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汚れについて

育児をしていると、汚れについて考えることが多い。

汚れに対して敏感な人ほど人生損をしている。これは私の持論だ。きれい好きな人ほど、何かを汚してしまうストレスを強く感じる。少しでも汚れが付くとイライラする。新しいブラウスにミートソースがちょっとはねただけで、その日は寝るまで気分が悪いまま、とか。

旦那は汚れを感知するセンサーが壊れているのか、またはそういう機能が元々備わっていないのかわからないが、本当に汚れていることに気づかない。気になるのは私だけで、そうなると掃除するのも私だけ、となる。私は汚れに鈍感な旦那が心底羨ましかった。私の汚れ感知センサーがある日突然壊れればいいのに。大抵の汚れは、気にしなければ無害。ならば、汚れを感知しないものの勝ちじゃないか。(これを食欲に置き換えると、空腹を感知しないとお腹が空いても辛くないが、食べないと人は死ぬのでセンサーは絶対に必要だ)

その意識は、子供が生まれてからさらに強固なものになった。私より早く子供を産んだ友達から、カーテンに納豆を塗られるとは聞いていたが、実際に起こることを目の前にするとめまいがした。ドロドロの離乳食を口からべーっと出して机に塗る。食べたものがほとんどよだれかけに出てる。床には常に何かしらの液体。砂まみれの服のまま布団に入る。靴のまま部屋に入ってくる。

私は汚れに対しそれほど敏感ではないと思っていたが、汚し放題の子供が何かするたび、悲鳴を上げながら片付けざるを得なかった。まだ言葉も理解しない乳児が汚しては拭き、汚しては拭きを餅つきのように繰り返しているうちに、どうして私はこんなに狂ったようにテーブルやイスを拭いているんだ?と疑問が湧いてきた。この子は何も分かっていないので、綺麗だろうが汚かろうが関係ない。この空間で、このテーブルを綺麗にしたいのは私だけ。ではなぜ綺麗にしたいのか?もし私が、手づかみで食事をする文化の国で育っていたら。手、皿、テーブルなどが汚れることが普通なので全く気にならないだろう。しかしここは日本。我々は小学校で隊列を組んで雑巾がけをさせられ、周囲のものを汚さない、周りに迷惑をかけない、電車では最小限のスペースを使って縮こまっているように教育された。あらゆるものが除菌され、掃除や洗濯をもっとやらないとこんなに菌が、というコマーシャルで溢れかえっている。私はこの国でちゃんとした大人に育った、その結果、人間よりも動物に近い、この国の習慣を何一つ理解していない赤子と、汚しては拭いて、の餅つき大会をしているのである。ちゃんとした大人になったはずなのに、今までの常識が私を苦しめている。皮肉だ。私は育児における餅つき期間中、手づかみで食事をする文化圏に生まれたかった、と毎日思っていた。靴のまま家に入って来るようになると、アメリカ人に生まれたかった、と毎日思っていた。

育児でストレスをためない秘訣は、自分の汚れセンサーの感度を、自分ができる極限まで鈍くすることだと思う。汚れるたびに拭くのではなく、最後に全部拭けばいい、と割り切れるか。目の前でおかゆがテーブルに塗られていくのを、大らかな気持ちで見ていられるか。布団から砂が出てきても悲鳴を上げないでいられるか。私の経験上これは簡単なことではないので、もはや修行の域である。汚さない努力ではなく、気にしない努力。育児は、親の精神修行なのだ。

修行の成果はそれほど出ず、今日もアイスの棒をベトベトされる前に早々に片付けてしまった。これでは片付けの習慣もつかなくて困る。教育も、そのバックグラウンドには親の方の精神修行は必須、ということか。


最初の画像は、タイツで砂場。これくらいは修行のかいあって、優しく見守れるようになりました。

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