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雨、重なる自分

家を出て少ししたところで、あ、折り畳み傘を忘れた、と気がついた。
空は曇り空で、雨が降りそうな、でも降らなそうな、曖昧な空模様だ。天気予報では雨マークはなかった気がするし、まあ大丈夫かな、と、ここで引き返すのも面倒なので、そのまま気にせず先へと急いだ。けれど、そんなときに限って雨は降るものなのだ。しばらくすると、ぽつりぽつりと雨が降ってきてしまった。幸い、雨脚は弱く、小雨といったところ。傘はなくてもどうにかなりそう…、けれども、濡れる程度の雨ではある。

あ、そうだ、と、そこで思いついて、着ていたコートのフードを頭にかぶせた。フード付きのコートではあったけれど、機能的に実用するのはこれが初めてだった。かぶってみると、雨の冷たさから逃れることができた。傘ほど、とまではいかなくても、頭が濡れずに済むだけでちょっとほっとする。そしたらとたん、雨に降られてもまあいいか、とのんきになって、焦ることもせず、歩調変わらず、またゆっくり歩きだした。

歩いていると、ガサゴソと音がした。フードの内布が、耳のあたりとこすれて音がするのだ。雨音は小さくなった代わりに、布地のこすれる音だけがやけに耳に響く。雨で景色が霞むなか、頭をフードで覆っただけで、すっぽりと小さな世界に身を収めているような気分になった。不思議と懐かしい感覚がしたのはきっと、子供の頃の感覚がよみがえってきたからかもしれない。何かにそっと守られているような感じ。ぴたっと何かが寄り添っているような感じ。

なんだろう、と思いながら雨のなかを歩いた。雨は冷たいのに、胸のあたりがほんのり温かくなった。なんだろう、と思いながら歩いて、ふと、気づいた。あ、今、自分は、自分と重なっているんだ。自分がちゃんと自分になっているんだ。ひとつになっている。だからきっと、ほっとするんだ。守られているような感じがするんだ、と。

妙なことを言うようかもしれないけれど、雨のなか、フードをかぶって、小さな世界に身を収めていたら、ベクトルがすべて自分の方を向いたような気がした。自分がちゃんと自分を守っているような。子供の頃はきっと、自然と、無意識に、自分は常にこんなふうに、自分と重なりあっていたのだろうと思う。だから気持ち素直にそのまま行動したり、感動したり、泣いたり怒ったり、笑ったりしていたのだろうと思う。

でも、大人になるにつれて、外側の世界に影響された自分が出てきて、外向きの自分と本来の自分、その隔たりが少なからず生まれてきてしまったのだろうと思う。でもそれがある意味、世渡りであり、常識であり、世の中と折り合いをつけて生きていく、ということにもなっていたのかもしれない。けれどそれは同時に、外側に対してクリアになる反面、自分に対しての視点がかすむ要因にもちょっとなっていたのかもしれない。

でも、自分が自分と重なると、内側がクリアになる。安心する。ほっとする。雨のなか、景色は霞んでいくのに、不思議と外側の世界とは親密になっていくような気がした。雨、土、木、緑、音、匂い、水、光、小さな生き物―、そして自分。どれもが親しくそばにいて優しい。そして自分をしっかり抱きしめながら自分は今、大人になり、ひとりでしっかりと歩いている。

雨で薄暗いなか、微かな雨音、フードの内布と耳もとのこすれる音を耳にしながら、見慣れた道のうえを、不思議な感覚で歩いていた。少し次元の違うような、どこかズレている、でもそこが本来の道のうえのような、不思議な場所を歩いていた。

目的地に着き、フードを脱ぐともういつも自分で、着ていたベージュのコートは雨の雫のせいで、茶色のまだら模様を作っていた。


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