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素ごはんはおいしい

子供の頃から食べ物はわりとシンプルなもの、素朴なものが好きだ。
たとえば、鮭ならただの焼き鮭が一番好きだし、果物も加工品よりそのまま生でいただくのが一番おいしいと思うし、お菓子やケーキ類も素朴なものがどちらかというと好きだ。もちろん、ときにはこってりしたものが恋しくなることもあるし、凝った料理に歓声をあげることもあるけれど、基本、自分の心がほっとするのはシンプルな料理、素朴な食べもののような気がする。

なかでもご飯は、そのまんまが一番おいしいのではないかと思っている。何にもつけずにシンプルにご飯だけをいただく。するとお米の優しい甘さがじっくりと感じられる。子供の頃から「ばっかり食べ」をする傾向があったせいか、おかずとごはんをセットにして食べるということが出来ず、ゆえに「おかずがないとごはんが食べられない」と親が話すのを聞くたびにいつも不思議な気持ちになった。逆に親からは、「よくそのまんまで食べられるわねえ」と不思議がられていたのだけれど、自分としては「なんでお米に味があるのにおかずが要るの?」といつも首をひねっていたのだった。

そして大人になった今でも、基本、お米はそのまんま何もつけずに食べることが圧倒的に多い。ごはん、と自分では呼んでいるのだけれど、素ごはんがやっぱり一番落ち着く。もちろん、ときには胡麻とか岩のりとかをちょこっとのせることもあるのだけれど、朝ごはんに関していえば、毎度、好んで素ごはんを食べてしまう。

ちなみに朝の素ごはんはいつも玄米なのだが、それがなんとも滋味深い味わいというのか、しみじみおいしい。炊飯器で普通に炊いたご飯なのだけれど、どんぶり一杯食べたくなるおいしさなのだ(でも腹八分目指して、お茶碗一膳で抑えておりますが)。

朝って、寝起きで頭や体が甘さを欲しているのだろうか。それも自然な甘さ、糖分を欲しているだろうか。夜よりも朝の方が不思議とごはんの旨味を強く感じる気がする。そしてそんな自然な甘さを感じると、ふわあっと幸せになる。朝の微々たる幸福である。

そして同じように、パンもわりとパンが好きだ。
バターやジャムやはちみつをつけるのもおいしくて好きだけれども、パンそのものの旨味を感じたい場合は、やはり素パンに限る。とりわけ食パンについては素パンがおいしい。レンジでチンした、ちょっとフニャンとした食パンをそのまま食べると、小麦の甘さがほんのり感じられて、これまたしみじみおいしい。

でもこれも昔からよく親には、「よくそのまんまが好きよねえ。それかせめて焼けばいいのに」と不思議がられた。だって、この方がおいしんだもん、と子供の頃は思っていたし、それは子供の舌だからなのかもしれないとも思っていたけれども、大人になった今でも舌の好みはあまり変わらず、食パンがあると最初の一口は必ず素パンを味わいたくなる。

でもだからこそ、ということなのだろうか、パンについてもご飯についても、お供類がときどきあると気持ちが華やぐ。若干の特別感というのだろうか。ワクワクしながら素ごはん、素パンにお供をつける。当然、これもおいしい。おいしいにおいしいがのっかれば、そりゃおいしいに決まっている。けれどこれまた不思議なもので、時間が経つとお供に飽きて、素ごはんが恋しくなって、素ごはんが食べたくなる。やっぱり素ごはんは今のところ、自分のなかで最強らしい。
 

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