」

 と答えた。

「好きねえ。でも、ちょっと待って。挽肉も玉ねぎもないかも」

 冷蔵庫の中身を考えて言うと、憲太郎は大げさな身振りでショックがり、そして壁にかかる時計をちらりとみやると「よし」と気合いを入れて立ち上がった。

「今からよかったら一緒に行こうか。スーパーに」

 やる気満々に言う。

「そんなに食べたいの?」

 笑いながら訊くと、

「そりゃそうでしょ」

 と、なぜか胸を張って憲太郎は答えた。

「もー、なら仕方がないか。じゃあ、ハンバーグ作ってあげますか」

「お、やった。じゃ、ちょっと待ってて。着替えてくるから」

 憲太郎はおかしなくらいに慌ただしい様子で着替えへと向かった。

「あー、鈴子が元気になってよかった、よかった」と、そんな言葉を残しながら。

 私はベランダに出て、風にあたった。住宅街に建ち並ぶ家々の屋根が見える。明かりがちらほらと灯りはじめ、それはゆらゆらと柔らかく揺れる。目を凝らせば、遠くに子供時代の私たちの「森」だった公園も見える。鬱蒼とした緑。やっぱりあれは「森」というのにふさわしい公園だ。あそこにはきっと、まだ幼かった頃の私も香奈も咲希もいる。

「今日はなにして遊ぶの?」

 木の幹に寄かかりながら咲希が言う。ハート型の髪飾りをつけて、レースのついたポシェットをぶらさげて。

「葉っぱを拾うのは?あとで図鑑とかに挟んで、しおりを作ろうよ」

 しゃがんで木の葉をいじりながら、私は言う。

「うん。そうしよう。でも、その前に丘のうえまで競争しようよ。それで、勝った人が一番最初に好きなお菓子を選べるの」

 じゃーん、と言いながら、楽しそうに香奈はショルダーバッグを開いて見せる。なかにはみんなで持ち寄ったビスケットや飴玉やマシュマロなどのお菓子がたくさん入っている。

「賛成!」

 私も咲希も声をあわせて言った。

「じゃあ、いくよ」

 スタートライン代わりに足もとに小枝を置いて、香奈は掛け声をかける。

「よーい、どん!」

 私たちは一斉に走りだす。勢いよく。笑い声をあげながら。

 夜がおりてきて、白い月が次第に銀色に輝きだす。

「お待たせ。じゃ、いこっか」

 憲太郎がティーシャツにハーフパンツというラフな格好であらわれた。

「うん」

 窓とカーテンを閉め、私は財布を片手に持ち、憲太郎と一緒に玄関へ向かう。

 たぶん、人から見たら昨日の私と今の私は同じに映るのだろう。でも、確実に前進しているのだ。明日も、その次の日も、一歩ずつ前へと進んでいく。三人で共有している記憶たちはそのとき、立ち止まるためのものではなく、前へ進むためのものになるのだろう。

「風が気持ちいいねえ」

 スーパーに続く静かな遊歩道を歩きながら憲太郎が目を細める。

「夜のお散歩もいいよね」

 私は言って、憲太郎とそっと手をつなぐ。

 通りの木々の枝葉が夜風に柔らかく揺れている。

 一匹の美しい蝶々が羽根をはばたかせ、私たちの目の前を飛んでいく。

                               (了)


          最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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