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砂をかける、薪をくべる

私は筋金入りのスピッツファンだ。彼らが人生に与えた影響は計り知れない。学生時代は気の合う友人と語り合い、社会に出てからはネットやSNSの普及もあり、実際に会ったことはないけど同じ好みを持つ人と繋がれるようになった。特にtwitterで繋がった縁も多い。

そんな風にして私の人生の幹を作っていたスピッツだけど、ここ数年はまともに彼らの曲を聴いていない。ライブには行くがそれほど余韻を引きずるでもなく、コロナが流行してからは一度もライブに行っていない。そしてそれを、ものすごく悔しいとは思わなくなった。熱が醒めたから。そんな単純な話ではない。元々そんなに好きじゃなかった。そんなことはない。ライブのたびにチケットが取れるかやきもきし、ニューアルバムは発売日の前日に入手し正座して聴いた。ロビンソンのミュージックビデオに出てくる神社を自力で特定し行ってみたこともあるくらいで、なかなかそこまでする人はいないだろう。苦しんで道を見つけて、たまたま現在地がここだった、ということだ。

自分のスピッツ活動をトーンダウンさせるきっかけとなったのは、間違いなく、どう考えても出産だった。とはいっても、出産と全く同時ではない。上の子の出産では、分娩室でスピッツのミュージックビデオ集を流してもらい、赤ちゃんは楓と共に産まれてきた。里帰り中、娘にミルクをあげながらずっと昔のアルバムを聴いていたし、その年に発売した「醒めない」はハイハイする娘の子守唄だった。

しかし娘の自我が育つにつれ、状況は変わっていった。娘は自分の知らないことを極端に嫌うタイプで、たまにスピッツをかけると怒るようになった。気持ちはわからなくもない。大人だって、自分の知らないもので周りが楽しんでいたら、面白くない気持ちになることだってある。娘は当時二歳くらい。知ってるものを聞かせろ、自分の好きなものを聞かせろと言ってきても何もおかしくない。ただ私は、自分の大事なものを否定されるのが耐えられなかった。あんなに大切に持っていたCDも棚からガシャンと落とされ、歌詞カードも破られた。(これは別に私に対する嫌がらせではなく、幼児として自然な行動)子供の手が届く所に置いているのが悪い。CDたちは高いところに移動させられ、無視される存在となった。

私は思い知った。もし自分が強烈にやりたいと思う趣味を持っていたら、それは育児の遂行にあたってストレスでしかないのだと。例えば、好きなアーティストの配信を観たいとする。その時間に子供が起きていたら(そもそも絶対に子供が起きている時間帯においてはこちらに選択権はない)早く寝ろよ、と子供に対してイライラすることになる。時間をずらして観ることもできるが、リアルタイムでフォロワーさんと盛り上がる、のような今までできていた楽しみ方はできない。そんなもの観たいなんて思わなければ自分もイライラしないし、私がイライラすることにより子供の機嫌を損ねることもない。

スピッツをかけるたびに怒る娘が嫌いになりそうで、ある種の防衛本能が働いたんだろう。普段でも、明らかにスピッツを好きそうにない人に、わざわざ自分はスピッツ好きですとは言わないように、と経験から学んできた。え?スピッツまだいるの?と言われてこちらが傷つくのがオチだ。オタクの防衛本能だ。娘に怒られて傷つかないよう、娘のことを嫌いにならないよう、娘の前でスピッツを聴くのをやめた。夫がたまに気を利かせて車の中でスピッツをかけてくれるのだけど、やめて、といって別の曲に変えたりした。傷つかないよう、傷つけないよう、何年も薪をくべて絶やさないでいたスピッツへの熱に、炎に、ちょっとずつ冷たい砂をかけて。

全ての子供がそうなのではなく、たまたま娘がそうだった、というだけなんだと思う。後に産まれた息子は何でもとりあえず受け止めてくれるタイプだし、子供のスピッツ英才教育に成功しているママもいるので、もし息子が先に産まれていたらまた違ったのかなと思う。そして、自分の世界に引きずり込んでくる娘のおかげで、新しい世界を知ることができたのも事実だ。Eテレ、プリキュア、特撮。どれも子供がいなかったら絶対に通らなかった道だけど、子供に隠れて自分の趣味を貫くより、今は子供の好きなものに入り込んで一緒に楽しむのが一番リーズナブルだ。そう思った。そしてこっちの界隈にも、私がスピッツのライブを観て長ったらしい感想レポートを書くように、番組を観た感想や考察を熱く文章にしている人がたくさんいることがわかり、自分とは違う国なのに同じ言語で話す村を見つけたような感動をおぼえた。どこの世界にも、何かを深く捉え、受け止め、心を込めて言葉を放つ人は存在するのだ。

そんなわけで、しばらく自分の中でのスピッツの時計は止まっていた。

引っ越しをして、小さいけれど自分の部屋を持った。初めて勉強机を買ってもらった時みたいだった。何を置いても誰も文句は言わない。子供もだいぶ大きくなり、部屋までついてきて中のものを荒らすことも少なくなった。

今ならCDを出せるかもしれない。そしてこの空間なら、スピッツを聴いてもいいのかもしれない。今の時代、もはやCDで音楽を聴く人なんていないかもしれないけど。でもそう思うだけで、自分が自分に戻ったような、押さえつけられていたものが解放されたような、封印が解かれたような、そんな気がした。久しぶりに段ボールを開けて出てきたそれらは当たり前だけど以前のままで、ああ、私がどんな状況でも待っていてくれたんだな、と思い知るのだった。

炭の奥にわずかに残った紅い火に、また少しずつ薪をくべていこう。


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