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「河童の三平」が舞台化してしまう…!その1

こんにちは、うしです。
わたしは水木しげる先生の名作漫画『河童の三平』の舞台化を企画しました。脚本は水木先生のお弟子様として有名な小説家・京極夏彦先生です。

水木ファンなら膝を打つこの企画。自分で言ってちゃ世話ないですが、我ながらまじやばい企画だなと震えてます。水木ファンでない方にこのすごさを説明するならば、スサノオの原作を子孫・大国主命に脚本にして欲しいと下々の人間が頼んだらまじで神々から許可が下りて書いていただけた、という感じです(伝わる?)

私は水木大先生や京極先生と元々お知り合いでもなんでもなく、ただのいちファンでありました。そんな私がどうやってこんな大それた企画ができたのか。そこのところをちょこっとかいつまんで記してみようと思います。そして今年の冬にはぜひ、この企画がどんなふうに形となり立ち上がったか、その目で目撃にいらしてください!演劇は消えてゆく芸術。たとえDVDになったって、その場の呼吸・時間・肌感覚はその日劇場を共にした限られた人数としか味わえません。心よりお待ちしております!

三平仮チラシ

人生の全てはこの人から学んだ。水木しげる大先生。

鳥取県に生まれた私にとって、物心つく前から水木作品は街中に溢れるあらゆる地元産業とのコラボ、土産物、特に意識することもなく毎日見る「日常」であった。
民放が3チャンネルしかなかった鳥取ではテレビ番組は限られていた。タモさんのミュージックステーションは土曜の16時頃放送されており「なんでこの番組いつも生放送っぽい雰囲気なんだろう…?」とよく疑問に思っていたけど、あれはほんとに生放送だったんだね!!

脱線したが、放送枠の狭い鳥取では鬼太郎の再放送をしょっちゅうやっていて、3期(人間の女の子、夢子ちゃんがレギュラーの期)と4期(ネズミ男が黄色い頭巾の期)は同時期に放送されていたり、夏休みは毎年ドラマ版「のんのんばあとオレ」が流されていた。夏休み宿題を先送りにしながら毎年、身近な境港の、おじいちゃんと同年くらいの幼少期のお話を視聴するのは、溢れる自然と、信心深いおじいちゃんおばあちゃんのいる日常と、水木しげる作品という、こう、空気に近い「日常」的存在だった。


意識を大きく改めたのは高校生の頃。


自転車通学(山越え8キロ)の通学路にある博物館で「大(Oh!)水木しげる展」なるものが開催されるという。鳥取県立博物館を皮切りに全国を回るというのだ。それまでも水木先生の作品展はあったし、娯楽の少ない鳥取だったので小学生の頃も行った覚えがある。だから特に気にしていなかったのだけど、先に展示を見てきた兄貴が異様なまでに水木先生の世界観にハマった。家にどんどん本が増えていく。自動的にそれを読む。開催期間中に私も、真ん中の兄貴も、まんまと兄弟三人揃ってこの人物に大ハマりした。

入り口はエッセイだった。だから今でも私たちにとって、水木先生は漫画家というだけでなく、人生哲学の師匠というイメージが強いのだ。

エッセイの中に、突然全然知らない人の名前が出てくる。あれ?この人誰だっけ?と思って読み返す。あまりにも「皆様ご存知の」的な感じで話が進むから読み手が忘れてるだけだと信じ込む。しかし読み返しても出てこない。「え?!」と狐につままれる。だがこれはミスではない。完成形なのだと読者の方が納得してしまう。水木しげる先生の器は地球レベルである。

さて話は戻って展の開催中、水木先生がご登壇される特別講義が開かれると聞いた!参加できるのは抽選に当たった者のみ。そして兄貴は葉書職人と化した。
「もう80代だ。いつ会えるか分からん。これは今の内になんとかして会わないけん!」との情熱虚しく、全て落選。ガックリ肩を落とす兄貴を尻目に、吹奏楽部の同級生の友達が私を誘った。

「私、京極夏彦のファンなだけど、今博物館でやっとる特別講義、京極先生の回抽選で当たってしまっただが。二人分だけぇ一緒に行かん?」

京極夏彦?誰だそれ(失礼)と、普段全く本を読まない私は流されるまま彼女に着いていった。これが今後の人生に大きく影響するとは知らずに。

京極先生に初めて邂逅した私の感想は「この人、水木漫画に出てくる人だ。実在人物だったんだ…。」であった。

水木先生お弟子さん

京極夏彦先生は水木先生の二番弟子であり、一番弟子の荒俣宏さんと共に今回の展示のプロデュースをされていたのだった。

京極先生のご講義はこんな感じであった。(18年前の記憶をひねり出して書いておりますので間違っていましたらご容赦下さい。)


「妖怪」という言葉は遥か昔から使われていたとお思いではありませんか?実は「妖怪」を今の様に使うようになったのは、水木しげる以降です。

「妖怪」は得体の知れないつむじ風なんかの「怪奇な現象」の事を表しており、今皆さんが認識されているキャラクターみたいなものは長らく「モノノケ」と呼ばれていた。

地方に伝わる怪奇現象などに見た目を与え、「現象」「モノノケ」「幽霊」「おばけ」「妖精」のようなものにキャラクター性を持たせて全部ひとまとめにして今まで殆んど使用されていなかった「妖怪」という言葉に全てぶちこんだのが、水木しげる。「妖怪」が今のように使われ始めたのは、実はつい最近なんです。それなのに何故、まるで遥か昔から使われていた様に私たちは錯覚してしまうのか。

日本の文化は、曖昧さと共にある。言葉、日常において、曖昧さを内包している。

鬼太郎は幽霊族という実在したサンカの様な集団の末裔という設定を持ちながら、敵に食われたりぺしゃんこにされても生き延びたり、しまいにゃあの世とこの世を行き来できたりする。人間なのか、幽霊なのか、最早設定はあやふやだ。だけど何故か僕たちは受け入れてしまう。何でもありのようでいて、どこか私たちに馴染み深いルールが根底に流れている。

水木先生の作った「妖怪」という枠組みは、日本人の曖昧さの文化に完全に馴染んでいる。これは水木先生が考え抜いて設定を仕上げた、というより、もっと感覚的に、日本の神仏の感覚の体感で描いているのだと思われる。

キジムナー

私はこの講義を聞いて感動した。神社仏閣、民間信仰、目に見えない世界、この辺りに自然と興味を持ち始めていた私に、死ぬほど刺さった。


水木先生は、世の中の法律やルールには従わない。先生の中には完璧な指針の様なものがある。それは今の様にファンやお弟子様に慕われるよりずっと前、戦時中であろうと変わらないまま、そのルールに基づいて生きていらっしゃった、上官に半殺しレベルで殴られようと。懸命に、頑固に意志を貫き切ったというより、どんな状況でも自然体になってしまう、そういう、ガチガチではない指針なのだ。


「死は、小便をするのと同じくらい転がっていた」という水木先生の例えのごとく、日常に死があった戦時中出会ったのがトライ族の人たちだった。マラリアにかかり40度の熱の中、殆んど治療もできない南方最前線で爆撃を受け、左腕が大損傷。意識のある中麻酔なしでノコギリにて腕を切断される。骨を削る振動と音を聞いたという壮絶な体験をしながら、遂にせん妄状態となりスコールの中川に飛び込んで朝を迎えた時、「このままだと死ぬ」と、とても悲しい気持ちで悟ったという。何としてでも生きなくては。木を杖に食べ物を探し歩き、現地のトライ族と出会った。原住民との交流は軍法で禁止されているのだが、先生が彼らに「にこっ」と笑ったら、向こうも「にこっ」と返してくれた。彼らと先生は、言葉は通じないのに、軍隊の中の日本兵よりも言葉が通じた。すぐに友達になって食べさせて貰い、意気投合して終いには家も畑も嫁も与えられかける。

死という日常と、すぐそばにある天国。

後に水木作品によく出てくる構図である。殺伐とした日常のすぐ近く、ふと神社の裏を、電柱の裏を、木のウロを覗き込むと、妖怪世界へ繋がっている。そこは朝は寝床でグーグーグー、学校も試験もなんにもない。

この二重構造における現代社会への皮肉、切なさ。経済、社会、学校というルールの中あくせく働く人間を尻目に、すぐそこにいる妖怪たちは余暇を味わってのんびり楽しんでいる。

40数年後、先生は漸くトライ族との再会を果たすのだが、そこには既に貨幣概念というものが参入していた。彼らはいつまでもグーグーグーしなくなっていた。当時暖かい南方では、涼しい午前中2、3時間働けば勝手に食べ物は育ち、暇な時間はお昼寝したり星を眺めたり。しかし生活は変化し、資本主義の観念が入り込んでいた。余暇があるならばより稼ごうという考え方に。水木先生の求める「天国」は消えた。水木先生はその後、世界を旅して「天国」を探し続ける。

水木先生スケッチ

戦時中、先生はたびたび現地の人に頼んでスケッチさせてもらっていた。


私は悩みすぎる所がある。中々水木先生のようにはいかない。それでも今まで美味しい話に食いついて自分を見失う様な事がなかったのは、間違いなく水木先生のお陰だ。私の判断は、水木先生に対して恥ずかしくないかどうか、がすべての基準になっているのだ。



大学時代は神戸で、古事記だの原始宗教だのを勉強しながら水木荘(水木しげるのペンネームの元になった家)の近くをニヤニヤしながら何度も通ったし、公務員になった兄貴は念願叶って境港勤務となって毎日水木しげるロードを走っている。(羨ましい)


上京を決めた時、私はまず水木先生お住まいの調布市を調べ上げた。だが調べる内「まだ先生にお会いできる人間レベルには到達していない…」と考え直した。結局、劇団に通いやすい浅草近辺に引っ越した。

後に劇団が三鷹に移動した際、4畳弱、収納ゼロの賃貸を早く出たくて、今度こそ調布市の物件を探した。親身になってくれたのは役者を辞めて不動産会社に就職した先輩で、地名をお伝えして調べていただいた。しかし、そこの地名は、調布以外にもあるのだ。(ばかなの?)優しさの勘違いで先輩は劇団に近い三鷹の物件を教えてくれた。「違います」と言いづらく、結局別の物件に決めてしまった。

そんな折だった。水木先生の訃報を聞いたのは。



あの日の薄い雲が引いた秋の空の色を、私は永遠に忘れないと思う。


つい先日まで、スタ丼を大食いしてらしたのに。ビックマックを頬張る90代と話題になっていたのに。92歳で月刊誌の連載を持たれていたのに。

人は死ぬんだということを、何故私は分からなかったのだろう。肉親が亡くなった時とほぼ変わらない悲しみが襲い、何をしていても涙が流れ続けた。

その日は介護のバイトの夜勤で、深夜、急遽の追悼ラジオをバイト先の車に籠って聞いた。

そして明けた朝、朝日新聞の記事を読んで私は救われた。


「僕もファンも、みんな水木作品」

京極夏彦先生の追悼文だった。


鬼太郎が好きな人も、水木漫画が好きな人も、ファンになった人たちは最終的にみんな水木しげるのファンになっていく。それは水木作品の中で一番面白いのが水木しげる本人だからだ。この人物の魅力にみんな虜になる。水木先生は奇人変人が好きだが、どうやら水木しげるを好きになる人も、奇人変人が多い。僕もその一人。そして水木ファンのあなたもその一人。僕も、ファンも、みんな水木作品の一部なんだ。

(思い出しながら書いてるので正確ではありません。すみません。)

思い出しながらも私は泣いてしまうのですが、この言葉に、地の底に落ちていた私は救われたし、きっと日本中の水木ファンも救われたと思う。今思えば、誰よりも水木先生を慕われていた京極先生ならご主張されたいことだって沢山おありだと想像できるのに、こういう文章を書かれたのだ。この愛をなんと表現できようか。


その2か月後、「水木しげるサンお別れの会」が開かれた。午前の部は関係者向けに、午後の部は一般向けに開放され、8000人もの人が青山斎場から乃木坂駅まで長蛇の列を作った。

私はこの日、慶応幼稚舎でこども向け芝居のゲネプロ(ほぼ本番に近いリハーサルのようなもの)をしていて、一般参列の最終入場時間18時にこちらも仕事終了というスケジュールであった。

悔し過ぎた。しかし、幸運にも場所は近い。18時20分頃校舎を飛び出した私はタクシーに突進し、斎場へ向かった。着くとまだファンが集まってはいたが、鉄の門は固く閉められている。時刻は18:45。門の前で空気だけでも味わおうとひたすらに深呼吸をしていた所で、門番の警備員が現れた。

私が泣きながら小刻みの深呼吸していたせいであろう。「……入る?」と天の一言が発せられた。私は深ーくお辞儀をし、開けられた隙間から会場へと走った。展示されていたパネルや映像はスタッフにより撤去され始めている。会場の入り口に駆け込んだその瞬間、スタッフさんが扉を閉めてしまわれた。(ああ!間に合わなかったか!)そう思ったが、「お待たせしてすみません。今親族の方が集まられているので、少しお待ちくださいね。」

なんとスタッフさんは、私が8000人大行列の最後の一人だと勘違いされたのだ!!白い花が手渡される。祭壇に置いてくださいと説明を受ける。かなり待たせたと勘違いされているため、非常に丁寧で優しい。私は既に手が震え、一言も話せなくなっていた。

扉が開いた。

そこには、長年お慕いし続けていた、奥様布枝さん、長女尚子さん、次女悦子さん、そして長女の旦那様、一人息子様、水木プロの方々が大集合されていた。信じられなかった。ここがどこだか一瞬分からなくなった。ガタガタ全身が震えた。

スタッフの方がどうぞお供えくださいと仰有って、私は遂に、遂に、水木先生と対面した。

京極先生のデザインされた、「丸い輪の世界」(名作)の作品をモチーフに、花の輪の中からあの世とこの世が繋がっている。あちらの世界で笑っている普段着の先生のお写真と、骨壺。

漸く、ご本人にお会いできたこと、それがお遺骨だということ、ずっとファンだったご家族みなさんと同じ場所にいられることが合間って…

大号泣してしまった。

「お"っ!お"っ!お"ぉーん!!」


どんなに声を抑えようとしても抑えられない。粛々とした斎場に雄叫びが響いた。今まで優しかったスタッフ皆の目の色が一瞬で変わった。

「やべぇ過激派ファンが来てしまった」そういう空気を確かに感じ取っていたのに、どうしても声が抑えられない。それなのに、ご家族の皆様はこんな私にも優しく声をかけてくださった!

「こんなに長らくお待たせして申し訳ありませんでした。本日はありがとうございました。」

憧れのゲゲゲの女房、布枝さんと尚子さんを前に、私は理性を飛ばしながらこう叫んだ。

「私は演劇をしております!水木先生の河童の三平を舞台にしたいと考えております!」



今考えても狂っていたとしか思えない。調布にさえ住めなかった私がよく言えたもんだと思う。尚子さんは(この人大丈夫かな…)という困惑の色を見せながらもご丁寧に「是非、事務所を通してまたご連絡ください。」と仰有った。


そこからが怒濤の五年間であった。


あんまり長いので割愛しますが。
それが遂に、今年実現するのです。企画自体未経験のわたしが、後先考えず突っ込んでいき京極夏彦先生にお願い申し上げるという暴挙を経て。



因みにですが、斎場を出た後、門の前で泣いているおじさんがいた。シンパシーを覚えた私が話しかけた所、曰く「55分に着いたけど、もう門が閉まっていた…」と。私との差、5分。あのタイミングで斎場に入れて貰え無かったら、舞台実現はなかったかもしれない。運命の神秘を感じる。

「私は水木先生に会えましたから」と参列者にのみ配られたポストカードを渡すと彼は号泣した。そして「京極先生の追悼文読みましたか?」とお聞きすると、読んでない、と。内容をお伝えしたら彼はもっと号泣した。泣いてるおじさんと慰める20代、そこにもう一人濃い人物が近寄ってくる。デカメガネ・ネルシャツイン・パンパンのリュック・やけに大きなカメラを首から下げた懐かしき旧式オタクスタイルのおじさんであった。旧式おじさんは泣いてるおじさんに話しかけながら、何故か漫画知識マウントを取り始めた。その内私にも矛先を向け「あなたはお若いからご存知ないでしょうが、手塚治虫は水木しげるに嫉妬していたエピソードがあるんですよ!」と言い始めたので「『一番病』の話ですよね」と言い返した所すごすごと去って行かれた。自慢話で締めるというセンスのない終わり方ですが、こんな長い文を読んでくれたあなた、それだけで本当にお疲れ様でした。本当にありがとう。


次回、「鬼太郎茶屋で働き始める。」

繰り返しますが、今年の12月、両国にて公演の舞台「河童の三平」ぜひその目でご覧になってください!


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