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【小説】妹あろえ

 俺には学年でいうと三つ下、小学四年生の妹がいて、ある夜、夕食の席でいきなり両目からアロエを流す。

 よくヨーグルトに入っているような立方体ではないし、見てくれは柔らかい透明の個体ってだけなのだが、それをびちゃっびちゃっと流しながら妹本人が「あろえー……あろえー……」と云うので、そう見える。

 両親も俺もびっくりする。そういえば俺の以前のクラスメイトに猫アレルギーの奴がいて、そいつは症状がひどくなると目からゼリーを出していた。俺はその話をしてみるが、妹は猫アレルギーじゃないし、花粉症でもないし、食卓に並んでいるのもいつものメニューで、今更アレルギーと分かるような食材は使われていない。

「でもアレルギーって、それまでは平気だったのに突然なったりするからね」

 母はそう云いながら、アロエまみれになった妹のご飯をキッチンの方へ持っていく。アロエはすぐに止まったものの、妹は充血した目をしていて、顔も真っ赤にして俯いてしまっている。俺はその背中をさすりながら「大丈夫か?」と声を掛けてやる。

「あら、本当にアロエだわ」

 母がキッチンで云う。そして一度さげたご飯茶碗を持ってきて、父にもそこに乗ったアロエを食べさせる。おいおいおい、何してるんだあんたら?と思うが、父もまた「おお、アロエだ。美味い」と感動している。

 俺は信じられない。いや、妹が目から出したものが食べるとアロエだったってことではなく、妹が目から出したものを平気で食べている両親のことが信じられないのだ。

 しかも「あんたも食べてみ。アロエだから」と俺の方に差し出してきた。

「食べないよ。どうかしてるんじゃないのか?」

 俺の言葉は無視される。父も母も二口目、三口目というふうにアロエを口に運んでいく。妹のアロエを。俺は何だか居た堪れない気持ちになって、妹を連れて二階の妹の部屋に行って妹をベッドに寝かせてやった。妹は「ごめんね、お兄ちゃん」と、両手で顔を覆いながら申し訳なさそうに云った。「何を謝ることがあるんだ」と、俺はその小さな頭を撫でた。

 翌日、俺は恋人のカオリを家に連れてくる。中学校で知り合った俺達は一ヵ月くらい前から交際していて、家に来るのもこれで三度目だ。両親は共働きなので家にいない。俺の部屋で雑談していると、妹が這入ってきた。カオリははじめて家に来た時から妹と面識があって、まぁまぁ打ち解けている。

 妹が持つ盆の上に皿が二つ乗っていて、盛られているのはアロエヨーグルトだった。

 昨日の今日なので俺はギョッとする。アロエは立方体に切られているが、はじめからアロエヨーグルトとして売られているものを皿に移したんではなく、自分でプレーンヨーグルトにアロエを混ぜた一品であることが見た目で分かる。

 まさかな……と思う俺の目の前でカオリはそれを普通に食べて「あ、美味しい~」と感想を述べている。妹は照れたように盆で顔を隠している。俺は、妹には悪いが、何となく気が進まなくて食べるのは遠慮した。

 妹が部屋を出て行くと、カオリが同情するような感じで口を開いた。

「妹ちゃん、学校で寂しい思いをしてるみたいだよ」

「ん、何でカオリがそんなこと知ってるんだ?」

「メールしてるもん」

「へぇ」いつの間にアドレスを交換してたんだ。

「お兄ちゃんが中学に行っちゃって、話せる人がいないんだって」

「……もしかして、虐められてたりしないだろうな?」

「分かんない。私にはそこまで話してないけど」

「そうか……」

 去年までは登下校も俺が一緒だったし、学校でも休み時間は様子を見に行ってやっていた。妹は気が弱い方だから、からかわれたりしないだろうかと心配して。しかし俺が中学生になって、今の妹が学校でどうしているのかは分からない。妹に訊いても「心配しないで。何もないよ」としか答えないし、もうそろそろ干渉も控えた方がいいだろうと思って、俺も追及したりはしていなかった。

 やはり人間関係で悩みがあるのだろうか……。

 その夜、異変が起こる。あるいは、異変が起きていたことが発覚する。夕食のメニューが昨日とまったく同じだ。残り物というわけでもなくて、新たにいちから作られてこれだ。どうしてか尋ねると、母と父が顔を見合わせて笑う。

「またアロエ出してもらいたくてねぇ……」

「お前は食ってないから分からんだろうが、病みつきになる味なんだよ……」

 衝撃を受ける。耳を疑う。妹は「ひっ……」と言葉を詰まらせて、席を立ってダイニングを出て二階へ駆け上がって行く。当然だ。俺が後を追う。妹は自分の部屋の床にうずくまって「あろえー……あ、あろ、えー……」とまた目からアロエを流している。びちゃっ、びちゃっ、びちゃっ。

「おうおう、出てるぞ出てるぞ!」

「しめたわ!」

 俺の後から父と母が這入ってきて俺を押しのけて、二人とも床に四つん這いになってアロエを啜り始める。「美味い!」「これよこれ!」「食べ物のアレルギーってわけじゃなかったのか!」「涙の代わりにアロエが出るのかしら!」

 俺は「なに考えてるんだ!」と怒鳴るが、二人ともまるで聞いていない。

 二人のアロエへの嵌りっぷりは常軌を逸していて、この日から夕食の時間になるとデザートとばかりに妹にアロエをせがむようになる。二人は妹に負荷をかける、すなわちストレスを与えることによってアロエを流させることができると発見する。妹に信じられないような暴言を浴びせ、さらには暴力まで振るってアロエを流させる。俺は妹を守ろうとするが、学生時代にずっと格闘技を習っていた父の怪力にねじ伏せられる。

 我が家は滅茶苦茶だ。両親は人が変わってしまった。妹のアロエにはそんな魔力があるらしい。カオリまで、俺の家に来ようとするのを断ると「え~、妹ちゃんがこの前だしてくれたアロエヨーグルトまた食べたいんだけどな~。どこで買ってるやつなのか教えてくれないし~」と云うので、あのヨーグルトに入っていたアロエが妹の両目から出たやつだとは確信がないものの、そんな気がしてゾッとする。いずれにしても家庭崩壊している我が家にカオリはもう連れて来られない。

 両親はもはや夕食の時間だけじゃなくて、家では常に妹に暴行してアロエを出させては一心不乱に食べ続けている。それを止める力のない俺には、隙間の時間に妹を慰めてやることしかできない。俺も妹も生傷が増えていって、俺は学校でカオリにも他の友人にも教師にも心配されるが、家庭内暴力のことは打ち明けられない。だが、もう教師なり警察なりに相談すべきなのだろうかと悩み始めたころ、俺が学校から家に帰ってくるとトゥルルルルッと電話が鳴る。

 出ると、母の職場の人が、母が死んだことを告げる。仕事中にいきなり暴れ始めて、口から血と臓物とそれから大量の柔らかい透明の個体を吐き出して死んだらしい。続いてまた電話が鳴って、今度は父の職場の人が、父が死んだことを告げる。その死に方は聞いたばかりの母の死とまったく同じだ。

 俺はハッとする。カオリに電話を掛ける。スリーコールで出て「もしも~し」という元気そうな声が聞こえてくるが、挨拶もしないで問いかける。

「だ、大丈夫か? 体調が悪かったりしないか?」

「別に普通だけど、どうして? あ、妹ちゃんにお礼云っといて~。メールでも云ったけどね、アロエありがと~すっごく美味しくて毎日食べ――う、うヴぃ――うヴぃヴぃヴぃ、ヴぃあいあああああ――」

 携帯電話が床に落ちる音。カオリの絶叫。暴れ回る音。何かを大量に吐くような音が聞こえて――――無音。

 俺は通話を切って、携帯電話を適当に放る。

 振り返ると、妹もリビングに来ていた。両手で顔を覆い、小刻みに震えている。

 俺は妹に歩み寄って、その手を掴んで顔から剥がす。

「うふっ、うふふふっ、うふふふふふふっ」

 妹は笑っていた。顔を隠している時、妹はいつも笑っていたのだ。

「〈憎〉のアロエだよ」妹は云う。「お兄ちゃんが中学校に行っちゃって、私、何もかもが憎くなった。その思いが私のアロエを作るの。〈憎〉のアロエは食べた人を殺すの。私の〈憎〉は食べても消えなくて体内に残り続けて、それは私じゃない人には耐えられない毒なの」

 妹は俺に抱き着く。強く強くしがみついて、その華奢な身体がぶるぶる震え始める。

「あ・あ・あろ、えーー……あろえーーーー……ろえろえろえろえ……」

 びちゃびちゃびちゃびちゃ、両目からとめどなく流れ落ちるアロエ。

「あ……はぁ。そ、そしてこれが、〈愛〉のアロエだよ。お兄ちゃんだけが食べていいんだよ。〈愛〉のアロエは〈憎〉のアロエと違って体内に染み渡って溶けてぽかぽか暖かくなって幸せになれるから。私の〈愛〉を、受け取って」

 恍惚とした妹の表情が、とても可愛い。

 俺は頷いて、妹の頬に垂れていたアロエを吸う。

 皮肉なことに、〈愛〉のアロエはとても不味い。

 だが俺は云う。「愛してるよ」と。


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