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はつこい、のはずだったのに

                            藤椿まよね


だって、わたしだって、ごく普通に男の子と恋におちて、手をつなぎ逢瀬を重ね、いつしかふたりはアパートのシングルベッドで体を重ねて、・・・そんな恋をするのかしらと思っていた。


 

まだベッドの上でまどろんでいる彼。まことは音楽をやっているとは思えないほど、筋肉質で日焼けした肉体を見せている。体脂肪率はシングルなのではないかと思ってしまう。

 だらんとしている陰茎は、さっきまでの太くたくましく屹立していたものとはまったく表情が違う。

 あすなは、カーペットに落ちている髪の毛を拾い上げた。

 長い、柔らかな髪の毛。あかい。明るい栗毛に染めた髪なのだろう。ふと、もうひとつ落ち髪に気づいて拾い上げる。

 違うオンナの髪。黒くて芯のしっかりしたストレートの長い髪。拾い上げて、ふたつの抜け毛を比べてしまう。

 あたしは、あご丈のボブなのだ。二本ともあたしんじゃない。

 まことの手の、人差し指と中指を束ねるように赤い髪の毛を巻き付ける。続けて薬指と小指に、黒い髪の毛を巻き付けた。

 まことが、髪が巻き付いた自分の左手を見る。

 「まこちゃん、両方とも、あたしの髪じゃないわ」そこに込めた不服、悲しい抗議に気づいて気づいているだろうまことは、ただ黙って手を見ている。

 まことが手を伸ばしてきて、あすなの乳房に触れようとした。髪が巻き付いたままの手で。びし、とあすなはその手を叩き落す。

 まことは、驚くでもなくあすなを見つめる。

 あの、一緒にお風呂にさえ入ったりした、幼少期の頃の面影が、まことの顔には残っている。あの、細くて色が白くて、壊れそうな骨の隆起が透けて見えるよな、子どものまこと、あの頃のまことの面影が一番強く残るのが、この表情なんだ。何を見ているのかわからない、通り抜けていくまことの視線。柔らかな笑み、髪は硬くなって子どもじゃない。

 まことは左手から赤い髪をほどいて、「みほ」と小さくつぶやく。もうひとつほどいて、「明日香」とつぶやく。

 「あす、怒ってる」そう言いながらあすなの頬に指先で触れた。頬にかかる毛先をはらはらともてあそび、耳の形をなぞる。その指先がうなじから鎖骨へ喉からあごへくちびるへ、くちびるをなぞるときにあすなの体液の匂いがする、そしてうなじからすぅ、と降りてまっすぐにあすなの左の乳房にたどり着いてそっと撫でまわす。

 むくむくと勃起し始めて違うものになっていくまことの陰茎を見つめる。

 「立って、あす」あすなは立ち上がる。「膝ついて」言われるまま膝をつく。まことの指があすなの股間に潜り込む。わかっていてはじめから少し足を開いてひざまずいた自分が嫌い。陰唇はすでに湿っていてまことの指を受け入れてさらに触れてくる指に腰が前へ動く。

 ほかのオンナの髪が、さっきまで巻き付いてたまこちゃんの指で。いや、巻いたのは左手だった。今あたしに、あたしがしてほしいように触ってるのは右手か。

 こんなはずじゃあ、なかったのに。

 「うえにおいでよ、あすな」ベッドに乗れよ、という意味だったろうがあすなは、まことの肩を押して倒し、まことの腰の上に跨った。陰茎に何度かこすりつけたあと、指を添えてコンドームのないまことの陰茎を膣に差し入れた。

 まこちゃんの子どもなら、お母さんもお父さんも、赦してくれるんじゃないかしら。まこちゃんがこんな女たらしになってしまった、それを知らないもの。

 あたしは小さい頃からまこちゃんのお嫁さんになってもいいなあって思ってた。両親を含めて、お友達にだってそれを公言してきた。今は、恥ずいから言わないけどね。ななななのに今、あすなは恋人三号さんだ。明日香、みほが、あすなより先に来る。

 いやね、何をもって一号かってことだけどね。

 幼なじみのあたしは、大学生になってまこちゃんと再会した時、すぐ運命って思ったの。だから、すぐ恋人になった。なった、と思った。だって、齢十八よ、十八のおぼこは体の関係できたらそれはカレカノになったって思うじゃん。ふつーだろ。

 そしたら、ひとりじゃない先客がいたわけさ。んもーまこちゃんどういうつもりってなるわね。そしたら、まこちゃんしれっと言うの。あすちゃんは特別だもん、ほかのコとは違うから。何が違うっての。

 すごく素敵な笑顔が、まこちゃんてばできるの。その笑顔で「あすちゃんははじめから僕の隣にいて今もいて最後までいてくれるでしょ」って言われちゃあさ、プロポーズみたいな言葉でさ。

 だけど、会ってる頻度とか時間とかでいったらあたし一番少ないんだ、やっぱり一号彼女が一番カレシと長く過ごすんじゃない?だとすると、本命対抗じゃなく次点、あたし三号だって思うんだ。

 だけどまこちゃん、お熱が出て起きられなくなったときはあたしにだけ連絡くれた。あたしは嬉しくて、飼い犬かって思いながらいそいそ出かけてって介抱したよ。

 ただ、少し悲しくて、やるせないのは足元見られている感じがすること、だな。だって、いやって言えないじゃん、複数のオンナとまこちゃんを共有してんだから。

 「カラダが目当てなのよ」そういう友人だっているんだけど、まこちゃんのカラダが目当てなのはどっちかって言えばあたしじゃないかって思ってる。少なくとも、まこちゃんとセックスしてるときは、あ、た、し、が、まこちゃんをまこちゃんのアレを独占して使っていい気持ちでいるわけだ。実際のまこちゃんの頭ン中は明日香だったりするのかもしれないけど、カラダはあたしが独占してるんだっていう、満足感?そういうのが欲しいのはあたしだもの。

 そんなで、生で挿入して腰をこすりつけてると気持ちよくて、わけが分かんなくなってくる。ひとりエッチしてんだかまこちゃんとやってんだか、何が何だか。

 まことのスマホにラインが届く。拾い上げたまことの手からスマホを叩き落したが、まことが急に能動的に突き上げてきたので頭がしびれてきて、真っ白になる。

 何回か鳴ったスマホの呼び出し音に、まことは通話で応じた。

「はい。まことです。あ、おはようございます。いや、カノジョが来てて。はい、いいえ、はい」まことが動きを止めて、人差し指でしーっと合図する。起き上がって、あすなの胸元で通話を続けた。

 「はい、伺います。大丈夫です。いえ、それが可能なのであれば、拒否する理由はありませんから、全力尽くします」女性の声、年配?上から目線。どうも、音楽の進路に関する事らしい。ん?違うな。聞き耳のあすなにわざと聞かせようとしているのだろうか、まこちゃん。いい?相手がどんな女だっておったててやらなきゃいけないのよ、デキませんでしたは無しよ。「はい、大丈夫です」条件が厳しい女性相手だからレートが高いのよ。君もそれを承知で引き受けるんだからね、大丈夫ね?「はい。やります」言い切っているまことは、だけどなんだかぼんやりしていてやる気が感じられない。あすなのカラダが、待ちきれずにゆっくりと動く。ああ、そうか、まこちゃんひょっとして男娼か。

 「大丈夫です。現場でできなかったことはありません。はい。よろしくお願いします」切る。ため息をついて愛想笑いの表情を作っているまこと。

 「まこちゃん、おばさんにカラダ売ってんの?」まことの陰茎を収めたまま、まことの髪を撫でながら子どもの頃に一番近い耳に触れながらあすなは尋ねる。まことは顔をあげてあすなの顔色を確かめるように見つめてから乳房に吸い付く。



 ああ、今日の相手は思ったよりずっと若い、まことは思った。こないだの相手は七十歳だった。ただ、実際はもう少し若く見えたけれど、いろいろな美容法をてんこ盛りにした女のカラダも、内ももと女性器だけは年齢不詳なのだった。まるでおっさんが若い娼婦のカラダを舐めまわすかのように、おばさんはまことの躰を舐めまわし、しゃぶり、膣に収め、満足した。

 「ごめんなさいね。わたしじゃなくて、妹なの、相手してくださいね」どうゆうこと?と、はてなマークのまことだったが、ホテルのラウンジからルームにゆくあいだに簡単に事情の説明を受けた。

 身体障がい者の妹は施設にいたのだという。その施設でオナニーを覚え、自宅に戻ってからは姉の前でもするのだという。

 「恥ずかしいったらありゃしないって」冷めた目の姉は淡々と話す。「そう、母は言うんですけど、わたしはちぃちゃんがわかるの。あの子が、おねいちゃんばっかずるいっていう、そこに、負い目があるっていうかわかるの」まことを見上げて頬を染める。「妹、鼻がよくって、すごくよくって、わたしか彼氏としてきたら、匂いでわかるって。ただ会ってお話ししただけの日には何ともないのに̪、して帰った日はシャワーとか使ってもですよ、匂いが違うって。ずるいって、ごはん、ストライキするんです。それで困ってしまって。そしたらネットのニュースでこういうサービスをしてくれる人がいるって知って、母には内緒で使ってみたら、妹がすごく喜んで、ワタシだって女なんだってわかってうれしいって」

 障がい者に特化したボーイズデリバリーはないのだろうが、たしかに、まことが所属しているエージェントは無理目の女性に対応している。まこともその方が単価が高いから、ということでここで女性の紹介を受けているのだ。「お願いします」

 部屋に入ると、車いすの女性が待っていた。とてもおめかししている。さくら色のブラウスに連パールのネックレス。ショートの髪、きらきら光るちいさなピアス、くるん、とひとみがまことの全身を値踏みする。

 「まことくん。千尋です」「はじめましてまことです、よろしくお願いします」「その、あ、それであの、私も一緒にいてお手伝いしますから、いいでしょうか」

 千尋は両足の下肢は無いようだった。さらに左腕が極端に短い。

 どことなく疑心暗鬼の表情に姉が慌てた。「ちいちゃん、」「このひと、四、五人のオンナの匂いがするよおねいちゃん」声は、細く高く澄んだ声だった。「失礼なこと言わないの」

 まことは車いすの脇に膝をついた。「ちーちゃん、まことです。よろしく。たくさんの女の人に幸せを感じてもらうっていう、そういうお仕事の人だよ。だから、匂いがいろいろしちゃうのは赦してね」

 身体障がいではあるが知的障がいはない、と聞いていたから普通に恋人モードで話しかけた。何にときめいたか千尋の表情にぱっと赤みがさして輝く。短い、そして変形した左手をとって頬を寄せる。「ちひろ、いいお名前だ。ぼくはお姉さんの千景さんより千尋が好きだな」

 目を閉じて頬ずりした後、上目づかいに目を開けて千尋を見つめる、口角をほんの少し引き上げて片眉をあげて笑みをつくる。頬ずりのあいだまことの顔を観察していただろう女性は、そのあといきなり見つめられて、まことのスマイル攻撃でたいていは撃沈される。千尋も例外ではなかった。耳まで赤くして顔を伏せる。

 石鹸の香りからシャワーは済ませていると判断して先へ進むことにし、車いすをベッドに押してゆきながら途中で停めて、耳にキスをし、うなじを撫でて顔を振り向かせてキスをした。そう、もしこの千尋があすなだったならこうするだろうな、という仮想あすなを相手にしているのだ、そしてたぶん、それは間違いではない。たとえ一夜の相手だとしても、恋い焦がれた恋人との逢瀬だと勘違いしそうになるほどの希求感を伝えたい、まことはそう思って相手をしている。

 ブラウスの上から乳房を撫でる。舌が絡んでくる。いいぞ、恋人モードになったかな?「ちーちゃん、石鹸じゃないちーちゃんの匂いを嗅ぎたいな」耳元でささやくまことの息に、くすぐったくて肩をすくめて離れる千尋を、追う。「あれ、いやなのかな?ちーちゃん、何か月ぶりかで会うのにそれはないよ」それとなく遠距離恋愛っぽいストーリーをくっつけて、感情移入の手助けをする。「やじゃないです、待ちました、すてきですまことさん」「まこちゃん、いつもみたく呼んで、リピートアフターミー、まこちゃん、はい」「まこちゃん」キスで口をふさぎながら手をブラの内側へ滑り込ませる。千尋の手が、まるで恋人の首を迎えるようにまことの首筋に巻き付いてきた。



 あすなは、まことの横に腰かけながら紙カップのコーヒーを手渡し、口にするまことの咽喉仏の動きを見つめる。

 まこちゃん、きれいになった。オスの匂いがむんむんするような、体育会系じゃなくもっと都会的なさらっとした感じ。でも、そう、まこちゃんのお父さんは大工さんでガタイのいいひとだったけど、その血筋なんだ、サキソフォン奏者という文系学生ではないみたいなスリムマッチョな肉体。女の子からしたら、どうするとこんなに脂肪だけ落とせるの、という肉体をあからさまにひけらかすタイトなシャツ。胸のボタンが弾けそうだ。

顔だちも、ごつごつした男性的な骨格なのに色の白いすべすべな肌、整った目鼻立ち、長いまつげ、官能的に感じるくちびる、耳。耳だけは子どもの頃のまま、ぼさぼさの髪からのぞいている。

 「アメリカの音大に行きたいんだ」なんていうか、ぼってりしてるんだな、まことのくちびるは。それと、リップに色付けてないのに血色がいいよなぁ。「この大学だって奨学金と稼いだお金でなんとかやっとこなのに、留学なんて、と思ってたら、小渡丹川さんが援助してくれるって、そのかわりボーイズデリバリーやれって。って、まあ、相手が男性じゃないからぼくにも務まってるんだ。あいてが男性、ゲイ相手の奴もいるらしいから、佐藤君とかさ、彼はタチネコ両方オッケーだもんで売れっ子らしいよ」

 なんで彼氏が売春してるっていう告白を学校の校庭で受けにゃならんのだ。おかしいだろ、これだって立派に浮気だろ、ちがう?

 「そんなの、お母さんには言えないね」少々の苛立ちを込めて投げ捨てたのだが、まことには届かなかったようだ。「あたしはそれを赦しはしないよ。おばさんだからって、お金貰ってるからって、留学の支援者だからって、それで正当化されるわけじゃないでしょ」まことがあすなに寂しそうな沈んだ表情を返す。「他のふたりは知ってるの」

 かぶりを振るまこと。「いや、あすちゃんしか知らない」「なんであたしには言うの」あすなの声の低さにようやく不快感を感じ取ったろうか、まことが立ち上がって伸びをする。

 「こないだは、障がい者だった。しかも、車いすからベッドにひとりで写れないし、で、お姉さんがずっと一緒にいて、そのことにプレッシャー感じたんだ」「ふたり一緒に相手したってこと?」ちょっと驚いて口をはさんだあすなに笑みを見せるまこと。

「いや、お姉さんはセックスの時も介助してるの。3Pならいっそ緊張しないけど服も脱いでない他人に手伝ってもらいながらするって、なかなか大変だった。でも、その子には気に入ってもらえて、また今度指名したら引き受けてもらえますかって、まあ、それは嬉しかったよ」

 こんなまことの、普通のアルバイトでもしてるみたいな話の仕方に気持ちが荒れてしまう。指のささくれを歯で噛みながらあすなはどうしてもまことを責めてしまう、責める自分自身も責めてしまう。

 「あすちゃんから言い寄ってきたのに」

 ぼそっと言ったまことにカチカチと時限装置のスイッチが入る。「まこちゃんがまるであたしが魅力のない女だっていうみたいな、あすとはそんなつもりない、とか言うからでしょ」「言ったかな」カチ、カチ、と音がする。「言ったの。だからあたしからまこちゃんにせまったんでしょ、そしたらなに、彼女が三人も四人もいるなんて、あげく男娼やってるなんて」ぱしっとハンカチをまことに投げつける。顔に張り付いたハンカチをゆっくり取り去ると、畳んで返してよこすまこと。

 カチ、カチ、という音が大きく聞こえる。

 「そういうのもイラつくんだよまこちゃん、あたしは守ってほしい、か弱いそぶりの明日香とはチガウの」かかって来いやぁ!という言葉を飲み込む。ばかにしやがって、子どもの頃からの腐れ縁じゃないなら、もう、とっくに一発殴ってさよならしてんのに。

 だしぬけに立ち上がって、ピアノを弾く真似をすると、ポケットから出したスマホに何やら打ち込むまこと。「あ、ごめん、不謹慎だよね、けど、チョッといいフレーズ浮かんじゃったから」スマホに打ち込んだ画面を確認しながら、「ルルルラララ」と鼻歌でメロディーを確認する。

 ばし!という音をさせてあすなはまことの背中を叩き、「まこちゃんとはもう終わりにする」と捨てセリフを投げつけて小走りでその場を離れた。

 まことは追ってこない。

 わかってる。わかってるってば。好きスキが強くなり過ぎで、他が何もなくなっちゃってるって。まことを、どんどん束縛したくなってくる。明日香とも美穂とも別れさせて、まこちゃんを独占したい。

 もっともっとまこちゃんに気に入られたい。気を惹いてこっちを向かせたい。あたしに夢中になってほしい。ほかのオンナみんなぶち殺してやりたい、あたしのまこちゃんに手を出すな!こっちは赤ん坊の頃に唾つけてんだぜ!まこちゃん、セックスならあたしがなんでも望むことさせてやるから、ほかのオンナ、遠ざけて!男娼もやめてよ!障がい者支援みたいな言い方しないで。

 だめだ、カチ、カチ、という音と、暗い雲が空を覆って気持ちがざわざわと波立っておかしくなりそう。

 まこちゃん、あたし子どものころに、おとこのこおんなのこ、ですらなかったちっちゃい頃に戻りたい。今この雑念やら色欲やらにまみれたあすなは、とてもあのころのあすなには見せられない。

 振り返れば、まことはさっきのまま、立ってスマホを触っている。カチ、カチ、と動いていた時限装置がカチ、と鳴って、あすなはまことに向かって走り出した。

 何かをしようとしたわけじゃない。ただ、スイッチが入って、あすなは走る目的をあたまの中で一番大きなまことにした、それだけだ。

 抱きつくのかタックルして跳ね飛ばすのかさえ、自分ではわからず、ただまことに向かってあすなは全力で走った。




 足音に顔をあげた瞬間、自分に向かって走ってくるあすなの見開かれた瞳に射抜かれるまこと。尋常ではない空気を纏うあすなの速度の速さに少し驚く。

 まことはスマホをポケットに落とし、スローモーションであすなの走る姿を解析する。視線、表情、何か思い詰めた、喜びじゃない、怒りじゃない、恐怖でもない、なんだ?あすちゃん、どうした?

 あすなのひとみはまっすぐにぶれることなく一切の迷いなくまことを刺し貫く。ああ、あすなはこんなに激しい女だったんだな、子どものころはあすなのがお姉さんだった。まことはいつだってあすなの後ろで、後をついていった。再会してからもあすちゃん、先に歩くのは変わらなかった。でも、そうだね、もうそろそろ僕が先に歩いてもいいかもしれないね。

 あすなのタックルを、まことは全力で受け止めた。少し斜に構えるようにして勢いを逃がしながらあすなを受けとめる。くるん、と体を入れ替えるようにして抱きとめてあすなの身体をグイっと引き寄せて捕らえた。

 髪に手を差し入れて抱きしめる。あらためてあすなの身体の細さ小ささに驚くまこと。荒い息のまま、だらんと手を下げて抱きしめられているあすな。あすなの息、早いリズムで揺れるあすなの身体、汗のにおい、はあひゅうはあひゅうと喉を鳴らす、びくびくと痙攣している指先、うなじに張り付いている髪、ぐうぐうと鳴らす鼻は息が苦しいからか、抱き合うふたりをじろじろ見ながら通り過ぎる年寄りの非難含みの咳払い、日差しがまことの背中を包んでいく。

 「あすちゃん、どうしたの」荒い息の中からあすなの声がする。「いいから降ろして」ああ、あすなはまことの腕の中で宙吊りになっていたのだ、今やふたりの身長は二十センチ近くちがう。

 「あのね、もし、まこちゃんがあたしひとりだけを選ばないのなら、もう、終わろうあたしたち。つらいよ」

「いいよ。あすなだけにする。明日香や美穂とは別れる」そう言いつつ、あすなを降ろした。「けど、ボーイズデリバリーは続けるよ」

 だん!とあすながまことの足を踏みつけた。「だめに決まってんでしょそんなん!」怒りを含んだ強い意志を内包した視線でまことを見上げるあすな。「売春もやめて」だん、ともう一度まことの足を踏みつけるが今度はまことが足を引いた。

 よけたのはまずかった、とまことは思ったがもう遅い。あすなはただ発作的に衝動に身を任せてしまっているのだ。まことの胸板をぐーで殴りつけるあすな。さらに顔を殴りにきたので仕方なくあすなの手首をつかんで制止する。

 こんなに大きな声が出るんだな、と冷めた目でまことはあすなを見つめる。叫ぶようにアーともオーともつかぬ声で泣き叫ぶあすな。つかまれている手を振りほどこうと体を左右にねじっているが力が弱い。

 「あすちゃん落ち着け」あすなをきつく抱きしめた。あすなの動きがとまる。ぴきーだのぴぎゃーだのと聞こえる泣き声で相変わらず泣き叫ぶあすな。じきに、ヴォー、という声にかわって、やや落ち着いてきた。

 子どもの頃って、泣き叫ぶと止めたくても止められなくなったけど、大人になってもそうなんだな。ヴォー、っっく、ヴォー、っっく、としゃくりあげながら泣き続けるあすな。

 あすなは僕といないほうがいいかもしれないな、まことはそう感じるが、それを今言うのは酷だろう。なにしろ、小渡丹川さんに買ってもらって生活できている。この先院か海外留学か、いずれにせよ進学するならばパトロンが要る。小渡丹川さんを断れない。うちが、お金がかかる音大なんぞに進学させられるほど、裕福じゃないのはあすなだってわかっているはずなんだ。

 まことは落ち着いてきたあすなを抱きかかえるようにして歩かせ、傾いてきた日差しの中を駅に向かった。それは希望か絶望か。読んで字のごとくなら、いずれにせよ望みは希だということだ。



 何にしろ、まことの通う大学内で大声で泣き叫ぶ痴話げんかをしたのはよろしくなかった。

 当然だが、まことはサキソフォンの練習に多くの時間を費やす。楽器は結局、触っている時間に比例して上達していくものだからだ。同じ大学でピアノを学んでいる明日香は、まことに群がっていた女子の中でもとりわけ美人で、細くて背も高い。美男美女のカップルである上にピアノだから、ひとつのスタジオに一緒にこもって一緒に練習することが出来たのだ。だから、学内ではまことの彼女、といえば明日香だと思われていた。

 一方でまことは子どものころ体が弱かったせいもあって、水泳を医者から薦められていた。中学で全寮制の学校に入ったまことは、水泳部にも所属し、なかなかの成績だったようだ。持ち上がりで高校に上がるころには、バタフライと自由形でインハイの常連だった。同時にブラスバンドからはじめたサキソフォンでも将来性を評価され、音楽大学に進むことになる。

 水泳は大学入学後もスポーツクラブの練習生という形で続けていて、美穂はこのスポーツクラブのインストラクターだ。まことより四つ五つ年上だ。

 そして、幼なじみのあすな。あすなとの痴話げんかはあっという間に学内に広がり、まことが涼しい顔で明日香に別れを告げたことでざわつきは一層激しくなった。まことの学内での立場が悪化しそうなものだが、話はもっと複雑になっていく。よりを戻したい明日香。明日香をふったまことに復讐しようとする明日香の取り巻きのとばっちりは、違う大学のあすなのもとへも押し寄せる。

 さらに、まことがフリーになったと勘違いしてアタックをかけてくる女子。単純にまことの音楽の才能を評価してだが、練習パートナーになろうとして言い寄ってくる学内のピアノ女子男子。

 あすなは事実上、まことの通う大学から締め出された。まことと待ち合わせているだけで、生卵が飛んでくる。SNSのサイトでは、あすなの悪口、誹謗中傷が盛り上がっていたり、あすなの通う大学の掲示板に悪口が書き込まれたりして、あすなは大学事務局に弁明しなければならないほどだった。

 まことはスイミングクラブでも美穂にドライに別れを告げた。いきなりの事に取り乱した美穂は、練習生のまことと性的関係を持ったことが知れ渡ってクラブから事実上の解雇、ということになってしまった。

 いろんな事に責任を感じて、あすなは落ち込み、鬱になった。それに乗じたわけでもあるまいが、まことはあすなと籍を入れた。




 小渡丹川絵里という人は、齢にして六十歳くらいだろうか。まるで現役のバレリーナかなんかのような、細くて背筋の伸びた背の高い女性だった。隣のまことと変わらない視線の高さ。濃いグレーの染められた長い髪にとてもシンプルなこげ茶のワンピースがよく似合い、ネックレスもブレスレットも繊細にごく細いゴールド。

 「はい、はじめましてあすなさん」会社をいくつも経営しているというひとの声は、低くても音圧が高くて耳に届く。「あ、あすなです。すみません、お忙しいのにお時間を」手であすなを遮る小渡丹川絵里。

 「あちらへ」手でロビー隅のソファを示す。

 奥に小渡丹川絵里が腰かけて、手で合図されてあすなが腰かけるとまことも腰を下ろす。「あのねまこと君、君はあすなさんの横」「あ、そですね、すみません」小渡丹川絵里の横から慌ててあすなの横に移動するまこと。

 「お話はあらかた、まこと君から伺っています。そのうえで、同じ女性としてあすなさんに非常識なお願いとわかっていて、お話しせざるを得ないの」年齢や社会的地位を抜きにしても、格が上、ということを若者に感じさせる立ち振る舞い。威圧感を感じてあすなはまことをちら、と見るがまことは相変わらず緊張感がない。「まずは、ご結婚おめでとう。あすなさんまこと君。ですが、先にお伝えしてある通り、ボーイズデリバリーを続けてくださらないと、あまり愉快なことにはならないわ」「だって」口を開いてからあすなは、回らない舌に自分の緊張ぶりに気づく。「おかしいです、夫が売春してるのを認めてるなんて」

 笑う小渡丹川絵里の目じりのしわが年齢を伝える。

 「やめれば、まこと君には借金が残るだけ。大昔から、芸術家はパトロンに抱えられていたものよ。今だって、私の友人たちはアイドルの卵を何人も抱えているわ。枕営業は必要悪だと認識して、まこと君を支えてやってほしいわね、このひとには世界で通用する才があると私たちは踏んでいます。あなたには妻として、音楽もボーイズデリバリーも仕事と割り切って背中を押してやってほしいわ」

 あすながまことを見れば、まことは小渡丹川絵里に全幅の信頼を置いているかのようにくつろいだ表情をしていた。それを見てあすなの中の圧力が一気にはらむ。 

 「席を入れたのは、まこと君の優しさでしょう。あすなさんにだけ、心は渡しますよ、ていう」「やです」あすなは遮る。入籍すらこの女の入れ智恵なんだ、と感じていきなり沸騰するあすな。「い、や。やです。や。やなの。あたしのまこちゃんがそんな、駄目、冗談でしょ?やだ」小渡丹川絵里がグイっと身を乗り出してあすなに顔を近づけて、高い音圧をさらに高めた声を発する。

 「みっともない。それじゃ、妻になる資格がない。いい?私だって最初は単に若い男の子を一晩、買っただけなのよ。けれど、このコの音楽の才をいろんな方々がとても強く推してらっしゃるの。それを知って、ではまこと君を世界で生きていける演奏家として育てていくために一肌脱ぎましょう、ということになったの」

 小渡丹川絵里はあたかもその指先に煙草でもあるかのように手のひら指先で口元を隠し、その手をそのまま頬にさらに耳へと滑らせて、そして髪を手櫛でとき、うなじへと風を入れる。

 いちど沸騰したあすなの感情は昂ったまま差し水で少し持ちこたえる。

 「楽器をやるものは、とにかく人前で演奏する機会を多く持つことが必要なんですって。そういった事も含めて、まこと君を支えたいわ。わたしたちの願いは、まことが一流になることだけ。必要ならカラダだって売る。あすなさんは、妻としてそれらをすべて知ったうえで、まことの歩く道をコントロールできる立場を手にしたわけでしょう」

 一息ついてあすなは小渡丹川絵里に刺し貫かれて、モズのはやにえの蛙を思いおこす。蛙だって串刺しの直後はもがいてたはずよ!と思うと一気に沸騰へ向かってゆくあすな。「だけどやです。や。やなものはや。や。や!」

ため息の小渡丹川絵里。「まこと、このコはだめだわ。別れなさい。幼なじみだから安心感はあるのでしょうが、この通りよ。わたしたちはこのコを君の妻とは認められないわ」あすなの中で高まっていた内圧が弾けた。

 「や、だ!まこちゃんはそれでいいのこんな女の言いなりでいいの、別れろ言われたらはいはいってふたつ返事で別れるのああそうなんだ、まこちゃんて、そういう人でなしだったんだこの女に支配されて人形じゃあるまいしあたしをそうやって捨てられるんだ冗談でしょあたしは厭よ、や。あたしはやなの」いやいやをして躰を震わせるあすな。今この女をぶち殴ったらどんなにか気持ちいいだろう、などと思いながら一抹の冷静さでそれを抑え込む。体中が波打つように震えだして止められないあすな。早い息。まこちゃんお願いこの体を抱きつぶして、あたしを絞め殺して、このみっともない震えを止めて。まこちゃんまこちゃんなんとかして。

 「深呼吸して」小渡丹川絵里があすなの手を取った。

 手を引っ込めようとしたが強く握られて叶わない。手を取ったまま、小渡丹川絵里は柔らかな声で諭す。「息を吸って、とめて、ゆっくりはいて。もっと、きちんとはき切って。そう、いいわ。もう一度吸って、止めて、はい、ゆっくり最後まではき切って。もういちど」

 見つめられてあすなは、指示に従うことしかできない。「はい。落ち着いて。感情は大切。けれど今、あすなさんはもっと大局を見なくちゃだわ。一度、お引き取りください。まこと君ともう一度よく話し合って、イエスかノーか、決めてからもう一度いらっしゃい。答えは決まっていると私たちは信じています」

 小渡丹川絵里は立ち上がると、声を投げおろした。「これは、あなたの恋人のまことの話じゃないの。演奏家まことを育てて売り出す、というビジネスなのよ。あなたは妻でありマネージャーにならなくてはいけないわ」




  意識が遠くなる遠のいていく、という表現は小説などで見かけるけれど、ちょっと違うなあ、とまことは思った。当たっているのは、意識を手放したくなくても抗えずに手放してゆくという事実、だ。

 目の前の、泣き叫ぶあすなの姿が黒い砂の向こうに消えていく。音はさっきから聞こえない。身体はドロッと重たい沼に取り込まれて沈み、いまや腕ひとつ持ち上げられない。そして、あすなに声をかけたいのに思考すら鈍くゆっくりと速度を落としながら、黒い砂に覆いつくされていつの間にか失われてしまう。

 だいたい、まことから手を出したわけじゃない。スイミングクラブで練習生になる、というのはとても恵まれたことで、そう簡単な事じゃない。

 まことは、音大に合格した後、クラブのコーチに相談したら、コーチが動いてくれたのだ。身体を動かすこと、ジムでのトレーニングや水泳は好きだったけれど、高校が水泳部シンクロ部の冬季練習のために提携していたこのスイミングクラブに、個人として入会するほどのお金はなかった。するとコーチが、音大在籍中は大学からではなくクラブから大会に出場する、ということを条件に、練習生、という身分で利用できるよう図ってくれたのだ。

 このクラブの利用資格を失いたくないから、「いいカラダのイケメン音大生」まことに寄ってくる女性たちはあしらっていた。

 だから、コーチングスタッフのひとり、美穂もあしらって、それで終わり、と思っていたのだ。ところが、美穂は「肉食系」だった。ある日まことが練習生の練習時間に来てみると、他の練習生が来ていない。フロントに訊ねると今日来る予定になっているのはまことだけだという。レスキュー兼コーチングスタッフには美穂がいるだけだという。その美穂もプールには現れず、それでも時間いっぱいひとりで泳いだまことは、シャワールームで待ち伏せしていた美穂にまんまと喰われてしまった。

 さすがにふたりしかいないとわかっていて、ふたりとも裸で相手から誘われては、十八の少年、理性なんぞは存在しない。それからは、美穂のセフレとして月に三、四回セックスする間柄だった。ラブホだったりまことのアパートだったり。

 「入籍したんだ、あすなと」怯えるあすながまことの腕にすがって、かげに隠れる。美穂の能面のような無表情。だのに何かが宿ったような異常な目の輝き。両の手で握りしめられた包丁。

 「わかってください、美穂さん。あなただっていつまでも僕と続けられるわけないって、わかってたでしょう」まことの言葉が全く聞こえないかのように美穂は歩み寄り、腕であすなを後ろにかくまったまことの腹に包丁を突き立てた。浅い。一度抜いて、もう一度、身体ごと突き刺す。

 身体を離した美穂が、ふふっと笑みを見せた。その瞳がまことをはずれ、あすなを捕らえてにらみつけ、片方の口角の端をあげてから振り向いてゆっくりと歩み去っていく。歩き去る美穂に合わせるように、まことはゆっくりと地面に引きずりおろされた。

 猛烈な痛みと痙攣で言葉が出ない。あすちゃん、大丈夫だから救急車呼んで、と言いたいのに言葉が出ない。包丁が刺さったのは腹だから致命傷じゃない。問題は出血だ。なのに言葉が出ない。まことを膝に抱えて泣き叫んでいるあすな。あすちゃん、泣いてないで救急車だってば。痛いんだよ、痛いんだ。頼むよ、救急車。身体が動かない。声が出ない。ああ、あすちゃんの声が聞こえない。死んでく時には白鳥の歌が聞こえるそうだけど、聞こえないなあ、どんなだろ、白鳥の歌って。




 お母さんもお父さんも、まこちゃんのご両親も、みんなすごくびっくりしただろう。あすなとまことが、いきなりワイドショウネタになって。だけど、あすなの手を握って眠る、夫のまことのお耳を見つめて、ちょっと幸せだったりするあたし、おかしいかな。

 昨日の晩は、本当にえらい騒ぎだった。

 何が惹きつけるのか週刊誌やらT.Vやらが取材に来てあすなとまことの両親が駆けつけてきて、わけがわからない中でカメラだのビデオだのマイクだのつきつけられたまこちゃんのお父さんが切れちゃって怒鳴り散らしたりして、おまけに「どゆこと?」という四人からの問いかけにあたしはちゃんと答えらんないしで、あたし的には地獄絵図だった。

 でも今、四人はホテルに引き上げて、取材の人もたいしたニュースじゃない、となったのかみんないなくなって。

 ただ、まこちゃんが売春して学費の援助を受けてることを、四人には伝えていない。このままそれをやめてくれるなら、あたしからは言わなくていいかしらと思うけれど、まこちゃん、やめないだろうな、とも思う。あたしが学費や留学の費用を稼げればいいんだけど、ただの女子大生には無理だしお水の世界で、キャバ嬢とかでまこちゃん以上に稼げる器量も度胸もないし。

 スマホを触ってたら、ツイッターとかニュースとかであたしたちの事が流れ始めた。で、どうやら美穂さんが明日香さんを大学のキャンパスで追い回して怪我をさせて、駆け付けた警官に取り押さえられた、というあたりが世の中に流れてニュースになった発端だとわかってきた。なぜ、どうして、という取材の中で、SNSを中心に噂が入り乱れ、ひとりのオトコをめぐってふたりのオンナが、というハナシになり、まことの名前が発覚し、美穂さんが先にまこととあすなを襲っていたことがわかったのだ。

 イケメン音大生をめぐる女三人の争いに、幼なじみの一番地味な女が勝利して、一番年上の女が事件を起こした、そういうニュースを、ラインで流れてくる友達の「?」を無視して読みふけった。

 これ、ほっこりするいいニュース、とかにして終わらせてくんないもんかな、などと思いながら。だって、あすながまこちゃんを勝ち取ったのは、世の中の多くの女子に安堵のため息をつかせると思うんだよね。これが明日香なら、やっぱ美人で金持ちのムスメとったか、になるじゃん。ここ、いちばんじみーなあすなで決着してよかったって、たいていの人は思うはず。そうやって終わらせて、あと、そっとしといてくんないかな。

 まことのスマホがぶうぶうと鳴ってばかりいるので、あすなは勝手にまことの指で指紋認証してスマホを開き、ラインを覗いた。女性からたくさんの安否確認が来ている、男性もたくさん。

 小渡丹川絵里のラインを見つけて、返信した。

「あすなです。まことは手術を受けてまだ眠っています。大丈夫です。まことが気がついたら、連絡させます。ご心配をおかけしました」

 送信してから、あすなはふと感じた。

 これからまことと、ちっちゃい頃夢見てたまこちゃんのおよめさん、として生きていくなら、こんなことはいくらでも起こりうることなのだ。女の問題だけじゃ済まないだろう。音楽の世界でも足の引っ張り合いはあるんだろうし、本当にまこちゃんが一流の演奏家になれるのだとしたら、お金の問題だって生じるだろう。

 あたしなんかに

務まるだろうか。

 小渡丹川絵里を思い浮かべる。あんなふうにならなくちゃいけないんだな。遠く広く、先を先を見なくちゃなんだ。

 子どものころ、まこちゃん、あすなの言うことに逆らったこと、ない。そのまこちゃんが、あすなと一緒に行くことを求めてるなら、わかった、あたしも腹くくるわ、小渡丹川絵里になる。

 あすなは、ちっちゃい頃のまことの、華奢な背中の肩甲骨が作る谷間を思いおこす。きれいだったな。お水かけると、谷に集まって流れ落ちるんだ。

 点滴のラインのちとちとと落ちる水滴を眺めながら、あすなは目じりの涙を指先で拭った。



              おわり

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