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文庫本、そして紙の本、という愉しみ

文庫本が好きだ。
大きさや重さやその手軽さも含め、文庫本には親しみがある。
だから出かけるときには必ず一冊、バッグのなかに入れておく。

けれどたまに入れ忘れてしまうときもあって、そんなときは心もとない気持ちになってしまう。電車のなかで、これから行く予定のカフェや喫茶店で、どう時間を過ごしたらいいのだろうかと。もちろんなければないで、ぼんやりしたり、音楽を聴いたり、何か書き物をしたり、することはとりあえず探せばあるわけだし、持っていたとしても、必ず絶対本を読む、というわけでもないのだけれど、やはり文庫本は常に一冊、安心のためにも携帯していたい。

けれど最近、電車のなかやカフェや喫茶店で、文庫本を読んでいる人はあまり見かけなくなった。視線を落としといる人たちの手元にあるのは、そのほとんどがスマートフォンで、紙の本をめくっている人を見かけることは少なくなった。なんだかすこし、寂しいような気もする。けれど時代の流れを考えたなら、当然のような気もする。

このまま紙の本がなくなってしまったらどうしよう、と、ときどき思う。
もちろん電子的なものを否定する気は全くないし、その利便性には自分も十分に恩恵を受けているし(現にnoteもそのひとつだ)、環境的にも良いところがあるのだろうから、電子的なものの発展は大いにしてほしいのだけれど、ただ、紙の本は消滅することなく、これからもずっと残ってくれるといいなあ、というのが個人的な願いだ。

文庫本の持つ、あの特有の柔らかな手触りや、目に優しいクリーム色の紙。
ぱらっとめくるときに起きる微かな風と、インクのにおい。
手に持ったときの重みと、本ならではのあたたかな気配。
それらはどうしたって、電子的なものでは代用できないものだ。

そして装幀も、紙の本ならではの愉しみであるように思う。
もちろん、電子的なものでも本のデザインや色味を味わうことはできるけれど、紙の本の方がより一層、装幀の空気感を感じられるように思うし、やっぱり温度があるのは紙の方だと思うからだ。

本を買うとき、装幀のデザインも自分の大きな愉しみのひとつで、その本の表紙が好きだと、読み終わったあとも部屋のどこか、目につくところにしばらく置いておくことがある。逆に内容は好きなのに装幀が好みでないと、がっかりしてしまうこともある(自分の勝手なわがままだけれど)。そんなふうに、装幀の良さを存分に味わえるものまた、紙の本ならではだと思う。

そして今更ながらに最近思ったのは、文庫本は本屋で買うと、愉しみが倍増する、ということだ。あらかじめ、これ、という本を決めているときにはネットで買うのも便利でいいけれど(実際、自分も利用するけれど)、文庫本、特に小説に関してはなるべ目的を持たずに本屋の棚や平台を見て、あ、これ、と気になった本を手に取にした方が、なぜか自分にとって良い作品に当たるのだ。

あの、棚にずらりと並んだ背表紙を眺めるワクワク感。そして気になるものを手にしてパラっとめくり、冒頭を軽く読んで、中身を確かめてみる感じ。そしてこれ!と思ったものをレジに持っていって購入して、実際に手に入れたときの高揚感。

そしてそのあと、すぐに乗った電車のなかで読んでみる。あるいはカフェや喫茶店に入ってゆっくり読んでみる。その瞬間、べつの世界へお引越し。この愉しさは、本屋に行って、棚を眺めて、探して、見つけて、買って、という一連の流れの先に得られる喜びでもある。

もちろん単行本や雑誌も好きなのだけれど、とりわけ文庫本に関してはなぜか本屋に赴いて買う方がよりたのしくて、実際、あえて目星をつけずに本屋にいくときには、宝探しに行くようですごくワクワクしてしまう。まだ知らない世界や新しい物語、あるいはときに自分の新たな逃げ場所としての居場所を、自分の足と直感でもって探しに行く感じ。そして文庫本ならではの持ち重りのなさと、そのあとすぐに読み始めることができるという気安さ。

これからの先の未来は分からないし、ひょっとすると紙の本の時代もあったねえ、なんて懐かしむ日がいずれ来るのかもしれないし、こんなふうに言っている自分でさえも紙の手触りからすっかり遠ざかる日が来るのかもしれないけれど(なんて、まるで想像できないけれど)、文庫本をはじめとして紙の本から得る愉しみは、これからもやっぱり失いたくないなあとひしと思う。

お読みいただきありがとうございます。