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所作と音

風の強い日。窓を開け放していたら、突然、バタン!と部屋の扉が勢いよく閉まり、思わずびっくりしてお尻を浮かせて飛び上がってしまった。

どうも子どもの頃から大きな物音が苦手である。大きな物音をたてられると、それだけで心臓がバクバクするし、場合によっては悲鳴をあげる(こっちの方が騒音かもしれないけど)。もっと何事にも動じないメンタルのタフさを身に付けたいけれども、どうにもこうにも大きな音にはなかなか慣れない。

なかでも苦手に思うのは、意図的に人が発する大きな音だ。たとえば物を置く際の大きな音や扉を閉める際の大きな音。あるいは圧力をかける際の大きな話し声とか―。どれもその根底には発生源となる人のイライラや怒りやコントロールがあるのが感じられて、聞くと嫌な気分になるし、ストレスにもなる。

こういう感情がらみの所作における音は、その人となりをあらわしているようにもちょっと思う。どんなにイライラしても、無駄に大音を立てない穏やかな人もいれば、自分の感情の苛立ちがちょっとでもあれば周りの迷惑省みず、すぐに乱暴な物音で発散させる人も世の中にはいるのだから。できることなら、後者のタイプとはなるべく関わりたくないけれど。

そんな所作における音について思うとき、ふと、思い出すことがある。それは以前、勤めていた先の同僚の、電話応対におけるさりげない所作についてだ。

その同僚は、電話を終えると、物音立てずにそーっと静かに受話器を置いた。どんな厄介な電話のあとであっても、会話を終えるとそーっと優しく、受話器を置くのだった。私は彼と向かい合わせのデスクにいたので、彼の行う一連の動作が否応なくいつも目に入った。しかもデスクトップ型のパソコンを使用していたので顔はちょっとしか見えず、だから手元だけが余計に目立って目に入ってきた。たいていの場合、電話の受話器は普通に置くとしてもガチャっと音が出る。それなのに、その彼の所作においては、ガチャッという音の欠片もなく、本当に見事に物音ひとつ立たないのだった。それは、彼の受話器に対する配慮であって、先方および周りの人間に対する配慮であって、なおかつ彼自身の穏やかさのあらわれのようにもみえた。だから私はいつもそれを密かに楽しみにしていた。ほんとに〇〇さん、いつも平和な対応するよねえと、感心もしながら。

もし、受話器の置き方選手権なるものがあったならば、間違いなく彼は優勝しただろう、と私は思う。でも、そんな選手権はどこにもないので、残念ながら彼がそんな栄光を手にする日はこなかったけれども。

しかし自分のように、そういうさりげない所作を人は見ているのである。そして自分もまたきっと、同じように誰かに見られているのである。だから自分のことをここまで思い切り棚に上げて書き連ねてきたけれども、自分も感情にのせて、つい大きな音をたてないように注意しないといけないなあ、と改めて思う。

だって、感情にのせて無駄に大きな音を立てる行為は、自分の弱さを裏返したほぼ威嚇だし、まわりの人にとってはただの不愉快さでしかないのだから。そしてそんな音はたぶん、立てる身にとっても、聞く身にとっても、どちらにとっても健康によくない。そう、思うから。


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