「デッドライン」を読んで 2回目

最初に読んで、2回目に今日読み終わって。
約一年半ぶりに読んだらしい。
ちょうど今の仕事の面接の頃にこの本を読んでいたことになります。
その当時は、仕事を辞めたことについて、正しい結論だったのだろうか、と、仕事が人生の全てだった頃の考え方をしていたようです。
一年半の時を経て、キャリアへの執着も消え失せ、次は婚期を逃す=デッドラインなのか??

デッドラインとはなんなのか

この本の最後から3ページ目の文章。前回読んだ時は引っ掛からなかった。多分、BLEACHかな?と思っただけだった。

自分自身が、自分のデッドラインになるのだ。

千葉雅也 デッドライン P159

もちろん、物理的に線になるわけではない。BLEACHは物理的になったようだけど‥‥

どのような事態であれ、自分が「引き受ける」ということ。無知で浮世離れしていた主人公は、物語の最後に実家が破産し、さまざまな生活の雑多なことを引き受けなければならなくなった。
もちろん、生活の雑多なことを引き受けるのは表面的な話だけれど、自分自身がデッドラインになること、とは、責任を負う、ということを指しているような気がした。でも、責任というのは言葉選びがちがう‥‥

眼差しについて

「眼差し」という言葉は、人文学系の人が好んで使う単語の一つだと思う。永遠と自分と他者について考え続けている。

他者からどう見えるか、ではなくて、他者が自分となり、自分が他者であり、実は境界線は曖昧であるということ。
自分が相手を見ているのか、相手が自分を見ているのか。
相手を見ているのではなく、相手を見ながら自分を見ているのか。
相手もまた、私を見ているようで自分自身を見ているのではないか。

僕の体は遅い。ノンケの友人たちは、僕とは相対的に異なる速度を生きているかのように思えた。(中略)彼らは僕を無限の速度で引き離していく。安藤くんの眼差しのまっすぐさ。あれは速度なのだ。無限速度。だが僕の眼差しはカーブする。それどころかカーブしすぎて引き返し、眼差しは僕自身へと戻ってきてしまう。僕の眼差しは釣り針のようにカーブして男たちを捕らえ、そして僕自身へと戻ってくる。
僕は僕自身を見ている。

P113

この話の主人公はゲイの大学院生なので、マイノリティを生きている。だから、自分の眼差しとして、男を愛する男、としての文章である。

しかし、私が彼を見る眼差しもまた、同じようなものだ。
憧れから始まったもので、自分にはないものを、自分が手に入れるということではなく、自分の「欠落」が埋まらないことをわかりながらも、自分が憧れた人
彼になりたいわけではない。私には私があるから。私は私を引き受けないといけない。

それでありながら、「引き受ける」ことができない事態が存在する。
母親にとって、わたしの人生は、「引き受ける」ことができない事態になるのかもしれない。
母親もまた、私を見ながら自分自身を見ている。私の人生を自分の人生として見てしまう。私の幸せを母親の願いが一つのものとなる。
しかし、それは引き受けられないのだと思う。

私はわたしから見えるものしか見えなくて
彼は彼から見えるものしか見えなくて
母親は母親から見えるものしか見えないのだ。
境界線は曖昧だけれど、互いに干渉し合うことができるけれど、眼差しはカーブして戻ってくるから、自分の目で見たものしか見えない。釣り針のように見たものを捉えながら、私のもとへ戻ってくる。


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