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80年前、イトバヤットの島民に助けられた命

 1944年11月末、祖父はその時人生で3回目の沈没を体験する。
 1度目は19歳、東栄丸というタンカーに魚雷が当たって海に投げ出され、2度目は21歳、重巡洋艦「最上」にてマリアナ沖海戦に参加した時、体中に弾を浴びながら奇跡的に蛇のお守りに銃弾が当たり致命傷を逃れ、3度目はその1ヶ月後、おそらく11月25日。日本へ戻る船に便乗していたのだが、それが魚雷攻撃を受けた。
 漂流から1ヶ月間の祖父の体験を、聞き取った内容を元に記録する。

 便乗していた船はおそらくだが「さんとす丸」。この船は、「最上」の残留兵を乗せて44年11月21〜25日マニラから台湾を経由し、内地へ向かっていたらしい。
 この時祖父は、最上の残留兵としてマニラで陸戦隊に入っており、11月末に内地へ向かう船に便乗している点が一致している。


今でも保存されている蛇のお守り
弾に当たった痕は今も残る

 
 祖父は鳥取の実家を出て外を歩いていた。
とても天気が良い青空。花がたくさん咲いていた。
 実家からお墓に向かう途中、小川が流れている。(現在は橋がついている)当時は飛び石を踏んで渡っていた、その小川が、濁流になっていたのだ。向こうは美しい花畑で、川を渡りたい気持ちが強いのに、渡れない。すると向こう岸に祖父の母が現れた。
「こっちに来るな」

 祖父は海中で目を覚ました。渦の中へ巻き込まれ、これでおしまいだという状況。ラッパの紐が船のボートを吊るすフックに引っかかっており、身動きが取れない。しかし、海の中で足を踏ん張った。紐が切れた。

 同日、祖父の母は例の小川で大根を洗っていた。すると大きな金色の蛇が檻の中にいたという。昼間のことだった。
 その蛇が、小さな蛇のように分散して、カナメから抜け出て散っていった。そしてそのまま天に昇っていったという。祖父が沈没したのと同じ日のことだった。

 祖父は海上で流れてきた漬物の桶にしがみついた。同じように海に投げ出された者が何人もがしがみついている。周りには浮かんでいる板へしがみついている者も。途中で日本の飛行機が見えて、みんな手を振って主張した。その後、さんとす丸の記録では救護の船が来ているようだが、祖父の記憶にはない。どこに流れたのか。何日経ったのか分からない。寝たら終いだ。意識は朦朧と、桶や板に掴まっていた者も、一人二人と沈んでいく。死体。

 鳥取砂丘の海を泳いでいた。
 お母さんが海岸で呼んでいる。「早く帰ってこい。梨があるけぇ。」手招きする母の幻覚に、岸壁の岩に掴まったのが最後の記憶である。

https://www.trop.kais.kyoto-u.ac.jp/sota/details/itbayat.htm

 実際イトバヤット島へ行かれた方のサイトに書かれていたが、この島は岩に囲まれていて砂浜がない。イトバヤットで検索した動画を見ても、船から岩に飛び乗る形で下船していた。祖父の言っていた「岩に手をかけたのが最後の記憶」というのはどこのことだったのかは分からないが、場所によっては絶壁らしい。人通りのある岩礁に流れ着いたのは奇跡としか言いようがない。

 気がついたら、海の近くの野原に寝かされていた。軍服を脱がされ素っ裸、盗まれている。服がないので全身日焼けして火傷の火ぶくれ。痛くて痛くて体は全く動かず、大小排泄は垂れ流しであった。

 しかし、ある人がやってくる。50代くらいのおばさんだった。民族衣装らしい着物を身につけていた。喉はカラカラである。彼女が椰子の実を割った水を飲ませてくれた。命の水であった。
 その後再び祖父は意識を失うが、おばさんが知らせたのか、その後3人くらいが祖父の体を担いで運んでくれた。村の集会所のような小屋の、土間に寝かされる。暖かい地域だったため、椰子の葉を突き刺して外と遮断しているような作りで、雨が降って濡れない程度のほったて小屋だった。椰子の葉が屋根になっている。
 1週間は体が動かなかったが、10人くらいが入れ替わり立ち替わりで世話をしてくれ、常に人がちょこちょこ来てくれていた。裸足で半袖シャツのような格好に半ズボンの人たち。
 祖父この時21歳、同い年くらいの男性がこの村のリーダーだった。彼は酋長の息子で、この人のみ、なんと日本語が分かったのだった!何故なら戦前、漁船くらいの小さな船を使って、酋長である父と共に横浜や神戸へこの土地のものを売っていた時期があるのだという。しかし、その船を米軍が沈め、酋長は亡くなっていた。よって偶然にも彼は、日本兵は父の仇を打ってくれる、というシンパシーを覚えていたのだ。
 彼は優しく、若くして村を治めていた。他の人の言葉はわからないが、彼のみ片言でコミュニケーションがとれる。日本人は療養中は卵粥を食べる、という知識で、彼はわざわざ卵粥を作るよう指示してくれ、盗まれていた軍服も何処かから見つけ出し、返してくれた。
 ここで祖父は1ヶ月弱お世話になる。ここが多分、イトバヤットであると思われる。

 今の記録では、イトバヤットの人口はなんと3600人程度。80年前とはいえ、もしかした祖父のこのエピソードを聞いている方がいないものだろうか。
 祖父は現在老人ホームにおり、今やコミュニケーションは殆ど取れなくなってしまった。元気な内に「その酋長の息子さんの名前がなんだったか覚えてないか?」と聞いたのだが「それは覚えとらん」とのこと。この後も波瀾万丈な出来事が多く、覚えていられないのも仕方ないのかもしれないが。

 献身的な看病を受け祖父はだんだん元気になり、酋長の息子へ、日本の船が近くを通ったら教えて欲しいとのお願いをした。そこで島民のみんなが見張りに立ってくれることになる。(本当に至れり尽くせりだ)

 漂着して1ヶ月弱後、近くを徴用船になっていた漁船が通りかかった。村の人が教えてくれ、祖父は手旗信号で呼び寄せる。夕方頃のことだったという。当時は敵に見つからないために、輸送船は夜行動していた。よって、出発は夜だ。

 最後、出港時に15、6人が見送ってくれた。

 ところで、その漁船には、5、6人の兵隊が乗っていたらしい。30を過ぎた歳の者もいたとか。この人たちも、似たように漂流してどこかで生きながらえた者たちなのだろうか。「自分の体験をこの方々に話した?」と聞くと「守秘義務があった」と祖父は言った。この様な経緯は話してはいけないという義務があったらしい。

 この頃鳥取では祖父の葬式も終わり墓が立っていた。沈没時に戦死とされ、石ころが入れられて帰ってきていたのだ。祖父の母は蛇の一件から、戦死の知らせがきても「あの子は死んどらん」と言って葬式をあげないと言い張ったらしい。しかし当時、戦死者は名誉として村をあげて葬式をせねばならず、断るわけにはいかない。よって村葬され、墓ができていた。

 その後祖父は、バスコの901航空派遣隊に仮入隊、後に台湾の「きゅうほう」へ。(恐らく、現在ミサイル基地のある「九棚」は旧日本軍の基地と関係しているのではないかと予想)台湾でもかなりの出来事があるのだが、台北にて終戦、残務処理を終えてようやく日本に帰ったのは1946年の春。解散前にみんなで握ったおにぎりを汽車の中で食べていると、目の前の子供が泣いた。「食べたい、食べたい」と。前線に出ていた者には知らされていなかった国内の食糧状況を、この時初めて知る。

 80年前の出来事で祖父は命を救われ、現在地元の鳥取で人生の最期を迎えようとしている。私は幼い頃からこの話を当たり前のように聞いて育ったが、大人になるにつれ、当たり前のことではなかったのだと知ることになる。イトバヤット島は今現在どのような状況なのだろうか。治安は?泊まる場所は?どういうルートで行けるのか?また、現地の方と話せる人を探している。イトバヤットに詳しい方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。
 ありがとうございました。


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